「それじゃ、そろそろいこっか」
 昼頃のカフェの中で、そう茜は親友の陽子に言う。
 それから2人は街の中を歩き回る。
 ありきたりな日常のように、花々のような笑顔で。
 けどそれは、ありきたりでありながら普通ではなかった。
 その目的は、茜の最期の思い出を彩ること。

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日が落ちるので

「それじゃ、そろそろいこっか」

 午後になりかけの喫茶店のティータイム。ダージリンの香り揺蕩う中で、彼女は…茜はそう微笑みながら言った。

「…本当に、いくの?」

 かちゃり、と無機質な音を添わせながら私は問いかけて、すぐに目を伏せた。

「うん。どうして?」

 茜が言う。

「どうして…」

 言われた言葉をそのまま返す。中身だけを変えて。

「まあいいよ。きっと陽子の疑問は正しいもん」

 笑んだまま言った茜に、私はしばし黙って、ようやく見つけたそれを言う。

「じゃあせめて、あなたの死に、私を巻き込む理由だけは聞かせて欲しい」

「寂しいから」

 即答だった。表情も変えないまま、彼女は間髪を入れずに答えた。

「…自分勝手」

「いいじゃん。これが最後の自分勝手なんだから」

 愛くるしい笑顔は崩れない。そんな顔から紡がれる可愛い声に乗った言葉は、けれど相反して真剣だということは、私には手にとるようにわかる。

 これから落ちようとする太陽が照らす中、私たちは穏やかにこの先について考え合う。

 

           ◇

 

「ひゃあ〜、日差し強〜い」

 太陽のように笑って茜は言う。

「日焼け止め塗ってる?」

「塗ってない。いらないじゃん」

 彼女の言葉に私は口をつぐむ。

 肌を焼くように強い日光が降る今日だが、気温自体はあまり高くはない。体感温度だけが勝手に舞い上がっている。

 茜が私の一歩前を行って振り返る。

「ね、行こ?」

 手を差し出され、じっと見る。久しぶりに見る白い半袖のワンピースの茜。その彼女から伸ばされた細い腕は、その服に劣らないほど色白で、故に袖口で見え隠れする青あざが、目に痛々しい。

「うん」

 私はその手をとる。小さく震える指先を包むように。

 そして彼女だけを見ながら、彼女の歩く道に続く。

 今日は青空だけが、どこまでも綺麗だった。

 

           ◇

 

 街の中を歩く。喧騒が耳に入っては過ぎ去り消えていく。

「どこへ行くの?」

「最後の思い出づくり。けど場所までは決めてないの」

 そう、と私は精一杯のやせ我慢を吐いた。

 この街の中ではきっと、私の声はあっという間に溶けてしまったろう。

 ただただ2人だけで行く街並みは、活気に満ちた無表情で、空虚なほど溢れた人の群れの流れの中を泳ぐ私たちは、そんなものに目をくれることはない。

「ん…」

 ふと私の耳は、そんな取るに足らない騒々しさの中で、ある異物の唄を捉えた。

「これ…」

 茜も気づいたみたいで足を止めた。

 道の脇に置かれた黒い音の箱。向かい合って座る青年は、白い鍵盤の上で指の大円舞を華麗に演出させる。

 人だかりの中で、ステージのようにピアノの周辺だけに誰もいない。

 彼の、彼だけの舞台が、何もなくそこにあった。

「…茜」

 私が声をかけた彼女は、潤んだ目でそれを見ていた。

 羨望の籠った、けれど諦観も含んで、悲哀も共にある、そんな目だった。

「行こっか」

 見るに耐えかねて私は言う。それでも彼女は微睡のような呆然のなかで、ピアノに目線が縛られているから、私はくいと手を引いた。

 それでようやく彼女は解放されたようで、自分の目を私の目に逃がした。

「行こ?」

 私がもう一度言うと、彼女はこくりと小さく頷いて、今度は私が先導してその場所を共に去った。

 小さく震える手の理由が、ただ一つだけではないことは、私には明白だった。

 

           ◇

 

 騒々しさの海から這い出てきた私たちは、また当てもない放浪に身を委ねていた。

 閑静な街並みの中を、茜を連れて流れて行く。

「どこに行くの?」

 不安そうに茜が聞いてきた。

 私が振り返ると、茜は笑っていた。

 私にはそれが作り笑いだとわかっていたが、わざと鈍感の面を被って言った。

「わからない」

 彼女は一瞬だけ驚いたような顔をして、けれどすぐに笑んだ。

「じゃあ、陽子の行きたいところに行って欲しいな」

 私は何も言えないまま、手だけは繋いだまま振り返った。

 痛々しかった。あなたの笑顔は本当に、荊のように私の胸に刺さってならない。

 

           ◇

 

 行きたいところに行く。

 とても単純な要望が、今はあまりにも難しい。

 行きたいところも行くべきところも思いつかない。

「どこに行くの?」

 同じことを聞いてきた。けど今度は少しだけ楽しそうに。

 私は少し握る手を強めるだけだった。

 答えかねたせいだ。

「そう、わかった」

 茜はそれだけ言って私に委ねる。

 2人の歩く音だけが、今の私たちの世界。

 視界の端へ消えていく街並みなんて覚えてはいない。

「本当にいいの?」

 振り向くことなく私は問いかける。

 不安を押し殺して、感情を無くした声で。

「わたしが言い出したことなのに、ダメだなんて言うと思う?」

 茜は笑みを混ぜた声で答えた。それがさも当然だとでも言うように。

「そっか」

 それ以上は何も言えなかった。

 また2人の歩く音だけが私たちを支配する。

 やがて、我知らぬ間に商店街に来ていた。人々の活気が満ちて、騒々しいというよりかは賑やかだ。

 気の赴くままに歩いて辿り着いたなら、ここが私の行きたいところだったのだろうか。

 いや、多分違う。けど、それ以上は何もわからないから、否定以外には何もしない。

 ふと私はあるものを見つけて足を止めた。

 視線の向こうにいるのは3人のクラスメイト。楽しそうに笑う同じ学校、同じ学級の女子生徒たちだ。

「どうしたの?」

 茜は気づいていないようで、純粋な声色で私に聞いてきた。

 あれを知っているのは私だけ。

 嫌なものだ。それを厭う心が私の中で溢れかえる。

 私しか知らないということが、実に嫌だ。

「こっち」

 私は茜の手を引いて、脇の道に入っていく。

 茜がそれを識る前に、私だけが識っているうちに。それが崩れない間に。

 入った小さな路地は大通りほどの賑わいはないものの、静か過ぎるわけでもなく、少し歩けばところどころの会話が聞こえては去っていく。

 私はそれに目もくれず、ただ茜を連れて歩く。

 あの3人を見せることだけは、絶対に避けたいから。

「待ってよ、陽子」

 突然茜が口を開いた。

「どうしたの、茜」

 歩みを止めて聞き返す。

「早いよ。もう少しのんびり行こう?」

 諭すように笑う茜。

 それを言われて初めて気づいた。気ばかりが先行して、茜を見ずに歩いていた。

「ごめん、茜」

「いいよ、大丈夫」

 私の謝罪に、茜は笑顔で返した。

 そして茜はまた私に手を差し出す。それを許しの明示として。

 

           ◇

 

 私たちはショッピングモールの中にいた。

 茜の手を取った後、商店街を避けながら歩いていたら、ふとそこに着いたからだ。

「ウインドウショッピング?っていうのかな、これ」

 茜が言った。

「多分」

 私が淡白に返した。

 すると茜はそっか、とだけ返して、ショッピングモールの中を見回す。

「楽しい?」

 私が聞いた。

「うん」

 茜は元気に頷いた。

 私はそっか、とだけ返して、注意を払うように辺りを見る。

 それからしばらく会話のない行進を挟んで、私だけが一歩先を行った。

「茜?」

 彼女は足を止めていた。

 その視線の先にあるのは服屋。綺麗なレディースの服が目を引く。

 彼女はそれをぼうっ、と心を置いてきたように見ていた。

「行きたい?」

 私が聞くと、茜は小さく首を横に振った。

「いいの?」

 今度は小さく首を縦に振った。

「わたしじゃあ、ああいった服着れないもん」

 小さく呟くように言うと、茜の視線はようやくそこから戻ってきた。

 そして今度は私が一歩後ろになる。

「折角だから、着るだけ着てみるとか、どう?」

「折角だもん。わたしのつまんない格好で、汚したくない」

 歩く速さの衰えぬことが、彼女の意志の強さの証明だった。

 拒む理由は知っているけど、それでも着飾る姿を見てみたかった。そんな私のわがままはそっと飲み込んだ。

 そうだ、折角なんだ。今だけは、彼女が主役なんだ。

「自分の体なんて、見たくないじゃん」

 だから私は噛み潰すように呟かれた茜の言葉を、聞こえなかったことにした。

 

           ◇

 

「はい、あーん」

 茜は私にケーキを取った、月のように輝くフォークを向ける。

 私は目を泳がせながら少し躊躇ったが、彼女の無垢な目が良心に深々と突き刺さったため、渋々それを口にした。

 甘々とした味が、フルーツの爽やかな酸味と共に口に広がる。

「美味しい?」

「うん」

 茜はへへへ、と笑った。

 食べる前は周りの目は気になったが、今は恥も後悔もない。彼女の笑顔が、彼女の満足の証左となったから。

 

 私たちは今ショッピングモールの中の、あるカフェの中にいる。

 あれから少し散策した後、茜が少しだけ休憩したい、ということで腰を下ろしたのだ。

 恐らくは茜は適当な理由で甘いものを食べたかっただけだと思うが、それを突っ込むのは今は野暮だ。

 

「これからどうする?」

 茜が聞いてきた。

「あまり考えてない。茜はどうしたい?」

 私は問い返す。

「わたしも考えてない。お揃いだね~」

 茜は笑う。

 私は一抹の呆れを覚えながら紅茶を飲む。

「わたしはしたいことないよ、実は。陽子に任せたいな。私の最期の思い出、どう彩ってくれる?」

 窓から差し込む日の光を溜め込んだ瞳が、私の首に刃を当てる。

 氷から抜いた刃物となった愛らしい笑顔が、私に選択を迫る。

「じゃあ…」

 私は目を瞑って、白刃を下ろすように頷く。

 そしてもう一度視界を開いて、彼女に言った。

「私と一緒に、歩こう?」

 

           ◇

 

 未だ青い晴天の下、茜は感嘆の笑みを浮かべている。

 とある大学の植物園。一般市民にも開放されているため、私たちのようなこの大学の学生でない人間でも鑑賞できる。

 人工的とはいえ自然の世界であるここは、彼女と平穏に過ごすにはうってつけの場所だろう。

「おー…この木は…なるほど…」

 一つ一つの植物を見ては、説明を読みながらぶつぶつと書に記すように口に出す茜。

 私もまた周りを見る。

 青く広がる芝。雄々しく生えた木。そしてところどころにある花。

 それは生命に溢れた風景。

 そう考えたなら、私たちは異物か。

「おーい、陽子ー」

 茜の呼ぶ声だ。私は足早にそちらへと向かう。

「どうしたの?」

「綺麗な花見つけたの」

 しゃがんでいる茜の側には、小さな花弁を細く連ねて咲かせた花が佇んでいた。

「ルピナスっていうんだって。綺麗でしょ。でも不思議な形の花だよね〜。あ、でもラベンダーみたいっちゃみたいかも」

 呑気な口調で茜は言う。膝に頬杖をつきながら花に笑いかける姿からは、彼女の(いた)みなんて蜃気楼のように思える。

「茜」

 茜は私に視線を投げる。無邪気で無垢な顔をした茜が、私にその光に満ちた暗い目を向ける。

「なあに?」

 茜は問う。如何なる不審もない瞳で。

 私の問おうとした言葉が喉元で支えた。ぐっと押し出そうと息を呑んで、言葉を声にしようとする。けれどまだそれは音になることを許さない。

 彼女の視線が棘となって私の心臓を突き通す。彼女の微笑みが針となって私の心を貫く。

 そしてそれは釘となって、未だ声ならぬ言葉に刺さる。

 私はもう、出てくるはずもなくなった言葉を飲み込むこともできなくなってしまったから、作り笑いを浮かべながら、嘔吐するように彼女に問いかけた。

「楽しい?」

 彼女は少しだけ驚いたような表情に移り変わって、しかしすぐに心配するように笑った。

「うん、楽しいよ」

 彼女の短く口にした言葉を私は食んだ。

 どうにももどかしくて、やり切れなくて、後ろ手にした五指が、歯軋りするように手首を握り込む。

「急にそんな質問してどうしたの?」

「なんでもないよ」

 

           ◇

 

「どうしてここだったの?」

 緑の中を歩きながら茜が問う。

「ここ、私が時々来るところなの。ちょっと物思いにふけりたいときとか、静かに本を読みたいときとかに。けど茜とは一度も来なかったでしょう?」

「だから最後の最後に連れてきたってことか。もっと早く連れてきてくれればよかったのに~」

 茜が意地悪に笑いながら肘を押し付ける。

「ごめんって。けど連れてこようにも連れてこれなかったから、こんなに遅くなっちゃった」

「…ああ、なるほど。じゃあ仕方ないね」

 諦めるように茜が俯いて、口元だけは変わらないまま言った。

 それからしばらくの無言を、瑞々しい緑の中に連れていっていた。

 風は無くて、葉は揺れることもない。ひどく静かな散歩道。

 ふと切り裂くのは茜の声。

「あ、あれなに?あの建物」

 茜の指さした先には、さして大きくはない建物があった。

 階数を重ねていないが故にいたく平で、中央の階段から横に伸びた白い壁にはいくつかの窓が、外の光を招き入れている。

「ああ、ここの図書館だよ。私も時々利用する」

「こんなところに図書館なんて、珍しい大学だね」

「キャンパスに併設されてる図書館はこれより大きいよ」

 そう言うと、茜はつぶされたカエルみたいな声を出した。

 そんなに驚いたのか。普通だと思うが。

「行く?」

 私が聞くと、茜は少し空を仰いで、

「うん」

 と答えた。

 

 図書館の中は本の紙の香りで満ちている。これがいつも私に安らぎを与える。

 部屋の中央には本棚がいくつも並列されており、その向こうの窓辺に腰を下ろせる場所がある。

 本のジャンルは多岐にわたるが、所感で言うならば自然科学や工学といった、所謂理系の本が若干数多い気がする。とはいえ私がよく読むのがそれらなので、実際のところは文理の区別をつけたなら、その比率は半々といった具合だろう。

 茜は本の背表紙を眺め歩いている。私はその後ろについて歩く。

 ここは自然科学の棚であるため、今の茜が読んだとて理解できる内容の本があるかは正味怪しいところだが、茜にとってはこういった図書館は新鮮なのか、どの背表紙も目を輝かせて見ている。

 それから茜はしばらくジャンルの間を旅して、あるひとつのところに到着した。

 茜の視線の先には一冊の本があった。

 それはある海外の小説で、ある有名な音楽家の一生を描いた戯曲の小説版…だったはずだ。タイトルを見て少し調べた程度だから、内容はあまり詳しくは知らない。

 茜はそれに手を伸ばす。だが本は棚の高くにあり、茜の身長では足りないせいか届かない。それでも背伸びをして目いっぱいに指を伸ばす。

 見ていられなくなった私は辺りを見回して台を探すが、不幸なことに目につくところのどこにもない。

 いっそ椅子を持ってこようか、そう考えた時だった。

 茜の指がその本を少し引き出した。

 茜は指の腹を押し当て、少しずつ引っ張り出す。

 なんとか4センチ程度まで出すと、茜はそれを確かに掴んで引き抜く。

 だが掴む力が甘かったか、それとも安心感から油断したか、本は茜の手からするりと抜け落ちた。

 背表紙を地に向けて、美しいほど静かに床へと引き寄せられていく。

 咄嗟に私がしゃがみこんで腕を伸ばす。

 それが間に合ったおかげか、着地だけは間一髪回避できた。

 肝の冷えた数分間だった。安堵のため息を吐く。

「はい、茜…」

 件の本を渡そうとした私は、それを見て言葉を途絶えさせてしまった。

 茜の怯えた顔。息は細かく荒く、まさしく過呼吸気味で、目は小刻みに泳いでいた。

 しかしその目に映しているのは私や本じゃない。その証左は自らの右手を強く握りしめる左手だった。

 その様子に私も呆気にとられていたが、すぐに気を取り直して茜の肩を掴む。

「茜?」

 私の呼びかけに反応しない。恐怖が離れていない。私はもう一度、強く肩を揺すって言う。

「茜?」

 二度目の呼びかけに、茜は最初は反応しなかったが、少しして私と目を合わせた。

 光のない暗い目が、光を取り戻した。

「陽子…」

 困惑と、そして恐怖の残滓に憑かれながら、茜は力なく言う。

「大丈夫…?」

 私の言葉に、茜は無理に笑いながら小さくこくりと頷いた。

 苦しそうな、泣きそうな、触れたら壊れてしまいそうなほど弱々しく、脆い笑顔で。

 私の心には棘が食い込むようだった。その様子のどこにも、安堵できる材料など一つもない。

「ひとまず、座ろっか」

 私が言う。

 茜はまたこくりと頷いた。

 彼女の手を取って、椅子のある窓辺へと歩く。

 日陰から、日向へ。

 握った彼女の手は、ひどく震えていた。

 

 その日の読書は、やけに静寂を帯びていた気がした。

 

           ◇

 

 私たちはまた、人の濁流の中にいた。

 人々の声と、無機質な電子音と、耳障りな環境音がさっきよりも喧しい。

 それでも私たちが電車に乗るためには身を浸さねばならない。幾分もどかしいが。

 だからか私は少し足早になっていた。

 音の奔流がどうも好きになれない。普段はそんなことはないというのに、今日だけは。

「陽子、早いよ~」

 茜が言う。苦笑を含ませた声だった。

 自覚はしている。けど、だから、私はここを早く過ぎ去りたかった。

 何故ならここにはあれがあるから。

 あなたの目に触れさせたくはない、あれがあるから。

 誰もいるな。そう縋るような願いと共に、私はこの濁流の中を行く。

 

           ◇

 

 一定のリズムを刻む。

 メートル単位のつなぎ目が、ここでしか聞くことのできない、小気味良い音楽だった。

 私の隣にいる茜は、私の肩に首をもたげて心地よさそうに眠っている。

 きっと、これが最後の夢だろう。行き先は聞いているから、それまでそっとしておくことにしている。

 黄金(こがね)の日を浴びる私たちの影が伸びる。黄を帯びる床を侵食する、うっすらと黒いヒトガタ。

 異物。

 そう、異物。これは異物。本来は無いのに、自然と現れる在らざるもの。

 私だ。そして、葛藤だ。

 あの時に手をとったなら、迷うことは罪だ。

 だというのにまだ、私は夢を見ている。そう、夢だ。叶わない夢だ。決して手にできないいつかの明日だ。

 左の手首をぎゅうと握る。私の中の揺らぎを押し殺すように。けど、叶わない。

 こんなもの、在らざるはずなのに、あるはずがないのに、私は卑しくも未だに縋っている。

 だとすれば、茜に不要なのは、きっと、そういうことだろう。

 

           ◇

 

 寂れた駅だった。自然に囲まれた人工物でありながら、人の残り香しか感じない。

 降りた茜は一度大きく伸びをしていた。ずっと寝ていたせいだろう。

 切符を箱に放り込んで出ていくと、出迎えていたのは舗装された道と、気持ち程度に整えられた自然の列。

「のどかだね〜、田舎特有だね」

 茜が言う。

「そうね」

 私が答える。

 淡白な返答だったが、茜は気にせずくるくると舞うように回っていた。

 瞳は空だけを吸い込んで、微笑む口元は可憐で、

 とても、死ぬ人間には思えない。

 ふと、茜は止まった。

 ただ一点だけを見つめて、水を打ったように。

 私はその視線の先を追う。

 辿り着いたのは、真っ黒な、けれどそれ故に白い鍵盤が輝く楽器。

 古ぼけた思い出から取り出したように、黄昏に佇む年季の入ったピアノ。

「ここにもあったんだ…」

 私は呟いた。こんな小さな片田舎の駅に…いや、だからこそだろうか。

 すると唐突に、しかし徐に、茜は糸に引かれるように、灯火に釣られる蛾のように、細く白い足を一歩進めた。

 水面の上を歩くように、震えるようにか細い足取りで。

 私はそれを、ただ見ているしかなかった。あらゆる意識がそれに剥ぎ取られていた。

 彼女の歩みを前に、日が翳ることさえ、私は気づくことはできなかった。

 やがて茜はピアノの前に立った。

 黒い目が落とした視線は、白い鍵が受け取った。

 瞳に写るのは懐古。そして悲愴。

 温かな哀しみ。

 走馬灯のように巡る、取り返せない思い出を慈しんでいる。

 こぼした水を掬うように、優しく撫でるような手つきで鍵に触れる。

 …二度と触ることはないと思っていた。

 また立つとは思っていなかった。

 密かに焦がれていたことが、現実になったなら…

「茜」

 私は言う。

 茜はそのほんの一瞬で意識を引き戻されたようで、ぱっと私の方を向いた。

 何が起こったかわからない顔だった。夢から覚めたばかりの子どものようだ。

 そして茜は誤魔化すように、苦笑いを浮かべながら私とピアノを交互に見る。

「茜」

 もう一度私が、柔らかい声音で言う。

 茜は私だけを見て止まった。言葉を待つように。

「弾いて」

 私が言う。願いを込めるように。

 茜は少しだけ驚いたような瞳をして、首を小さく横に振った。

「ダメ。できない。わたしには…」

「大丈夫」

 そう言って、私は茜の手を取る。小さく震える、華奢な手。

 そして私は鍵へとその手を導く。ダンスをするように腕を掬い上げ、震える手を静かにそこへ降ろす。

「ダメだよ。ダメ。わたしはもう…」

 茜は言う。絞り出したような震える声で。

 恐れるように拒む茜。だが、私は知っている。

「それでも、弾きたいんでしょ?」

 私は茜を知っている。茜の内側を識っている。

 だからこそ言う。茜が知らないふりをする、茜自身の最期の望みを。

 茜の指は躊躇った。一瞬力を入れたが、すぐに引いた。けどまたもう一度鍵に乗せる。

 迷いがある。見てとれる。そうだろう、わかるとも。けど…

「大丈夫。だってここは、私たちしかいないんだよ」

 冷や汗を一条流した顔が、私の方に静かに向かれた。

 そしてもう一度ピアノの方へと向き直る。

 手の震えは、もう無いようだった。

 

 ぽーん、と音が鳴った。夕刻の中でたった一音だけ、跳ねるように木霊した。

 今度は和音だ。何かを確かめるように、何度か鳴った。

 そして、少しだけ無音が訪れた。風さえもしんと静まって、全てが眠ったかのように、今だけは何もない。

 そんな静謐の中を茜の手は切った。両の手が鍵の上に乗る。

 幕を開けるのは、小さな音から。水玉が踊るような、軽快な音たち。

 そして雲が開けるように音が連なって、弾けるように旋律が紡がれていく。

 茜の指が鍵盤の上で舞う。自らが作り出すメロディーに包まれながら、誰よりも鮮烈に。

 その目は光に満ちていた。自分で自分が信じられない、そう言うように。きっと茜自身も思っていなかったろう、自分の指が動くなんて。

 私も正味を言えば半分はそうだった。ただピアノに触れる彼女が見たいだけだった。演奏ができるかどうかは、半信半疑だった。

 もう追憶の彼方にしかないと思っていた。もう一度出会えるだなんて、誰が思った。

 それでも、今、目の前にあるんだ。

 ぼやける視界の中で、私は確かに見たんだ。

 

 夕焼けに、伝う涙を輝かせながら、ピアノを弾く茜を。

 

 2人だけの独奏会の終幕は突然だった。

 ぴたりと音が止んだ。糸が切れた人形のように、途端に演奏が途絶えた。

 見れば、茜が顔を伏せていた。小さく嗚咽を漏らしながら。

 手を見てみれば、ひどい震えだった。指の先まで憑いていた。

「…悔しいなぁ…」

 茜が言う。崩れそうな精神の中で、唯一言葉にできたような弱々しさを帯びていた。

 そして自らの右手を強く握って、茜は言った。

「…もう…もう動かないの……もう…」

 掠れた声だった。

 大粒の涙が鍵盤に落ちる。それは皮肉のように美しく光を反射する。

「ダメだな…ほんっと…ダメだなぁ……」

 責めるように、自分自身を切り刻むように、茜は絶えず呟く。崩れ落ちないように、無理矢理にでも笑顔を作って。

「そんなことないよ」

 私は後ろから腕を回す。傷を覆うように、茜を抱きしめる。

 茜のか弱く震える手が、私の腕に縋るように触れる。

「すっごく綺麗だった」

 囁いて、またもう一言。

「だからさ、無理して笑わなくていいよ」

 その一言で茜の嗚咽が変わった。

 私の腕をかじりつくように掴み始めた。

 つい数秒前までは、どうにかして押しとどめようとして、それでも溢れ出る悲泣だった。

 けど、もう違う。誰にも遠慮することはない。何も止めることはしない。

 自分の中にあった感情を全てぶつけるように。

 それまで押し殺していたものを吐き出すように。

 ずっとひた隠していた本音を曝け出すように。

 茜はただ、ただひたすらに、泣き叫んだ。

 

           ◇

 

 赤さの増した空。道しかない光景。

 唯一の装飾はわずかに咲くたんぽぽだけ。

「はー、泣いた泣いたー」

 茜が言う。目尻は少し赤くて、拭い切れていない涙の跡が新しい。

 だがそこにもう悲嘆はなく、憑き物が落ちたように晴れた顔をしていた。

「ひどいなぁ、陽子。無理だって言ったのに弾かせてさ」

「見たかったんだもの。茜がまたピアノを弾くところを」

 砂利を踏む音だけが鳴る中で、私たちは会話する。

「まあそうだよね、わかんなくはないよ。指、潰されてもう半年くらいだっけ」

「そうね」

「痛かったなぁ、あの時は。それ以来もう思うように動かなくなっちゃって。文字書くのが精いっぱいでさ」

「そうね」

「そういえばあの時だけだっけ、目に見えるところやられたの。他はお腹とか、背中とか、たまに腕でも二の腕の上辺りとか」

「そうね」

「暴力はまあ、その程度だけどさ。机濡れてたり、ジャージが変なので汚されてたり…完全無視は当然で、そのくせありもしない噂だけは流してさ」

「そうね」

「本当、どうしてそういうところは頭回るのに、根本的なところ考えられないんだろうね。あんなことして楽しいのかなぁ、あの3人」

「本当ね」

「先生だってなんもしないでさ。見てるだけ、その場を取り繕うだけ。クラスの人はみんな見て見ぬふり。まあそうだよね、下手に関わったらなにが起きるかわからないもん」

「…そうね」

「親だってまともに取り合っちゃくれなかった。誰も助けてなんてくれなかった。無料の相談窓口とかいうのだって、綺麗事しか言わないで」

「そうね」

「陽子だけだよ、見捨てないでくれてたのは。ありがとう」

「いいよ」

 

「…陽子」

「なに」

「ひどい話してもいい?」

「ええ」

「わたしさ、言われたの、その窓口の人に。生きていたらいいことあるよって。死んだら周りの人が悲しむよって」

「ええ」

「…いいことって、なんだろうね。どんなことなんだろうね。そんなよくわからないもののために、今の辛さを我慢しろってさ、横暴だよ」

「そうね」

「それにさ」

「ええ」

「…それに、さ」

「……」

「死んだら周りの人が悲しむなんてさ…わたしのことを、どうして考えてくれないんだろってさ、思うの」

「…ええ」

「わたしが辛いのに…それなのになんで、他の人のことを考えなきゃなんないのさ。わたしのことを一切見ていないじゃない。わたしのことを全く考えてないじゃない」

「そうね…」

「本当、そんなの…あんまりだよ……」

「…」

「…ひどいね。ごめん」

「いいえ、当然だと思う」

「けど陽子はきっと、納得してないよね」

「いいえ、納得してる」

「うそだよ。わたしにはわかるもん」

「うそじゃない」

「…じゃあさ、陽子」

「…なに」

 

「どうして後ろで強く手を握りしめてるの?」

 

 私は思わず歩を止めて、組む手を緩めた。

「ほぉーら、やっぱりそうじゃん」

 茜が私より少し先を行って、そこで私に背を向けたまま止まった。

「陽子はどうしようもなくって悔しくなったとき、自分の手首をぎゅーって握る癖があるの。気づいてなかった?」

 私は思わず息を呑んだ。

 長らくの付き合いとはいえ、その観察眼には驚嘆した。

 しかし、それ故に込み上げる思いがある。

「じゃあさ」

 釘を引き抜くような勢いで言葉を発した。

 茜は私の方を見ることのないまま、顔だけを地に向けた。

「死なないでよ、茜」

 私は言う。ただ、口にする。

「私は死なないで欲しい。一緒に生きたい。ねえ、茜」

 滅裂な感情に乗せて、私は言う。

「逃げようよ。逃げられないの…?」

 茜は無言で砂利道を見つめていた。

 振り向くことはなく、茜は一度だけ小さくほう、とため息をついた。

「わたしもそれができたらいいなぁ、とは思うんだ。でもわかるでしょ、わたしたちは逃げられない。お金もないし、どこか別のところに住むこともできない。逃げられるほどの強さがないの」

 わかりきっていたことだ。私のわがままでしかないことは理解していた。

 けど、少しでも夢想してしまったもしもを、無視していられるほど傲岸ではなかった。

現在(いま)という現実に対して、あまりにもわたしたちは弱すぎた。陽子もわかってるでしょう?」

 私は何も言えなかった。ただ枯れる花のように俯くだけだった。

「けど、けど…」

 歯切れ悪く茜は言う。一度空を見てから、またすぐに砂利道に視線を落とした。

 そしてゆっくりと、砂利にだけ目を合わせながら私の方に向き直る。

 伏せられた目はなにかを秘めるように。

 俯いた顔はなにかを隠すように。

「けどね」

 顔を上げた茜。

 私は思わず息を呑む。

 

           ◇

 

 私たちの終着点。

 そこは寂れた橋。緑を進んだ奥深くにある鉄の道。

「陽子」

 私より一歩だけ先を行っていた茜は、ぴたりと足を止めた。

「さっきのわたしの言葉に嘘はないよ。けれどこれはわたしのわがまま」

 茜は橋を渡り切らない。この先に用はない。

「この先を決めているのはわたしだけ」

 橋の縁に立った茜は、暗がりに近づく空を眺める。

「けど、本音を言うのであればさっきの通りだよ」

 今一度、私と向き合う茜。

 きっと最後の対面。

 茜は微笑んでいた。

 私は…わからない。

 ただ、五指だけは我知らずまま、手首に深く食い込んでいた。

「…ああ、本当、なんだろうなぁ…全部全部叶えられたら、全部全部捨てきれずにいられたら、嬉しかったのになぁ…」

 茜は悔しそうに笑った。眉根を寄せて、強張った口角で。

「…陽子」

 風が一度吹いた。穏やかな風だった。

 涙を拭うような、慰めを施すような優しく肌を撫でる風だ。

 たんぽぽの綿毛は、そんな風に運ばれて空高くを飛ぶ。

「茜」

 私は言う。

 茜は真っ直ぐと私を見る。

「あなたの人生に、私はいた?」

 茜は一度、言葉なく頷いた。

「陽子の人生に、わたしはいてくれる?」

 私もまた、無言で頷いた。茜の目だけは外さずに。

「そう」

 茜は安堵したように言った。

 そして、腰ほどの高さしかない橋のガードによりかかる。

 澄んだ目をして、私を見つめていた茜。

「なら、よかった」

 その姿は瞬く間に消えていった。

 

           ◇

 

 私はしゃがみ込んでいた。

 目を塞ぐ袖は濡れていた。

 細切れの吐息が漏れていた。

「私も…」

 もういない彼女に、私は言う。

「私も同じだよ…」

 暗闇に閉じこもり、私は言う。

「私も一緒にいたいよ、茜……」

 誰も、何も答えない。

 ドラマのように雨は降らない。

 アニメのように風は吹かない。

 現実は、どこまでも淡白だ。

 

 やがて立ち上がった私は、空を見上げ、決心する。

 私に願いを託したあなたに。

 私に呪いをかけたあなたに。

 目一杯の花束を贈る。

 

 私にとってのそこでのさいごの思い出。

 それは、とても綺麗な落陽だった ──────




 〜よいとまけ人物紹介〜

・陽子。
 今回の狂言回し的ポジション。陽子といえば元気はつらつオ○ナミンCなキャラクターにつけられる名前の印象だけど、なぜか落ち着いた感じのキャラなってしまった。茜と対比させたいという意図があったからおよそ茜のせい。

・茜
 陽子の彼女(だったら作者が嬉しい)。最終的に死んだ人。作者なりにバックストーリーを考えているので、なんか頑張って汲み取ってください。

・陽子が発見した3人
 陽子センサー察知!標的確認!旋回行動!

・作者
 今回の裏テーマは引き算。いつもゴリゴリに描写を書きたがるので、あえて色々抜いて書いてみた。その結果死ぬほど書きにくかったので多分2度とやらない。あえて明確に描写していないところもあるので、色々考えながら読んでくれると作者が嬉しい。

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