教室に入るや否や、何やら騒ぎ立てる池と山内に肩を組まれた綾小路は為すすべなくドナドナされていった。両手に花、とか何とか聞こえてきたが男子にも色々と事情があるのだろう。
既に挨拶がてらクラスメイトたちに囲まれ始めた軽井沢の人望の厚さを再確認しつつ、それを横目に私は机のフックに鞄を引っ掛けるとその足で堀北の席へ赴く。見やれば、彼女は忙しなくノートにペンを走らせていた。邪魔するのも悪い気がしたが、労うくらいは堀北とて大目に見てくれるだろう。
「よう。聞いたぜ堀北。お前、三馬鹿と揉めたんだってな」
竹馬の友と接するように対等さを意識して声をかけてみれば、堀北はペンを動かす手を止めて鬱陶しげに嘆息を吐く。
「くだらない挑発をしに来たのなら後にしてちょうだい。あなたの相手をしてあげるほど暇じゃないの。見て分からない?」
こちらを見向きもせずノートに視線を落としたまま堀北はそう吐き捨てる。
「気に障ったんなら悪かったな。ただ、私は別に堀北を
「……労うですって? あなたの口からそんな言葉が聞けるとは驚きだわ。冗談でもやめてくれるかしら」
堀北はここでようやっと私に目を合わせた。鋭い視線で射抜かんばかりに睨めつけてくる。目つきだけで人を殺せそうなくらいの眼光はいっそ賞賛に値した。
「冗談? いいや本心だ。お前も大変だよな。池に山内に須藤……どいつもこいつも、雁首揃えて問題児の集まり。学力が軒並み低いわ勉強会は逃げ出すわ、おまけに現実を突きつけた堀北にあろう事か逆ギレと来たもんだ。逆恨みもいいところだぜ。そんな奴ら、堀北が失望して当然だ。そりゃ呆れて見放したくもなるわな。何も知らない外野はお前のことを好き勝手言ってやがるが、果たして責められるべきはどっちなんだろうな? 見たくない現実から目を背ける劣等生と、未来を見据えて行動した優等生。そうさ、誰も堀北に文句を言う筋合いなんてない。それどころか礼を言うべきだと私は思うね。堀北は赤点組を救済しようとしたんだもんな。だが、クズどものせいで勉強会は破綻し、挙句の果てにお前は批判の対象。……世の中どうかしてるよな、ホント」
饒舌が止まらない。頭の中で無数に言葉が浮かんではするすると口から出ていく。一方の堀北は呆気にとられ、目を丸くしていた。
「優秀な人間は評価されるべきだ。私も、お前も。誰だってそうだ。……なあ、堀北。お前にとっちゃ余計なお世話かも知んねえけど、私は堀北の味方だからな。あの時は悪かったよ。生理が重くてイライラしてたんだ」
「…………急に、どういう風の吹き回しなのかしら。野蛮ですぐに敵意を向けてくるかと思えば、同情して擦り寄ってくるだなんて。……あなたのこと、よく分からなくなってきた。それに――」
唖然としていた堀北は再起動し、困惑にたじろぎながら口にする。
「――そんな表情も出来るのね。ちょっと意外だわ」
言われて、私は頬に手を当てた。堀北の見た私の表情とやらは分からない。
私は――どんな顔をしていたのだろうか。
「それから……ごめんなさい」
突然、頭を下げた堀北に今度は私が呆気に取られる番だった。あのプライドの高そうな堀北が他人に素直に謝罪するなど、ましてや頭を下げるとは思いも寄らなかったから。
「なんだよ、薮から棒に」
「私はあの時、あなたに『講師が勤まるとは思えない』と言ったわよね? あれは間違いだったと気づいたの。勉強会を台無しにした私と違って、あなたは――久我さんはちゃんと与えられた役割をこなしている。問題を起こすことなく、他者に寄り添って勉強を教えていた……そう綾小路くんから聞いたわ」
「綾小路が?」
視線を上げ、彼の姿を探す。綾小路は池たちに捕まったまま、その双眸にこちらを見据えていた。勉強会の際も気怠げなその目つきで様子を窺っていたというわけか。……やはり食えない男だ。益々興味が沸いてくる。
はたと気づけば、いつの間にか教室は静まり返り誰も彼もが私たちに目を向けていた。先日、大いに揉め喧嘩に発展しかけたから当事者の私らに注目が集まっているのか、或いはあの堀北が自らの非を認め謝罪したのが要因か。恐らくは、そのどちらも寄与している。
「久我さんを批判する権利なんて、私には無かったのよ。今までの私はDクラスに配属された怒りと不満で前が見えていなかった。どこかの誰かさんにそう指摘されて、それが今になって自覚できたわ」
認めたくないことなのだけれどね、と堀北は目を伏せる。
彼女の言う“どこかの誰かさん”とやらは考えるまでもなく綾小路だろう。彼女と最も距離が近く、尚且つ提言できる存在は多くない。ましてや堀北が意見を汲み考えを改めるほどの説得力のある発言が可能な人間はそれこそ綾小路ぐらいなものだ。
「それに、あなたも言ったように私は須藤くんたちを
顔を上げた堀北は、毅然とした面持ちで綾小路を一瞥した。
「この学校はとことん実力主義よ。勉強が不得意なら運動で、運動が不得手なら勉強でクラスに貢献できる。どちらも劣っていたとしても、それ以外の分野で貢献すればいい。コミュニケーション能力なんかが最たるものだわ。もちろん、不足している部分は努力である程度は補ってもらうのが前提ね」
堀北は一度区切り、呼気を整える。
「仮に軽井沢さんに須藤くんたちを切り捨てるよう進言して、その案が通ってしまえば彼らは赤点を取って退学するでしょうね」
「ああ、空いた穴は二度と埋まらないだろうな」
「そうよ。欠けた戦力は帰ってこない。いつか、彼らを切り捨てたことを後悔する日が来るかも知れないわ。今回は勉強面の実力勝負だけれど、もし体育祭があるとすれば須藤くんの高い身体能力が大きな武器になる」
「だから安易に退学させるのは得策じゃない、と?」
彼女は首を縦に振った。
私はまだ堀北鈴音という少女の人間性を把握しているわけではないが、少なくとも私と同じくどこか他人を見下した節があり、他者を見放しクラスのリスクを取り除こうとした人間がこうも意見を180度転換させるものだろうか? 昨日今日で何があったかは彼女にしか知りえない。しかし、綾小路が関与しているのは間違いない。どんな話術で堀北の意識改革をしたのか気になるところだが、当の本人に訊ねてものらりくらりとはぐらかされそうだ。
「つってもどうすんだ? 赤点組を説得してグループを再結成するとでも?」
「ええその通りよ。……と言っても彼らを呼び戻すのは容易ではないでしょうから、必要な策は講じてきたわ」
凛とした強い声音で宣言する堀北。よほど自信があるのか、その瞳に揺らぎはない。
「そうかよ。ま、精々頑張ってくれ。必要なら手も貸すぜ」
「問題ないわ。あなたはあなたの仕事を全うしてちょうだい」
「……お前は私の上司か何かか?」
「あなたみたいな部下を持った覚えはないのだけれど」
ぴしゃりと言い放つ堀北に、私はやれやれと肩をすくめる。
「最後にひとつ聞かせろ。どうして堀北はそこまでしてクラスのために行動しようとする? こんな面倒事、それこそ軽井沢に委任すればいいじゃねーか」
「私は、私自身のために動いているだけよ。それに須藤くんたちをグループに受け入れたのは私だもの、最後まで面倒を見る義務が有る」
「自身のために、ね……。なんだ、堀北もAクラスに上がりたいのか?」
「概ね正しいわ。けれど、真意は少し違う。私はただ――――いえ、なんでもないわ。忘れて。……話は終わりよ」
「ああ。またな」
ひらひらと手を振って踵を返す。堀北が言いかけた言葉の先に興味はあったが、無遠慮に詮索するのは憚られた。これから3年間、苦楽を共にするのだからそう遠くない未来に彼女の真意とやらも見えてくるだろう。
私と堀北が話を終えたことで、緊張の糸が途切れたのか教室に賑わいがフェードインする。
「また突っかかるんじゃないかと思ってひやひやしたわよ……」
「私を喧嘩屋かなにかと勘違いしてやしないか?」
「猛犬くらいには思ってる」
席へ戻れば軽井沢が安堵の表情を浮かべて声をかけてきた。彼女の懸念は尤もだが、猛犬扱いは私とて異議申し立ても辞さない構えだ。
「でも、あんたが堀北さんにああも友好的だとは思わなかった。優秀な人を好む傾向にあるってのはなんとなーく理解してたけど、あそこまで態度が違うなんてね。ちょっとびっくり」
へえ、と私は感嘆の声を漏らす。
遅かれ早かれ……とは思っていたが存外早く見抜かれたらしい。決して多くない判断材料から推理し私の性質を暴けるとは、軽井沢の洞察力は想定を上回る性能だったようだ。
つらつら惟みるに、軽井沢恵という少女は私の好む優秀な人間に至る素養がある。
まず、学力は着実に伸びている。私が直接指導してるのも要因の一つだが、彼女の地頭の良さも相まってここ一ヶ月でぐんと成績が改善されている。最初の頃は因数分解すら怪しかったが、今ではちゃんと数学の授業にも着いて行けているみたいで一安心。喜ばしいことに勉強する習慣が身に付いたのか最近では予習復習も欠かさないようにしているのだとか。
一方の運動面は可もなく不可もなくと言ったところで、凡そ平均的であった。自衛のために護身術くらいは身につけて欲しいものだが、暴力――いやそもそも肉体言語全般を忌避するきらいがある軽井沢には少し荷が重いか。彼女も拳で会話ができるようになってくれれば、その手の強行策も視野に入れられるのだが……やはり厳しいだろうか。そうは言っても体力が有るに越したことはないのでそのうち朝のジョギングに付き合わせることも検討すべきだろう。ついでだから筋トレもさせておくとしよう。人間である以上、体が資本なのだから。
コミュニケーション能力は合格として、後は先日も挙げたポーカーフェイスや、それから尾行に隠密技能。交渉能力は無論欲しいしもっと欲を言えばやっぱり戦闘能力も――ああいやそれにはどうしても軽井沢の恐怖心が邪魔をしてしまうな。悩ましいところだ。無いものねだりをしても仕方のないことではあるのだが。優秀な部下に育成する上で、各種スキルを揃えられるのであれば揃えておきたいと思うのは至極当然じゃなかろうか。
いずれ、彼女が自他共に認める優れた人材に育ったとき、私は――――軽井沢を親友として迎えるつもりだ。
私は不器用な人間だから、建前の一つもないと親友の一人だって作れない。Dクラスに相応しい、どうしようもない欠陥品なのだ。
「ああそうさ。実力を認めた人間には、敬意を払って接するのが私のポリシーでな。雑魚に払う敬意なんざねえ」
「言い方。お願いだから発言には気をつけてよ? 特に他クラス」
「善処はしてやる」
軽井沢は無闇に敵を作るな、と言いたいんだろうが、どん底から一段這い上がった元Dクラスの私らは他クラスにとって警戒すべき存在だ。いくら物腰穏やかに謙った態度を取ったところで舐められたらおしまいである。故に私は強気な姿勢を崩す気も、口調を改める気も更々ない。尤も、過度な挑発で相手を煽ろうとも我らが大将軽井沢が咎めてくれるので元より問題はないのだ。
Aクラスは最下位が入れ替わっただけと然程警戒はしていないかもしれないが、B、Dクラスは訳が違う。Bクラスにとって下克上の実績があるクラスが自分たちを射程圏内に収めているのだ。当然気が気でないだろう。Aほどではないにしろ、Bクラスには模範的な実力を兼ね備えた正統派集団。既に統率している人間が指示を下しこちらの情報収集に着手している可能性が高い。
一方で、底辺に繰り下がった元Cクラスからはさぞかし敵意を持たれているに違いない。噂によれば、かのクラスには我の強い生徒、延いては不良が多く在籍しているらしく、中でも“龍園”という生徒が幅を利かせ指揮を取っているのだとか。
そんな武闘派なクラスを蹴落としたのだ。もはや報復は免れない。彼ら彼女らは私たち現Cクラスを目の敵とし、近々仕掛けてくるだろう。場合によっては暴力沙汰もあり得るかも知れない。相手の出方が分からない以上、今の私にできる出来ることといえば周囲に目を光らせて有事の際は軽井沢を守ることだけ。
時折会話をするくらいの仲にはなった佐藤と松下や、和解した堀北が危害を加えられればその時はたっぷりとそれ相応の“礼”をしてやるつもりだが、ぶっちゃけ他のクラスメイトがどうなろうと知ったこっちゃない。とは言え、被害を被った側としてはそれなりの対応をしなければ後々面倒だ。学校に訴えを起こすのは当然として、加害者には多額の賠償金を支払わせ毟れるだけ毟る。可能であれば連帯責任でクラスポイントを搾取するのも良い。まあ、私は指示だけして軽井沢に丸投げする予定なんだがな。
ちなみに言うまでもないが櫛田はどうでもいい。なんならターゲットにしてくれて一向に構わないまである。よろしく頼んだぞDクラス諸君。
「――ふうむ。なかなか興味深い会話をしていたようだね、デビルガール」
思考に耽っていると、見慣れた金髪が隣の席に腰を下ろす。
「あ、高円寺くんおはよー」
「ご機嫌よう避暑地ガール。今日も実に素晴らしい朝で何よりだ」
「ひ、避暑地ガール……?」
珍妙な呼び名に困惑を隠せない軽井沢。いやまあ確かに“そっちの軽井沢”は避暑地で有名だけれども。
「つーか聞いてたのかよ高円寺」
「ノンノン。聞こえてきた、の間違いだと訂正しておこう」
高円寺はふてぶてしく鼻を鳴らすと、いつも通り机の上で足を組み爪の手入れを始めた。入学から一ヶ月と少しも経てば、誰もが見慣れていてもはやCクラスの風物詩の様相を呈している具合だ。実際、割と絵になるしな。
「それにしても驚かされたよ。いやはや、あろう事か君は私の見立てを凌駕してみせた」
感心した様子で語る高円寺だが、手入れに専念していて一切目もくれないのがなんとも彼らしい。
「どういうことなの高円寺くん?」
高円寺の言葉に疑問を覚えた軽井沢が訊ねると、彼は爪先をヤスリで整えながらこう答えた。
「知りたいかい? ならば君も覚えておくと良い、避暑地ガール。君を傍で支えるデビルガールは“私の見た人物の中で誰よりも人間らしい”ということだよ」
「久我が誰よりも人間らしい……? それってどういう……」
「後は、君自身で答えを見つけたまえ」
話は済んだとばかりに今度は櫛で髪を整え始めた高円寺。抽象的な解答に煮え切らない軽井沢だったが、こうなっては彼との会話を再接続するのは難しい。然しもの軽井沢もここは引き下がるしかなかった。
仕方なく軽井沢は直接私に訊ねようとしたが、私が『詮索するなオーラ』全開で鞄からマシュマロの入った袋を取り出して黙々と食べ始めたものだからここもやはり引き下がるしかない。
――誰よりも人間らしい……か。傍から見ればそうなのかもな。
自覚はない。だが、どこか納得している自分がいる。
その本質こそが、私を久我緋乃たらしめる根源だった。
この領域には例え軽井沢でも踏み入られる訳にはいかない。絶対に。しかし――、
もしも、例えばもしも、彼女が禁忌に近しいそこに触れる未来が訪れたのであれば――――それは、私が“私”を維持できなくなった時に相違ない。
けれど、今はまだ私は“私”が望む“久我緋乃”で居られる。だから大丈夫なはずだ。
「ねえ、あたしにも一個ちょうだいよ」
「仕方ねえな。ほらよ」
いつか、仮初の外套を脱ぎ捨てる日は来るのだろうか?
私は益体もない思考を断ち切って、軽井沢とマシュマロを頬張った。