ウルトラ5番目の使い魔   作:エマーソン

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第70話  夢の先の旋律

 第70話

 夢の先の旋律

 

 バイオリン超獣 ギーゴン 登場!

 

 

 それは今ではない、しかしそんなに遠くない昨日の昨日のそのまた昨日の春の日の昼下がりです。

 大きな大きな湖のほとり。そこにきれいなお屋敷がありまして、三人の親子が住んでいました。

 今日はお空は晴れ、風は緩やかで寒くも暑くもないポカポカ日和。お屋敷のお庭にはテーブルが立てられて、温かな紅茶が湯気を立てています。

 テーブルの前に座っているのは優しそうな貴婦人。そのひざの上には小さな女の子が座って、待ちきれないと一冊の本を差し出しています。

「ねえ、お母様。お父様もお母様もお休みの今日は、イーヴァルディの勇者の新しいお話を読んでくれるってお約束でしょ。早く早く、わたし楽しみにしてたんだからね」

「まあ、シャルロットったらお行儀が悪いわよ。そんなに慌てなくても、まだお茶を淹れたばかりじゃない。ねえ、あなた」

「はは、いいじゃないか。シャルロットは今日のために、ずっといい子で待っていたんだから。さ、約束だシャルロット……父様の演奏と母様の語りで、シャルロットだけのための劇場を始めよう」

 古びたバイオリンを手にした父が優しい演奏を始め、母が本を開いて物語を語り出す。そして娘は期待に目を輝かせて夢の世界への扉を開いた。

 

 これから始まるのは、ハルケギニアで広く語られる英雄譚『イーヴァルディの勇者』の数多い物語の一節。現実がモデルか、それとも完全なフィクションかは誰にもわからない雑多な物語のひとつ。

 けれども、そんなことは純真な幼子にはどうでもいい。自由な心はつまらぬ制約に縛られず、ただ思うさまに優しき旋律の風を想像の翼に受け、物語の空を縦横に舞う。

 

 

 それは遠い昔のお話です……

 

 

 昔々、ある山深い国に、『どんな願いでもかなえてくれる秘宝』が隠されているという、大きな迷宮がありました。

 それをいつ、誰が作ったかはわかりません。けれど、秘宝を求めて多くの冒険者が迷宮へ挑み……そして、誰一人として帰ってはきませんでした。

 土地の人々は、やがて迷宮を人を食べる呪いのラビリンスだと恐れ、ついに土地の領主は迷宮の入り口に大きなお城を建てて、誰も迷宮に入れないように封印したのです。

 

 そうして平和が訪れ、人々が迷宮のことを忘れかけた時代です。お城に一人の女の子が住んでいました。

 女の子の名前はサリィ。彼女はとても優しい心の持ち主でしたが、なぜか彼女に近づく人間は皆不幸な目に会い、今ではサリィの友達は一匹のカラスだけでした。

「クワァ、クワァ! サリィ、オレガイル。クワァ、サリィノトモダチ!」

「うん……あなただけが、あたしのそばにいてくれる」

 うるさく騒ぐカラスだけが、サリィが心を許す唯一の友達です。一人ぼっちでお城で暮らすサリィのことを、土地の人は呪われた娘と呼んで、もう彼女に近づこうとする人はいませんでした。

 

 そんなある日のことです。お城に、旅の途中のイーヴァルディの一行がやってきたのです。

 

「こんにちは。旅の者ですが、どうか少しの間だけ宿を貸していただけないでしょうか」

 数々の冒険を潜り抜けてボロボロの身なりで訪ねてきたイーヴァルディの一行を見て、サリィは驚きました。優しい彼女はイーヴァルディたちを哀れに思い、すぐにでも泊めてあげようと思います。けれど、自分の身にまといつく不幸を思うと、サリィは受け入れることができませんでした。

「旅の方、ここは呪われた恐ろしい館です。入ればきっと、あなた方にも不幸が訪れるでしょう。どうか、立ち去ってくださいませ」

 悲し気にサリィはイーヴァルディたちを突き放しました。ですが、長旅で疲れ果てたイーヴァルディたちは、どうしてもということで一晩だけ宿を借りることになりました。

 城の中に部屋を借りて、イーヴァルディの一行は眠りにつきます。イーヴァルディの仲間の、大男のボロジノがあげるいびきが城に響き渡りますが、サリィはそれも気にならないほど心配で眠れませんでした。

 友達のカラスが「ジャアオレガミニイッテヤルヨ、ダカラアンシンシテネロ」と言ってくれますが、やっぱりサリィは不安でなかなか寝付けません。

 そして翌朝、イーヴァルディたちの休んでいる部屋をのぞきに行ったサリィは愕然としました。なんと、部屋の天井が崩れて、イーヴァルディたちは丸ごと瓦礫に生き埋めになってしまっていたのです。

「ああ、またこうなってしまった。あたしに近づいた人は、みんなひどいことになってしまう。ごめんなさい、旅の人たち……」

 サリィはひざまずき、泣きながらイーヴァルディたちに詫びました。

 しかし、なんということでしょう。瓦礫がもぞもぞと動くと、はじけるように吹き飛んだのです。

「ふわぁーっ、よく寝た」

「んーっ? なんか景色が変わってるぞ。キャッツァ、お前また寝ぼけて魔法ぶっ放したろ?」

「失礼なことをおっしゃいますわね。寝ぼけて天井を落とすくらいなら、まずあなたをローストにしていますわよ。マミさんの寝相に決まってますわ」

「ほへー、おなかへったー」

 なんと、信じられないことに、瓦礫の中から何事もなかったかのように一行は起き上がってきたのです。

 サリィは呆然として声も出ません。すると、イーヴァルディがサリィの前にすたすたとやってきて、ぺこりと頭を下げました。

「すみませんサリィさん、僕の仲間たちの阻喪で大切なお城を壊してしまいました。責任を持って修理させますので、どうか許してください」

「あ、あっ、はい。それより、あなた方は天井の下敷きになったというのになんともないのですか?」

「ええ、この程度は。鍛えてますから」

「あっ、はい」

 ぽかんとしながら、サリィは無傷のイーヴァルディたちを見つめていました。

 そうです。数々の冒険を潜り抜け、多くの恐ろしい魔物を倒してきたイーヴァルディたちにとって、天井が落ちるくらいのことは痛くもかゆくもないことだったのです。

 そうして、イーヴァルディたちは、壊してしまったお城を直すまではとどまることになりました。もちろん、サリィはもっとひどい不幸が降りかかってくることを恐れてイーヴァルディたちを旅立たせようとしましたが、責任感の強いイーヴァルディは聞きません。

 

 そして、サリィが本当に驚くのはこれからでした。彼女が心配した通り、イーヴァルディたちに数々の不幸が襲い掛かりました。しかし、イーヴァルディとその仲間たちはそれをものともしなかったのです。

 

 イーヴァルディの仲間、大斧の戦士ボロジノが森に木を切りに行ったらオークの群れに出くわしました。

 夕方、ボロジノは大木と豚肉をたっぷり抱えて帰ってきました。

 

 料理人のマロニーコフが厨房に立ったら、突然油が流れ出して厨房が火の海になりました。

 マロニーコフはこれ幸いと火事の炎でローストポークを作ると、ついでとばかりに振りまいた水で消火といっしょにスープを作ってしまいました。

 

 シーフのカメロンが薬草を取りに出かけたら蜂の大群に襲われました。

 その日、サリィは蜂の蜂蜜漬けをおやつにいただきました。

 

 ですが、一番驚いたのは武闘家のマミといっしょに山に出かけたときでした。

 壊れた部屋を作り直すための材料になる石材を取るため、サリィは一行で一番の力持ちだというマミを近くの岩山に案内しました。

 マミは武闘家だと聞きましたが、背丈はサリィの半分ほどしかなく、しかもいつも眠そうな目で「おなかすいた」とばかり言っている子供なので、正直サリィはとても信じられませんでした。

 けれど、岩山についたときです。なんと、山の上から五メイルはあろうかという巨大な岩が突然マミを目がけて落ちてきたのです。

「危ない! 逃げてマミちゃん!」

 サリィは必死に叫びます。しかし大岩はすごい勢いで落ちてきて、とても間に合いません。あんな岩が落ちてきたら、人間なんかぺっちゃんこにされてしまうでしょう。

 でも、マミは自分に向かってくる大岩を眠そうに見上げると、すぅと息を吸って右腕を振り上げたのです。

「たーあ」

 やる気のなさそうな声といっしょに、マミのパンチが大岩に当たりました。

 すると、今度こそサリィは自分の目を疑いました。なんと、大岩はマミのパンチでひび割れたかと思うと、そのまま轟音と共にバラバラになってはじけ飛んだのです。

「あ、あわわわわわ」

 サリィは腰を抜かして立てませんでした。当たり前のことです。誰が身長一メイルちょっとの小さな女の子が、五メイルもの大岩を素手で粉々にできると思うでしょうか?

 でも、マミはちっちゃくてもイーヴァルディの仲間なのです。イーヴァルディの仲間はみんなすごいのです。

 それから、イーヴァルディの仲間はただすごいだけではありません。マミは腰を抜かしているサリィのもとに駆け寄ると、サリィに手を貸して立たせてくれたのです。

「サリィ、大丈夫? いたくなかった?」

「あ、あたしは大丈夫……それよりマミちゃん、あなたこそ、あんな大岩を砕いて、大丈夫なの?」

「あたいは平気、鍛えてるから……それより、サリィがケガなくてよかった」

 にっこりと笑ったマミの優しい顔に、サリィは怖かったのが溶けていくような気持ちがしました。マミはひょいと、今度は十メイルもの大岩を持ち上げて、「これくらいならいいかな?」と尋ねてきますが、もうサリィも驚きません。

 そうして、サリィとマミはお城を作るのに十分な大岩を持って帰ることができました。

 

 そして、お城に帰ったサリィは、また信じられないものを見ました。なんと、それまで殺風景だったお城の周りが、一面の花畑に変わっていたのです。

「わぁ、なんて綺麗……これは、あなたが?」

「ええ、わたくし、美しくない場所は嫌いですの。このくらいのこと、この世界一の大魔法使いキャッツァ様にかかれば簡単なことですわ」

 美貌のメイジが宝杖をかざしながら得意げに笑い返してきます。色とりどりの花畑に、サリィは思わず見惚れていました。こんなに美しい景色を見たのはいったい何年ぶりでしょうか。彼女に人が近づかなくなって以来、城の周りは荒れに荒れ、野の花ひとつ見れなくなっていたのです。

 サリィの心に、すっかり忘れていた暖かい風が吹いてきます。そのとき、彼女のもとにイーヴァルディがやってきて、すまなそうに言いました。

「ごめんなさい、キャッツァは言い出したら聞かない人で。勝手にこんなことをしちゃって、申し訳ない」

「いいえ、いいえ……こんな、こんな綺麗な景色、はじめて見ました。あなたたちは不思議な人……いままで、わたしのそばに平気でいれる人なんて、一人もいませんでした」

「僕らはただの、通りすがりの冒険家ですよ」

 微笑しながら言うイーヴァルディはどこまでも謙虚で、それこそどこにでもいるような青年にしか見えませんでした。

 けれど、彼こそは数々の冒険を制し、無数の魔物を倒して多くの人々を救ってきた『勇者』なのです。

 サリィの心に、ずっと忘れていた『嬉しい』という心が戻ってき始めていました。

 

 しかし、そんなイーヴァルディたちをよく思わない邪悪な誰かが彼らを見つめていました。そして、イーヴァルディたちに邪悪な気配が近づいていたのです。

「イーヴァルディ、悪い奴がやってくるよ」

 邪悪な気配を感じたマミが言います。もちろんイーヴァルディも気がついて、すっと剣を抜いて身構えました。

 剣を抜いたとたん、優しげだったイーヴァルディは精悍な戦士に変わります。空を見上げたイーヴァルディの眼の先で、それまで晴れ渡っていた空が突然黒雲に覆われたのです。

「来る」

 イーヴァルディの剣がチャキッと鳴ります。マミとキャッツァはサリィをかばうように立ち、サリィは怯えて空を見上げています。

 そして、渦巻く黒雲の中からそいつは現れました。全身が緑色のうろこに覆われた、見渡すような巨大なドラゴンです。

「あ、あわわわ」

 サリィは見たこともない恐ろしい怪物の威圧感にあてられて、今にも泣きだしそうです。

 ドラゴンは真っ赤な目をギラギラと光らせて、鋭い牙の生えた口を広げて恐ろしい叫び声をあげてきます。でも、そんなこけおどしはイーヴァルディには通じません。

「ワイバーンか、大きいな」

 イーヴァルディはつぶやきました。その声には恐怖のかけらもありません。

 マミもキャッツァも平気な様子です。ドラゴンが現れた様子は、城の中からボロジノやマロニーコフやカメロンも見ていましたが、彼らも気にせずに壊れた部屋の修理をしています。仲間たちの全員が、イーヴァルディを信頼しているのです。

 そのとき、空に濁った鳥の鳴き声のような不気味な音が響きました。すると、ドラゴンが口を開き、地上のイーヴァルディに向けて真っ赤な炎を吐きました。なにもかも焼き尽くす勢いの赤い津波がイーヴァルディに迫ります。しかし、イーヴァルディにその炎は届きません。キャッツァの張った魔法の壁が、炎を軽々と押し返したのです。

「ぬるいですわね。千年竜のブレスに比べたらぬるま湯ですわ」

 魔法の壁はびくともせず、ドラゴンの炎はなにも焼けないままで散って消えました。そして、イーヴァルディはマミに頼みます。

「マミ! いつものアレ頼む」

「あーいよ」

 イーヴァルディはマミの頭上に飛び上がると、マミはイーヴァルディの踏み台のようになって一気にドラゴンに向かって押し上げました。

 たちまち、羽が生えたようなすごい勢いでイーヴァルディはドラゴンに飛んでいきます。ドラゴンは口を開き、今度こそイーヴァルディを焼き尽くそうと炎を吐きますが、イーヴァルディの勢いは止まりません。

「ああっ! 危ない」

 サリィが叫びます。イーヴァルディの姿は炎の中に飲み込まれて消えてしまいました。

 イーヴァルディは燃え尽きてしまったのでしょうか? いいえ、イーヴァルディは勇者です。こんな炎なんかに負けたりはしません。

「てやぁぁぁーっ!」

 炎を切り裂き、イーヴァルディは無事な姿を現しました。ドラゴンは驚き、再び炎を吐き出そうとしますが、もう間に合いません。

 そのとき、イーヴァルディの左手がまばゆく輝き、イーヴァルディは光となった剣をドラゴンに向かって振り下ろしたのです。

「イヤーーッ!」

 光がドラゴンを貫きました。すると、ドラゴンの鋼のように固いはずのうろこがぱっくりと割れ、ドラゴンは胴体から真っ二つになったのです。

 ドラゴンはギャアーと断末魔の悲鳴をあげ、黒い煙となって消えました。

 空は晴れ、イーヴァルディはすとりと仲間たちのもとに降りてきます。剣を収めて、いつもの優しい笑顔に戻ったイーヴァルディの姿は、サリィの目にとてもとても格好よく映りました。

「勇者……さま」

 思わずサリィはつぶやきました。サリィは生まれて今日まで、こんなすごい人たちを見たことがありません。

 イーヴァルディは言いました。

「君の呪いが何を呼び寄せても、僕らは絶対に負けない。僕らは、友達を見捨てるようなことは絶対にしないからね」

「友達? まだ、会ったばかりのあたしを、どうして……?」

「時間は関係ないよ。それなら、僕よりもほら、マミがさ」

 すると、マミがサリィのそでを引いて、にっこりと笑っていました。

「あたい、わかった。サリィはとってもいい奴。だから、あたいはサリィと友達になりたい」

「で、でもあたしなんて、呪われてるし、皆さんと違ってなんにもできないし……」

「そんなの関係ない。なりたいから、なる。それが友達でしょ」

 なんの他意もなく、ただ純粋に見つめてくるマミに、サリィは恐る恐るですが、「うん」と、答えました。

 イーヴァルディも笑います。

「うん、マミの友達なら、もちろん僕らとも友達さ。だからもう怯えないで。君を怖がらせるものが来たら、僕たちがやっつけるからさ」

「イーヴァルディ、さん……うっ、うっううぅ……っ」

 サリィはイーヴァルディの胸に飛び込んで泣きました。これまで誰にも甘えることのできなかったサリィの心を、イーヴァルディと仲間たちは確かに受け止めたのです。

 イーヴァルディは強いだけではありません。悪を決して許さない正義感と、虐げられている人を見捨てておけない優しさを持っているからこそ、勇者なのです。

 そうして、サリィはイーヴァルディに見守られながら、花畑でマミといっしょに日が暮れるまで遊びました。

「ほらサリィ、あたいのお花の王冠、きれいでしょ」

「わあ、マミって手先も器用なんだ、すごいな。ねえ、あたしにも作り方教えてくれる?」

「いいよ。ここをこうして、ねっ?」

 呪いのことなんかすっかり忘れて、ふたりは時間も忘れて遊びました。ドラゴンも倒したイーヴァルディが見張っていてくれるのですから、怖いものなんかあるわけがありません。

 でも、イーヴァルディが勇者である理由はそれだけではありません。サリィは、まだそれを知りませんでした。

 

 ですが、サリィを苦しめ続けた不幸の呪い。それをかけた相手は誰なのでしょう?

 キャッツァは考えていました。サリィを苦しめている奴は、きっとまだあきらめはしないだろうと。

 

 その夜のことです。夜が更け、サリィは眠りにつく前に、今日あった楽しいことをカラスに話していました。

「それでね、イーヴァルディさんたち、もうしばらくここにいてくれるんだって。わあ、明日から楽しみだなあ。ねえ、明日はあなたもいっしょに遊ぼうよ」

「クワー、ソレハヨカッタクワー……」

 カラスはサリィの話をじっと聞いていました。このカラスは人語を理解し、自分からしゃべることもできる不思議な鳥で、サリィのお父さんとお母さんが亡くなってからは彼女のたった一人の話し相手でした。

 けれど、ただのカラスがしゃべるでしょうか? おかしいと思いませんか? でも、ずっと城に籠っていたサリィはそのことに気がついていませんでした。

 イーヴァルディたちの話をうれしそうに語るサリィを、カラスはじっと見ています。カラスはイーヴァルディたちの前へはほとんど姿を現さず、隠れて様子を見ていました。サリィはそれを、恥ずかしがっているからだと思っていたいましたが、そうなのでしょうか。

 カラスはサリィを黒い目で見つめ、サリィの心の中に寂しさや不安といった感情がなくなっているのを確かめました。

 突然、カラスの雰囲気が変わります。

「ククク……我を封じた忌まわしい一族の娘。もっと長く苦しめ続けてやろうと思っていたが、お前にはもう飽きたよ」

「えっ? な、何を言ってるの」

 サリィは突然変わったカラスの恐ろし気な言葉に戸惑います。しかし、カラスは黒い羽根を巻き散らして飛び上がると、いきなりサリィの左目にくちばしを突き刺しました。

「きゃああぁーっ!」

「クク、クワッハハ!」

 サリィの悲鳴とカラスの笑い声が響きます。サリィの顔は真っ赤に染まり、カラスのくちばしからは赤いしずくが滴っていました。

 でも、それでもサリィはカラスに呼びかけました。

「ねえ、うそでしょ? あなたはわたしの、たったひとりの友達だったじゃない」

「トモダチ? お前みたいな汚い人間の、誰がトモダチだというのだ!」

 カラスは叫ぶと、今度はサリィの右目をくちばしで突き刺しました。

「いやぁぁーっ!」

「クワァハハ……お前の目玉は美味いゾォ。バカな娘だ、お前の呪いはすべて我が仕組んでいたことだとも気づかず。それなのに我を信じてすがるお前は最高のおもちゃだったガナア」

 なんということでしょう。サリィの不幸は、すべてがこの魔ガラスの仕組んだことだったのです。

 サリィは両目をえぐられ、苦しみながら床をはいずりました。でもそれよりも、裏切られたショックと、だまされていた悲しみがサリィの胸を締め付けていたのです。

「見えない、なにも見えないよぉ。誰か、誰か助けて」

 逃げようとしても、もうサリィにはドアのある方向さえわかりません。

 カラスはもがくサリィを冷たく見下ろしていました。ですが、いったいこの魔ガラスは何者なのでしょう? どうしてサリィを苦しめるのでしょうか?

「クァクァ。我の復活のイケニエとして育てていたが、喜びを思い出したお前はもういらない。だが、最後にもう一度役に立ってもらうぞ。やっと見つケタ何百年ぶりかの、最高の獲物をタベルためニナ!」

 カラスはそうつぶやくと、サリィの耳元で偽物の声を作ってささやきました。

「サリィ、サリィ……私の声が聞こえますか?」

「この声……お母さん?」

「そう、あなたのお母さんですよ。やっと会えましたね、かわいそうなサリィ。でも、もう心配いりませんよ」

 なんと、魔ガラスは死んだサリィのお母さんの声を真似て話しかけていたのです。

「お母さん、痛いよ……お母さん、助けて」

「おお、サリィ、サリィ、もう大丈夫だからね。お母さんが助けてあげる。さあ、こっちへいらっしゃい」

「見えない、見えないよ、お母さん」

「大丈夫、お母さんの声のするほうへおいで……こっちよ、こっちよ」

 サリィはふらふらと、魔ガラスの真似る声を頼りについていきます。

 いったいどこへ行こうというのでしょう? 魔ガラスはサリィを操りながら、城の地下に向かって降りていきます。

 そこには、恐ろしげな扉によって封じられた入り口がありました。そうです、昔に封じられた恐ろしい呪いの迷宮の入り口です。

 サリィが手を触れると、固く閉ざされていた扉はギギギと不気味な音を立てて開きました。

「クァクァ、ラビリンスの封印は封印を施した一族でないと破れナイ。さあ、こっちよサリィ、こっちこっち」

「お母さん、お母さん待って……」

 サリィは魔ガラスに誘われるままに、迷宮の真っ暗な闇の中へと消えていきました。

 

 そしてしばらく後です。異変を知ったイーヴァルディたちが迷宮の入り口へと駆けつけてきました。

「しまった! 遅かったか」

 開いてしまっている迷宮の入り口を見てイーヴァルディと仲間たちは悔しがりました。

 イーヴァルディたちも油断していたわけではありません。しかし、魔ガラスがサリィを襲っているのと同じころに、城の外にドラゴンが何匹も現れて退治しに出かけていたのです。でも、それは魔ガラスの罠でした。

 何かおかしい。そうキャッツァが気づき、マミが百リーグ先の獣の声も聴きつけられる耳でサリィの悲鳴を感じ取ったとき、イーヴァルディたちは急いで城に引き返しました。でも、間に合いませんでした。

 そのときです。迷宮の中から不気味な声が響いてきました。

「グァッグァッグァッ、私のラビリンスへようこそ、勇敢な冒険者諸君。あの小娘は私が預かっている。助けたければ私の元まで来るがいい。財宝もあるぞ。来なければ娘は食べてしまうからなぁ、グァッグァッグァッ」

 あざ笑う声がイーヴァルディたちを誘います。

 キャッツァがイーヴァルディを向いて言いました。

「イーヴァルディ、どうするの? これは罠よ。私たちを誘い込むための」

「わかってる。けど、サリィを見捨てることなんてできない。そうだろ? マミ」

 するとマミも、強い決意を秘めた表情で答えました。

「あたいには聞こえた。サリィは助けてって言ってた。あたいは行くよ、サリィはあたいの友達だもの」

 マミの手の中には、サリィといっしょに摘んだ花の押し花がありました。マミだけでなく、ボロジノやマロニーコフたちも、迷わずに行こうと言っています。

 ですが、このラビリンスはただの洞窟やダンジョンではないのです。数多くの冒険家が挑戦し、誰一人として生きて帰った者はいない呪いの迷宮なのです。そのことをキャッツァが告げると、イーヴァルディは言いました。

「わかっている。でも、ここで逃げたら僕は一生後悔して生きるようになってしまう。友達を見捨てた卑怯者として、永遠に自分を許せなくなってしまう」

「でも、この迷宮の奥からはとてつもない力を感じるよ。もしかしたら、私たちでもかなわないかもしれない。それでも、行くの?」

「そうだね。確かに、この奥にいる奴は僕たちより強いかもしれない。けど、だからって……ジーッとしてても、どうにもならない! そうだろ? みんな」

 その言葉に仲間たちは皆、そう言ってくれるのを待っていたというふうにうなづきました。誰もがイーヴァルディを信頼して、彼の指示を待っています。

「二度と生きて帰れない迷宮は、僕も怖い。僕一人じゃ無理かもしれない。だけど、僕には君たち仲間がいる。だから、この胸の中から熱いものが湧いてくる。それが押してくれるから、僕は行ける」

 イーヴァルディは剣を抜き、「行こう」と言いました。誰も止める者はいません。彼らは一丸となって、魔のラビリンスの中へと足を踏み入れていったのです。

 

 

 それは遠い日の一幕の記憶。父の奏でる色とりどりの旋律の中で、母が語る物語を娘が聞いた、幸せな家族の一日の記憶。

 

 

 はたしてイーヴァルディたちの運命は? 物語はいよいよ佳境へと入る……。

 かに、思われたが。

「ねえねえジル、早く続きを読んでなの! きゅい」

「あいにくだけどここまでだよ。残念だけど本が焼けてて続きはもう読めないんだ」

「きゅい? きゅいいーっ! ここまで来て続きがないなんてひどすぎるのね! もーっ!」

 物語の続きをせがむシルフィードと、呆れながらボロボロの本を閉じるジル。

 ここは物語の世界ではなく、かといって少し昔のお話でもない。ただし、場所だけは同じであり、ふたりの周りには草とつるに覆われた廃墟の屋敷が広がっている。

 現代、ここは旧オルレアン邸跡。すでに無人で放置されて久しく、寄り付く者もないこの廃墟で瓦礫に腰かけて、この一人と一竜は何をしているのだろうか。

「はぁ、仕事もほったらかして、私はなにをしてるんだろうな」

 ため息をついて、ジルはつぶやいた。彼女の手の中には、焼け焦げた『イーヴァルディの勇者』の本がある。崩れた屋敷の瓦礫の中から見つけ出したもので、どうやらここは元は子供部屋のようなものだったらしい。

 けれど、どうして自分はこんな廃墟の中で見知らぬ女におとぎ話を読み聞かせているのだろうか?

 事の起こりをジルは思い出した。

 

 ジルはフリーのハンターをして生計を立てている。いつからやっているかは覚えていないが、町や村に害を及ぼす獣を退治して報酬を得てきた。

 そして今回、ジルはオルレアン公邸跡の村から依頼を受けてやってきた。

「狩人様、お願いでございます。最近、このあたりの村で突然に魂を抜かれたようになる者が相次いでおります。これというのも、あの古屋敷にドラゴンが住み着いてからのことでございます。きっとあのドラゴンのせいに違いありません。なにとぞ、ドラゴンを退治して村をお救いくださいませ」

「ドラゴンですか……わかりました。その代わり、報酬は頼みますよ」

 ドラゴンというところに不思議に引っかかるものを感じたが、ジルは依頼を承諾して出発した。

 聞いた話では、オルレアン邸跡からときおり心地よい音が聞こえてくるという。村人たちは、それをドラゴンの鳴き声と思ったが、それが聞こえるたびに魂を抜かれたようになる者が出るとのことだったので、ジルは念のために耳栓を用意していた。

 オルレアン邸跡は最近では気味悪がって地元の人間も近寄らなくなっており、途中の道は雑草が入り込んで荒廃していた。しかし、道のまま進んでオルレアン邸跡までたどり着くと、目的のドラゴンは意外にもあっさり見つかった。

「きゅいっ?」

「いたなドラゴン。お前に別に恨みはないが、退治させてもらうぞ」

「きゅいーっ!?」

 思っていたよりも小さな奴だったが、それでもドラゴンはドラゴンだと、ジルは弓を構えて爆薬包み付きの矢をつがえた。

 当たれば大型の幻獣にも大きな打撃を与えられる火薬矢は、緩やかな曲線を描いて青いドラゴンに向かった。しかし、そのドラゴンは意外にも敏捷に飛び上がると矢を回避してしまった。

「やるな。さて、飛んで逃げるか? それとも反撃してくるか?」

 どちらにしても、熟練の狩人のジルにとっては想定内だ。しかし、ドラゴンはジルの姿を認めると、意外な行動に出た。きゅいきゅいわめきながら廃墟の影に飛び込んでいったのだ。

「バカな、その図体で隠れられるつもりか?」

 ジルは呆れた。飛ばれてこそやっかいなドラゴンだが、地面に居れば少し大きな猛獣と変わりない。ブレスにさえ気を付ければ、もうジルにとって恐ろしい相手ではなかった。

「しかし、臆病なドラゴンだ。まだ幼体のようだが……」

 警戒は忘れず、ジルはゆっくりと廃墟の影に隠れたドラゴンに近づいた。

 だが、廃墟の奥にいたのはドラゴンではなく、きゅいきゅい言いながら怯えて縮こまっている全裸の女性だったのだ。

「誰だ? お前」

「きゅいいーっ! う、撃たないでなのねーっ!」

 危うく火薬矢で爆殺しそうになったが、それよりもジルはあっけにとられた。なぜこんなところに若い女が素っ裸でいる? それより、あのドラゴンはどこへ行った?

 問い詰めると、裸の女はあたふたしながら、ドラゴンは逃げたのね、と答えた。正直、あの図体で逃げられるわけはないのだが、実際いないものはしょうがない。だがそれにしても、妙齢に見えるのに変に態度や口調が幼い女だ。

 ジルは気が抜けてしまった。ドラゴンの気配はなくなって、あたりはただの廃墟でしかない。しかし、村人たちにはどう説明したものか。

 すると、悩んでいるジルの後ろから、裸の女がぽつりと話しかけてきた。

「ジ……ル?」

「ん? なぜ、お前わたしの名を知っている」

「えっ!? あ、ええっとええっと。シ、シルフィはシルフィなのね! あのドラゴンに捕まってたのね。助けてくれてありがとなのね!」

 そうわめく女を、ジルは困った様子で見つめるしかなかった。普通に考えて変なのは誰でもわかる。けれど、不思議なことにジルはこの怪しすぎる女を厳しく問い詰めることができなかった。

 どこかで会ったことがあるか? いや、そんな覚えはないが。しかしジルの心のどこかで何かが引っかかっていた。

 ただ、そうは言っても裸の女をそのままにしておくわけにはいかない。

「お前、服はどうした?」

「きゅいっ?」

「ちっ、仕方ないねえ。これだけの屋敷跡なら衣装の一着や二着あるだろう」

 瓦礫を押しのけて、ジルは埋まっていたクローゼットから女物の服を探し出すと裸の女に着させた。きゅいきゅいわめいてかなり嫌がったが、そこは無理やりにでも着させた。

 本当に、見た目の割に幼児のような女だとジルは思った。まったく、自分は昔から子供には苦労させられるとも思う。だがすぐに、子供? 自分が関わったことがあったか? と、思い返した。

 どうも調子が狂う。ジルは頭をかいた。この女を見てから……いや、あのドラゴンを見てから、自分の中に妙な何かが生まれている。

 誰か……この女の顔を見ていると、誰かの顔がぼんやりと浮かんでくる。だが、どうしても輪郭がはっきりしない。イライラして仕方がない。

「お前、もう一度聞くよ。どこの誰だい? なぜこんなところにいたんだい?」

「え、えっと、えっと。その、あの……なのね。な、なのね」

「んん?」

 しどろもどろな様子が怪しすぎる。思わず「シルフィード!」と怒鳴りそうになったときだった。どかした瓦礫の中から、一冊の本が転げ出てきたのだ。

「イーヴァルディの勇者?」

「あっ! そ、その本なのね。シルフィ、その本を探してたのね! その本にすっごい秘密が書いてあるのね。読んで読んでなのね」

「はぁ?」

 子供向けのおとぎ話ではないか。その場しのぎの嘘もここまでくると怒る気もなくなってしまう。

 まあ、読めと言われれば読めなくはない。ハルケギニアで読み書きのできる平民は多くはないけれど、自分は仕事柄最低限の読み書きや計算ができないと不便であるため、子供向けの本を読む程度なら難しくはない。

 それにしても、イーヴァルディの勇者か……ジルはまだ家族が生きていた頃のことを思い出した。母が夜に読み聞かせてくれたことがあったし、文字を覚えたばかりのとき、妹に読んで聞かせたこともある。それに、キメラドラゴンを倒した後は、年に一回……に、読んでやった……誰に?

「……わかった。読んでやるよ」

 何かを思い出しそうになったジルは、本を手に取って瓦礫に腰かけた。足を組んだ時、まだ真新しい義足がカチリと鳴り、その隣にシルフィードはちょこんと座りこんだ。

 本を開き、何度も読み返されたであろうくたびれたページとかすれた文字が目に入ってくる。

「昔々、これは遠い昔に起きたことです……」

  

 

 そして、時間は現在に戻る。

 

 

 物語の世界から帰ってきたジルとシルフィードは一息をつき、同時になんとも言えない虚無感を味わっていた。

「イーヴァルディ、どうなっちゃうのかね」

「さあね、普通なら迷宮を抜けて悪い魔物をやっつけるんだろう」

 燃えたページが戻ることはなく、結末はこの本を持っていた誰かしかわからない。廃墟を空虚な風が流れていく。ジルは廃墟を見渡したが、崩れ落ちた屋敷は何も語ってはくれない。

 ジルは、本のくたびれ具合から、元の持ち主が相当にこの本を愛読していたことを察した。捕らわれの女の子を助けて悪と戦う勇者イーヴァルディ。物語の形は様々あれど、その痛快なストーリーはハルケギニアの子供たちを魅了し続けてきた。

 この廃墟と化した屋敷に何があったのかは知らない。しかし、自由な心を持つ子供が住んでいたのは間違いないだろう。

 どんな子が住んでいたのだろうか。ジルはイーヴァルディの勇者の本のページをぺらぺらとめくると、表紙の裏に子供が書いたと思われる名前の落書きを見つけた。

「シャル……ロット?」

 その名前を読んだ瞬間、ジルは激しい違和感を覚えた。

 なんだ? 自分は、自分はこの名前を知っている。心の中の、抜け落ちた空白が埋まるような、大切ななにかがその名前の誰かにはあるような。

「シャルロット……? 誰だ? シャルロット」

 思い出せない。ジルは頭を抱えた。まるで、なにかが頭の中で記憶をせき止めているような。誰かに頭の中をいじくられているような、そんな感じさえ覚える。

 なにがなんなのだ? わけがわからない。ジルの額から脂汗が零れ落ちる。

 ここに来てから全てが変だ。この女といい……。

「シャルロット……シャルロットって、誰だ?」

 苦しむジル。そのときだった。シルフィードが、まるで何かに取りつかれたかのようにぽつりとつぶやいたのだ。

「おねえさまに……会いたいのね」

「な、に?」

 困惑がジルの中に広がる。さらに、ジルの耳にありえない音が聞こえてきた。

「なんだ? この音楽は」

 突然、廃墟のどこからともなく美しい旋律が流れてきたのだ。

 それは、まるで超一流のバイオリニストが弾いているような美しい音色の旋律で、この廃墟にはまるで不似合いなものであった。

 しかも、普通なら心を穏やかにする美しい旋律なのに、それを聞いたジルが感じたのは魂を抜かれるような強烈な虚脱感であったのだ。

「ぐぅぅぅ……ま、まさか。これが、村人たちが聞いたという、魂を吸う音なのか? ち、力が、抜ける」

 耳を押さえて音から逃れようとするジルだったが、音は手のひらをすり抜けて響いてきた。耳栓もまったく役に立たない。

 シルフィードは? すると、なんということだろうか。シルフィードは聞き惚れるかのように、うっとりと旋律に聞き入っている。そんな馬鹿な、この殺人音楽の中で平然としていられるなんてありえない。

「おねえさま……おねえさまに会いたい」

「まさか、お前……」

 オルレアン邸跡に、オーケストラのようにバイオリンの旋律が響き渡る。逃れられる場所などどこにもなかった。

 力がどんどん抜けていく。いくら熟練の狩人であるジルといえど、相手が音では太刀打ちする術がない。

「だめだ、頭が……ち、ちくしょう……」

 もう意識を保っていられない。ジルのまぶたが重くなり、全身の感覚がなくなっていく。

 瓦礫の中に倒れたジルの視界が暗くなり、魂が体から離れていくような浮遊感に包まれる。死ぬとはこういうことなのか……かろうじて握っていた弓が手から転げ落ち、イーヴァルディの勇者の本がばさりと投げ出される。

 これまでか……だが、そのときだった。

 

『サイレント』

 

 音を遮断する魔法のフィールドが張られて、ジルの魂は寸前で肉体からの剥離を免れた。

 殺人音波から解放され、ジルの意識が戻ってくる。そして目を開けて体を起こし、その瞳に魔法を使った誰かの姿が映りこんできた瞬間、ジルの心の中で空白だったパズルのピースのひとつに、鮮やかな群青の輝きが蘇ってきた。

「あ……ああ、お前」

「ジル」

 名前を呼ばれたとき、ジルの目からは自然と涙が溢れていた。ぼやけた視界に映るのは、青い髪、眼鏡の奥の涼やかな瞳、そして体に不釣り合いな大きな杖。

 あたしは、あたしはこの子を知っている。名前は、名前は……でも、絶対に知っていたはずの、大切な誰かだった。

「ジル、今はまだ思い出さないで。でも、あなたと、出来の悪いうちの使い魔は、わたしが守るから」

 彼女の傍らには、杖で頭をしこたま殴られて目を回しているシルフィードの姿がある。

 そして、彼女の頭上にはおどけた様子を見せながら浮遊している異形の人影がひとつ。

「うふふ、これはまた強力で邪悪なパワーを感じます。手を貸しましょうか? お姫様」

「黙っていて。あなたの茶番、今日で終わりにされたいの」

「おやおや、ガリアからここまで運んできてあげたのに冷たいですね。ま、頑張ってくださいませ」

 部外者の介入を封じて、彼女は杖を構えて廃墟の前に立った。

 すると、廃墟の瓦礫の中から古ぼけたバイオリンがひとりでに飛び出してきた。そいつは誰も触れていないはずなのに宙に浮いて弓を動かし、美しい旋律を響かせている。

 しかし、音はサイレントの魔法に阻まれている。するとどうだろう、バイオリンはみるみるうちに大きくなっていき、ヴィオラ、チェロ、コントラバスのサイズを経てさらに巨大化。ついにはバイオリンの姿を模した怪物へと変貌してしまったのだ!

「怪獣……」

「ノンノン、超獣ですよ」

 宇宙人の訂正したとおり、これは怪獣ではない。

 まるで木製のような茶色の体。胴体にはバイオリンと同じように四本の弦が張られ、手の指はバイオリンを弾き鳴らす弓のようになっている。頭にはバイオリンと同じく大きなスクロールと糸巻きがついており、まさに巨大なバイオリンそのものだ。

 バイオリンに超獣のエネルギーが取り付いて実体化した、その名もバイオリン超獣ギーゴンが現れたのだ!

 

 ギーゴンはその口から笑っているような声を発し、廃墟の瓦礫を踏みつけてながら向かってくる。しかし、彼女はひるむことなく、その手に持った杖を魔力を帯びた剣のようにかざして立ちふさがった。

「ここはわたしの思い出の日々の墓標。それを汚すものをわたしは許さない」

 朽ち果てるのを待つだけの廃墟。それでも、ここは自分にとって帰るべき家なのだ。タバサの心に、静かな怒りが湧く。

 しかし、タバサの心は冷静だ。ジルから直伝された狩人としての心得と、すべてを置いても守らねばならない人たちを背にした使命感が彼女を支えている。そして、もうひとつ……タバサは地面に転がるイーヴァルディの勇者の本を一瞥してつぶやいた。

「サリィ、わたしは小さいころ、勇者が迎えに来てくれるあなたにただ憧れてた。でも、その物語の最後であなたが教えてくれたこと、今ならわかる。わたしはイーヴァルディのような勇者じゃないけれど、勇者の姿はひとつじゃないということを、あの人たちに教わったから」

 かつて夢物語の勇者に思いをはせた少女は今、猛き戦士となって杖を振るう。その胸には、かつて地球を破滅から守り抜いた防衛組織『XIG』のワッペンが青く輝いている。

 ねじれた世界のはざまに人々の記憶とともに消えた少女。しかし、彼女は再び現れた。かつて失ってしまったものと同じくらい大切なもののために。

 

 しかし、邪念を食らう超獣。それがなぜここに現れたのか、その残酷な真実をまだ彼女は知らない。

 外部からの侵入者たちの手で歪められているハルケギニア。しかし、ハルケギニアが元々内包するゆがみからも邪悪は襲来する。

 誰の手を借りることもなく因果は巡る。時の歯車は無慈悲に回り、隠されていた闇をさらけ出す。

 

 

 続く

 

 

 

 

【挿絵表示】

 


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