夜が明け、二日目の朝を迎える。
セットしていた端末のアラームを止め、むくりと上体を起こす。ぎし、とベッドのスプリングが鳴ったが、テーブルで突っ伏していた部下(軽井沢)が起きる気配はなかった。途中で寝落ちしたらしい。
洗面台に向かい、冷水で顔を洗い寝ぼけた意識を完全に覚醒させる。それから歯を磨いて戻ると、中途半端に目が覚めたのかぼけーっとした顔で彼女は目尻をこすっていた。
「なんだ、起きたのか」
「……いま何時?」
「5時」
「…………早くない?」
「何言ってやがる。健康的だろ?」
いまいちレスポンスの遅い軽井沢にそれ以上構うことなく、私はクローゼットから学校指定のジャージを取り出して着替えを済ませる。学生証と携帯をポケットに突っ込み、タオルを首にかけた。
「……どっか行くの?」
「ジョギング。お前も来るか?」
「んー……いかない」
気の抜ける返事を返して二度寝の体勢に入った軽井沢。昨日の今日だというのに随分と肝が据わっている。神経の図太さに一定の評価をしつつ、私は寮を後にした。
◆
白みだした空の下、ルートの下見も兼ねて少し寮から離れた場所まで足を伸ばしていた。
流石に早朝だからか誰ともすれ違わず、私は走りに集中する。特別、私は走るのが好きでも、ましてやジョギングが趣味というわけでもなかった。ただ体を鍛えるためにやっているだけ。勉強だってそうだ。昨晩も軽井沢に教える合間に配られたばかりの教科書に予め目を通しておき、軽く予習をしておいた。
そう、これは言うなれば鍛錬だ。
生憎と私は天才と呼ばれるに値する才能を持った人間ではなく、悲しいことにただの一般人に過ぎない。だからこそ努力に意味があり、価値が生まれる。何も持たずして生まれた人間が強者へ登り詰めるには努力するしかないのだ。結局のところ、世界はそういうふうにできている。
無心で走り続け、朝食を買うべくコンビニに立ち寄った際には軽く汗をかいていた。タオルで汗をぬぐい、弁当をひとつ手に取って暇そうにしている店員にレジを打たせる。会計を済ませ、温め終えた弁当の入った袋を手に下げてのんびりと歩きながら寮の帰路に着く。春先とは言え朝のそよ風は汗をかいていることもあって少々冷たい。寮に着く頃にはすっかり汗は乾いていた。
部屋に戻れば、軽井沢が人様のベッドを無断使用して眠りこけていた。しっかり肩まで布団をかけて完全に熟睡している。勝手に寝てろとは言ったが順応しすぎだろコイツ。
弁当をレンジで温め直している間に、冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出してがぶがぶと飲み乾いた喉を潤し、それから朝食を済ませる。ちなみに朝飯は昨日食べた激辛麻婆豆腐弁当だ。なかなか好みの味だったので朝食はしばらくこれで決まりだろう。
空になった容器をそのままゴミ箱へ投げ入れ、汗を流すべくさっとシャワーを浴びてから制服に袖を通す。
「んぁ……何時?」
「6時半。とっとと部屋に戻って支度してこい」
しばらくしてようやっと軽井沢が起床する。半分ほど寝ぼけているが時間的に三度寝は厳しいだろう。もっとも、彼女が三度寝しようとも起こす義理はないのだが、リーダーになれと言っておいて二日目から遅刻させるのは上司として見過ごせない。それに遅刻は明らかな減点対象だ。世の中には連帯責任という便利な言葉もある。減点対象がクラス単位の可能性も十分考えられる以上、軽井沢には模範的な生徒として生活してもらう必要があった。
「ああ待て。その前に連絡先教えろ」
「え? あー……はい」
「……よし。いいか、部屋に戻るときはくれぐれも見つかるなよ」
「昨日も聞いたってば。関係を悟られるな、でしょ?」
「わかってるならいい。後で今後の方針をメールで送っておくから、目を通しておけ」
「ん。りょーかい」
ノート類を片し、軽井沢は大きくあくびをしつつ自室に戻っていった。
――さて、駒は手に入れた。
この学校が普通じゃないのは入学初日で確信済だ。何が起きるか定かではないが、おおよそロクなことにならないだろう。そしてこれはまだ推測の域を出ないが、恐らくはクラスの優劣を利用して学校側が何らかのアクションを仕掛けてくるはずだ。仮にクラス対抗戦のようなイベントが催されていたとして、クラスメイトの統率が取れていないとまともに指示も通るまい。そうなれば、皆仲良く地獄を見るハメになる。もっともDクラスが不良品と揶揄されている時点で、クラスメイトの一体何人が戦力として数えられるかは甚だ疑問だが、私や高円寺――彼はまだ未知数だが――のような例外も存在することから単にバカや運動音痴が集められているわけではなさそうだ。……あまり期待はしていないが。
ともあれ、個人の能力の把握は追々やっていくとして、最優先事項は軽井沢恵をリーダーに仕立て上げること。
彼女を表舞台に据え、私は軽井沢の側近或いは契約相手として行動を共にしつつ、裏で暗躍するという算段だ。ただの一般不良女子生徒Aを演じてもいいが、不測の事態が発生した際に傍らで速やかに援護できないのは少々都合が悪いし、何より無関心を貫いていたクラスの不良がわざわざリーダーを手助けするために動くのは些か不自然過ぎる。
それにクラス間の競争が予見されることから、リーダーである軽井沢は間違いなく狙われる。彼女の弱点は暴力だ。荒事に慣れた私が側近として適材だろう。
軽井沢の側近に至るまでのシナリオは出来ている。そのためにも、まずは彼女をクラスのリーダーに成り上がらせなければならない。軽井沢には今日から早速栄光への土台作りに専念してもらう。無論、私も適宜指示を出すしリーダーに必要な知識も与える。私には軽井沢が、軽井沢には私が必要なのだから。
「まったく、高校くらいは大人しくしておこうかと思ったんだがな」
自嘲気味にため息を零して、私は端末に指を走らせた。
◆
入学二日目、今日から授業が始まる。とはいえ大半の授業はガイダンスであり、本格的な授業は明日から。教師陣も進学校とは思えないほどにフレンドリーで、生徒は揃って拍子抜けしていたようだ。
が、学校が秘匿する真相の一端を掴んでいる私からすればあまりに露骨だと言わざるを得ない。情報を共有しておいた軽井沢も当然訝しんだようで眉をひそめていた。この学校はとことん実力を測りたいらしい。
特異なルールの断片を散りばめ、贔屓された環境に惑わされることなく生徒が真相にたどり着けるかどうかを見極める腹積もりだろう。そして
ここで問題になってくるのが、ポイントの減点対象が生徒個人か、それともクラス単位なのかという点。恐らくは後者の可能性が高いものの、念には念を入れてなるべく早い段階で調べをつけておいたほうが良さそうだ。もし仮に後者だとすれば、殆どの授業を居眠りで過ごしている赤髪の男子生徒のせいでこうしている間にも、Dクラスに所属する合計40人のポイントがじりじりと削られていることになる。
無論、教師陣も気づいているだろうが咎めることはなかった。義務教育が終了したとは言え進学校にしてはいくらなんでも放任主義が過ぎる。
しかし、代わりに手元の用紙に何かを書き込んでいることから、敢えて泳がせた上で彼の授業態度を実力として記録しているのだろう。私を含めた他の生徒も同様のはず。
正直言って巻き込まれるのは業腹だが、これも軽井沢をリーダーに君臨させるためだ。クラスメイトには悪いが一度地獄を見てもらおう。
昼休みを迎える頃には、教室の空気は完全に弛緩しきっていた。
ぱらぱらと生徒たちが席を立ち始め、思い思いに食堂へと消えていく。教科書を片付け、私も席を立つ。休み時間の合間にお菓子を摘んでいたからそれほど空腹ではないが、しっかり腹に入れておかないと放課後までは持たないだろう。
「――はーい、これから食堂行くんだけど誰か行く人ー?」
ちら、と軽井沢と目があったかと思えば、彼女は立ち上がってまだ教室に留まっている生徒に目を配った。早速、何人かの女子が彼女の元に集まる。
「平田くんもどう?」
「僕かい? 構わないけど、男子の僕が混じっても平気かな?」
「へーきへーき。むしろ平田くんが来てくれたほうが女子的には嬉しいと思うし?」
「わかった。じゃあご一緒させてもらうよ」
「平田くんが行くなら私も!」
「あ、ずるい! 私も行く!」
容姿の整った平田が参加を表明すると、瞬く間に残りの女子が群れを成して軽井沢と平田を中心に慌ただしく教室を去っていく。この分だと、軽井沢は上手くやってくれそうだ。口端が緩むのを堪え、私も廊下に出る。
今朝、軽井沢にメールで指示した内容はごく簡単なものだ。
まず第一に、自分の派閥を作ること。
これは求心力を示せば容易に達成できるだろう。己の意見を持ち、述べることで自分の意見を持たない人間は勝手に“こいつはリーダーだ”と認識してくれる。後は徐々に勢力を拡大していくだけでいい。台頭する派閥が出てこなければ、直にクラスは彼女の支配下に置かれる。
第二、無闇に敵を作らないこと。
具体的には横暴な態度取らないこと、だ。暴力的だったり、威圧的な態度を取れば一時的に従えることはできても状況次第で離反する可能性が高い。これは私が中学時代に経験済みだ。いちいち制裁を加えるのが面倒だった覚えがある。
とにかく、軽井沢には“彼女に付いていけば安心”と思わせるような盲信に近いレベルの統制をさせる。だからこそ彼女に尊大な態度を取ってもらっては困るのだ。あくまで、心優しく頼れるリーダーを演じてもらう。
そして第三に、懸念事項があれば些細なことでも私の判断を仰ぐこと。
まだ未熟な彼女では間違った対処をする可能性があるため、その都度私に連絡するよう指示した。今後を左右する重要な判断も私が下すことになっており、そこら辺の上下関係はきっちりさせている。
他にも高円寺は懐柔できないだろうからやめておけ、とか他クラスとの面倒事は極力避けろなど細々とした命令をメールでひと纏めにして送ったのでかなりの長文になった。私なら分割して寄越せとクレームを入れているが、軽井沢は文句ひとつ言うことなく指示通りに動いているようだ。教室で顔を合わせたときは何やら文句有り気な表情を浮かべていたが、言っても無駄と判断したか。
前方を往く軽井沢率いる和気藹々としたDクラスグループの背中を、やや離れた位置から眺めながら食堂へとやってくる。
どうやら出遅れたらしく食堂の席は半分ほど埋まっていた。グループで昼食をとっている生徒がほとんどのようだが、まばらにひとり寂しく食べている奴らもいる。
なにを食べようか思案しつつ券売機の列に並び、少しして順番が回ってくる。思いのほか豊富なメニューが取り揃えられており、最下段にはやはり無料で食べられる“山菜定食”なるメニューの存在が。味に期待はできなさそうだったので、一際目を引く“超激辛灼熱ラーメン(醤油味)”を選択。隣の券売機に並んでいた生徒がぎょっとした様子で見てきたが、軽く睨み返すと慌てて視線を逸らした。……まさかハズレでも引いたか? いや、こんな美味そうな字面をしているのだから名ばかりということもあるまい。激辛料理に外れはないのだ。
さっそく注文を済ませ、受け取りカウンターでしばらく待っていると担当の老婆が朗らかな笑みを浮かべて件のラーメンを積んだトレイを持ってきた。
「はい超激辛灼熱ラーメンの醤油味だね! お待ちどう! 熱いから気をつけな!」
――それは、ラーメンと呼ぶにはあまりに赤すぎた。
赤く、多く、熱く、そして大雑把すぎた。
それは正に、地獄だった。
これでもかと盛り付けられた唐辛子、タバスコのせいで器は真っ赤に染め上げられ麺が見えない。そしてこれは気のせいだと思いたいがデスソースらしきものが、どうか間違いであってほしいがデスソースらしきとろみのある何らかの液体がトッピングされている。どうかデスソースじゃありませんように。流石の私でも死……にはしないだろうがほぼ確実に痛覚がイカレる。というかもう既に匂いがヤバい。尋常じゃなく目が痛い。視覚と嗅覚が攻撃を受けている。どう考えても学校の食堂で提供していいメニューではないはずだが……。
食すべきか、そもそも口に入れるべきか葛藤しながら空いている席に着く。眼前にはさながら地獄を体現したラーメンと呼べるかも疑わしい一品が鎮座している。もはや化学兵器の様相を呈しているラーメンの香りに鼻が悲鳴を上げ始め、目尻に涙さえ浮かんできた。……注文した以上は食べるべきか。食指が重いが、女は度胸だ。
意を決して赤い表層に箸を入れ、溶岩(比喩に
――くそっ! 麺まで赤い! タバスコでも練りこんでんのか!?
禍々しい麺が顕になり、一瞬怯みこそしたが迷いを振り払って麺をすする。そして恐る恐る咀嚼。麺はコシがあり、スープも濃厚で仄かに醤油が効いていた。安心したのも束の間、遅れて猛烈な辛さが口内で暴れまわる。幾ら辛党の私と言えど悪意の詰め合わせセットみたいなこの激辛ラーメンを食べて無事で居られるはずがなかった。
――のだが、
「……普通に美味いな」
丸ごと放り込まれた唐辛子にタバスコを絡ませ、ぽりぽりと食べながら独りごちる。いつの間にやらまた一段と耐性が強化されていたようだ。我慢できない辛さではない。麺をすすり、レンゲでスープをひと口飲めばぽかぽかと体が芯から温まってくる。身構えていたのが馬鹿らしく思えるほどに食欲をそそる味だった。
「お、おい……あいつ平気なのか……?」
「マジかよ。俺、食ってる奴初めて見たわ……」
「大丈夫なのあの子? 絶対辛いでしょ」
何やらギャラリーがちらちらと覗いてくるが、気にせず食べ進めていく。値段の割に量もあるし、今後の昼食のメインはこれで決まりだな。
一心不乱に麺をすすり、あっという間に完食してしまう。最初はどうなることかと思ったが無事に腹も満たされたし良い収穫だった。
水を1杯飲み干すと、私はトレイを持って席を立つ。
「か、完食しやがった……!」
「あいつ1年だろ? とんでもねえのが入ってきたな……」
「私あれ食べられる気がしないんだけど……もしかして意外と辛くなかったり?」
「ないない。去年もそれで何人か保健室運ばれてたじゃん」
ざわつくギャラリーを横目にトレイを返却すると、老婆が驚いたような表情をしていたので軽く会釈しておく。まさか完食するとは思ってなかったようだが、私も完食できるとは思ってなかった。
食堂を出る際、軽井沢の様子を確認すると楽しげに団欒している姿が目に入る。順調そうでなにより。彼女にはしばらくの間派閥作りに専念してもらおう。
軽井沢の奮闘を見届け、改めて食堂を後にして廊下を歩いていると設置されたスピーカーから音楽が流れると共にアナウンスが始まった。
「本日、午後5時より、第一体育館の方にて、部活動の説明会を開催いたします。部活動に興味のある生徒は、第一体育館の方に集合してください。繰り返します、本日――」
そんなアナウンスを右から左へ聞き流しながら歩みを進める。生憎、部活動にはなんら興味がない。そも、協調性に乏しい私が集団行動に向いていないのは百も承知の上。自らの意志で進んで部活に入ろうとは過去に一度たりとも思わなかった。
高校も帰宅部確定だな、と然して自嘲することもなく私は教室へと戻った。