パキパキ、踏み抜いたガラスの破片が音を立てて砕ける。一週間前までは白を基調に作られた綺麗な研究所だったというそこは、今や煤で至る所が黒くなっており、影も形もなくなっていた。
街から離れた郊外に建てられた研究所は、ここまで来る道も狭く、入り組んでいる。そのせいで消防隊の到着も遅くなり、三階建てだった研究所は一階から三階まで全てが炎に包まれたそう。
「酷いものだろう?死傷者が出なかったことが奇跡だとここに来る度に思うよ。」
振り返った先には苦々しく笑ったエゴムが立っていた。手には写真立てが握られており、ついっと少女に差し出された。
写真はここで働いていた職員の集合写真だった。中にはネリアの姿もあり、彼女の背格好が今と変わりなかったので最近撮れたものだと予想がつく。
「私の会社イム・エネゼータはエネルギー資源を開発するものでね。エネルギーと聞けば、お嬢さんは何を思い浮かべる?」
「風力とか…石油、とかでしょうか。」
「そうだね。その他にも例えば身近なもので言うと、人が立ったり座ったり歩いたりすることにもエネルギーが使われている。私たちは生きる中で日々多くのエネルギーをリソースにして生きていて、私たちはそれをつくる仕事をしているんだ。君たちが生きやすい社会を造るためにね。」
人間はこの世界をより楽しくより楽に、そして簡略化しながら生きている。そのためにあらゆるエネルギーをリソースに、車や冷蔵庫、テレビ、コンロ、電気など多くのものへと変化させながら日々を過ごしている。エゴムたちのような人たちの努力を享受しながら私たちは生きているのだ。
「だがしかし、エネルギーも無限では無い。だから私は君のような年齢の子たちや、その後に続く子どもたちが大人になった後も続くエネルギーを造りたいと考えているんだよ。」
ここはそのための研究所だった。
数ある中のたったひとつの小さな研究所だろうと他の人間は言う。気にするなと、損害は少ないと。けれどここはエゴムにとっては自分の思いの形だった特別な研究所。それが一夜にして奪われ、大切に育てていたポリゴンたちでさえ捕らえられた。彼にとってはこれ以上にない不幸だろう。
少女は彼の気持ちを考えると胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
「エゴムさん、私、頑張ります。この研究所をなおすことはできないけれど、ポリゴンたちは、まだ間に合いますから。」
「…あぁ、ありがとう。君は本当に、優しい子だね。ムクゲ殿が娘のように思うのも頷ける。」
エゴムが少女の頭を優しく撫でる。父性を感じる手の暖かみは、少女の彼への警戒心を完全に解くには十分過ぎた。
彼は優しい人だ。初めて対面した時の警戒心が嘘のように、少女は彼が善良な人間であると結論づけた。
「エゴムさん、研究所のなかを見ても良いですか?何かの手がかりもあるかも知れませんし。」
「あぁ、もちろん良いとも。」
「ありがとうございます!」
にぱりと笑う少女につられて頬が緩む。
おそらく手がかりという手がかりはジュンサーたち警察が捜索しつくしただろうが、自分自身の目でも見ておきたい。百聞は一見にしかず、とも言うし。
ポンッ
「あ、出てきちゃった。」
「おや沢山。モスノウとダンバルは前にも会ったね。」
軽快な音と共にダンバル、モスノウ、ウルガモスそして森の中ということもあり比較的涼しい故か、サンドまで出てきてしまった。サンドとダンバルはエゴムに興味津々だし、モスノウとウルガモスはいつもの如く少女にへばりついてしまう。
「す、すみません…」
「ははは、気にしないでくれ。キミはポケモンをとても大切にするとムクゲ殿から教わっているからね。それにこの子たちも君のそばだからこんなにも自由に振る舞えているんだろう。」
サンドとダンバルを撫でる手は少し不慣れで、そういえば彼はポケモンを持っていなかったなと思い出した。
時代が進むに連れポケモントレーナーという職に就く人は随分と増えた。ポケモントレーナーたちを支援する機構も潤沢になり、その最たる例がポケモンセンターだ。ポケモンセンターはトレーナーとポケモンの憩いの場であり、今や切っても切り離せない必需な存在となった。また、支援機構とは別にポケモントレーナーたちが目標に掲げ挑戦するポケモンリーグやチャンピオンリーグ、ポケモンジムなど、ジムリーダー、四天王、チャンピオンたちを監督するポケモン協会という公的機関も存在する。
そうしてポケモントレーナーが増えるにつれ、逆にポケモンを持っていない人も近代では増加傾向にあるとどこかで聞いたことがあった。
エゴムだけではなく、少女の父やムクゲもその1人であり、特段驚くことではない。今はポケモンレンタルサービスというものもあって、誰でも利用ができる。移動のためだったり、ボディガードをしてもらうためだったりと用途は様々である。
「キミはどうして今回の依頼を引き受けてくれたのかな?」
ダンバルがふよふよと浮いて研究所内を散策し、モスノウとウルガモスがダンバルを追うようにひらひらと飛んでいる。サンドは少女の腕の中にすっぽり入り込んでご機嫌で手をわたわたさせていた。
「…最初は軽率に引き受けてしまったなと、後悔していました。でもポリゴンたちの話を聞いて、私に彼らを助ける力があるなら、私の出す答えはもうYESしかありませんでした。」
サンドをきゅっと抱きしめる。抱きしめる力が強くなった少女の方を見あげて、サンドはキャッキャッと手を伸ばして頬を触り始めた。
ポケモンを守り助けるという選択が少女の前に差し出されたのならば、彼女何も考えずそれが当然の行為であるというかのように【はい】を選ぶ。それで自分が危険に晒されようとそんなことはどうでもいいのだ。私は無垢なこの存在を守りたい。その一心で少女はこの依頼を引き受けた。
「どうしてそこまでポケモンのために?」
エゴムはここまでポケモンに献身的な人間を見たことがなかった。困っている人がいれば自分が損をしても助けに行く、そんなお人好しがいることは知っているし見たこともある。
しかし少女は生粋のお人好しと言うよりも、その献身はポケモンのみに適用され、対人間には特段優しいという訳では無いとエゴムは少女を判定した。人間不信という訳でもないのにと彼は不思議に思ったのだ。
だが、エゴムの疑問に対して少女の返答はとてもシンプルなものだった。
「好きだからです。」
ほお、と思った。好き、という言葉の中にどんな意味や気持ちの大きさがあるのかは検討がつかない。けれど、その【好き】が彼女の行動理念であり、それ以上でもそれ以下でも無いのだろうとエゴムは不思議と納得してしまった。
「凄いな、君は。」
素直な賞賛だった。好きは盲目、という言葉があるがエゴムはその言葉が少女にピッタリだと思った。
好きというシンプルかつ複雑な感情は私たちに大きな影響を与える。それをエゴムは痛いほど分かっていた。
「あはは…そんなこと無いですよ。私は一度この子たちを傷つけてしまったことがありますから…」
「そうか。でも、それは生きていれば仕方ないことでもある。今君たちがこうしていることが何より大切なことだと、私は思うよ。」
穏やかに微笑むエゴムは優しさに溢れる父親のよう。少女の罪悪感を労る様な言葉は彼女に居心地の悪さを感じさせた。それを隠すように研究所内を隅々まで見回すが、目に入るのは煤で黒染めされた壁ばかり。特に何かの手がかりがあるわけでもなく、やはり素人では何が手がかりになるのか分からない。
延々と同じデザインの扉が並んでいるだけで、目につくようなものは特段なかった。
「彼は何処から入り込んだんでしょう。」
「火事の後、ジュンサーさんたちの調査で研究所の壁に穴が開けられていたのが発見された。」
「穴、ですか。」
「あぁ、それもその当日に開けられたものではなく、事前に造られていた形跡があった。」
「!それは、内部に彼の味方がいたということですか。」
「そう考えるのが妥当だろうね。」
なんという事だ。研究者の中に敵の工作員がいただなんて。
ということは相手は綿密な計画の元に今回の犯行に及んだはず。
「お嬢さん、君のような若い子を巻き込むことは本来ならば褒められたことでは無い。それでも、私は大切な家族のために、忖度はしてられないんだ。」
傍から見ればこんな小娘に放火も厭わない危険人物の捜索を依頼するなどおかしな話だろう。それでも、ホウエン地方を守るという使命を持つ少女は、ただの小娘では無い。危険など、もうとっくに覚悟はできている。
少女はにっと笑って答えた。
「大丈夫、私たちは彼より強くて凄いんですから。」