当時私は階級こそジュンサーという立ち位置だったが、日々の功績で早くも昇格の話が出ていた。
その日は雨が激しく降っていた。ざぁざぁと降る雨が、雨戸をガタガタと揺らしてうるさかったのを覚えている。数日前に起こった爆発事故の調査に私も駆り出され、警察署に寝泊まりしていた。ずっとパソコンと睨めっこしていたせいで目が疲れてくるし、何より疲れも相まって眠気が強かった。
私は頭を覚ますために土砂降りの外へ出た。酷い雨だと缶コーヒーを啜っていると、遠くの方から何かが蠢いているのが見えた。眠気の強い頭ではそれが霊的なものでは無いかと恐怖することもなく、何だアレ、くらいにしか思えなかった。いや、今思えば霊的な何かの方がまだマシだったのかもしれない。
ぼーっとコーヒーを啜る私の目の前に現れたのは、全身を土や砂や雨でどろどろになりながら、何やらでかい箱を抱えたアイツだった。缶コーヒーを落とした私に向かって、アイツはボロボロに泣きながら助けを乞うた。
「お願い、助けて……ポリゴンを助けて!!」
……………
「ネリアさん待って!」
タッタッタッと走るネリアには少女の声は届いていなかった。
小枝に引っかかって破ける裾も、擦り切れる腕も、ネリアにはどうでもよかった。ただただ、「行ってらっしゃい」と何時ものように送り出してくれた愛する父が無事でいて欲しい。その一心で、跳ね上がる心臓も乱れた息も無視してひたすら走った。息は乱れているのに、汗が吹き出しているのに、おかしいくらいに顔は真青で、身体は冷たくて、全部あべこべだ。
早くネリアを止めたいのに逃げ惑う野生ポケモンたちに行く手を阻まれて、追いつけない。たらりと落ちる冷や汗が、少女の心をかき立てた。早く彼女を止めなければ、身体に負担が…必死に呼び止めてもその声は届かない。しかし、身体が悲鳴を上げるのは、ネリアたちが思っている以上に早かった。
「ウグッ…」
べシャリ。顔から地面へ突っ込んだネリアは呻き声を上げる。胸が締め付けられたように痛い。ズキズキと内側から心臓を掴まれているようで、息が辛い。このまま、死んでしまうのかもしれない。父に会えぬまま。そう思うと恐怖で涙が浮かんだ。
「ネリアさんッ!」
蹲ったまま泣くネリアを抱き上げたのは少女だった。
自分を軽々と抱き抱える細腕に、ネリアは目を丸くした。
「はぁ…は…っ…グズ…」
「大丈夫ですか?息はできますか?」
「い、き……はっ……できな…………」
「息ができないんですね?わかりました。大丈夫です、すぐ良くなりますから」
少女はネリアを横抱きにする。ハァハァと息を荒くするネリアに、早くどうにかしなければと辺りを見回した。
ここが森で良かった。ネリアを助けてくれるポケモンがいる。
(でもまずはこの混乱をどうにかしなきゃ。)
遠くで間隔をあけて鳴り続く爆音に、ポケモンは絶えず森を逃げ惑っている。
「ウルガモス」
主人の声に現れたウルガモスは、ふわりと木の上まで浮かび上がる。
「できるだけ威力を抑えて、“虫のさざめき”」
ウルガモスは翅を震わせて音波を発生させると、周囲を飛び回りポケモンの動きを静止させて行く。野生のポケモンたちは多少混乱しているものの、これならば声が届くだろう。少女は目星のポケモンを見つけると、ネリアを抱えたまま近づいた。
「バルビート、イルミーゼ!お願い、手を貸してほしいの」
「バル?」「ミィ?」
「あなたたちの“アロマセラピー”で彼女を落ち着かせてあげて欲しい。お願いできる?」
「バルビー!」「イル!」
快諾した二匹はネリアにアロマセラピーを施していく。
見る見るうちに呼吸が整い、真っ青だった顔色も赤みを取り戻していった。
「良かった。上手くいきましたね。」
「はぁ、はぁ…何を、したの?」
「“アロマセラピー”です。本来は状態異常を治す技ですが、精神を落ち着かせてくれる効果もあるんです。今のネリアさんには、これが一番効くと思って…」
「…そう。あり、がとう。本当に、凄いのね、あなたって」
汗でへばりついたネリアの髪を拭う。
(気持ちいい…)
まるで母親に撫でられているような、優しい手つきだと思った。ネリアは母の優しさに触れたことは無い。しかし、こんな、慈愛に満ちたように触れられたら、嫌でも絆されてしまう。通りでポケモンたちもあんなにもこの子に懐くわけだ。息苦しさに閉じていた目を開ければ、心底安心したという顔をする。何ともないような声で、対応しきってみせたくせに。
「ずるいわ、貴女って…」
「ずるい、ですか?…あはは、ずるいなんて初めて言われました。ふふっ…」
「ええ、ずるい、ずるいわ。だって、わたくし…」
(貴女のこと、好きになりそうだもの…)
声には出さない。認めたくなかった。だって、会って間もない人間に好きだなんて言われれば、そういう意味で無くても困惑させてしまう。何より、はしたない気がしたから。
黙りこくってしまったネリアに、少女は何も追求せず、もう一度彼女を抱き上げた。
木陰で休ませよう。ウルガモスのおかげで野生のポケモンたちは落ち着いたが、何かあった時のためにドダイトスとサンドには護衛を頼んで。
まだ爆発音は止まっていない。ここで彼女が落ち着くまで待つ猶予もないし、これ以上彼女を無理させるわけにはいかない。先程のは父親の安否を案じたが故の発作だろうが、次は本格的な発作が起こるかもしれない。本当はこのまま病院に連れていきたいのだが。
「ネリアさん、ドダイトスとサンドが傍に居ますからここで待っていてください。何かあればドダイトスに乗って逃げてください。このまま街まで行ってくださっても構いません。どうか安静に、安全なところへ。」
ネリアを木の下に横たわらせて、ドダイトスとサンドを出す。先程のバルビートとイルミーゼも彼女の傍に居てくれるらしい。心強い。
「ま、待って!わたくしも行くわ!!」
自分を置いておくことを決定事項かのように話す少女に、講義の声を上げた。そんなのあんまりだと言うように。しかし、少女は首を横に振る。
「ッ!!どうしてよ!!」
「いけません。私はジュンサーさんでもポケモンレンジャーでも、ましてGメンでも無い。ただちょっとだけポケモンバトルが強いだけの存在です。ネリアさんを守れる保証が、無いんです。」
「そんなの、貴女も命の保証がないって言っているようなものじゃない!」
「私は大丈夫です。私には心強い自慢の仲間たちがいますから。」
「〜〜ッ!!貴女は!ジュンサーでも、ポケモンレンジャーでも、ポケモンGメンでも無いんでしょ!!??ただの
ネリアは叫んだ。力いっぱい。目の前の女の子が、まるで自分自身のことを軽視しているから。ポケモンバトルが強いから何よ。それならトレーナーの貴女も強くなるの。技を受けてもポケモンセンターで治せるの。爆発に巻き込まれても、へっちゃらなの。…そんな訳無いじゃない。
それなのに、それなのに。
目の前の女の子は、なんでもないように笑ってみせるから。どうしてか、こっちが泣きたくなった。
「ただの女の子、では無いんです。…私は、ホウエン神話に準ずるものを守る者。ホウエン地方を守るために、伝説に神話を託された者。【ホウエン神話の守り人】。
だから、ホウエンに生きる人とポケモンを守ることも、私の大切な使命なのです。」
ホウエン地方があるからホウエン神話がある。その地に根付いた言い伝えが神話を作るならば、それを広める媒体も、神話のひとつである。なんて荷が重いのだろう。でも、それが自分が選んだ道だと言うのなら、私のできる最大限を尽くそう。そう決めた。ここへ来ると決めた時から。
「なによ…それ。そんなもの、聞いたことも無いわ…!!」
「あ、あはは…まぁ、そうですよね。だから秘密にして置いてください。兎に角、私は伝説から認めて貰えるほどには頑丈ですから。ネリアさんは安心して、ここで待っていて下さい。大丈夫、エゴムさんは必ず助けます。約束します。」
彼女のまろい手を握る。どうか安心して欲しいと伝えるために。
「でも…でも…嫌よ……」
ネリアは首を振りながら訥々と言葉を零す。
「傍に、居てよぉ……ひとりにしないで……」
少女の腰に抱きついて泣いて縋りつきたかった。そうすれば、この子が傍に居てくれる可能性が高くなると思ったから。
父のことも心配だ。父が死んでじまうかもしれない、目の前のこの子も消えてしまうかもしれない、そうすれば自分は遂に独りぼっちになる。どっちも消えて欲しくない。そばに居て欲しい。だから、行かないでと泣いた。
グズグズと泣くネリアは小さい子どもそのものだった。
そんな彼女を、少女はそっと抱き締めた。まるで赤ちゃんポケモンに触れるように。
「大丈夫。誰も消えたりしません。私も、エゴムさんも、ネリアさんのそばに居ます。だから、今は行かないと。ね?」
産まれたばかりのダンバルも、寂しいと泣く時があった。その度に抱っこして、頭を撫でて、あやす様に揺する。彼女の髪を形の良い頭に撫で付けるように触れてみた。年頃の女の子相手への対応としては少し間違えている気もするが、これで彼女が安心してくれるなら良いなと思ったんだ。
「どうか、安全なところにいてくださいね。…行ってきます」
ネリアをドダイトスたちに任せ、少女は研究所へ走り出した。
【緊急警報、緊急警報。施設内にいる職員は直ちに屋外へ避難してください。繰り返します。施設内にいる職員は直ちに屋外へ避難してください。】
「きゃあああ!!助けてぇ!!」
「そっちは危ない!こっちに来るんだ!!」
「誰か手を貸して!怪我人がいるの!」
(想像以上に酷いな…)
ボーマンダに乗って上空から研究所の状況を見る。
イム・エネゼータの研究所は、本館・実験棟・実証フィールドにポケモンたちが暮らすパーク、他には風力、太陽光による発電設備がある。
火の手は研究所本館と実験棟が酷く、ポケモンたちがいるパークには火は回っていない。警報が鳴り響き、幾人かの人たちは施設外に脱出することはできているが、まだ逃げ遅れている人は多いだろう。
隣接している森に火が回っていないのが不幸中の幸いだが、多くの薬品が存在している実験棟は何時引火、爆発が起こるか分からず余談を許さない。道すがらも数回の爆発音を耳にしているし、もう既に、という可能性もある。
ジュンサーさんや救急への通報はしているが、研究所は都市部から離れていることもあり、直ぐには到着しない。
(“雨乞い”ができるポケモンがいれば…)
生憎、手持ちには“雨乞い”を使えるポケモンは愚か水ポケモンすら居ない。
不測の事態のために水ポケモンは一匹は連れていたほうがいい。何時しかミクリに言われた言葉がふと蘇る。こんなことになるなら彼の言う通りにしておけば良かった、と少女は独りごちる。もう後の祭りだが。
ボーマンダに合図して安全な所へ降りてもらう。ボーマンダはモンスターボールに戻さず、その場で待機をお願いし、少女は先に逃げ出せた人たちのところへ向かった。
怪我人も多く、突然の爆発にパニックになっている人も少なくない。
「皆さん!先程ジュンサーさんや救急に通報したので、もうすぐ助けが来ます!まずは落ち着いて、安全な場所に避難しましょう。風は西へ吹いているので、東にあるポケモンパークに避難してください。歩ける人は怪我をしている人へ手を貸してはくれませんか!」
「本当か、ありがとう!!みんな、パークへ行こう!怪我しているやつは居るか!」
「助けて!!彼、動けなくなったの!!」
「!!」
仰向けで倒れている男性の手を握る女性が、助けてと叫んでいる。女性も男性も煤で汚れているが、特に男性の方は様態が悪かった。身体の至る所にある火傷は、既に水泡ができている所もあれば、白く変色している所もある。ゼェゼェと息も荒く、人中の部分にも煤が多く付着していた。カハカハッと咳も出ている。
「彼は何時、外へ?」
「かれ、彼ね。他の人たちを、に、逃がすためにね、ずっと…研究所にいたのッ!わ、わたしも、さっき彼に、助けて貰ってッ…さっきまで元気だったのに!火の回りが、早くて、倒れてきたロッカーから、私を、守って…だから!!」
「大丈夫、落ち着いて下さい。深呼吸をしましょう。…そう、そうです。彼はその時口を布で覆っていましたか?」
「い、いえ…最初は、口をハンカチで隠してたみたいだけど、他の人に渡して…」
「そうですか。」
彼女の話によると男性が火事の現場にいた時間は長く、倒れてきたロッカーから女性を守っている。恐らく、火傷は熱せられたロッカーによる物だろう。肩から前腕にかけての熱傷が得に酷い。
「お、おい大丈夫か?」
こちらの様子がおかしいと気づいた幾人かが、少女たちに声を掛けてきた。周りをちらりと見ると、大方の人はパークへ歩き出していた。全く動こうとしない少女を心配してくれたのだろう。
「この方、酷い火傷をしているみたいなんです。何か冷やすものはパークにありますか?あと、清潔の布、又はガーゼで患部を保護したいんです。このままじゃ感染症も起こしてしまいますので。」
「あ、ああ!パークにも応急箱はある。ポケモン用の療養室もあるから、使えるものは多いはずだ。」
「よかった。では、急いでパークに運びましょう。あちらに私のポケモンが控えていますので、あの子に乗ってパークへ避難してください。」
男性を上半身と下半身で分けて持ち上げてもらい、ボーマンダの背中に乗り込む。女性は他の人の肩を借りながら歩くことはできるようだ。
「もし他にも火傷や怪我をしている人がいるなら、とにかく冷やす事と、血を止めることをして下さい。後はできる限り重症の方と軽傷の方を分けるようにお願いします。」
「あ、ああ…わかった。頑張るよ。」
「救急隊には救急車をパークの方へ向かってもらうようしているので、あと少し頑張ってください。救急隊が着けば、彼が気道の火傷をしているかもしれない、ということを伝えて欲しいんです。」
「任せてくれ!って、君はどうするんだ?」
男性が落ちないようにボーマンダと男性をロープで固定する。
「私は中に入って逃げ遅れた人を探します。…社長のエゴムさんを見た人は居ますか?」
「…オレたちは見ていない」
「分かりました。では、何処にいる可能性が高いか、ご存知でしょうか。」
「…すまない。オレたちは研修生だから、社長のことは全く知らないんだ…」
そうですか、と少女は肩を竦める。これは虱潰しに探すしか無いだろう。何にしろ、逃げ遅れた人を助けるためには研究所内を探し回る羽目にはなる。
そう少女が覚悟を決めた時、おずおずとした声が上げられた。
「わ、私、知ってるわ!」
声を上げたのは先程の女性だった。
「社長は最上階にある社長室にいるわ!」
「最上階…」
「今日は誰も近づかないようにと、昼から指示が出ていて…社長は、今おひとりで…」
昼から、という事はエゴムの姿を最後に見たのはパーク内で少女とネリアを送り出した後か。
何故エゴムは社長室に近づくなと指示を出したのかは分からない。何か込み入った事情があるのか、唯ひとりの時間が必要だったのか。
「お願い、社長を助けて…社長は、本当に優しい方なの、私たち社員のこと家族のように接してくれて…私たち、まだ社長に何も返せていないの…!!」
女性はポロポロと涙を流しながら、懇願した。
少女も、彼の人柄の良さは理解している。彼の未来に向ける慈しみも、娘への愛情も。全部本物だ。だからこそ、目の前の女性も涙を流し、無事を願う。
死んで欲しくないと、私も思う。
「約束します、社長は必ず助け出します。勿論、社長が大切に想っている、社員の方々も。」
こんな小娘が言ったとて、普通ならばただの戯言と思われるだろう。
しかし、彼らはこんな小娘に頼る他に、社長を助ける術を持ち合わせていなかった。だから、「よろしく頼む」と、少女の背中を押すように声を上げる。そんな想いを背負って、少女は火の海の中に飛び込むのだった。