吸血王女バラハンドル・マクシミリアンは今日も女に胸を差し出し戯れに杭を打たれる 作:てりのとりやき
始祖吸血鬼第六柱“星の女王”バラハンドル・エクスキューション――エクスクが放った恒星に等しき熱量は、星を滅ぼすより先に阻まれた。
止めたのはエクスクの愛娘、バラハンドル・マクシミリアン――ミリア。
種族滅殺の一撃を防ぐ代償にミリアは右腕を失っていた。本来ならきめ細やかな純白の肌に包まれた小ぶりな少女の右肩は、ぶすぶすと煙を上げて醜く焼け上がっている。
「人間なんて、所詮100年も生きられないか弱い生き物よ」
愛する娘を傷つけたというのに、エクスクの言葉に動揺は見られない。ミリアの後ろで座り込んだまま何も言えないでいる若い女、サーシャは『吸血鬼はやはり人と違うな』と場違いなことを思った。
「どうして? どうしてそんな命を守るの、ミリア」
確かな母性愛で微笑むエクスクは、ただただ純粋な疑問を言葉にする。隻腕になった少女は長い金髪の毛先が焦げているのも気にしないではっきりと言い返した。
「サーシャはあたしのものだからよ、お母様」
それは、ミリアと出会った一ヶ月前の夜にサーシャが言われた言葉でもあった。
だけど含む響きは遥かに柔らかい。所有し、所有されるだけの関係が今夜変化したからだ。
「起源を分かつ我々に、愛と呼ぶべきものは存在しないわ」
「うそよ。サーシャはわたしを愛してくれてる!」
「いいえ。それは愛じゃありません」
夜闇の中で蠱惑の笑みをエクスクは浮かべる。月光を受けて輝く黄金の髪のせいか、恐ろしく妖艶な表情で――その笑みは自身の娘ではなく、サーシャへと。
「ミリア、あなたはそこの女の欲望のはけ口にされているだけですよ」
「……っ」
――サーシャは何も言えなかった。
否定しようがない事実だからだ。自分が一ヶ月間繰り返したのは、少女の上にまたがり、少女の胸に杭を突き立て、何度も何度も槌を振るって心臓を潰しただけ。
いたいけな少女を手篭めにする下衆と何ら変わらない。ましてや、少女の実の親から見れば尚更だ。
全ては人の、醜さが生んだ歪み。
サーシャが唇を噛んで俯くのを、エクスクは嘲るようにくすくすと笑う。
「ミリアは低俗な猿を性愛の対象として愛せるんですか? 年中あなたの胸にしか興味のない外道を?」
「愛せる! だってサーシャだもの!」
啖呵を切る裂帛が、乾いた夜の空気を叩く。
サーシャは思わず顔を上げた。背中しか見えない少女の立ち姿に、二人の秘め事を否定されて苦しむ様子はなくて。
「例えサーシャが犬になっても猫になっても猿になっても何になろうと、わたし、サーシャのことずっと愛せるわ」
小さな、本当に小さな背中だ。
サーシャの腹部あたりまでしか身長がないミリアは、それでも誰にも譲れない頑なさを守れる少女だった。人がませてるとからかういじらしさを、ミリアが誇りに思っているのだと初めて知った。
その強さが陽光のように眩しく感じて、サーシャには込み上げてくる感情があった。
「……どうして」
それは恐らく、エクスクが抱いたのと同質の疑念。
何故吸血鬼の王女が、弱いだけの人間を守ったのか。
そして、
「どうして、私なんですか?」
何故……こんな愚かな女を選んだのか。
ミリアはサーシャがし続けた虐殺を愛だと言っている。サーシャにはそんなつもりがなかったというのに。
ミリアは夢見がちな乙女そのものなのだ。
「ミリアは、騙されてるんですよ。私に」
人間の残酷なあり方も、その醜悪さも絶対に理解できない。吸血鬼として世俗に汚れないまま育った少女にサーシャの心が理解できるはずがない……!
「私が、ミリアの胸を見て何を感じたかわかりますか。私がミリアに誘われるとどう思うのかわかるんですか。あなたの心臓を壊す悦びがわかるんですか!?」
「……そうね。わたしはサーシャを勘違いしてるのかもしれないわ。サーシャは弱くて、自分にだって嘘をつける人間だものね。
お母さま。サーシャは弱いの。わたしやお母様みたいに強くはなれないのよ」
純然たるルールを覆すことはできない。
人は弱い。
吸血鬼は、強い。
だからこそ二つの種に愛など芽生えないとエクスクは諭すし、サーシャはミリアの愛をまやかしと否定する。大人はミリアの幼くて燃えるような恋路を認めない――それでも、
「弱いのに、生きようとして。妹を自分で殺したせいで人生に絶望してるくせに死にたくなくて! そんな不思議な生き方くだらないと思ったわ、なんの価値があるんだろうって思ってたの!」
それでも少女は自分を捨てようとしなかった。
言葉は二人の関係を引き裂こうとする母親だけではなく、背後の女にすら語り掛けている。
「――弱くて脆くて壊れそうな泣き顔に、ドキドキしたわ」
弱いということは、愛おしいこと。
ミリアは必死に自分なりの言葉で二人に恋と愛を伝えようとしていた。
「ねえ……自分とまったく違う誰かを欲しくなったら、それは愛以外のどんな言葉で語れるというの? わたしの胸を何度も何度も突き刺した高ぶりを恋以外のどんな言葉が正すというの!」
燃えるような純情のままに。
吸血鬼の王女様は振り向いて、どこにでもいるようなか弱いだけの女へと、愛情の笑みを浮かべてみせる。
「サーシャ」
声音は蜜をまぶしたように甘く。
一目で恋をしているのだとわかるほど、少女の微笑みは可憐。
「あなたが同性でも。
あなたが男でも。
人でなくても。
犬でも、猫でも、猿であっても醜い怪物に成り果てたとしても」
ミリア。バラハンドル・マクシミリアンという吸血鬼は、やはり人ではないのだろう。サーシャはそう思う。そう感じた。
黄金よりも眩い豊かな金髪も。
真珠よりも純白の肌も。
紅玉よりも美しい紅い瞳も。
恋をする少女が持てば、神様の目だって潰すほどに素敵だ――。
「殺されても平気なくらい、愛してる」
ミリアは、恋をしている。
自分を殺し続けた女に恋をしている。
彼女の想いを止めることなど神様にだって許されないのだとサーシャは思った。そして、ミリアの力強い言葉に惹かれつつある、とことん弱いだけな自分を自覚した。
「……どうしてお前は娘を殺す」
降りかかる母親からの言葉は冷徹。
あまりにかけ離れてしまった娘の説得を諦め、娘が恋した女を罵倒する母親の顔に、それまでの余裕はなかった。ミリアが本気でサーシャを愛しているのだと分かってしまったのだろう。
「それが正常な愛か? 違う、愛ですらない狂気だ、異常で否定すべき行いだ」
殺意すら表情で代弁するエクスクは、苛烈に言葉を吐き続ける。
「世にはお前が成した悪を断じる親がいくらでもいる、娘を愛する母がどこにでもいる。お前の醜さを肯定できる者など、誑かされた乙女以外どこにもいない――それでも、どれだけの悪行であろうと構わずに、ミリアの胸を杭で潰すんですか?」
言葉はまさしく、母の情を写したそれ。本気で娘を愛しているからこそ零下の言葉で詰るエクスクに、サーシャは、ようやく小さな違和感を覚えた。
「あなたは……」
サーシャは吸血鬼の事などミリアしか知らない。そして吸血鬼とは、人間のように母から産まれる種ではない。ミリアとてエクスクから産まれたわけではないのだろう。
それでもサーシャは言葉にせずにはいられなかった。
「……あなたはどうして、人間の常識で考えるんですか」
娘を想う母の愛も。
娘の相手を値踏みするのも。
その上で娘には不適合だと罵倒するのも。
全て、人がする、人の価値観だ。
「始祖級……いいえ。そうでなくとも吸血鬼はやっぱり、人間基準に物事を考えません。なのにあなたは、どうしてそんなに、人の物差しで考えられるんですか」
永世を生きる中で、女王として国を動かす中で知ったのだと言われればそれまでのこと。
だけど――女の顔を見てサーシャは息を呑んだ。ミリアも、同じように。
「――」
火照る頬。伏し目がちの瞳。美しい女がするから殊更に眩いそれは、恋と愛に憂う乙女の顔。――サーシャの言葉が引き金になったのだとすれば、想像の発展は容易だった。
「まさか、ミリアは……」
「そうね。あの人も、100年と生きられなかった」
エクスクはあっさりと真実を認めた。
いつ、その愛を人と育んだのかなどと聞く必要もない。ミリアが27年生きているなら数十年ほど前か。彼女は始祖吸血鬼でありながら、人との間にまっとうな愛情を育み、ミリアを自身の胎で産んだのだ。
「気まぐれに人の赤子を育てたことがあったわ。人の成長は速すぎて、たった20年で大人になってしまった」
うっとりと。過去に浸る蕩けた顔は熱い言葉を漏らす。
「情熱的な……人間だったわ、彼」
「……」
「世のすべての黄金でも足りない量の愛を歌ってくれた。私だけを見てくれたわ。私を一人にしないでくれた」
おかしな、光景だった。
人を餌としか見ない吸血鬼だ。人を娯楽のための玩具としか見ない吸血鬼だ。だから人は狩人となって吸血鬼を殺すし、吸血鬼は変わらず人を殺す。
だけど今ここにいる吸血鬼の女王は、見ていると胸が苦しくなるほど愛らしい顔をして、人への想いを形にできる。
「私を愛の詩で語った人に、吸血鬼として恋をした」
人の醜さを否定した吸血鬼は、人の愛に堕ちていた。
夜の冷たさを凪ぐような柔らかさだけが空間を占めていく。だが、唐突にそんな空気をミリアが引き裂いた。
「でも、死んだのね」
確信をもって呟かれた一言には、確たる証拠があった。――ミリア本人だ。
「わたし、お父様なんて見た事ないわ」
「……そうね。永遠を人は与えられなかったから」
だから彼、死んだわ。
「流行り病だった。22年しか生きられない、弱い弱い人だった」
「……」
「私はあの人のしわくちゃになった姿を見るのが――私よりも大人になった彼を見るのが、とても楽しみだったのに。結局一人になってしまったの」
胸をそっと抑えるエクスクは、辛い過去に堪えるように瞳を伏せる。だがふいに顔を上げて自身の娘を、愛の結晶をしかと見つめた。
「……ミリア。人が生きる時間はあまりに短いのよ。そんなものを愛して、焦がれて、狂いそうになるほどはしたなく求めても、後には何も残らない」
愛は塵一つ残さないで消えてしまった。心が産めるものなどその程度で、時が経てば何もかも無価値にしてしまう。永世を与えられないというのは、そういうことなのだと、エクスクは悟ったように呟いた。
「人は、何もかもが儚いわ」
女の顔には諦観がある。愛に生き、焦がれ、それでも失った者が見せる褪せた表情。一言で言えば寂しげで、けれど……。
「それでもお母様は、お父様のこと、後悔してないんでしょう?」
「ええ。だからミリアは産まれたんですもの」
エクスクは、後悔のない最上級の笑顔で頷いた。
最愛の人から得られるものが何もなくとも生きられるだけの『思い出』は、永遠にあり続ける。その在り方を示した微笑みに――エクスクが愛したという男を、サーシャは幻視した。
ミリアの両親が作った愛のかたちを羨ましいと思えた。
「……あ、あの。私、ミリアと生きたいです」
言葉は自然と明確になる。ミリアが目を瞠った表情で振り向いた。
「さ、サーシャ……?」
「聞いてください、ミリアも」
投げかけたのは、自身ごと人類を滅ぼそうとした始祖吸血鬼だ。恐れはある。怯えもある。けれど、不思議と、怖くはない。
「私は……普通の女で、だから同性の女の子を好きになれるかなんてまだわからない。それも家族を殺した吸血鬼をなんてもっと分かりません」
少女の、炎じみて苛烈な愛に応えられるだろうか。
いずれ愛想をつかしたミリアに殺されるかもしれない。
人ではなく吸血鬼を選ぶ未来は間違いなく“暗い”。迫害と破滅しかない世界で生きる自信なんてなかった。
「でも、私はもうミリアがいないと生きていけないんです」
けれど、ミリアという決して死なない吸血鬼を失った世界で生きる自信はもっと無い。そんな醜さの表れをまっとうな言葉で正当化しようとする自分は、エクスクが言うように滅ぶべき種そのものだろう。
「だから例えミリアを生涯愛せなかったとしても……私が先に逝くその瞬間まで、ミリアに応えたい」
「サーシャ……!」
ミリアが感極まった声と共に駆けてくる。右腕を失ったというのに崩れない姿勢のまま胸に飛び込んでくるので、慌ててサーシャは少女の小さな体を抱きとめた。深く胸に額を押し付けて頬ずりをする少女が感情のままに叫んでいた。
「嬉しい! 嬉しいわサーシャ。いい子にはあとでたっぷりご褒美をあげる!」
「ご褒美、って……」
やっぱり立場は変わらないんだなあ、とつい浮かんだ苦笑を、少し離れたところからエクスクがじっと見つめていた。ハッとなって女を見れば、エクスクは冷たい顔で二人を見つめている。
「……人よりも吸血鬼を選ぶ人生は過酷ですよ。あの人も結局、私以外のすべてを捨てたわ」
「私にはもう、捨てられないものの方が少ないですから」
出会った時の殺意を張りつけた笑顔よりは恐ろしくなかった。どれだけ異形の力を持っていても、愛情で形を残そうとしたのなら、言葉は通じる気がする。
「人間。名を」
唐突にエクスクはそんなことを訊いてきた。
「サーシャです。サーシャ・アルクス」
「そう。サーシャ……」
その余韻に何を含ませていたのか。エクスクはなおも続ける。
「あなたが死にそうな時、また会いに来ます」
「……?」
「その時もしもミリアが悲しんでいたなら、あなたを選んだことを後悔していたなら……ええ、やはり人間に生きる価値はないんでしょうね」
既にエクスクに、理解不能な二人の関係を引き裂こうとした怒りはない。ただ許せない関係を、認めようとする努力があった。
「――その時私は、この星を砕きましょう」
エクスクの右肩から黄金の巨腕が現出する。
最大出力を放てば星を簡単に破壊できる力は、女の本気を示していた。
「星を愛で成立させてみなさいな」
せめて、愛で死ぬことができる生物なら。
そう言い残して、“星の女王”は夜闇に溶けるように消えてしまった。後に残されたのは半壊の住居と、右腕を焼失したミリアと、そんなミリアを抱きかかえるサーシャのみだ。
それから数日後のことである。半壊して吹きさらしになった部分を木板で応急修理しただけの家で、ぱちりとサーシャは目を覚ます。あまり眠れていないのか、女の瞳はとろんと眠たげだ。
「……おはよう、エルザ」
日課である祭壇への祈りをするよりも先に、サーシャは同じベッドで眠りこけている少女を見やった。薄い絹のワンピースに皺を作って横になる金髪の少女は、すうすうと可愛らしい寝息を立てている。
エクスクの砲撃で焼き消えた右腕はいつの間にか綺麗に再生していた。傷ひとつ残らない再生能力は、始祖吸血鬼の直系だからこそか。
「おはよう、ミリア」
少女の小ぶりな肩から外れているワンピースの肩紐を直してやりながら、吸血鬼の名を呼ぶ。その名を呼ぶのもずいぶん慣れてしまった。しばらく寝顔を観察していても起きる気配がないので、サーシャは昨日から行っている作業の続きに取り掛かることにした。
「さてと」
ベッドの横に腰を下ろす。サーシャは床に散らばったままの分厚い生地を頑丈な針でチクチクと縫いだした。昨日は裁断したところで眠くなってしまい、結局リュックが完成しなかったのだ。
リュック。元々ちょっとした外出で使うような鞄はあったが、本格的な遠出用のしっかりしたリュックは持っていなかった。サーシャはそれを大小2つ作るつもりでいる。他にも子供用のブーツや、長期間保存の利く携帯食料、鉈の整備や家屋の整理……やることはまだまだ多い。
「きゃっ」
と。一息ついたところで作業を止めたサーシャの背中に、暖かい熱の塊がのしかかった。そのまま熱の塊はもぞもぞ動いてサーシャの首の付け根に――かぷり。
「……!!!!」
腱をほろほろになるまでほぐされるような、ぞわぞわする幼い舌の動き。ざらついた味蕾に肌をこそぎ落されるようで体の芯に震えが走り、呻き混じりの悲鳴が喉奥から漏れた。
ぴったりとくっついたまま離れない体温に、耐え切れなくなってサーシャは声を上げる。
「ミリア! なんなんですかもう。びっくりさせないでください」
先ほどまでぐっすり眠っていたはずの少女が、サーシャの背中に抱きついていた。女よりも力のあるミリアに抱きつかれると、悲しいことにサーシャでは引き剥がすことが出来ないのだ。言葉で訴えるしかないサーシャが首を巡らせると、ミリアの頬は紅玉の瞳よりも赤かった。
「サーシャのうなじがいけないのよ。このヘンタイ! そんな、そんな……」
なぜかミリアは赤くなってむくれている。わなわな震えたかと思うと、また首筋に噛みついてきた。今度は八重歯を立てて、チクリと痛みを与えてくる。怒っているらしい。
「そんな、朝から体のあちこちがチラチラ見える格好して! サーシャはわたしを誘ってるの?」
「えええ?」
思わずミリアは自分の格好を見下ろしてしまった。確かに、人前に出ない時はずぼらな格好をしているのが多い。今も麻布を縫い合わせただけの雑な長衣一枚だし、動きづらいからと裾のスリットも深ければ襟もゆるやかだ。
鎖骨も太腿も背中の肩甲骨も見えてしまうのが、ミリア的に許せなかったのだろうか。背後から抱きつくミリアは耳元でサーシャに指示を出す。
「ほら! そうやって胡座かいて太もも見せつけるんだから! ちゃんと座るのよお行儀悪い! 正座!」
「なんで私が叱られてるんだろう……」
朝から元気だなあ、とぼやきながら渋々言う事は聞いてしまう。一か月前の自分なら嫌に思ったミリアからの命令も、今は驚くほど自然に受け入れられるのが不思議だった。
おとなしく正座で座り直してみると、なにやら背中に熱い視線を感じた。振り向くとベッドに寝そべる少女がそわそわしている。
「…………」
「あー」
少女の恥じらいで朱色に染まった頬が、何をしたいのか物語っていた。サーシャはベッドの方に向き直り、両手を広げる。微笑みすら浮かべられた。
「どうぞ?」
「……〜! さ、サーシャったらどうしてそんないやらしいの……?!」
そうやって人を詰りつつも、誘われればミリアはベッドから出てきて、サーシャの膝の上に小さなお尻をそっと乗せる。緊張で硬くなっている体を撫でてやるとミリアの口から心地よさそうな吐息が漏れた。
「……この膝はわたしのものなんだから、ほかの誰でも乗せちゃダメよ。わかった?」
「わかりました」
サーシャの膝の上は、ミリアの特等席だ。吸血鬼の男に襲われて以来、ミリアは隙あらば女に抱きついたり甘噛みしたりと互いの熱を交換しようと躍起になっている。
まるで、残された時間は短いのだと言いたげに。
「今日も忙しいの?」
「ええ、まあ。ミリア用の靴とかも作らないといけませんし。まだ数日かかりそうです」
「ふーん……」
「ミリアも少しは手伝ってくださいよ」
「手伝ってるじゃない。サーシャが準備で忙しいからわたしが食べ物をとってきているのよ? つまりサーシャはわたしが食べ物をとってこないと死んでしまうというわけ。親鳥から餌を与えられるのを待つだけのひな鳥よ。ふふ、今度口移ししてあげる」
そうやって作業をいったん止めて膝の上に乗せた少女と静かな時間を過ごしていると、唐突にミリアがくるりと体を回した。
そのまま鎖骨に口づけしてついばみ出すミリア。一体どちらが親鳥でひな鳥なのだろう。そう思いつつもミリアの淫らな口舌の動きを止める気は起きなかった。
「……ん」
自然と漏れた呟きは、さほど嫌がっているような声音ではなかった。自分の口から出たとは思えない程優しい響きに、変わったという実感がこみ上げる。
数秒間、ミリアがサーシャの体のあちこちに唾液の痕を残すのをじっと堪えていると、ようやく少女が体を離した。ミリアは『大事なサーシャ』の体に自分の痕跡をたくさん残せて満足げににまにましている。
「好きにしてくれて構いませんけど、これ以上跡残すのはやめてくださいね。もう体のあちこちについてるんですから」
「あら。いいでしょ? わたしのものって感じがするじゃない」
結局サーシャはミリアのもの扱いだ。それは出会った当初から恐らく変わっていない。
ただ、所有される側が拒絶したか、肯定したか。たったそれだけで関係性は大きく変わった。
これでいい。
サーシャは納得している。
「でも、あと数日もしたらこの家ともさよならなのね」
「あら。気に入ってくれてたんですか?」
「……」
茶化した言葉にミリアは取り合わない。向かい合う少女がもぞりとお尻の位置を動かして、そうしてから再度こちらを見上げてきた。
窺う視線。僅かな揺らぎ。
ミリアがためらっている。
「……よかったの?」
問いは曖昧だ。それでも分かった。
半壊の家屋を、朝の冷たい風がすり抜けていく。冬は近い。いずれ死の季節は訪れる。ふいに訪れた寒さに体が震えて、サーシャはつい目の前の少女を抱き寄せた。
その熱は、吸血鬼であろうと変わらない。暖かくて、落ち着くのだ。
「元々、定住できる性格じゃないんですよ」
家の半分ががらくた同然になってしまったのだ。再建は、山師の真似事しかできないサーシャには難しい。村の大工はサーシャを嫌う側だし、依頼できるだけの貯金もない。
だからサーシャは、ミリアと共にこの村を出るつもりでいる。
別れの挨拶も先日までに済ませてきた。
ミサには泣かれてしまったが、これでよかったのだ。
「それにわくわくしませんか? この土地を出て、二人で知らない世界を見るんです。ここにはないものを、そこにしかないものを」
旅をする。
かつて妹と父を失ったこの村から飛び出て。呪われていると蔑む者もいない世界に。
ミリアと、二人きりで。
「サーシャには、サーシャの人生があるのよ」
いつものミリアらしくない、やけにしおらしい声だった。見下ろせば膝の上の少女は少し俯きがちで、ひょっとすると吸血鬼の王女様なりに責任を感じているのかもしれないと思った。
「ミリア。私は弱い人間だから、誰かといないと生きていけないんです。あなたと過ごしてようやく気付けました」
誰も彼もが孤独だった。人によって孤独に耐えられる度合いが違って、サーシャの場合は極端に脆かった、というだけの話でしかない。
それでも――神に祈りを捧げた末に出会えたこの少女こそが運命だろう。
サーシャはこれから本格的に人間ではなく吸血鬼を選んでいくことになる。そうやって落ちぶれていく自分に恐怖はない。だって、ミリアは必ず……。
「私は24歳で、人間で、弱くて、狩人で、きっとあなたよりも先に死にます」
「――」
ミリアは必ず、サーシャを看取る立場にある。
少女は絶対に死なないのだ。有限の命を持つサーシャとは違いすぎる命。だからこそ惹かれた。だからこそ求めてしまった。狂いそうになるくらいはしたなく。
ミリアの美しい紅玉の瞳が、少しだけ揺れていた。その背が小さくふるえている。――歓喜している。
「それでも私は、あなたを必ず苦しませるのに、側にいていいですか」
エクスクは……ミリアの母親は、自分が死ぬ間際に再度来ると言う。そしてその時ミリアがサーシャを選んだことを後悔していたなら、この星ごと人を滅ぼすとも宣言した。
自分とミリアの今後が星を生かすか殺すかの瀬戸際なのだと、そういう事を言われたのだ。
だけど正直に言えば、サーシャには自分が死んだ後の世界なんてどうでもよかった。今重要なのはここにいるミリアのことだけだから。
「……わたしはわがままなオンナよ。だからサーシャはわたしの言う事、ゼッタイ聞かなきゃいけないわ」
向かい合うミリアがサーシャの体にそっと抱きつく。顔を、見せたくないのだろう。女の鎖骨に額を押し付けた少女はいじらしい言葉を続けた。
「わたしを、一人にしちゃだめなのよ」
「ええ」
「わたしと必ず一緒に寝るのよ」
「はい」
「わたしが目を覚ましたら、毎朝必ず横にいるのよ」
「わかりました」
全て簡単だと思った。だから、俯いたままのミリアに「わがままなら、いくらでも聞きますよ」と語り掛ける。きっと少女はまだ言い足りないだろうから――。
少女が顔を上げる。
辛苦の眼差しだった。
「目が覚めたら、死んだ妹じゃなくてわたしの名前をいちばんに呼んで」
笑顔が、凍った。
「――」
「今ここにいるのは、あなたの妹じゃないのよ」
声音に潜む小さな棘が、嫉妬しているのだと示していた。何に? ――全てにだ。
ずっと、聞いていたのか。今朝も眠ったフリをして。
「わたしがいるの。だから、わたしがサーシャの一番じゃないと嫌」
どれだけサーシャがミリアを受け入れても。ミリアがサーシャを愛しても。
女の心にあり続けていたのは、殺してしまった妹の心臓だ。
「わたしを見て? ここに、いるのは。あなたを溺れるくらい愛せるのはわたしだけよ。だから……だから……」
――だから、愛しい愛しい妹を、もう一度殺せ。
それは死んだ者と残された者とを引き裂こうとする酷な願いだった。呆然とするサーシャの様子に堪え切れなくなったのか、ミリアが潤んだ瞳で上目遣いをする。
甘い媚びの眼差しは、嫌いにならないでと素直に告げていた。
「わたしだけのサーシャなのよ。だからわたしも、サーシャだけのわたしよ」
「私、だけの……?」
「サーシャはもちろんわたしのものだけど、わたしもサーシャのものなのよ」
少女の膝がわずかに伸びる。しなやかで柔らかい体が動いて、サーシャの唇へと近寄る。
触れた少女の唇は、少しだけ乾いていて、チクチクした。
あんなにキスの痕をつけるからだ。
「――」
「……」
口づけはせいぜい数秒のこと。ミリアは唇を離してそのまま女の耳に囁く。
「心臓も唇も胸もあそこも全部サーシャにあげる」
「――」
ミリアが与えられるのは、それだけなのだろう。だけどその身ひとつだけでサーシャを溺れるくらい満足させる自信があると、少女の決意で引き締まる表情が物語っている。
「覚悟して」
自身の膝に腰を下ろす、柔らかくて軽い体温。
美しい顔立ち。
至宝よりも眩い髪に肌に瞳。
幼くてあどけなくて、ませていて、ひたすらに美しい吸血鬼よ。
「わたししか見えないくらい、満足させてみせるんだから」
静かに、瞼を下ろす。
暗闇の中でサーシャは妹の笑顔を思い出そうとした。
けれど、大事に思っていた妹の顔立ちはどこか曖昧で、ぼやけていて。
――ああ。
心の中で呻き、理解した。理解するしかなかった。
今ここにいるミリアを選んだ瞬間から、妹なんかは忘れてしまったのだと。
人は形ある愛のためなら、過去すら捨てる醜い生き物だった――。
それでいい。
そんな弱さを、愛してくれる吸血鬼がいるなら。
そうしてサーシャは妹を最後にもう一度だけ殺した。
目を開く。
映るのは、可憐な吸血王女のみ。
ふいに沸き上がる衝動を堪えきれず、槌と杭へと手を伸ばし――。
45本目の夜に、村を出た。
320本目は愛を確かめ合った後にした。
913本目を二人は誰もいない山小屋でした。
2055本目の頃、ミリアは美しい女に成長した。
5021本目の翌日、サーシャとミリアは狩人に命を狙われた。
10105本目のために、二人は誰も近寄らない山奥に家を建てた。
12124 本目が終わった時、サーシャは老いを自覚し、残された時間を知った。
20253本目の後、サーシャ・アルクスは死んだ。
それから永劫の時が流れても星は廻っている。
<終>