「きっとこの世は賽の河原よ。どうしたら、三途の川を渡れるのかしらね?」
床の上に押し倒されて、両手を押さえつけられたまま、
「そのふざけた戯言が、自殺の言い訳って受け取るよ?」
声に怒りが滲む。
自分とは似ても似つかない賢しい姉。なのに彼女は自分の首を掻き切ろうとして、美陽に取り押さえられていた。
「何か言ってよ……ッ!」
苦悩でも、八つ当たりでも、懺悔でも、何でもいい。
自死を選んでしまうような、納得できる理由を言って欲しかった。
その上で、自分に助けを求めて欲しかった。美陽には、知影を支えられるなら、どんなことだって手伝う用意はできているのに。
けれどそんな覚悟は。
───おねーちゃんには全然伝わってなかったんだ。
唇を噛み締める。痛みを感じていないと、美陽の方が死にたくなってしまいそうだった。
だからすべての感情を、怒りで塗り潰してしまう。激情のまま、グッと、姉の両手首を握り締めた。
痛いだろう、と思う。力の限り締め上げているのだ。痛くないはずがない。
けれど、自分から死のうとしたばかりの人間に、何の制約も課さないなんてありえなかった。
せめて理由を、理知的に説明してほしい。
もう理性は戻ったから、衝動的な真似はしないと安心させてほしい。
けれど知影は、警戒が馬鹿らしくなるほどに全身から力を抜いている。ただジッと、美陽の瞳を覗き込んでくるだけだ。
「…………っ」
その瞳が───こわい。
意地でも怒りを持続させないと、知影の放つ雰囲気に呑まれてしまいそうになる。
知影の左眼球は先天的に欠損している。空っぽの左眼窩と同じくらい、今の知影の右目は深く闇を湛えていた。
その闇に、臆してしまいそうになる。
知影は生きることに一筋の希望も見い出していないと、ひと目見ただけでわかってしまう。
昨日とは───まるで別人だ。
「積み上げても積み上げてもすべてが無に帰してしまうなら、何もしない方が利口じゃない? なら初めから、生きるのを辞めてしまうのが最善策じゃないかしら」
それすらも私にはできないのだけどね、と知影は唇を吊り上げた。
自嘲、したのであろう。
美陽が察しなければ通用しないほど、あまりにも不格好な笑みだった。
「自殺が失敗するのは当たり前でしょ。おねーちゃんが死ぬなんて、あたしが許すわけないじゃん」
ハ、と知影の嘲りが美陽へと向けられる。
「たまたま瓦礫が私の身体にぶつかっただけで偉そうに」
本来なら、お前は間に合うはずもなかったのだ、と言外に言われてしまう。
「そんなこと───」
ない、とは言い切れない。
姉の凶行を止められたのは、正直言って偶然だった。
元々その瞬間、美陽は熟睡していたのだ。姉の部屋から攻撃魔術の励起を感じて飛び起きて、思考を巡らす暇もなく反射的に部屋を隔てる壁を力尽くでぶち抜いていた。
そうして姉の部屋に押し入ると、知影が自分の首を掻き切ろうとしている最中だった。
目を疑った。美陽の時間が凍りついた。ただでさえ起き抜けなのだ。目の前の光景が信じられず、まだ夢を見ているのかと疑った。
その明確な空白を、知影は嗤っているのだろう。
美陽が知影に飛びつけたのは、勢いよく吹き飛んだ壁の破片がたまたま知影に命中したからだ。おかげで知影の手が止まった。その間隙が生まれたからこそ、美陽は知影の手から凶器を払い落として、彼女を押し倒すことができたのだ。
───それを偶然の賜物だと言われてしまえば。
美陽には返す言葉も無い。
「なんで急に、死のうとしたの?」
「死にたいから。それ以外に死を選ぶ理由なんてあるの?」
「だから、その死にたくなった理由を聞いてるんでしょ!」
「美陽にはわからないでしょうけど、死ぬのってね」
とっても気持ち良いものなのよ、と知影は言う。その表情に、美陽は怯んだ。
暗がりのようだった知影の灰色の瞳が、その瞬間だけ恋する乙女のように輝いていた。
「頸動脈を切るとね、リスカ程度では得られない量の脳内麻薬が分泌されるの。早鐘になった心臓にもっと生きろって鞭を入れて、でも血が抜けてるんだから血圧は下がる一方で。極寒の熱湯風呂に浸けられてるような、そんな矛盾した酩酊感に酔えるのよ」
「ちょっと、待って、おねーちゃん」
「私が世界から薄れて、拡散するの。苦しみも悩みも、肉体という重しすら捨てて、すべてとつながって、すべてが理解できる感覚があるの。死はね」
終点で、解放で───全能なのよ、と知影は蕩けた笑みを浮かべた。
かつて体験した出来事を何度も反芻しているような、うっとりとした視線。この世ではないどこかへ思いを馳せる暗い熱量に、今度こそ美陽は知影から目を逸らした。
どう取り繕うとも、知影は精神の均衡を欠いている。
知影は、死に───魅入られている。
その姿が、見ていられなかった。
「もういい。黙って」
美陽には、そう訴えるのが精々だ。
どうして、と思わずにはいられない。
「昨日寝るまでは普通だったじゃん。わざわざお嬢様を説き伏せてお屋敷出てさ。二人暮らしの準備までして。〈学院〉に通うこと、おねーちゃんだって結構楽しみにしてたはずでしょ」
それがどうして、よりにもよって入学式の朝に死のうとするんだ。
「昨日?」
知影の口角が上がる。彼女の言葉には、馬鹿にするような響きが籠っている。けれど、美陽に向けられた言葉でないことは伝わった。
知影の感情の矛先は───どこを、向いているのだろう。
「覚えてないわ。そんな───昔のことなんて」
けれど美陽が知影の内面を探る前に、表出していた感情は凪いでしまった。もう知影の顔色は、死人と紛うほどに何の相も写していない。
ふと、気がついた。
知影に何もさせないように、美陽は彼女の両手を掴んでいる。その手首から感じる脈拍が、いつもよりも弱々しい。
ただでさえ普段から青白い肌が、血の気が引いて病的に白くなっている。
か細い呼吸も乱れていて、うっすらと脂汗を流していた。
美陽は知影が落ち着くまで、何もさせないつもりだった。けれど何もしないからこそ、知影は緩やかに死へ近づいている。
姉は───とても虚弱なのだ。
もしも世界に魔術が無ければ、知影は一生を病院で過ごしていたはずだ。そう思ってしまうほど、本来の姉の身体は弱々しい。
「おねーちゃん!? 強化と治癒の魔術、今すぐ再開して! じゃないと───」
死んじゃうよ、と美陽は間の抜けたセリフを口走りかけた。
これから死に赴こうとしている人間が、自分の延命措置などするはずもない。
咄嗟に、美陽は知影から手を離した。
右手で剣を模し、左手で模した鞘で包む手印───不動剣印を結ぶ。
「『ノウマク・サンマンダ・バサラダン・センダンマ───』」
美陽は不動明王の
慈悲の心によって生きとし生けるものを苦しみから救済するまじないの一つ。
立ち所に、知影の面差しに血色が戻った。
───抵抗、されるかと思ったのに……。
知影は気怠そうに天井を見上げるばかりで、身動ぎひとつしようとしない。
生きるも死ぬもどうでもいい。知影の態度は雄弁にそう物語っている。
「お願いおねーちゃん。約束して。……ううん、約束じゃ弱いよね。もう二度と自分の命を投げ出さないって、あたしと
「馬鹿ね。
その通りだと、美陽は知影の言い様に歯噛みする。
「じゃあ、どうすれば思い留まってくれるの!? あたし、何でもやるよ。おねーちゃんの考えが変わった切っ掛けが、何かあるはずでしょ。それを、教えて。絶対、どうにかしてみせるから」
「意味が無いわ。たとえ三千世界を焼き尽くしたってね。どうせ、無かったことになるんだもの」
知影の投げやりな声音に、美陽の目頭が熱くなる。
こんな知影は見たくなかった。こんな姉の姿は見ていられない。
───生きることを諦めるなんて。
美陽が敬愛して追い続けた背中が、ひどく見窄らしく丸まっている。
到底、美陽には認められない光景だった。
「なら、おねーちゃんを死なせないためだけに、あたしは生きるよ。また自傷するようなら、あたしが先におねーちゃんの両手を斬り落としてやる。おねーちゃんが自分に魔術を使わなくたって関係ない。あたしの
「そうしたいならすればいいじゃない。どうせ私に───」
明日は無いのよ、と知影は言った。
「昨日だとか明日だとか、やけにこだわるね」
根拠はない。ただそれが姉にとってのキーワードだと確信した。
「だったら、今日一日をあたしにちょうだい!」
必死に言葉を紡ぐ。どうにかして、姉を現世に繋ぎ止めなくてはならない。美陽の頭の中はそればかりでいっぱいだ。
自殺が未遂で終わってしまった姉には、もうすべてがどうでもいいのだろう。美陽が何か提案したところで、拒否はされまい。
案の定、いいわよ、と知影は即答した。
「今日をあなたにあげる。零時の鐘が鳴るまでは、あなたの魔法にかかってあげるわ」
「シンデレラを気取るなら、華やかな場に出席してみたいって希望のひとつくらい用意してからにしてくれない?」
軽口を叩きながら、美陽の頭は忙しなく回転していた。
───猶予はできた。
けれどそれだけだ。美陽が目を離してしまえば、その瞬間にも知影は死んでしまいかねない。そんな雰囲気を、ずっと知影は放っている。
まずその姿勢を、美陽は打ち崩さねばならない。
そのためには。
何を───すればいいのだろう?
どうすれば、姉の心を動かせるのだろう。姉が思い留まってくれるには、何をすればいいのだろう。
「───旅行に、行こう。今から。ふたりで」
口を突いて出たのは、いつか知影と二人でやってみたいと思っていた美陽の願望。
「今から? 入学式をサボって?」
「うん!」
突飛すぎたかと後悔してももう遅い。美陽が力強く頷くと、知影はふっと笑みをこぼした。呆れたような、けれど今日初めて見る、穏やかな笑顔だった。
「馬鹿みたいね。……でもそれは、私もまだしたことが無いわ」
何が知影の琴線に触れたのかはわからない。それでも少しだけ、知影の気分は上を向いたようだった。
その様子を見て、ようやく美陽は胸を撫で下ろすことができた。
◇
正直言って。
姉が「もう死にたい」と泣く日が来るのを、美陽は心のどこかで恐れていた。
姉の身体には、足りていないものが多過ぎる。
美陽は馬乗りになるのをやめ、知影の上から退いた。落ち窪んだ左眼窩が遠退いて、ネグリジェを着たままの姉の全身が目に映る。服の裾から伸びているのは左足の一本だけで、右腿の半ばから服が不自然に凹んでいる。
生まれつき、左目と右脚が欠けていた。
床の上で扇状に広がった知影の長い髪は、老人のように真っ白だ。瞳は鮮やかさを取り払った灰色で、肌も印刷エラーで吐き出されたコピー用紙のように白い。
幼い頃の知影が日向を何の備えもなく歩いて、夜眠れなくなるほどの火傷を負っていたのを、美陽は今でも覚えている。
アルビノというやつだ。彼女の身体には、色素というものが欠落している。
そして何より、姉は虚弱だ。
かつてはすぐ風邪を引いていた。ただの風邪で死にかけていた。体力をつけなければならないのに、食が極端に細くて、軽い運動をするための体力がまず無い。眠るための体力すら無く、七時間ぶっ通しで眠れない人が居ることを、美陽は姉を通して初めて知った。
無い無い尽くしだ。
よく生きていられると、知影自身でさえ一周回って感心していた。
知影の人生は、数多くの痛みと、苦しみと、不自由さと共に歩んだもの。
だから。
もう嫌だ、と。
もう生きていたくない、と。
そんな風に、知影が自分から命を投げ捨てようとする日が来たとしても、何もおかしくはなかった。
そして同時に。
そんな日は未来永劫訪れないとも、美陽はこの期に及んでもまだ信じている。
美陽の記憶の中に居る知影は、ずっと生きることを諦めなかった。
耐え難きを耐えて。生き難きを生きて。どんな受難も歯を食いしばって足掻いてきた。
美陽では足元にも及ばないほど速く霊力の扱いを身につけて、身体強化と治癒の汎用魔術を会得した。
美陽は今でも覚えている。
───お日さまって、暖かいものだったわね。
そう言って、日向で微笑んだ知影の顔を。
───見て美陽! やっとあなたと同じ量が食べられるようになったの!
美陽の倍の時間をかけて、空になった食器を見せてきた嬉しそうな顔を。
───おはよぅ……。美陽より長く寝れるなんて、初めてじゃないかしら。
寝ぼけ眼を擦りながら、欠伸とともに安眠できた喜びを噛み締めていた知影の顔を。
美陽は今でも鮮明に思い出せる。
文字通り死ぬような思いをしながらも、生を掴み続けてきた知影の努力が───目に焼きついて、離れない。
眩かった。
気高くて、かくありたいと憧れを抱いてしまう精神が、自慢の姉には宿っていた。
なのに。
床の上に転がる覇気の無い知影を見て、美陽は奥歯を噛み締める。わかっている。美陽の理想像と現実とのギャップに、美陽が勝手に傷ついているだけだ。本当に傷ついているのは、知影自身だというのに。
酷い妹だと自分でも思う。
これまで知影がつらそうに顔を歪める姿だって散々見てきた。
なのに美陽はまだ苦しめと、楽になるなんて許さないと言っている。
そこに知影を思いやる気持ちなんて、一欠片だって存在しない。ただ自分が認めたくないばかりに、美陽の我が儘を押し付けている。
だから知影の都合なんてすべて無視して、今日も美陽は知影を生かす。明日も明後日も、生かしてみせる。
「おねーちゃん。霊力渡すから、身体起こして」
「ん」
知影は両腕を美陽へ伸ばした。手を引っ張って、起こせと言っている。幼さを感じさせる、普段は見せない姿だ。
弱さを極めたような知影の体質も、魔術のおかげで誤魔化せている。
あくまでも、誤魔化しているだけだ。知影の虚弱体質は改善されたわけではない。魔術で現実を騙してようやく、知影は人並みの生活を送れるようになったというだけの話。
魔術が途切れてしまうと、誤魔化してきた分の反動が知影を襲う。先ほどのように、簡単に知影の容体は急変する。
何よりも致命的なことに、知影の霊力量では長時間連続で魔術を行使し続けられない。
そこを、美陽が補っている。
───霊力を求めてくれるってことは。
自殺は一旦保留にしてくれたのだろうけど。
それを喜んでいいのか美陽にはわからなくって、ぐい、と乱暴に知影の上体を起こしてしまう。すぐさま知影の隣に寄り添って、美陽は片膝をついた。流れるように美陽は知影の肩に手を回す。
美陽は知影を抱き寄せると、逆の手で知影の顎を持ち上げた。
知影の白皙が美陽を向く。吐息が触れ合う距離に、知影の唇がある。
「おねーちゃん……」
「お願い、美陽」
待ち望むように、知影が瞼を下ろした。
そして。
美陽は己の唇を、知影の唇へ押し当てた。
これは───救命行為だ。
美陽は自分自身に言い聞かせる。
身体の中で霊力を回す。丹田を中心にして、大きな渦を身体の中で描くイメージ。子供の頃、散々姉に監督してもらった霊力操作の基礎。
そこから自分の枠組みを、ほんの少し広げる。渦の内側に知影を含める。
美陽と知影の間では、霊力の減衰がほとんど起きない。一卵性双生児であることを加味しても、伝導率ほぼ一〇〇パーセントという驚異的な数字を誇っている。
あとは性魔術や房中術の延長に過ぎない。
生物の本能に基づく力は、根源的であるがゆえに強力だ。美陽と知影が一体となって溶け合うほど、美陽たちの魂は賦活する。そうなれば、水が低きに流れるように、自然と美陽の霊力が知影の中に満ちる。
それだけで知影は一日中魔術を維持することができる。楽に、息をすることができる。
だからこれは───救命行為なんだ。
美陽は心中で繰り返す。戒めるように。思い上がらないように。
「ぁ……んっ……」
けれど美陽の身体は、効率良く霊力を渡すためという言い訳をして、知影の唇の隙間に舌を捻じ入れていた。
肩を抱く手に力がこもる。姉に向けてはいけない熱が舌に乗って、知影の舌を絡め取る。
広義では自分の生命力を渡しているはずなのに、美陽が知影の存在を貪っているようだった。
やがて。
きゅっと、服の胸元を掴まれた。もう十分という知影の合図。それを結びとして、美陽は唇を離した。
「ふぅ……ふっ……」
互いの息が乱れている。知影の透明感のある肌が上気して、いつもは怜悧な瞳さえ、どろりしたと情欲で濁っている。
さっきまでの虚無を湛えたような眼差しに比べれば何倍もマシだけれど───。
「美陽……」
弱々しく、縋るように名前を呼ばれた。
───いつもと、違う。
知影は霊力の供給にキスが行われようと、ただの作業としか捉えていなかった。
なのにこれではまるで、睦言を囁いているかのようだ。
「結局私は、死にたかったわけじゃないのかも。何も考えたくなかっただけ。ただ狂いたかっただけなのね……」
「考えは改めてくれた? もう衝動的だったり、惰性で死のうとしない?」
「うん……。今日一日をあげたのだから、今日の私は美陽のもの……。なら、それでいい。ううん。結局初めから、それが一番良かったのかも」
「お、おねーちゃんが、あたしの───」
ものになるのか。
そう思うと、美陽の背筋に甘い痺れが走った。
けれどすぐに
「違う。あたしは時間をもらっただけ。おねーちゃんはおねーちゃんだよ」
「……そう。そうよね。私はあなたの姉だものね」
知影は生きる
あんなに強烈だった生き足掻こうという気迫が、すっぽりと抜け落ちている。
最優先すべきは、知影にその情動を思い出してもらうこと。横道に逸れるような感情は、今は邪魔でしかない。
「じゃあ今なら、おねーちゃんの身に何があったのか、ちゃんとあたしに説明してくれる?」
こくり、と知影は頷いた。
「そうね。これまで誰にも話したことはなかったけど、これもいい機会なのかも」
美陽は知影の言葉に耳を傾けようとしたところで、ぐっと肩に重みがかかった。
美陽を支えにした知影が左足だけで立ち上がる。知影がぴょんぴょんと跳ねて移動する様を見て、珍しいと美陽は目を丸くした。唐傘お化けのようで滑稽だから、と家の中でもあまり見せない姿だから。
知影の気がかなり緩んでいるのは嬉しいが、同時に目のやり場にも少し困る。
知影が一歩跳ぶ度に、たわわに育った双丘が激しい自己主張を繰り返していた。
ほんの数年前まで、知影は針金細工同然だったと言って、一体何人が信じるだろうか。
ベッドの
「美陽? 旅行に行くんでしょう? なら早く準備しないと。話なんて、移動時間にいくらでもできるんだから」
「え? う、うん」
「それで、具体的な目的地はあるの? 急な話だからなくてもいいけど、東西南北の指針くらいはほしいわね」
「北、かな」
一番日差しが弱そうで、暑いよりは寒い方が体温調節がし易そうだから。深い考えも思い入れもない。ただ姉の負担が低そうな地域を選んでいた。
「まだ四月の初めだし、冬の装いでちょうど良さそうね」
さっきまで死のうとしていたのが嘘のように、テキパキと知影は義足と義眼を装着した。クローゼットから、白のセーターと黒のハイウエストのスカートを取り出して、いま着ているネグリジェの裾を掴む。
「あの、着替え始める前に教えてほしいんだけど、旅行の準備って何すればいいの?」
「そうねぇ……。現金。クレカ。学生証。替えの下着とか肌着とか靴下とか。今回はまあ二セットあれば十分でしょ。あと一応生理用品かしら」
私はそのくらいしか持って行かないつもりだけど、と知影は手を止めて答えてくれる。
「ふーん、それだけなんだ。旅行の荷物ってキャリーケース引いて、何かいっぱい持っていくイメージしかなかったや」
「私は旅行って、如何に荷物を削って身軽に動くかが醍醐味だと思ってるけどね」
「逆に大荷物の人は何持って行ってるの?」
「化粧品とかスキンケア用品とか増やそうと思えばいくらでも増やせるわよ。まあ私たちはまだ学生だからそこまで化粧は必要ないし、肌の手入れなんて身体強化の魔術さえ使えればどうとでもなるしね。最悪、必要なものが出てきたら旅先で買えばいいのよ」
なるほど、と美陽は頷いた。
「おねーちゃん、なんか慣れてるよね。あたしたち家族旅行すら行ったことないのに」
「普通よ。わかったらさっさと用意しなさい」
はーい、と返事をして、美陽は風通しの良くなった壁をくぐって自室へ戻った。
───今更だけど。
マンションでこの大穴はマズいよなぁ、と美陽も動揺が引いて、冷や汗を流すゆとりが生まれた。けれどもうどうしようもないので、姉以外の困り事は頭の外へ追いやることにした。
容姿が真っ白なせいか、知影の服はモノトーン調のものが多い。
色合いだけでも双子コーデを気取りたくて、美陽が買う服もモノトーン柄に偏っている。その中から適当に着替えて、言われた通りの荷物を用意した。
準備している最中に、姉が電話で誰かと話している声が聞こえていた。荷物を詰めた鞄を手に姉の部屋に戻ると、ちょうど通話は終わったらしく、知影はベッドの上へ手にした携帯を投げ捨てたところだった。
「初日早々だけど休みの連絡は入れたから。これで一応一泊はできるわよ」
「あ、明日もなんだ。……おねーちゃん、なんか急にふてぶてしくなってない?」
「そう? ともかく、あなたもスマホは置いて行きなさいよ。誰にも邪魔されたくないし」
「困らないかな? 地図とか無くて」
「どうせ当てのない旅じゃない。目的地が無いのに、どう迷うって言うのよ」
それもそうかと思い直し、美陽も姉を真似て、ベッドの上へスマホを放った。
かつん、と知影が杖をつく。義足に何かあったときのための備えだ。知影はとっくに、いつでも出かけられる状態だったらしい。
「じゃ、行きましょうか」
最後にコートを羽織って家を出る。そこで知影に腕を組まれた。初めてのことだ。知影は一人でできることは極力自力で行って、介助や手助けは最低限しか受け取らなかった。
だから。
知影と寄り添いながら外を歩くのは、美陽にとって初めてだった。少しだけ、胸が高鳴る。
いつもよりずっと近い距離で、まずは駅を目指しましょう、と知影の声が耳に届く。
「順当に陸路で移動しましょうか。気になるものがあったら、そこで適当に下車しましょう」
「うん」
よくわかっていないまま、美陽は知影の言葉に頷いた。それで東北新幹線に乗ることが決まったらしい。
美陽は自分が箱入り娘の自覚がある。魔術師の家系に生まれ、幼い頃に両親は死んだ。殉職だった。そのあとは両親と親しい同僚だったという
当時はわからなかったが、中務家はかなりの名門として陰陽庁の重責を担っている。
美陽が思っている以上に、両親は優秀な魔術師だったらしい。
久積の家も、中務の家も、魔術を学ぶ環境は非常に整っていた。知影は嫌でも魔術を会得しなければ生死に関わる子供だったし、美陽も両親と死別した哀しみを埋めるように魔術の研鑽に没頭した。
結果として、美陽も知影もどっぷりと魔術の世界に浸ることができた。
けれどそれだけだ。
魔術以外の世界となると、美陽にはとんとわからない。
世にいる同い年の子は今日から高校生だというのに、この歳になっても美陽は公共交通機関の使い方さえわからない。
世間知らずなのだ。
駅に着いて初めて見る券売機に美陽が戸惑っていると、その横で知影はとととっと手早く機械を操作して、もうお金を入れている。なぜだか切符が四枚出てきた。その内の二枚を自然な流れで渡されたから、操作ミスではないらしい。
見比べると、乗車券と特急券とで表記が違う。どう役割が違うのかは、美陽にはわからなかったけれど。
「運が良いわね。指定席に並んで座れるなんて」
「そうなの?」
「そうじゃない? 日中で空いてることはほとんどないと思うけど」
美陽は知影に導かれるまま、駅構内を移動する。入り組んだ駅の中を大挙とした人が押し寄せるせいで、美陽にはどこへ進めばいいのか判然としない。
けれど知影は特に迷う素振りを見せないまま、しっかりとした足取りで新幹線乗り場へ辿り着いた。
「ねぇ。改札って、どっちの券入れればいいの?」
「二枚重ねてでいいわよ」
こんな風にまごつきを見せるのは美陽だけだ。姉の後ろを着いて回って、一から十まで見様見真似で知影と同じ振る舞いをしていたら、美陽は自分では何も考えないまま新幹線の座席に腰を下ろせている。
まるで美陽の人生の縮図だ。独りだったらとは考えたくもない。
美陽にとって、知影は先行きを照らす灯りのような人だ。姉が居なければ、自分の人生は悲惨なものになっていたと思う。
───周りはあたしを天才だって褒めそやすけど。
それも全部、基礎を叩き込んでくれた姉のおかげだ。
知影が居なければ、美陽は自分の才能に振り回されていたと思う。死んでいたとしてもおかしくない。
美陽は知影に霊力を渡して即物的に姉を生かしているけれど、その実不自由なく生かしてもらっているのは自分の方だ。
だから、姉が居ない生活なんて考えられない。
姉が居なくなった人生なんて考えたくもない。
本心を吐露してしまうと、知影よりも先に死にたいと美陽は思う。知影が居なくなった世界で生きていたくなんてない。
多分それは───叶わぬ夢なのだろうけど。
「もうあとは待つだけだし、続きを話した方がいいかしら?」
「話してくれるなら、いくらでも聞くけど」
「じゃあキリのいいところまで話し終わったら、次に停まった駅で降りましょうか」
静かに動き始めた新幹線に紛れて、こつこつ、と知影が座席の肘掛けを指で叩いた。
その音から意識を逸らしてはじめて、美陽は自分たちの周りに霊的な線引きがされていることに気がついた。美陽と知影だけを囲うように、結界が張り巡らされている。
「一応、内緒話だからね」
「これ、何の結界? こんな場所で使っちゃって大丈夫?」
「私たちの話し声を雑踏に溶け込ませるものよ。声は聞こえてるけど、何を話しているのかはわからない、みたいな感じね。強度は私の身体くらい脆いから、気づく人はまず居ないわ」
異常を異常と悟らせない細やかな魔術の行使は、美陽よりも知影の方がずっと巧い。
場を整え終わって、知影は遠くを見るように視線を彷徨わせながら語り始めた。
「健康な人間は健康を知らないって言うじゃない」
「知らない、かな? あたしは知ってるつもりだけど」
「それは私とフィジカルを比較した結果でしょう? じゃあ美陽は、自分の体調を顧みたことってある?」
「自分の体調は───」
振り返ったことなど無かった。
最後に風邪を引いた時期すら定かではない。姉に移すわけにもいかないから、子供の頃から予防だけはしっかり行ってきた。おかげで美陽は健康優良児として、すくすくと健やかに成長している。
美陽にとって、今日の体調は昨日と同じだ。明日の体調はきっと今日と同じだ。それがずっと続いてきた。これからも続いていくだろう。
だから自分の体調なんて、顧みる必要がない。
いや。
───死にかけたことなら、一回だけあるけれど。
美陽が自分の状況を理解する前に、知影がどうにかしてしまった。美陽には死ぬ寸前だったという意識すらなく、魔術の反動で死の淵を彷徨っていた知影のことしか覚えていない。
美陽が言葉に窮する様子を見て、知影が口を開く。
「当たり前のことを、人は一々意識したりしないわ。日常に溶け込んでしまったものを再認識することはとても難しいもの。だから人は、自分が健康であるという何の変哲もない事実を忘れるのよ」
健康な人間は、致命的に生活が破綻して初めて健康を知るのでしょうね、と知影は言った。
美陽は隣に座る知影の顔色を恐る恐る窺った。
「あの、おねーちゃん。もしもこれが恨み言なら、最初にそう言ってもらってもいい? あたしもおねーちゃんの言葉をちゃんと受け止める心の準備がしたいっていうか……」
「急に何を言い出すの? これはただの前座というか、改めて私を知ってもらう前置きよ」
「や。だって、あたしこそ健康も不安も知らずにのうのうと生きてきた側の人間でしょ。健康を知ってるおねーちゃんからしたら、そんなのが身近に居たら鬱陶しく思われてもしょうがないかなって」
「どうして私が健康を知ってるって思うの?」
「えっ? そういう流れだったじゃん。健康であることが当たり前で健康を意識できないなら、生まれつき色んなものが欠けてるおねーちゃんは、ずっと健康を意識してきたってことでしょ」
「馬鹿ね。常に頭の片隅で、霊力の残量と魔術の出力を計算してる人間が健康を知ってるわけないじゃない。生まれつき不健康な人間だって、健康を知ることはできないわよ。私が知っているのは、健康ではないという状態だけ。健康そのものではないわ」
「だからこそ、妬ましいって話じゃないの?」
「私があなたに問いたいとするなら一つだけよ。私は」
前者と後者、どっちだと思う? と、知影に訊かれた。
前者は、健康であるがゆえに健康を意識したことが無い人間のこと。
後者は、生まれつき不健康であるがゆえに健康ではない状態しか知らない人間のこと。
そのくらいの文脈は、美陽にだって読み取れる。
答えはわかり切っている。訊かれるまでもない。
「いま自分で、後者だって言ったばかりでしょ」
なのに、そんなもったいぶった言い方をするということは───。
「残念。実は私は前者なの。
健康を知るということは、日常を逸脱するほど生活が激変した証。
「そう、だったの……? でも、おとーさんもおかーさんも、おねーちゃんの身体は生まれつきだって」
言っていた。
左目も。右脚も。色素も。丈夫さも。生まれたときから欠けていた、と。
どんなに記憶を遡っても、美陽の思い出の中に五体満足だった知影の姿は無い。
「この身体は生まれたときからこんな調子よ。だから私が今の不健康な状態と比較しているのは、この世に生まれ落ちる前の状態となの。要するに、久積知影は───前世の記憶を持っているのね」
「は? 前世って───」
想像だにしていなかった突飛な告白に、美陽はポカンと口を開く。徐々に理解が追いついて、頭の中が驚愕で染まった。
「そ、それってつまり───魂に関与する魔術を使ったってこと!?」
偉業じゃん! と美陽は興奮を露わにする。
魂に触れる。魔術師が目指す到達点の一つが、この話題の中で出てくるとは思ってもみなかった。
もっと詳しい話を聞きたくて、ずい、と身を乗り出したところで。
───あ。おねーちゃん困ってるな。
眉根を寄せて言い淀んでいる知影を見て、美陽は自分が何か勘違いしていることに気がついた。
「本当に意図して転生してるやつが居るから、
「おねーちゃんも転生したんだよね?」
「したわ。魔術とか霊力が無い、西暦二〇二〇年代の現代日本からね」
「魔術が無い……? ちょうど今くらいの並行世界ってこと? 待って。そもそも魔術が無いならどうやって転生したの? 別の技術体系が発展してたってこと?」
「さあ? 色々訊きたくなるのはわかるけど、転生した原因なんて、私が一番知りたいわよ」
魂の輪郭を知っているのは、超一流と呼ばれる中でも、さらに上澄みの魔術師だけだ。
転生したと聞かされたところで、普通は与太話にもならない。
けれど、人生のほとんどを病床で過ごしていた知影が、美陽よりも浮世離れしていないところを鑑みると、嘘ではないと信じられる。
「転生経験が、おねーちゃんがずっと黙ってた秘密なんだね」
秘密にしていて正解だと思う。知影の身体が魂の存在に肉薄していると知られれば、誰に拉致されるかわからないし、どんな酷い目に遭うか想像もできない。
けれど知影は、美陽の言葉に対して首を横に振った。
「実はもうちょっと入り組んでてね。私はこの世界を───ゲームの舞台だった、と認識してるの」
「ゲーム?」
「たとえばウチのお嬢様───中務
「それは、どういう───」
「正史、と言っていいのかしらね。私はこの世界の、本来の在り方を識っている。美陽からすれば、それこそ並行世界の記録を識っていると思ってくれればいいわ。ついでにこれから三年間で起こる大きな事件のあらましも、私は識ってる」
さすがに二の句が継げなかった。魂の存在に肉薄するだけでは飽き足らず、並行世界と未来の知識まで備えている。そんな人間が居るのなら、今すぐ開頭されても不思議じゃない。
「現時点では特に示せる証拠も無いんだけど、来月になったら魔術なんて齧ったことさえ無い一般人が〈学院〉に編入してくるから、真偽はそこで判断すればいいわ。で、混乱しているところ悪いんだけど、私にだけ起こっている怪現象がまだあって」
「まだあるの!? ちょっと胃がもたれてきたかな……。消化が追いついてないんだけど」
「私はこの三年間を幾度となく繰り返してるの。四月五日午前六時、自宅ベッド。これが私のリスタート地点。美陽にとって、今日浴びる朝日は初めての経験でしょうけど、私にとっては」
もう何百回目かもわからないのよ、と知影は言った。
諦念すらも抜け落ちた透明な顔が、美陽を見ている。伽藍洞の瞳は間違いなく今朝見たものと同質で。美陽はようやく、知影の病理に触れさせてもらえた。
◇
「役割に強くこだわるようになったのは、いつからだったかしら」
薄暗がりの中。ライトアップされたトンネル水槽をくぐりながら、知影が呟く。
結局───。
詳しく話を聞いていたら、終点の新青森駅まで乗ってしまった。
知影の言葉を疑うつもりなど毛頭無いが、飛び出てくる話題があまりにも荒唐無稽で、微に入り細を穿って問い質す真似をしてしまった。
千年に渡ってこの国に霊気汚染を撒き散らす三体の大霊障を見事修祓したのだと、知影は言った。さらりと、日本魔術師の悲願を達成している。
その上で、千年前に三大霊障を創った史上最悪の陰陽師も転生を繰り返しているという。現代を謳歌している真の邪悪の討滅までも果たしたのだと。
正直言って、信じる信じないといった美陽に判断できるスケールを越えていた。
日本魔術史上における三大霊障周りの長年の謎や、美陽がその場で思いついた疑問にも、知影はすらすらと筋の通った答えを示した。
「真エンドってわかる? トゥルーエンドとも言うけど」
「まあ字面からなんとなくは。ゲームの用語だよね?」
「そう。すべての伏線が回収され、制作者の意図が詳らかにされる真の結末。そこへ私は、膨大な───本当に呆れ果てるくらいの時間と再挑戦を繰り返して」
辿り着いたの、と知影は沈んだ顔のまま言った。
それを聞いて、美陽は一つ、疑問を持った。
───おねーちゃんの口振りから察するに、できることはすべてやり遂げたみたいだけど、だったらどうして四月五日のおねーちゃんがその記憶を持ってるの?
最良の結末を見てもなお、なぜ知影は繰り返しの中に囚われているのか。
美陽のどんな問いかけにだって淀みなく答えていた姉にもきっと答えられないであろう質問。
本当に口にするのは憚れて、美陽は何か考えているフリをして沈黙を返したけれど、知影はそれを目敏く見破ったようだった。
「滑稽よね。現実にスタッフロールなんて流れるはずがないのに。大団円を迎えれば、私のループもきっと終わるって無根拠に信じ切っていたのよ」
幽霊が見えているの、と知影は言う。
「顔も名前も遺伝子情報もすべて同じなのに、もう私しか覚えていない人たち。誰かに見てもらうことも、共有することもできない過去の亡魂。無かったことにされた幽霊たちが私の中に澱重なって。私はひどく濁ってしまって。もう、前を向いているのか、後ろを向いているのかもわからなくなる」
私は今、どこに立っているのかしらね、と知影は言った。
「おねーちゃんは、ここにいるよ」
膝の上に置かれていた知影の手へ、美陽は咄嗟に手を伸ばす。
濁ってばかりだと言った知影の言葉とは裏腹に、美陽には知影がひどく澄んでいるように見えた。
真っ白な彼女が世界に溶けて消えてしまうほど儚く見えた。
知影の実在を確かめるために、無意識に彼女の手を掴んでいた。
重ねた手は握り返され、知影の頬へ持ち上げられる。知影は慈しむように美陽の手の甲へ頬擦りをする。美陽の手ばかりが熱くて、知影の白皙は血が通っていないかのように冷えていた。
「そう言ってくれるあなたのあたたかさも、直に消えてなくなるの」
「見つけようよ」
美陽は自然と口にしていた。
「おねーちゃんに叶えたい夢があるなら、あたしは何をしてでも手伝うよ。あたしの人生だって使い潰してくれて構わない。あたしでダメだったとしても、次のあたしに違うことをさせればいいよ」
そのくらいのポテンシャルは久積美陽にはあるはずだから。並ぶ者など早々いないこの輝かしい才能を、姉のために使わず誰に使うと言うのだ。
それを聞いて、知影は呆れた顔をする。
「考えて物を言いなさい。あなたが私の自殺に付き合ってくれるはずないじゃない。それとも、一緒に心中してくれるの?」
「……おねーちゃんの言うループを終わらせたとしても、それでおねーちゃんが死ぬわけじゃないでしょ。普通に先へ進み出した時間を楽しもうよ」
「先へ進むということは、死ぬようになるということよ。この閉じた環の中に居る限り、私は決して死ぬことができない。この私がよ? たとえ美陽が連続した時間を意識できないとしても、この事実はあなたにとって利益になるのではなくて? そんな環境を、あなたは本当に打ち破れるの?」
「そ、れは───」
「そこまで倒錯していないと言うのであれば、むしろ私にとって喜ばしいことだけど」
倒錯は───しているに決まっている。
たった一人残された肉親。文字通り血を分けた双子の半身。幼い頃から美陽を導いてくれた道標。そして、毎日キスで情を交わさなければ生きていけないひ弱な存在。
そんな人がずっと隣に居て、情緒がおかしくならないわけがない。
知影に死んでほしくない。知影の死に目になんて会いたくない。そんな機会を永遠に来なくするために、美陽の方が知影よりも先に死にたいとすら思っている。
知影に看取ってもらえるなら、それだけで美陽の人生は幸福なものだったと断言できる。
そんな美陽が、姉が死んでしまう世界へ背中を押すことができるのか。
「…………ごめん」
自分に問うて、できないと美陽は悟ってしまった。
いいのよ、と知影は笑う。
「別に真に受ける必要なんてない。美陽は話を聞いてくれるだけでいい。だってこれは幽霊の話だもの。幽霊なんて、世界のどこにも居ないのよ。過去も未来も幽霊よ。けれど幽霊は、居なくとも見えてしまうから。私の頭の中にだけ、居座り続けるから」
たまには誰かに、聞いてもらいたくなったのね、と知影は言った。
知影の目は色褪せた思い出を懐かしむように、どこか遠くに焦点を合わせていた。
そこへ美陽が口を挟める余地は、欠片も無かった。
そしてふたりは、終点の新青森駅に着いたのだ。
着いたのがちょうど昼時だったから、駅ビルの中にあった飲食店で海鮮丼に舌鼓を打つ。
その頃には、知影はいつもの姉に戻っていた。
食べ終わったらどこに行くかという話になり、観光案内所をぶらぶらと眺めていると、比較的近場に水族館があることを知った。
目に付いたという理由で、三十分ほど電車に揺られ、美陽は知影と水族館デートと洒落込んだ。
悠々と頭上を泳ぐ魚を見ながら、知影が呟く。
───役割に強くこだわるようになったのは、いつからだったかしら。
「役割って?」
美陽は水槽の魚から、腕を組んで歩く姉の顔へ視線を移した。
「そのままの意味よ。元がゲームの世界だとわかっていたからかしら。私にも何か果たさなければならない役目があると信じて、自分にできることを背負い込んでいったのよ」
「ループとか関係なく、おねーちゃんって昔からそんな感じじゃなかった? 持って生まれたハンデにだってめげなくて、何事にも常に一生懸命だった印象しかないよ。だからあたしはおねーちゃんはすごい人なんだって素直に尊敬したし、今だって力になりたいとは思ってる。……おねーちゃんが死に急ぐ結果にならないなら、だけど」
「そうね。だからこれは、私が自覚している以上に、もっと根深い呪いなんだわ」
順路を進む。薄闇の中、知影の白い輪郭が、水槽のライトで浮かび上がる。
その横顔はとても綺麗で目に焼き付くようだったけれど、腕を組んでくれていないとふらりと消えてしまいそうな不安も掻き立てられた。
トンネル水槽を抜けてすぐの、クラゲ水槽前で知影は立ち止まった。
「あなたは尊敬すると言ってくれるけど、私の本質はきっとクラゲと同じよ。海流任せじゃないと自力で移動することすらできないし、餌の捕食だって運任せ。そうならないよう必死に社交性があるように見せかけて、誰かからの施しに縋っていただけに過ぎないわ」
「施しだなんて……あたしはそんな上から目線でおねーちゃんに霊力を分けたことなんてないよ」
「ええ。わかってる。だから私が一人で勝手に卑下していただけ。実際、美陽に見限られるのは、とても怖かったから」
「……あたしは何があってもおねーちゃんを見捨てたりしないよ」
「知ってるわ。でも、不安がすべて無くなるわけでも、二度と湧き上がってこないわけでもないじゃない。それにそんな生き方を私は」
ひどく惨めに思っていたはずだから、と知影は述懐する。
「惨めって、どうして……?」
「あなたに好かれるように振る舞って、嫌われないように尻尾を振って、霊力を恵んでもらえる素振りを見たら喜び勇んで駆けつけて。美陽は尊敬してくれると言うけどね、実態はただの───ペットと同じよ」
愕然とした。まさか知影がそんな風に思っていただなんて、想像すらしたことがなかった。
「何それ。ずっと嫌だったの? あたしとキスしたりするの。だったらもっと早く言ってくれれば、キスみたいな略式じゃなくて、ちょっと手間だけどちゃんとした儀式として霊力を譲渡したよ」
「嫌だったわけじゃないわ。人間、一度上げた生活水準を下げることなんてできないもの。多少の代償が伴うとわかっても、仕方ないと割り切って、受け流して、身を任せる。元々、そういうことばかり上手になる大人だったのよ」
「代償って言葉選びがもう答えでしょ」
棘が含まれた声音で、頬を打つような言い方をしてしまった。
違う。喧嘩をしたいわけじゃない。ずっと苦しんで、ずっと大変だったのは姉の方だ。
知影にそう思われていたというなら、それは美陽の献身が足りていなかったというだけの話。けれど通じていると思っていた想いが一方通行だったとわかると、裏切られた気持ちが拭えない。
「だから嫌だったわけじゃないって言ってるでしょ。むしろ嬉しかったわ。美陽からキスをせがまれてる内は、私も愛されてるんだなって実感できて」
そして唐突に、知影は「ああ、なるほど」と納得の声を上げた。
「何がなるほどなわけ?」
「美陽が知ってる私は、一事が万事生きることに直結していたと思うのよ。それが生存戦略だったから。でも今は生きるも死ぬもどうでもよくなったわけじゃない? 何のために生きているのかと冷静に振り返ってみたんだけど、私は」
誰かに必要とされたかっただけなのね、と知影は言った。
「あたしはずっとおねーちゃんを必要としていたけど、あたしの愛だけじゃ、足りなかったの?」
「だから、根が深いのよ。さっきは誰かにと言ったけど、多分それは、世界にだわ」
「世界? そんな意思の無い概念に認められたかったって言うの?」
「ええ。私もあなたも、本来は存在しないキャラクターだもの。異物でもシナリオに関わっていいんだって認められたくて、たくさんの責任を背負い込んで、私に求められる役割に従事したんだわ」
聞いてくれてありがとう、と唐突に知影は礼を言った。
「タスクに忙殺されて、私自身の内省とかあんまりしてなかったから。これで多少は、私の頭の中身を解体できた。言葉にするのって、やっぱり大事ね」
「じゃあ、これからはどうするの? ゲームのシナリオってやつに従って、一番良い終わり方を見るまでやり込んだんでしょ? でもおねーちゃんがどんな役割をこなしたって、その世界ってやつはおねーちゃんに微笑んでくれなかったんだよね?」
そうね、と知影は途方に暮れたように力なく唇を歪めた。
「それはまだ考え中───だけど。もしもよ美陽。もしも、私のこの真っ白な身体をあなたの色に染めていいって言ったら、どうする?」
「…………ぇ」
水槽の明かりに照らされた灰色の瞳が、ジッと美陽を見つめている。期待で潤んでいるように見えるのは、美陽の願望の表れだろうか。
話を聞いている間、ずっと思っていた。
世界なんて不確かで曖昧なものよりも。
あたしの方が、ずっとおねーちゃんを必要としている。有象無象よりも、遙かにおねーちゃんを認めている。息の続く限り、久積知影を愛している。
「ごめん。忘れて」
けれど美陽が何かを言う前に、知影は自らの発言を撤回した。
「今のは卑怯な言い方だった。あなたが頷くしかないのをわかった上で、喪失感を埋めるのに利用しようとした。苦しいときはいつも、私はあなたにばかり逃げているわね」
そう言った彼女の瞳は、水槽の明かりだけでなく、海底に横たわる孤独感までも写し取っているようで。
「おねーちゃんになら、あたしはどう利用されたって構わないけどね」
と、美陽は自然と口にしていた。
「美陽がそう言ってくれるのを理解しているから、私は救いようがないのよ」
知影は───揺れている。
すべてを放り出して安直なその場しのぎを繰り返すのか。繰り返しにも終わりがあると信じて無明の闇を走り続けるのか。その間を揺蕩っている。
否。
姉の中でとっくに結論は出ているはずだ。意義も目的も失った姉にプライドなんて残っているはずがない。
自制心が働いているとするならば、それはきっと美陽と共に居るために被った姉という仮面のせい。
美陽が傍に居る間は、知影は姉の役割を全うしようとする。
いや、すでにしようとしているだけだ。もうメッキは剥げて、地金が顔を出してしまっている。
だから。
知影が揺れているわけではないのだ。美陽が彼女の在り方を揺らしているから、そう見えるだけ。
揺れているのは───美陽の方だ。
生き方に関する物事において、知影が挫折する様なんて見たくない。膝をついたまま諦める姉の姿を見るなんて以ての外だ。檄を飛ばして蹴り上げて、死ぬことは絶対に許さないけれど、死ぬまで走れと叱咤したい。
輝いている知影しか見たくない。美陽の知る知影はそうやって、生き難き現実と闘ってきたのだから。
姉を地獄から救い上げる手立てなんてないくせに、言葉だけは凶悪だ。
同時に。
いま知影にぬるま湯のような安寧を与えられたら、美陽の臓腑に沈殿した澱のような浅ましい欲望を、すべて受け止めてくれる気がしている。
鼓舞するか、止まり木になるか。
その二択に過ぎないはずだ。なのにどちらかを選ぶことがとても悩ましくて、悩んでいる理由の最低さに、知影の顔を見れなくなる。
必要とされたい。認められたい。愛されたい。
今の姉が求めていることは、この三つに過ぎないのに。
本当に救いようがないのは───あたしの方だ。
何か、ないのだろうか。
───あたしと、おねーちゃんだけでいい。
どこかに姉妹揃って納得できる、しあわせになる方法が残されてはいないだろうか。
気づけば水族館の出口まで歩いていた。
水棲生物よりも、知影を見ている時間の方が長い遊覧だった。
「そろそろ宿を探しましょうか」
普通はこんな行き当たりばったりな宿探しなんてしてはダメだからね、なんて言って、知影はいつもと同じ姉としての振る舞いに従事している。
旅館なら最寄りの駅を降りてから水族館までの道のりで何軒か目にした。水族館から道路を挟んだ反対側にも一軒のホテルがある。
とりあえず近いところから順番に回ってみましょうと言う知影に従って、美陽たちは正面に見えていたホテルを訪れた。
受付で未成年者の宿泊には親の同意を示す文書などが必要というようなことを言われたが、すかさず知影が〈学院〉に在籍している身分を明かし、「すみません。実習の兼ね合いで近親者にも詳しいことは説明できないんです。何かあったら〈学院〉が対応するので、学生証だけでは保証にならないでしょうか」とかなんとか嘘八百を並べ立て、二人揃って学生証のコピーを取られるだけで泊まれるようになった。
慣れた手際だった。
まだ一度も登校すらしていないのにどんな度胸だと美陽は姉を見て慄いたが、もう何百年と〈学院〉に通い続けた知影にしてみれば、今言った内容はちゃんとした規則に即した常識なのかもしれない。
夕食の予約がまだ間に合うらしいのでホテルで食べることを決め、温泉などの大まかなフロアの説明を受けた。
部屋の鍵を渡されて美陽たちはエレベーターホールへ通される。
さすが青森と言うべきか、通りがかったロビーの階段には天井からねぶたが吊され、定期的にホテルのロビーで津軽三味線の演奏会が開かれている案内を目にした。
住み慣れた街では決して見られない光景だ。如実な文化圏の違いを感じてようやく、美陽は遠く離れた土地へやってきたのだと実感できた。
あとは通された一室でゆったりとした時間を過ごす。
知影は言いたいことをこれまでの道程で言い終わったのか、窓際の座椅子に腰掛けて、のんびりと夕焼けに染まる海を眺めている。
美陽は畳の上に寝転がって、ずっと姉の身を襲っている不条理について考えていた。何か、何かある気がするのだ。打開策とは呼べないまでも、何か一石を投じるアイディアが、美陽の人生をかき集めれば閃きそうな気がしている。
けれど一向に形にはならず、無情にも時計の針が進むばかりだった。
「そろそろフロントで伝えた夕食の時間ね。行きましょうか」
姉の言葉に頷いて、美陽は知影と共に食堂のある下階へ降りていった。
ホテルで出てくる料理にも興味はあった。けれど並んだ品目は、もずくや貝類の小鉢類、刺身の盛り合わせ、固形燃料を使った小鍋のすき焼き、白米。
美味しそうではあるけれど。
中務家で面倒な集まりの時に出てくる料理と同系統か、という思いが否めなかった。連想した記憶が悪いだけだ。料理自体は美味しかった。
二人揃って食べ終わったら、さっさと部屋に引き上げた。食事の間に布団を敷いてくれたようで、美陽はその上に腰を下ろす。
知影は部屋を横切って、出る前と同じく窓際の座椅子に腰掛けた。テーブルの上に置かれたポットからお茶を淹れて、彼女なりにくつろぐ姿勢を見せている。
美陽は茫っと知影を眺めた。知影がテーブルに頬杖を突いて見つめ返してくる。特に会話は生まれなかったが、穏やかな時間がしばし流れた。
幾分か経って、美陽が口を開く。
「そういえば、温泉もあるらしいけど、どうする? 入る?」
「行ってみたいなら一人で行って。義足の扱いに困るし、広い浴場を片足で移動しないといけない瞬間があると思うとさすがに怖いしね」
「杖代わりになろうか? 中務の家に居たときみたいに」
「あんまり他のお客さんを驚かせるものでもないでしょ。私はそこまで温泉に興味無いし。……強がりとかじゃないわよ。この身体になって、衛生って言葉が重くのしかかるようになっただけでね。要らないリスクは負わないのが鉄則でしょ」
「……温泉って不潔なの?」
「……場合による、としか言えないわね。主に男性だけど、公衆浴場経由で性病を移された話とか割りと聞くし。まあ私本来の虚弱さを考えると、入らないのが無難よ」
世間知らずの美陽は、その説明だけで大浴場に行く気を無くした。
「じゃあお風呂入るとき声かけてよ。どっち道、広かろうが狭かろうが初めて入る水場は危ないでしょ」
「そうね。さっき見たけど、トイレと分かれてるし、二人一緒に入れるくらいの広さはあるのよね。……それじゃあ、今から入る?」
美陽はバスタブにお湯を張った。服を脱いで義足を外した姉に肩を組まれ、逆に美陽は知影の腰を強く掴む。
今更ではあるものの、知影に対して過保護過ぎる気もしている。知影だって生まれてからずっと隻脚なのだ。不自由な生活には慣れきっている。危険予測ができないほど幼いわけでもない。
義足だって泥でできているわけでもあるまいし、浴槽に浸かるときだけ外せば事足りる。お風呂から上がったときに水気を取るのが少し手間なだけだ。
そう理解はしているものの。
いつどこでどう死んでもおかしくないくらいに脆弱な姉だ。濡れたタイルの上で転び、そのまま頭を強く打って死ぬ。想像に難くない未来は、自然と姉妹揃って入浴することを習慣化させた。
知影も万が一を恐れてなのか、別々に入りたいと言い出すことは無かった。
おかげですっかり、美陽は知影の身体をケアすることにハマってしまった。
自分の身体はおざなりでもいいが、姉の身体を美しく保つことにこそ美陽は満足感を得ている。知影は極力自分でできることは自分でやりたがる
風呂椅子に座った姉の頭をシャワーで濡らして、さあ洗髪するぞとシャンプーを探したところで、美陽ははたと気づいた。
「そういえば、おねーちゃんシャンプーとかボディソープとかは? 持ってきてないの?」
「備え付けのがあるでしょう?」
「魔術無しだと市販品の九割がパッチテストでバイバイしないといけない人が何言ってんの!?」
ありえない、と美陽は叫んだ。
必要になって初めて思い至った美陽とは違い、家を出るときの知影はあんなに旅慣れてる感を出していたのに。
「何で持ってこなかったの? おねーちゃんなら絶対気づいてたでしょ」
姉らしからぬミスを美陽が咎めると、知影は苦笑をこぼした。
「本当に、美陽は私の身体が大好きよね」
「その言い方は語弊があるかな!? そりゃあさ、今の肉感的なおねーちゃんは愛おしくてたまらないよ。骨と皮だけでできてるみたいだった幼少期を知る身としてはね」
「うん。ありがとうね、美陽」
面映ゆく笑う知影と、鏡越しに視線が交わる。
「正直、私は私の身体があんまり好きじゃなかったのだけれど」
「それは、仕方ないよ。ハンデばっかりで生きづらいことが多すぎるもん。そんな身体を好きになれって言う方が酷だよ」
「ああいえ、もちろんそういう意味もあるけどね。まともな寝食ができるようになった途端、この身体は『女』に育ったでしょ? それがセックスアピールをして周囲に媚びないとお前は生きていけないだろって、自分の身体にすら言われてるみたいで。苦手だったのよ」
「そう、だったの? でも、どうして、そんな今更……」
「あなたが私を大切に扱ってくれたから、私はここまで生きてこれたんだなって。無自覚だったわけでも、蔑ろにしていたわけでもないけど、なんだか急に強く実感しちゃって」
改めてお礼を言いたくなったの、と知影は言う。
大切に扱うのは、何かしらの価値があるから。価値があるなら、それを活かす役割が生まれる。役割を全うしていれば、いずれ認められ愛される。
姉が語った、姉を生かしてきた原理。
そのすべてを美陽は惜しみなく満たしてきた。
「終わりが近づいてくると、この穏やかな時間が名残惜しくなっちゃった。だから最後に……昼間は自分から退けておいてなんだけど───」
突然、振り返りながら知影は風呂椅子から立ち上がった。危ない、と反射的に美陽は知影の身体を抱き留める。
互いの胸が潰れる柔らかな感触。布一枚の隔たりも無く、濡れた肌は吸い付くように離れない。
美陽にしなだれかかった知影は、
「あなたが大切に磨いてくれたこの身体、あなたの好きにしてみない?」
そう、耳元で囁いてくる。
「ま、待って。最後って何? 繰り返しって卒業式から入学式に逆戻りする感じじゃないの!?」
「ああ。やっぱり考え事してて気づいてなかったのね。私たちにはメインヒロインであるお嬢様の従者って役割があるわけ。それを逸脱し過ぎると、リセットボタンが押されるの」
「だったらなんで、先があるみたいな口振りだったの? 明日も休みにしたりとか、来月転入してくる子の話とか、全部今日で消えるってわかってたのに?」
「私もこんなサボり方をするのは初めてだったから、ひょっとしたらいけるんじゃないかなって思っちゃったのよね。特に朝はバカになってたし。でもダメね。根拠は無いけど、四月六日は迎えられない予感がする」
予感とは口だけで、知影の声には確信に満ちた響きがあった。
「本当に、ごめんなさい。今日は何も考えないで、あなたと楽しく過ごすつもりだったのに。リミットが迫ってるって思うだけで、私、もう次のことを考えてる」
「次って言ったって、おねーちゃんは一番良い終わり方を迎えたのに、まだループ現象に囚われてるんでしょ? どうするの? 他の終わり方を探すの?」
さあ? と知影は投げやりに答えた。
「エンディングなら全部見た。真エンドなんて、本来のシナリオを超えて、誰一人欠けず、文句の付けようがない最善の結果まで持って行った。これ以上私にできることなんて何も無いのに、シナリオ進行からは逃れられない。どうすればいいの? 何をすれば終わるの? どうしていつも───」
私ばっかり、と知影は急に頽れた。知影が記憶している数百年分の重みに、彼女の膝が耐え切れなくなったようだった。
裸の身体は咄嗟に掴める箇所もなく、美陽の手から滑り落ちる。知影が美陽の足下で蹲る。今朝のように侘しく丸まった背中を、シャワーから放たれた水が無機質に叩き続けた。
「今日だけは考えないようにしてたのに、もう鮮明に思い出せる。真エンド後から今朝までの私は、この虚無感と閉塞感に殺された。何をしても無意味になる中で、何をすればいいのかわからないストレスに負けて、私は自殺を繰り返したんだわ」
「繰り返した? あの自殺、成功してたの……? あたしが偶然止めるまで、何度も何度も死に続けてたってこと?」
「どうせ本当の意味で死ねないのはわかってたもの。ただ、頭を空っぽにしたかっただけ。精神的なストレスなんて、肉体のストレスの前では無いも同然なのよ。だから私は、私の身体に一番の過負荷を与えたわ」
精神的苦痛が消えるまで、最も過激な損傷を肉体に刻み続けた。その過程で、たまたま今日が始まった。
「おねがいします」
知影が美陽に乞う声は、シャワーとは違う水気を含んでいた。蹲ったままされる懇願は、さながら全裸で土下座をされているかのようで。美陽はすぐに知影の身体を支え起こそうとしゃがみ込んだ。
「私を───抱いてください」
「───え?」
「お情けでいいの。憐れみでも、軽蔑されたって構わない。久積知影が久積美陽に愛されている証をください。そうすれば、その愛を返すためだけに、私はまだ生きられると思うから」
「おねーちゃん、また極端な方向に走ってるよ。そんなことしなくたって、あたしがおねーちゃんを愛し続けてるのはもう伝わってるでしょ」
「不安が、ぶり返してきたの。解決しないといけないのに、肝心の解決策がわからない問題を考え続けるのって、心を簡単に磨り減らすの」
先の見えない真っ暗闇を、正しいかもわからず進み続ける。
それは美陽が。
───ずっとおねーちゃんに押しつけてきたことだ。
美陽は物心ついてから、姉が切り開いた道を追いかけることしかしていない。
姉が死ぬことは許さないと繰り返すけど、結局は美陽だってそういう不安を味わいたくないだけだ。
知影の庇護下で一生を終えたい。
「もう何も考えたくない。だったら、性器を擦り合って、原始的な快楽で頭をハッピーにしちゃうのが、あなたにとっても健全でしょ」
「あたしが断ったら、また自殺を繰り返すの?」
ふるふると、弱々しく知影は首を横に振った。
「もう無理。だって、今日楽しかったもの。あなたにとっては、ずっと自分語りをされて鬱陶しかったかもしれないけど、姉妹水入らずで気楽に遊ぶのなんて私にとっては本当に久しぶりで、私は───まともに戻ってしまった」
死ぬのがこわい、と知影は言う。
何の感慨もなく飛び越え続けた一線が、再び怖くなってしまったのだと。
けれど同じくらい───生きていたくもない。
知影は小さく丸くなって震えるばかりだ。どんな痛苦も折れず曲がらず乗り越えて、諦めを知らずに生を掴み取っていた面影は最早ない。美陽が知影から感じていた黄金色の気高さは、とうにくすんでしまっていた。
それでも。
見ていられないとは思うけれど。
立ち上がれと、無茶を言いたくもなるけれど。
知影に対する愛しさだけは変わらない。
美陽だって知影を必要としている。認めている。愛している。
いま求められているそれらは、すべて知影が美陽に与えてくれたものだ。
それを少しでも返せると言うのなら、美陽に否やはない。
そう考えたところで、バチリと脳の奥深くで電流が走った。鼓動が響いているのと同じ場所に何かが灯る。
待ちにも待った───天啓だった。
美陽はカランに手を伸ばして、知影の不安を押し流せないシャワーを止めた。
そして右指が上になるように十指を交互に組んで、掌の内側で交差させる。その状態から人差し指を立てた手印───不動根本印を結んだ。
蹲ったままの知影の身体に寄り添って、
「わかった。抱くよ」
と美陽は彼女の乾いた身体を抱き上げた。
敷いてもらった布団の上に知影を寝かせる。
「はじめる前に、あたしの話も聞いてくれない?」
「……うん。ちゃんと聞く。でも、話しながらでいいから、右脚をね、撫でていてほしいの」
「う、うん……」
知影にとっての右脚は───。
生まれつき、腿の半ばから欠けていた部位。ほとんど鼠径部と言ってしまっても過言ではない際どい部分。
美陽は知影の右側に座り直して、脚の付け根に手を添えた。ほんの少しでも手をずらせば、知影の敏感なところへ手がぶつかる。
「違うわ。そうじゃなくって」
けれどすぐに、知影の手によって制される。美陽は腕を掴まれて、右脚の断面とでも言うべき場所へと
「だ、大丈夫? 痛くない?」
ある意味、性器よりもセンシティブな箇所だ。
姉の身体を隅々まで洗っている美陽だって、デリケートな部分は避けている。いま触るように促されたのは、そのデリケートな部分の筆頭だ。好き好んで触ったことなど一度として無い。そのくらいの分別は美陽にだってあった。
「平気。撫でるだけじゃなくて、軽く叩いたり、引っ掻いたり、掴んでくれたっていいわ」
───本当に。
これから知影と特別なことを致すんだ、という実感が美陽の中でむくむくと湧き上がった。
けれど知影に聞いてもらいたい話だって、美陽にとっては同じくらい特別なこと。
「おねーちゃんは覚えてる? 十歳くらいのときだったかな。あたしが修祓任務のごたごたで致命傷を負ったとき、もうどんな治療法だって間に合わないって中で、おねーちゃんがあたしを助けてくれたよね」
「不動明王の身代わり護法になぞらえたやつね。美陽が負ったダメージ量をそのまま私に移し替えて、傷自体をテクスチャというか、見た目だけの問題に差し替えた。体力全快してるのに死ぬほどの傷を負っているって矛盾した状態を作って、世界の方に修復させたやつ。多分人類で私にしかできない解決方法よ」
「ああ、転生事情を知った後だとそういう説明になるんだ。……で、あたしの代わりにおねーちゃんが死にかけた」
「割合じゃなくて量でしかできなかったから危なかったのよね。私の最大HPよりも美陽のダメージ量が多かったら即死してたわけだし」
美陽は脚を撫でる手の動かし方を変える。掌全体で撫で回す手つきから、指先だけで擽るように。
その動きに合わせて、びくんと知影は身体を震わせた。
「っ……まああくまで概念上の話ね。本当に人間を数値として見てるわけじゃないわ。そのくらい死生観が破綻してたら、んっ……私ももっと生きやすかったんでしょうけど」
「あたしは結構衝撃だったよ。あんなに生きることに固執してたおねーちゃんが、あたしのために命を擲ってくれたのが」
「まあ、っね。正直、二桁年齢まで生きれるとは、思ってなかったし。もちろん、生き残る勝算はあったから、実行したけど、どうせ何も遺せない人生なら、んくっ……美陽のために死ぬのも、悪くないかなって」
「それであたしの価値は決まったんだよ。生きたがりのおねーちゃんがあたしのために死んでくれるなら、そのくらいあたしは大切にされていて、必要とされていて、愛されてるんだって。おねーちゃんが欲しがってたもの、おねーちゃんの方が先にあたしへ与えてくれてたんだ」
だから全部返すよ、と美陽は言う。
「返しきれるかわからないけど、あたしの全部をおねーちゃんに返します」
知影の息はすっかり上がっているようだった。きれいに乾かしたはずの肌にも、今では汗が滲んでいる。
「ところで、何でそんなに感じてるの?」
「ふふ。足落っことさないとわからないでしょうけど、足につながる神経、というか刺激を受け取る大脳皮質の中だと、足回りの感覚と性器は隣り合った場所にあるの。それが身体の欠落に伴って、皮質の再配置がされてね。要するに、性感帯がバグるのよ」
「ふーん。人が真面目な話をしてるのに、バレないからって人を使って気持ちよくなっちゃうんだ」
がしっと両手で知影の右腿を掴むと、美陽は脚の断面に舌を這わせた。これまでと大きく異なる刺激に晒されて、「ひゃっ」と知影は身をよじる。
「み、美陽。感じ過ぎるから、強い刺激は、まだ待って。いま強化の魔術で性感周りの刺激を増幅するよう再調整しててね。それがまだ終わってなく───」
いいことを聞いたとばかりに、美陽は一度起き上がると、知影の口内に舌を入れて黙らせた。ねっとりと互いの舌が絡み合う。
毎日行っていた恒例行事のはずなのに。
どちらかの舌が知影の上顎を擦る度に、今まで聞いたことのないくぐもった声が知影の喉奥から響いて、美陽に甘い味わいを与えてくれる。
けれど美陽が優勢だったのはそれまでだった。
抱いてやる、などと啖呵を切ったものの、初夜を迎えたばかりで魔術一辺倒の生き方しかしてこなかった小娘に、他人に快楽を与える手練手管や知識なんて持ち合わせているはずもなかった。
そうなると後はいつも通り。
まるで規範を示すかのように、先立って知影が必要な知識を与えてくれる。
そもそも性的刺激とはどういうものなのか。どうすれば快楽を与えられるのか。そういったものを優しく、丁寧に、執拗なまでに、美陽の身体でたくさんの時間をかけて実演してくれた。
擽ったいだけだったフェザータッチがもどかしさに変わって。いつしか下腹部の奥にとろりとした火が灯っていて。じくじくと疼くように広がる熱をどうにかしてと懇願したら、姉の指先が美陽の中に押し入ってきて。
バチバチと、何度も何度も美陽の頭の中で火花が散った。
「ほら美陽。そんなはしたない大声を上げたら他のお客さんの迷惑でしょ。新幹線の中で見せた結界、あれを張ってみなさい」
美陽は痙攣する身体と震える喉をどうにか動かして、知影の言う結界を自分たちの周囲に張り巡らせた。
途端、視界が闇に染まる。
盗み聞き対策ができればいい。求められているものはそれだけだった。なのに間違えた力加減が、音どころか光や空気も含めて、あらゆる物質の通行を遮断した。
姉が見せた結界とは似ても似つかぬ、堅牢な要塞の如き仕上がりだった。
「ヘタクソ」
罵りとともに、バチンとお尻を叩かれた。衝撃がお腹の中を突き抜けて、新しい色の火花が散る。
痛みすらも、今は快楽のエッセンスになっていた。
「あーあ。暗視も強化しないといけなくなったわ。霊力の消費が予定よりも増えたから、もっと美陽から搾り取らないとね」
なんて強気なセリフを知影が吐けたのはここまでだった。
いくら魔術で誤魔化そうが、根本的に体力や持久力が無いのだ。特に今は、強化の魔術自体を感覚器官の鋭敏化に使っている。それで益々、知影の回復力が落ちている。
責められる一方だった美陽よりも、知影は先に力尽きた。今は美陽が学んだことを復習するちょうどよい教材になってくれている。
美陽は知影の左腿の上に腰を下ろした。濡れそぼった花に指をあてがい、溢れてくる蜜をこそぎ落とす。
知影の腰が何度も跳ねて、美陽は存在しない右足に幾度も蹴られるところだった。
「馬鹿になりたいからってどれだけ感覚を鋭くしてるんだか……」
呆れ返った呟きが漏れる。
けれどその割には、強すぎる快楽を逃がそうと暴れ回る姉の動きが邪魔になってしょうがなかった。
美陽は片膝を立てて、踵を知影の子宮の上に置いた。体重をかけて、二度と知影の腰が跳ねないように固定する。暴れ回る右脚も同様に、空いている手で脚の断面を鷲掴みにして動きを止める。
知影の下半身を完全に封じ込めてようやく、美陽は指先で襞を一本一本なぞる作業に集中できる。
優しく、丁寧に、執拗なまでに。教えてもらった通りにだ。
「おねーちゃん、力一杯枕を抱きしめて顔に押しつけなくたっていいんだよ? どんなにけだものみたいな叫び声上げても、あたし以外には聞こえないんだからさ」
知影は涼やかで可愛らしい声音をしていた。それが知性なんてまるで感じられない下品な喘ぎ声を上げ続けている。
初めて目にする姉の醜態に、美陽の背筋までぞくぞくと震えた。
「ほら、治癒魔術にだって力入れて身体の疲労を取らないと、あたしに弄ばれてばっかりになっちゃうよ。ま、もう難しいことは考えられないだろうし、安心しておサルさんになってなよ」
そんな風に。
煽って、煽られて。責めて、責められて。弄り抜いて、弄り抜かれて。
美陽と知影は快楽と言う名の棍棒で、交互に相手を叩きのめした。
嗜虐も被虐も余すところなくしゃぶり尽くして、暴力的な快楽に二人揃って酔い痴れた。
燃え上がるような激しい情事も、時間とともに落ち着いた。肉体はともかく、精神の疲弊が抜け切らない。
ペースダウンすると自然と二人は、互いを求め合うように動きが変わった。
汗だくになった全身を絡みつける動作は、ぬらぬらとした蛇の性交を思わせた。
発情しきった雌の匂いが混ざり合う。身体中から分泌された様々な体液が混じり合う。霊力すらも循環と増幅を繰り返し、一つの生き物のようになっていた。
すでに激しさは必要ない。
互いの存在を確かめるような、啄むだけの口づけを幾度も交わす。
額から垂れた汗が唇の端にかかり、すっかり塩辛くなってしまったキスを、美陽と知影は大切に味わう。
人生で一番近くに知影が居る。
人生で一番深くに知影が居た。
かつてないほどの強固な
だんだん意識が朦朧としてくる。キスの感触すらあやふやになって、美陽と知影を隔てている肉体の境界まで、溶けて無くなっていくかのようだった。
ここに快楽はなかったけれど。
圧倒的な安らぎが、美陽たち姉妹を包み込んだ。
「ねえ」
闇の中に知影が浮かぶ。
話しかけられたことで、再び二人の間に境目ができてしまった。それをひどく残念に思いながら、美陽が応じる。
「どうしたの?」
「そろそろ、この結界解いてくれない? ずっと頭が働かないんだけど、これ、絶対結界内の酸素が減って二酸化炭素が増えてるせいでしょ」
「あはは。だよね。あたしもそんな気はしてた。でもわざわざ頭を働かせたいなんて、いいの? このままタイムリミット迎える方が幸せなんじゃない?」
「ううん。このまま寝落ちして、言葉も交わさずにこの瞬間のあなたと永遠に離れ離れになる方が嫌よ」
「じゃあ、満足してくれたんだ」
「そうね。自分のすべてを曝け出したくらいには気持ち良かった。起き抜けの次の美陽を、どう誘えば抱けるか考えてるくらいよ」
「浮気者。でもまあ、相手があたしなら許してあげるよ」
良かった、と心底思う。
軽口を叩き合えるくらいには、知影を押し潰そうとしていた絶望は減ったようだ。
けれど。
───あたしはまだ、返し切れてない。
名残惜しむように美陽は知影の背に両腕を回して、最後に軽いキスを何度も落とした。
性交を通じて、知影との間に強靱な繋がりができたことを確かめる。
そして知影の死角で、美陽は不動根本印を結んだ。
「待ちなさい。あなた何をするつもり?」
霊力の揺らぎを敏感に感じ取ったのか、知影が怪訝な声を上げる。
そうだった。美陽の霊力は今や知影と深く共有しているようなものだった。そして今の知影はあらゆる感覚が鋭敏になっている。
けれどもう、すべて後の祭りだ。
「『あまねく金剛尊に帰命し奉る』」
瞬間、霊力の波濤が場に満ちる。その衝撃で美陽が張った結界が弾け飛んだ。
美陽が称えられる才能は、主に莫大な保有霊力量と出力の過多が上げられる。はっきり言って、本気で暴れれば個人の身で災害に匹敵する猛威を振るえる。
そのくせ姉の指導が無ければ、制御が甘く加減が下手という致命振り。
事前に張った堅牢な結界が無ければ、局所的な地震が観測されていたかもしれない。そのくらい、馬鹿みたいな霊力を込めた。
おかげで美陽と知影の間に、強固な魔術が形を成した。
「これは───不動明王の身代わり護法?」
「うん」
知影の言葉に、美陽は頷く。
かつて知影が美陽を救ってくれた魔術。
ゲーム的な概念が美陽にはわからないから、この術はシンプルに知影が受けた傷を美陽が引き受ける形になる。
「なんでまた……。こんなことしたってループを回避できるわけじゃないわよ」
「おねーちゃんから詳しい話を聞いたときからね、ずっと考えてたことがあるんだ」
汗だくの火照った身体に、冷えた空気が染み入った。
情交の色香が急速に薄れ、魔術師として思考が回り出す。
「セックスしてわかったけど、やっぱりあたしたちの特質は普通じゃないよ。双子の魔術師は他にも居るよ。でも大体モチーフになってるのは鏡で、共鳴とか循環に優れてるだけ。あたしたちみたいにさらに踏み込んで霊力の同一化までするような人たちは聞いたことがない」
「日頃行っている霊力の受け渡しだって、私たちの間では減衰率は限りなくゼロに近いものね。それは認めるけれど。美陽は何が言いたいの?」
「おねーちゃん言ってたよね? 久積家の息女は元は一人だったって。ならあたしたちってさ、世界的には一人の人間としてカウントされてるんじゃないの?」
美陽と知影の間で、本当に区別がされていないのだとすれば。
「等価交換の原則が、成り立つんじゃないの?」
「───、───」
知影の表情が固まった。
やっぱり、と美陽は確信を得る。知影だってこの考察をしたことはあったのだ。
「だってあんまりにも不平等じゃない。おねーちゃんには、欠けているものがあり過ぎる。普通身体の欠損は、失った部位を補おうと霊的加護が増すはずでしょ。でもおねーちゃんの身体にそんな反応は起きてない」
何かを得るためには、何かを捨てなければならない。
等価交換の原則だ。
逆に言えば、何かを捨てさえすれば、何かを得られる。
生まれながらに持ち得ないものがあるからこそ、その分の恩恵を知影は手にしていなければおかしいのだ。
「おねーちゃんが受け取るはずだった恩恵を、あたしが掠め取ってたとしたら……?」
もしも世界に同一人物と認識されているのなら、知影が代償を支払い、美陽がその恩恵を享受するという不平等な等式だって成り立つのではないか。
「……たしかに、否定できる根拠は無いわ。同時に、仮説が成り立つからといって正しいとも限らない。証明不可能な問題をこの期に及んで捏ねくり回して何がしたいの?」
「やだなぁ、おねーちゃん。わかってるくせに。証明なんて簡単じゃん」
───あたしを殺せばいいんだよ、と美陽は笑った。
沈痛な面持ちをした知影に、美陽は視線を逸らされた。俯いたまま、知影が口を開く。
「それだって、わからないじゃない。この欠陥品の姿が私のあるべき姿で、差し引きゼロかもしれないでしょ。無駄死にの可能性がある以上、あなたを殺すなんて選択肢、私に採れるわけないじゃない」
「おねーちゃんこそ、この期に及んで嘘つきだね。アルビノは───遺伝子疾患でしょ? じゃあなんで、一卵性双生児のあたしに、同じ症状が出てないのさ」
答えは簡単。久積知影の色素は、魔術的な代償として支払われたから。
「なら、あたしっていう偽りの受取人を排除すれば、おねーちゃんはあるべき状態に戻れるんじゃないの? そしてそれが、ループから脱する道にも繋がってるんじゃないかな?」
「で、でも……」
「助かりたいんでしょ? 執念燃やして何百周もしてきたんでしょ? じゃあ最後までやらなきゃ。そういうおねーちゃんを見てる方が、あたしとしても気分が良いよ」
それでも姉は、首を横に振る。汗で肌に張りついた髪を振り乱す。
「できるわけないじゃない……ッ! 美陽が、美陽だけが、私にとって最初で最後の───拠り所なのに」
「そうだね。伝わってる。あたしにとっておねーちゃんの存在が大き過ぎるくらいに、おねーちゃんの中でもあたしへの比重がとんでもないことになってたんだね」
「そう、だから、馬鹿な真似はやめて。美陽が自分を犠牲にしたって成功するとは限らない。いいえ。条件が不確か過ぎる。絶対無駄に終わる。そんなことに美陽が付き合う必要なんてない」
「でもさぁ、検証はしておくべきじゃない? 間違ってるってわかりきってても、この方法では失敗しますって仮説を否定しておかないと、先に進めないよ。それに万が一」
万が一、成功したら───。
「美陽が死んだままループを脱して、それが何になるって言うの? そんな世界で生きていけって言うの?」
知影の言い様に、思わず美陽は微苦笑する。
「わかるよ。半身をもがれた世界に価値なんて見出せないよね。でもわかってよ。最愛の片割れの人生に影を落としてるのが自分なんじゃないかって疑ったら、あたしたちは止まれないでしょ」
知影は唇を噛み締めている。反論は───見つからなかったようだ。
「本当はおねーちゃんの手で殺してもらいたかったけど、未熟だった子供時代とは違って、もうあたしはあたしの生命力を侮れないからさ。手っ取り早く自殺するにしても、残り時間で殺しきれるか自信ないし。だから」
───おねーちゃんを殺して、あたしが死ぬね。
美陽は不動根本印を結んで、
姉には何もさせない。防御も逃走も、あらゆる小細工を許さない。純粋な火力と魔術の効果範囲なら、美陽と知影には天と地ほどの開きがある。
三千世界を焼き尽くす炎が溢れ、瞬く間に知影を灰に変えた。
そして。
因果は逆転する。
美陽が仕込んだ不動明王の身代わり護法によって、灰になるはずだった知影が生き残り、灰にした側である美陽が超高温の炎に舐められ絶命する結果を引き受けた。
熱いとも苦しいとも思う時間は美陽にはなかった。
すべて一瞬の出来事で、ただただ姉の生に幸あれと祈るばかりであった。
こうして。
久積美陽は、久積知影へと───還元された。
◇
破滅を迎えた合図が響く。
冷や汗とともに、久積知影は自宅ベッドの上で飛び起きた。
スマホが奏でる何の変哲もないデフォルトアラーム。知影にとっては、世界が滅んだことを報せる終末のラッパに他ならない。
知影はスマホを手に取って、この世で最も忌避している音の連なりを黙らせた。画面には、四月五日午前六時の文字列が並んでいる。
「う……ぁ……」
正しく現状を理解して、知影の喉から声にならぬ嗚咽が漏れた。
じん、と目頭の奥が熱くなって、ボロボロと大粒の涙が零れ落ちる。
───ああ。
結局私は。
失敗したんだ。
世界でたった一人の、最愛の妹の命を消費してまで、繰り返される時間の環から逃れることは叶わなかった。
なのに。
知影の心の一部は、失敗して良かったと喜んでいる。
これでまた───美陽の顔を見ることが叶う。
最後まで足掻けと背中を押してくれた彼女の決意や覚悟を、いま知影は最大限に踏み躙っていた。
喉を裂くような、引き絞った絶叫を上げる。
ガリガリと頭を掻き毟って、ただヒステリックにわめき散らす。
掌を顔に押し当てると、まだ手の中に皮膚が爛れるほどの熱の残滓が残っている気がした。
思い返す。
突如全身が燃え上がったと思ったら、次の瞬間には骨と灰だけに変わり果ててしまった美陽の姿を。
到底受け入れがたくて、美陽を───美陽だったものを抱え上げたときの、肉が焼け付く鋭い熱さを。
そして。
美陽が死んで、別の生命体とすら言えるほどに変貌した己の力を。
美陽の言う、恩恵の受け取り先が一本化されたから。
無限に湧き上がる力と共に、如何に自分が不完全で不十分で不具合に塗れて生きてきたのかを理解した。
きっと私たちは、魂すらも分割されて産み落とされた。
理由もなくそう信じられるくらい、あの時の知影は満ち満ちていた。
上下も左右も前後もない、完全な球体としての在り方に至ったかのような全能感。欠落なんて一点も無い、個として完成された充足感。
両界曼荼羅を背負い、諸仏諸神をその身に宿し、一つの宇宙を己の身体で体現したまま、知影はループする世界と相対した。
そこまでしてもなお、久積知影は翌日へと辿り着くことはできなかった。
自宅のベッドの上で、何百回目か数えることも馬鹿らしい四月五日を迎えている。
「おねーちゃん……?」
顔を上げる。遠慮がちに開かれたドアの隙間から、美陽が知影の様子を窺っている。
「み、みは……ッ!」
咄嗟に、知影はベッドから飛び出した。けれど足が気持ちに追いつかない。前のめりになりすぎた身体は、派手な音を立てながら床の上を転がった。
「おねーちゃん!?」
慌てて駆け寄ってきた美陽に、知影の方から飛びついた。尻餅をついた美陽を押し倒して、彼女の服を縋るように握り締める。
「ごめッ、ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
謝ることしかできないけれど、この謝罪だって卑怯な行いだと自覚している。
知影は美陽を通して、美陽の幽霊に謝っていた。
これまで生きてきた中で、一番強く、太く、深くつながれた彼女の代替品として、同じ遺伝子を持った別人を利用している。
何もかもが悔しくて、怒りが湧いて、不甲斐なくて、涙が溢れて、悲しみに暮れて───それらもやがて、すべて虚しさに呑まれてしまう。
「どうしちゃったの、おねーちゃん?」
頭を撫でるように髪を梳られて、ぽんぽんと優しく背中を叩かれて、彼女の日だまりの匂いに互いの体温を溶け合わせた時間を思い出して。
胸の奥に、痛みが走る。
「起き抜けのあたしを、口説き落とすんじゃなかったの?」
「──────ぇ?」
───起き抜けの次の美陽を、どう誘えば抱けるか考えてるくらいよ。
そんな戯れ言を、ピロートークに口にしたことを覚えている。当然だ。繰り返しの中で、知影の記憶は継続している。だから世界がループしているのだと、知影だけが気づけている。
顔を上げる。
視線の先では美陽が満面の笑みを浮かべていて。
「ほらね! やっぱりあたしたちは特別なんだって! 魔術的に世界から同一人物と見做されているなら、今まであたしが仲間外れにされてた方が異常だったんだよ!」
美陽はそう言って、笑った。
「ごめんね、おねーちゃん。あたし的には、あたしの考えが正解だと思ってた。あたしが犠牲になれば、おねーちゃんを無間地獄から救ってあげれるって思い上がってた。おねーちゃんの言う通り、かなり根深いね、これ」
「うそ……。本当に、美陽なの……?」
「あたしはあたしだよ。何なら今日も入学式サボって、次は九州辺りに行ってみる?」
今日も、と美陽は言う。
次は、と美陽は言った。
そんな突拍子もない行動を起こしたのは、知影にとっても一度だけで。前周が、その最初の一回目で。彼女は自分と同じように、記憶を継承しているのだと確信できた。
「みはっ、み、はる。美陽、美陽、美陽……ッ!」
ぎゅっと、彼女の首に腕を回して、何度も何度も名前を呼んだ。
離れたくない愛しい人の名を、知影は美陽が止めるまで呼び続ける。
「あたしはおねーちゃんを地獄から引っ張り上げれなかった。でもこれで」
地獄に落ちるのは独りじゃないよ。
「もう二度と、独りぼっちになんてさせないからね、おねーちゃん」
美陽の優しげな声音に、知影は幼子のように泣き叫んだ。
はらはらと、涙が次々溢れてくる。
けれど涙を流す理由はこれまでとは変わっていて。
流れる涙は、美陽のように温かかった。
了
この姉妹がイチャつきながら週刊世界の危機と関わる短編集にできたらいいなとは思っています。