中間テストまで残り一日を切った木曜日の朝。
ホームルームを終えた茶柱が教室を出たのを見計らい、軽井沢が間髪入れずに動き出す。私も先日購入した過去問をクラスメイト全員分コピーしたその束を抱え、教壇に立つ彼女の傍らに控える。
頼れるリーダーである軽井沢が教壇に立ったことにより、生徒たちは皆そわそわと期待に胸を膨らませている様子だった。特に赤点組からは祈るような眼差しを向けられている。軽井沢ならば、事態を打破する解決策を齎してくれるかも知れない――そんな思いが透けて見えるほどに。
「はーい、皆ちょっといーい? 中間テストのことで話があるんだけど」
軽井沢の言葉に赤点組はもちろん、他のクラスメイトらも期待を寄せて耳を傾ける。尤も、高円寺だけは普段通り自分磨きに忙しそうだが。
「急にテスト範囲が変更されて、皆も苦労してるよね。特に須藤くんたちは折角の勉強会に水を差されたわけで、かなり切羽詰まってるんじゃない? でも安心して。誰も赤点を取らずに乗り越えられる方法なら、もう見つけてあるからさ」
自信たっぷりに宣言する軽井沢に、教室は俄かにどよめく。私は彼女との目配せを交え、前の席の生徒たちに各人数分の過去問を配布していく。
「これは……テストの対策問題かい?」
プリントに目を落とした平田が訊ねる。冷静な彼も驚きを隠しきれていないようだ。
「ううん。実はそれね、過去問なの。昨日の放課後、生徒会長から買い取ったんだよねー」
“生徒会長”というフレーズに堀北がぴくりと反応するのを私は見逃さなかった。不自然に目も泳いでいるし、この動揺さ加減から見ても何かあるのは間違いない。やはり兄妹なのだろうか。
「過去問? え、え? これ、もしかして結構使える問題?」
「結構ってゆーか、それさえ暗記すればテストなんて楽に突破できると思う。ここだけの話、去年と一昨年の中間テストもこれに書いてある通りの全く同じ問題が出されてたのよね。そういうわけで、この過去問を丸々頭に叩き込んでおけばテストも楽勝ってわけ」
「うおお! マジかよ! さっすが軽井沢! マジサンキュー!」
感激のあまり過去問を抱きしめる池に、軽井沢は「大したことはしてないよ」と謙遜してみせた。
「いやいや! あの生徒会長と取引したんでしょ? 十分凄いじゃん!」
「確かにね。誰にでも出来ることじゃないと思う」
「そ、そう?」
軽井沢としては本心から出た謙遜だったのだろうが、佐藤と松下がフォローに回ったのであっさりと口角を緩めてしまっている。実際、あの堀北会長相手に臆することなく最後まで毅然とした姿勢を貫き、交渉を成立させたのは軽井沢の力によるものだ。これが池や佐藤であれば結果は違っただろう。
「何だよ、こんなんがあるなら勉強、無理して頑張らなくても良かったなあ」
安堵からかヘラヘラとむかっ腹が立つ笑いを浮かべて、山内が独りごちる。
コイツの様子を見る限り、案の定前日に発表しておいて正解だったか。下手に猶予があると調子こいてサボりかねないからな。それで赤点でも取られようものなら、私は煮え滾る憤怒を拳に載せて退学祝いに顔面をぶん殴るはめになる。
「須藤くんも、今日はこれを暗記することに専念して。ちょー簡単でしょ?」
「おう。助かるぜ」
過去問を受け取った須藤も、嬉しそうに鼻を掻いていた。
「皆も明日に備えてばっちり覚えてね。あ、それとこの事は他クラスの人には内緒にしておいて。折角の過去問なんだし、あたしたちが独占して高得点取るわよ」
『おおーっ!』
軽井沢が高らかにそう宣言すると、クラスメイトたちは揃って高揚の雄叫びを上げた。士気は上々。後は各自本番に臨むだけ。
教室は浮ついた空気感に包まれたまま、生徒らは授業の準備に取り掛かった。
「軽井沢さん。お手柄だったわね」
教壇を降りた彼女に、堀北が声をかける。
「も、もう堀北さんまで。あたしはあたしに出来ることをしただけだってば」
照れくさそうに頬を掻く軽井沢に対して、堀北は「それでもよ」と首を振る。
「過去問を利用するという考えは私の中には無かったから。それが有効だと言うことを調べてくれたことにも感謝するわ」
「お礼なら久我に言ってあげて? 過去問が使えるんじゃないかって閃いたのは久我だからさ。今回、あたしはただ交渉しただけだし」
驚いたと言わんばかりに視線を投げかけてくる堀北。てっきり今回も軽井沢の機転によるものとばかり思っていたのだろうが、丁度いい機会なのでこれからは私も参謀役としてそこそこに功績を残すことに決めていた。これはその足掛かりに過ぎない。
「少し意外ね、あなたが表立ってこういう事をするなんて思わなかった。でも……ありがとう。おかげで無事に試験をクリアできそうだわ」
「礼ならいい。私はただ、堀北が救おうとした奴らが赤点になるのが我慢ならなかっただけだ」
「素直じゃないわね」
「お互い様な」
小気味良い返しに、私はくつくつと笑う。
「それよりも、今日の朝に発表してくれたことは正解だったと思う。不用意に過去問の存在を明かせば、勉強への集中力が欠落してしまう可能性もあったから」
堀北はそう言って騒ぎ立てる彼らを見やった。
実のところ、堀北や綾小路には過去問を入手した時点で連絡を回してある。理由としてはもし二人のどちらかが過去問の存在に気づいた場合、既に私たちが手にしているので無駄足になるということが主な要因の一つ。二つ目は、思惑は違えど試験を乗り越えるべく奔走している彼らに報告しないのは不義理だと判断したからである。
その上で話を通し、今に至るわけだ。
「本当は放課後まで待っても良かったんだけどねー。何かあった時に備えて猶予は長いほうが良いし、皆で良い点も取りたいしさ。集中力は……まあ、櫛田さんがちょこっとお願いしてあげればどうとでもなるんじゃない?」
「それもそうね」
クラスメイトたちと喜び合う櫛田を横目に、堀北は溜め息混じりにそう言った。現時点での櫛田の地位は中間層から抜け出せていない。これは櫛田にとって面白くない状態だ。そんな彼女に少しでもプラスになるような案件が飛び込んでくれば、二つ返事で了承するのは火を見るより明らか。これ以上スクールカーストを落としたくない櫛田はもはや藁にも縋る思いだろう。
見え透いた思惑を逆手にとってやれば、櫛田桔梗という一人の生徒を馬車馬のように働かせることだって可能だ。結果としてそれで皆から慕われるのであれば彼奴も本望に違いない。
まあ過重労働でストレスはマッハだろうがな、と私は見下した一瞥をくれてやる。視界に入れた瞬間苛立ちが込み上げてきたので即座に視界から外したが。
「……彼女にも感謝しておかないといけないわね」
呟いて席を立った堀北は櫛田の元へ向かった。
非常に癪ではあるが、櫛田の存在が須藤たちをまとめる重要なファクターであったことは確かだ。その点に関してだけは認めざるを得ない。
「色々あったけど、これでなんとかなりそうね」
「だな。お前もちゃんと勉強しとけよ? リーダー様」
「言われなくてもやってますー。あんたこそ……まあ久我なら心配ないか」
「わかってんならいい」
軽口を叩きながら、私たちは席に戻った。
◆
「欠席者は無し、ちゃんと全員揃っているみたいだな」
中間テスト当日。茶柱が相変わらずムカつく不敵な笑みを貼り付けて教室に現れる。
そんな担任を見据えるクラスメイトたちの視線はとても冷ややか。なにせ範囲変更を伝えていなかったのだから当然の反応と言える。生徒にとってはそれが故意だろうがそうじゃなかろうが然して関係は無い。“伝えられなかった”という事実の一点こそが重要なのだから。
「お前ら“元”落ちこぼれにとって、最初の関門がやって来たわけだが、何か質問は?」
「いいえ先生。あたしたちはこの数週間、テストを乗り越えるために真剣に取り組んできました。それに対抗策も講じてあります。クラスから赤点を取る生徒は出ませんし、あたしが出させません」
「ふっ……随分な自信だな。軽井沢」
悠然と答える軽井沢に感化され、クラスメイトの一部は尊敬を顕にした面持ちで彼女を見つめている。他の生徒も自信を窺わせる表情を浮かべ、彼女の言葉に頷いていた。
入学からこの短期間で、一部とは言えクラスメイトから崇拝じみた思想すら生み出す軽井沢の求心力は凄まじいものがある。功績のために私が助力している、などと言っても、やはり軽井沢自身が献身的に生徒たちと接し地盤を築き上げたことが大きな要因だった。
彼女は無意識なのだろうが、これは紛れもなく他者との交流を介し会得した“カリスマ”に相違ない――。
私はそう結論付けて、磐石になりつつある内政基盤に薄い笑みを浮かべた。
それから問題用紙の束を整えた茶柱によってプリントが配られ始める。一時間目の科目は社会となっており、単純な暗記問題が多い。これならば須藤たちであろうと然して苦労することなく点も取れるはずだ。
プリントを配布し終え、教壇に戻った茶柱が再び口を開く。
「もし、今回の中間テストと7月に実施される期末テスト。この二つで誰一人赤点を取らなかったら、お前ら全員夏休みにバカンスに連れてってやる」
「バカンス……ですか?」
胡乱げな眼差しで軽井沢は訊ね返す。クラスメイトたちも懐疑的な視線を向けていた。もう誰ひとりとして茶柱の発言を信用してなどいない。
「そうだ。お前ら高校生風情には勿体無い、透き通るような青い海に囲まれた島で夢のような生活を送らせてやろう」
「先生、それホントですか? そんなこと言って、実は無人島でサバイバルでもさせようとか思ってません?」
「仮にも夏休みだぞ。心配せずとも、バカンスに連れてってやるのは本当だ。豪華客船でのクルージングも楽しめる。まあ、島でサバイバルをしたいのであればそれでもいいがな。それもひと夏の思い出というやつだ」
「……いまいち信用できないのよねぇ……」
軽井沢の呟きはクラスの総意だっただろう。……数名の男子は淡い期待に目を輝かせていたが。どうせ夏の海=女子の水着が見れるとでも考えているに違いない。
そんなことを考えているうちに問題用紙が全員に行き渡り、茶柱の合図と同時に私たちは一斉に表へと返す。
ざっと用紙を見た限り、やはり過去問と一言一句違わない問題が連なっている。類似しているだとかのレベルじゃなく、丸っきり同じ問題だ。暗記していれば小学生でも満点を取れるのは明らか。
当然、私も詰まることなくすらすらと解答欄を埋めていく。過去問が無くてもこの程度は余裕だ。ケアレスミスが無いことも確認して、一時間目は終了する。
その後も二時間目、三時間目に移行し国語と理科のテストも難なくクリア。過去問からそっくりそのまま出題されている事実に、クラスメイトたちの表情も明るい。
休み時間に入って「ちょーヨユーじゃない?」と自信満々に語っていた軽井沢だが、そこまで言うからには満点が取れたはずだ。もしも取れていなければ……その時はその時だ。ケーキバイキングでも奢ってもらうとしよう。くくっ……。
そして午前最後の科目は数学。出題される問題はどれも小テストと比較して難易度が高い傾向にある。しかし、これも過去問と変更は無い。過去問様様だ。これが無ければと思うと正直ゾッとする。赤点組は下手すると一人残らず退学していたかもしれないのだから。
無論、そんな心配は露ほども要らないのだが。
流れ作業のごとく答案を埋め、長い午前の試験を終えて
「数学どうだったよ」
席を立ち、軽井沢の元へ。それに伴って佐藤と松下も集まってくる。
「楽勝に決まってるじゃん。多分満点取れたと思う」
「ほー。なら、もし満点じゃなかったらケーキバイキング奢れ」
「なんであたしが久我に奢んないといけないのよ。逆でしょ、逆。あんたが一点でも落としたらそっちが奢んなさいよね」
「ああ。いいぜ。そんときはきっちり奢ってやるよ。んで? そっちの二人はどうだ?」
「ばっちり暗記してきたしヨユー!」
「ま、私も大丈夫そうかな」
予想通りの反応だ。過去問という名のカンニングペーパーがあるのだから、当然っちゃ当然だが。
「それよりさっ、テスト終わったらまた打ち上げやるの?」
「うん。そのつもりだけど……ああでも、ポイントの支給日前だし、少しずらしたほうが良いよね」
「私的にはその方がありがたいかな。今月ちょっと使い過ぎちゃったし」
「そっか。じゃあそっちの方向で調整しておくわね。あ、ちなみにだけど何食べたいとかある?」
「もちろんケーキバイキングっ!」
「んー、ケーキバイキングかな」
「ああ? だからケーキバイキングつってんだろ」
「……男子も参加するんだからそこも考慮してあげてね。……あたしも食べたいけどさ」
そんな風に女子高校生らしい穏やかな休み時間を過ごしていると、
「軽井沢。少しいいか?」
「綾小路くん? いいけど、どうかしたの?」
やって来た綾小路に、軽井沢は小首を傾げて訊ねる。
ひょっとするとこいつもケーキが食べたいんだろうか――などと能天気に考えていたのだが、そんな能天気な思考は瞬く間に崩れ去ることになった。
「須藤が英語の過去問を勉強してなかったんだ。今、堀北が高得点と簡単な問題に絞って覚えさせてる」
「えっ!?」
報告を聞かされた私たちは一斉に須藤の席に視線を送った。過去問を食い入るように凝視する須藤の隣には堀北が立っていて、その顔色は優れない。須藤もまた額に汗を浮かべて焦燥感に駆られているようだった。
「大丈夫……じゃないわよね」
「あれが大丈夫に見えるか? 英語ってのは暗記しようにも基礎が出来なけりゃどうしても時間がかかる。どんだけ答えを絞ろうが、この短い時間で覚えられる数は多くねえ」
邪魔にならないよう遠巻きに須藤たちを見つめながら、私は苦肉の策を軽井沢に伝える。
「軽井沢、大至急クラスメイトに指示を出せ。可能な限り英語の点数を落とさせろ。平均点を下げればまだどうにかなるかもしれねえ」
「わかった。――――ごめん皆! ちょっと聞いて欲しいことがあるの!」
休み時間は残り僅か。軽井沢の指示により、英語に自信のある生徒らは各自自己判断で点数をギリギリまで落とすことを了承した。無論、余裕の無い生徒はそのまま赤点を回避するのに専念させる。
私も赤点を取らない崖っぷちのラインを見極めて空欄を作るし、軽井沢もそのつもりだ。堀北も須藤を救うべくして点数を落としてくれるだろう。櫛田だって軽井沢の命令は無視できない。そこそこに点数を落とすはずだ。
「これで切り抜けられればいいんだけど……」
「もう私たちに打てる手立てはねえ。どう転ぶかは須藤次第だ」
あっという間に過ぎ去った休み時間が、無情なチャイムによって告げられる。もうこの教室に浮かれた雰囲気はどこにもない。もしかすると、この中間テストを最後にクラスメイトが一名脱落するかもしれないのだ。
誰もが身を固くし気を引き締めてテストに取り掛かる中、須藤だけは誰よりも深刻な面持ちでペンを握っている。
しかし、これまでの勢いは失われ、時折ペンを持つ手が宙を彷徨うのを私は悟られぬよう横目で見ていた。
解答用紙に空欄を作りながら、私は思考を巡らせる。
もしも須藤が赤点を取った場合、どうすれば救出できるのか?
そんな都合の良い抜け道を模索していたが――――