入学から一週間が経つと、授業中にも関わらずクラスの空気はすっかり弛緩していた。
席の近い友達とお喋りしても、机の下で携帯をいじっていても、堂々と遅刻をした生徒がいても先生たちは誰ひとりとしてそれを咎めることはなかった。最初は数人程度だったけど、日が経つにつれて一人また一人と授業に集中しないクラスメイトは増えていく。真面目な生徒はたまにそんな人たちを鬱陶しそうな目で見ていても注意はしない。彼らの大半は大人しめというかちょっと孤立気味の子が多いから、下手に緩みきった雰囲気を壊すような真似は出来ないんだと思う。
かくいうあたしは、久我に指示された手前ちゃんと真面目に授業は受けている。板書もしっかりとっているし、なにより授業内容にも少しずつ追いつき始めたから勉強自体は楽しい。先生方の説明もわかりやすいから、あたしにとってもありがたい。もちろん、久我の解説もわかりやすいんだけど……あっちは変な緊張感がある分、普段の授業の方が気楽に励めるのだ。
と、そんな真面目ちゃんムーブに専念するあたしだけど、仲の良いクラスメイトから話を振られることもあるわけで、無碍にするわけにも行かずその時だけはちょっぴりお喋りすることもある。『話しかけてくれるのは嬉しいけど、授業には集中したいなあ』なんて思ったときは自分でもびっくりした。……あたし、こんなに勉強って好きだったっけ?
ともかく、そんなわけでクラスのみんなは着実に授業態度が疎かになっているわけ。
ちなみに久我は遅刻やサボりをし始めて、時折授業に参加したかと思えば忙しそうに携帯をいじったり突っ伏して居眠りしていたりとクラスメイトからの評判はとてもよろしくない。具体的には須藤君より怖がられてる。明らかに喧嘩したような怪我を負っていたり、授業態度も悪いし、それに噂によると櫛田さんを威圧してたなんて話も出てるもんだから、あの櫛田さんでさえ近寄ろうとはしてないみたいだった。
でもどういうわけか高円寺くんと仲がいいらしく、普通に会話もしていた。後で高円寺くんにそれとなく訊いてみると「デビルガールは私が認めた友人なのだよ」と爽やかな笑顔で答えてくれた。デビルガールってなによ久我。何をしたらそんなダサいあだ名が付くのよ。
ちら、と久我の席に目を向けてみる。
……めっちゃトランプしてたわ。授業中になにしてんのよあんた……。
そうこうしているうちに本日最後の授業が終了し、教科担当の先生と入れ替わりで茶柱先生が教室に入ってくる。そのまま流れるようにSHRが始まり――、
「連絡事項はない。解散」
終わった。相変わらず茶柱先生のSHRは早い。本当にショートだ。世界各国を探し回っても3秒足らずでSHRが終わるのはこのクラスだけだと思う。
用は済んだとばかりに茶柱先生が足早に教室を出たと同時にあたしの携帯が震える。
――合図だ。
正直言って気は進まないけど、残念ながらあたしに拒否権は無い。今からやるのは今後を左右する重要な布石、その一手だ。上手くやらないと後に支障が出る。
やるしかない――。
覚悟を決めて、あたしは立ち上がった。
「ごめーんみんな! ちょっと時間もらってもいい?」
教室の端までちゃんと聞こえるくらいの音量で声をかけて教壇に上がると、皆は帰り支度の手を止めて一様にあたしの方を向いた。
「えっと、どうかしたのかい? 軽井沢さん。何か大事な話なのかな」
真っ先に反応をくれたのはやっぱり平田くんだった。整った顔立ちで小首を傾げる様はなんというか絵になっている。
彼はとにかくその優しい性格と女の子を魅了する美麗な容姿を武器に人を惹きつける求心力の持ち主で、早いうちにこっちが先んじて動かないとあたしと平田くんの派閥でクラスが二分しちゃって一頭体制が難しくなる。それを未然に防ぐためにも、今ここで手を打つ。
「うん、めっちゃ大事な話なの。皆の生活にも関わる話だから、共有しておきたいなって思って」
「僕らの生活に……? 一体どういうことだい?」
「それも含めてちゃんと説明するから安心して。あっ、須藤くんも部活あるのにごめんね? なるべく手短に話すからさ」
「……少しだけだからな。長引いたら俺は先に出るぞ」
「うん、ありがとー」
懸念していた須藤くんも名指して断りを入れられたからか、素直に席に戻ってくれた。須藤くんがそうしたことで、既に席を立っていた人たちも訝しみながらだけどちゃんと自分の席に戻っていく。
誰ひとりとして欠けていないことを目視で確認すると、あたしは口を開いた。
「じゃあさっそく本題に入るんだけど――――このままだとDクラスには1ポイントも支給されないかもしれないの」
あたしの発言に、クラスメイトの表情は凍りついた。
驚きが半分、困惑が半分と言った様子で皆揃って瞠目している。池くんや山内くんに至ってはぽっかりと口を開けたまま静止していた。開いた口が塞がらない、ってまさに彼らのことなんだろうな、とあたしはしみじみと思う。
「それは……本当なのかい?」
再起動した平田くんも動揺を隠しきれずに訊ねてくる。
「本当だよ……って言いたいけど、実は確証が無いの。だから、今からあたしが話すことは全部ただの推察だからさ、信じられないって人は全然聞き流しちゃっていいからね」
「……わかった。でも、僕は軽井沢さんを信じるよ。君が軽率に嘘をつくような人じゃないのは、この一週間で理解しているつもりだから」
「ありがとう平田くん。そう言ってもらえるとあたしも嬉しいよ」
平田くんの気遣いににっこりと笑顔を返すと、あたしは程よい緊張感を受けながらよどみなく説明を始めた。
「まずだけど、あたし達は入学式の日に学校から10万ポイントが支給されたよね。そして茶柱先生が『ポイントは毎月1日に自動的に振り込まれること』と『平等に10万ポイントが既に支給されている』って言ったの覚えてる? 前者は期日にポイントが
「うん。そうだね。茶柱先生は確かにそう言っていた。でも、それとポイントが支給されないことがどう関係しているのかな?」
「茶柱先生はね、言ってなかったんだよ。
あたしがその事実を突きつけると教室は俄かにざわめき、皆はお互いに顔を見合わせて「確かに」とか「そういえばそうだよね」なんて同調し始める。表情もどこか不安げな陰りがあった。
「でもさ、単に先生が言わなかっただけじゃないの? それか忘れてたとか」
ふと意見が上がる。困惑の渦中でそれを述べたのは篠原さんだ。彼女の思考も発言もごく自然なもので、普通であれば篠原さんの言う可能性の方がよっぽど高い。『考えすぎじゃない?』と彼女はそう言いたいのだろうけど――この学校はそう甘くなかった。
疑問を疑問のまま放置するのがどれだけ愚かしいかを、あたしはこの一週間で身を持って知っているから。
「篠原さんが言うことはもっともだよ。だけどね“言わなかった”のと“言い忘れてた”とじゃ雲泥の差があると思うんだけど?」
「確かにそうかもしれないけど……」
「それに茶柱先生に限って――ううん、この学校の先生方に限って万に一つでも言い忘れてたなんてことはないんじゃないかな」
一度言葉を区切って、改めて皆に聞こえるように再開する。
「仮にポイントの件が伝えられてなかったとして、あたし達は渡された10万ポイントを今も好きなように使ってるよね。もう結構な額使っちゃったーって人もいるんじゃない? 実際あたしも初日に服とか買っちゃったし。でもこれが茶柱先生のミスによるものなら、とっくにHRの段階で何かしらの説明があると思うんだけど、今のところその様子はないでしょ」
「それこそ忘れてるんじゃないの?」
「うーん、ちょっと考えにくいかな。だってポイントとは言え金銭が動いてるんだよ? 少し考えてみて。必要な説明がされないまま、生徒たちは『来月も10万ポイントが貰える』と思い込んで生活することになるんだよ。倹約家ならともかく、金遣いが荒い生徒はすぐにポイントが枯渇しちゃうんじゃないかな? その結果、期日にポイントが入ってなくて生徒たちは大騒ぎ……なんてことに」
説明責任を果たさず、期日になって事態が発覚する。これは生徒からすれば詐欺に遭ったようなもので、下手すると暴動に発展しかねない。こんな初歩的なミスを茶柱先生が犯すとは到底思えなかった。
「あともう一つ。あたし達の買い物の記録は全て先生方に把握されてると思うから、どの生徒がどれくらい散財したかっていうのも知ってると思う。その上で茶柱先生は黙認してるんだよ」
あたしの言葉に何人かのクラスメイトは心当たりがあるのか気まずそうに顔を伏せた。
「学校から支給されたこの学生証カードで、あたし達は買い物をしたり施設を利用したりしてる。所謂キャッシュカードみたいなものだけど、電子データの送受信で決済を処理するわけだから当然履歴が残る。学校側は発生した履歴と残高を照らし合わせて、誰がいつ何を買ってどの施設を利用してポイントはどれくらい残ったのかを完璧に把握してる。だから、先生の伝達ミスだったらポイントが動いたのを確認した時点で連絡が来るはずでしょ? その上で謝罪と改めて説明の場が設けられると思うんだよね」
「なるほど……軽井沢さんの言う通りだ。茶柱先生が伝え忘れているのなら、今の僕らに対して何の説明もないのは不自然だよ。ということは――」
「茶柱先生は、
浮かび上がる真実に誰もが愕然とする。皆の中にある生徒に優しい夢のような学校像が音を立てて崩れていく。
「じ、じゃあ来月は10万ポイントなんて……」
「うん。貰えない可能性が高いかな」
動揺する篠原さんに、あたしははっきりと答えた。途端、教室は阿鼻叫喚の様相を呈する。彼ら彼女らにとって茶柱先生が、学校が何のためにこんなことをするのか皆目見当もつかないだろう。この一週間で好き放題散財してしまったクラスメイトは顔を青くしてしまっている。あたしも久我と出会っていなければ、ポイントを使い切った挙句5月1日に明かされるであろう衝撃の真実に絶望していたことだろう。正直、今だって久我から資金提供を受けていなかったらちょっと危ないところだった。友達付き合いって結構お金かかるなあ。
「な、なら幾ら貰えるんだよ!?」
机から身を乗り出して興奮気味に訊ねてきたのは池という男子。賭博の一件でクラスの女子からの印象がかなり悪く、あたしもぶっちゃけあまりお近づきにはなりたくない男子候補筆頭だったりする。
とはいえ無視するわけにもいかないので質問にはちゃんと答える。
「それはDクラス次第かな」
「えっ? つ、つまり…………どういうこと?」
ちょっと端的な言い方だったからか、池くんも含めて皆は疑問符を浮かべていた。
「入学式のあの日、茶柱先生はこうも言ってたよね『この学校は実力で生徒を測る』って」
「あー……そんなことも言ってたような……気がする……」
池くんは記憶が曖昧で自信がないのか尻すぼみになっていく。まあ、あの時は皆浮かれてただろうし覚えてなくても無理はないよね。
「多分だけど、学校はあたし達の実力を日頃から査定してて、それを“個人の実力として”データにまとめてるんじゃないかな」
「ちょっといいか?」
あたしがそう言い切ると、一人の男子が立ち上がった。メガネをかけた知的そうな男子。確か幸村くんだったっけ。
「さっきから実力と言っているが、これは具体的に何を指しているんだ?」
「具体的に、ね……。少し定義が広いからあたしの主観になっちゃうけどいい?」
「ああ」
「ありがと。えっとね、この場合の実力っていうのは、あたしが思うに学力や運動はもちろんそうだけど、他にもコミュニケーション能力とか友好関係の広さもそうだし、部活の大会に学校行事の活躍とかも入ってくると思う。あとは授業態度とかもね」
「まさに個人の“実力”というわけか……だが、それだけの項目をどうやって推し量る? 担任はひとり。クラスメイト40人を逐一査定するのは不可能だ」
「まあ、普通はそうだよね。でもほら――――アレを使えばそんなに難しい話じゃないと思うけど?」
そう言って、あたしは教室の天井を指差す。皆の視線が一箇所に集まった。
「あれは……監視カメラか? 何故教室にカメラが……?」
「教室だけじゃないよ。この敷地内全域に途方もない数が仕掛けられてる。……流石にトイレとか更衣室はないみたいだけど」
カメラの存在を知ったクラスメイトたちは、徐々に懐疑的な表情を見せていく。どうして教室に監視カメラが必要なのか? 学校はどうして自分らを監視するような真似をしているのか? そんな一抹の不安にも似た感情が各々に渦巻き始める。
「学校はあのカメラを使ってあたし達の行動を常に監視してるわけ。授業中はもちろん担当の先生が目視でやってる。だから学校側はあたし達の実力を正確に把握できるの」
「可能というのはわかったが……しかし、何故学校はここまで俺たちの実力を知ろうとしている? 成績に反映するだけだとしてもこれは明らかに過剰だ」
「幸村くん。その答えはあたしがさっき言ったことに繋がってるよ」
「……なんだと?」
「個人の実力はすなわち、クラスの実力でもあって、同様に個人の失態はクラスの失態でもある。所謂連帯責任ってやつ? で、それに伴って支給されるポイントが変動する。だから来月あたし達が幾ら貰えるかは今月のあたし達次第――これがSシステムの真実ってわけ」
暴かれた真実に、誰もが呆然と停止する。もう誰ひとりとしてこの学校を楽園と見てはいない。そんなものは学校側は取り繕った仮初に過ぎなかった。
そう、ここは実力至上主義の箱庭なのだから。
「ま、待て。待ってくれ。だとすると……もし、クラスの誰かが停学や退学なんて事態になったら――」
「へえ、幸村くん結構鋭いね。うん、君の予想は当たってると思う。じゃあ10万ポイントが支給基準と仮定するとして、幸村くんの危惧する通り、もしクラスメイトがそうなっちゃったら……十中八九、ポイントは大きくマイナスされるはず」
それにね、とあたしは言葉を続けた。
「現時点でそこそこ減ってるんじゃないかな? このままだと――最悪、来月は0ポイントで生活しないといけないかもしれない」
既に凍りついた空気に追い打ちをかけ、教室は静寂に包まれた。酷く重苦しい空気感のなかで、深刻そうな面持ちで告げたあたしに平田くんが訊ねてくる。
「軽井沢さんそれは……授業態度、かな?」
「正解。流石は平田くん」
あたしは賛辞を述べて、わざとらしく拍手を打つ。乾いた音だけが静まり返った教室に響く。そんな教室を教壇の上から見回す――神妙な面持ちのクラスメイトたちを余処に、久我は楽しげに笑っていた。
「授業態度が悪ければ当然査定に響く。余計な私語や携帯をいじらないのは当たり前だし、居眠りも遅刻もサボりもしなくて当たり前。先生が注意しないからって好き放題していいわけじゃない。何も咎めてこないのは授業に対する姿勢を査定しているから。先生が度々手元で何か書き込んでたのはそれ。誰かの怠惰が、誰かの傲慢が、クラス全員に責任として降りかかってくるのよ――これでわかったでしょ?」
言い切って、息を吐く。途中、中学時代の光景を思い出して自然と語気が強くなっていた。いじめられてようが、泣いてようが、それを笑っていようがお咎め無し。それがあの頃の日常で、ありふれた風景。
過去と今の授業風景を重ねて、あたしはどうしようもなく居心地が悪かった。心がざわついて、早く終わらないかな、なんてこの一週間で何度考えたことか。
「だから……あー、まあ、つまり授業はしっかり受けて模範的な生活を心がけましょうってこと! はいこれであたしの言いたいこと終わり! 須藤くんも時間取らせちゃってごめんね? バスケ部だっけ? 練習頑張ってねー」
鉛のように重たい空気を換気すべく、あたしは明るく振舞ってちゃちゃっと締めた。それからすぐに須藤くんは席を立って「おう」とだけ短く返して教室を出ていく。それに合わせて教室に立ち篭める重圧もどこかへ霧散して、皆の表情にも余裕の色が戻る。
「皆もごめんね、思ったより長引いちゃった。それにあーだこーだ言ったけどさ、結局はあたしの勝手な妄想なわけだしあんまり深刻に捉えないで欲しいな。信じてくれるのは構わないし、もちろん信じなくてもいいよ。そこは皆の判断に任せるから。確証が無い以上、強制もできないしね」
「……最初にも言ったけど、僕は軽井沢さんを信じるよ。皆はどうかな?」
「そう、だな……俺も信じよう。彼女の話は筋が通っているし、可能性も高いだろう」
「私も信じるよ、軽井沢さんのこと」
「あ、私も私もー。だって友達だし?」
「……私も信じよっかな」
平田くんが、幸村くんが、松下さんが、佐藤さんが、篠原さんが――皆があたしを信じてくれた。それは次第にクラス全体に広がり、大きな渦になる。その光景をあたしはどこか他人事のような俯瞰した気持ちで見ていた。じわり、と胸が温かくなっていく。人に信じられることが、こんなにも温かいだなんて知らなかった。
だから――――、
「……みんな、ありがとう」
あたしもそれに応えたくなったんだ。
「あれ? 軽井沢さん泣いてる?」
「え、どうしたの? 嬉し泣き?」
「ちっ、違うし、なんか目にゴミが入っただけだから!」
「ほんとー? このタイミングでー?」
「ホントだってば! ああもう恥ずかしいから見ないでってばぁ!」
松下さんと佐藤さんが寄り添って、うりうりと小突きながらからかってくる。あたしは顔から火が出そうな思いで否定したけど、説得力の欠片もなかった。クラスの皆もその様子を温かい目で見守っている。
ぴこん、と端末が鳴った。
目尻に浮かんだ涙を指先で拭って、携帯を開く。
『よくやった』
簡素な一言の送り主は、コンポタスナックを食べながらにやりと笑っていた。
……ムカつくなあ。
※ストックが尽きました(はよ書け