アグネスタキオンというウマ娘は、知っての通りの問題児だ。教室を黒焦げにはするし、通りすがりのトレーナーをモルモットと称して実験に巻き込む。他にもいろいろなことをやらかしてはいるが、その反面レースには真摯に向き合い、彼女のその研究によって、数多くのウマ娘が救われた。そんな二面性のある彼女は今、私の目の前にあるものを置いた。
「タキオンさん……何をしているんですか」
「見ての通りだよ、カフェ。ティータイムの準備さ」
そういうことではない。彼女が用意しているのはどう見ても紅茶である。私はコーヒーの方が好きだということをわかっているくせに、今日はなぜ紅茶なのか。胡乱な目を向けているのに気が付いたのか、彼女が口を開き始めた。
「なぜ紅茶なのか、答えは簡単だよ。コーヒー豆、切らしていたのを忘れたのかい?」
「…………あ」
そうだった。実家の喫茶店がここ最近繁盛しているおかげで、私の方に豆を回す余裕がないと知らされていたのを忘れていた。あとで、買いに行かなければ。そう思っていたのだが、軽く手に取った本が予想以上に面白くて夢中になってしまっていたようだ。
「まぁ、後で買いに行くのなら私も手伝うさ。その代わり、ティータイムには付き合っておくれよ」
「はぁ……しょうがないですね……」
「決まりだね。なら、そこで待っていたまえ。少しばかりキッチンを借りるよ」
「タキオンさんが……料理……?」
意外、だった。私の知っているアグネスタキオンというウマ娘は、トレーナーが見つかるまでは食材をミキサーにかけて液体にしたものを摂取していたり、トレーナーが見つかってからはそのトレーナーに弁当を作ることをせがんだりと、とにかく料理という言葉とは無縁である人物だったはずだが……。
「私は基本的に料理なんて無駄な行為はしたくないんだよ。だが、これだけは自分の手で作ると決めていてね。なにせ私の母が唯一好んでいたお菓子だから」
「タキオンさんの……お母さん、ですか……」
そういえば、彼女の家族の話を聞くのはこれが初めてだった。もしかしたら、彼女がなぜあそこまでウマ娘の可能性を追い求めるのかという疑問の、答えにたどり着けるかもしれない。
「話してもいいがその前に……ほら、出来上がりだ」
「これは……甘くて、いい匂い……オレンジかな……」
「クレープシュゼット、というお菓子でね。察しの通りオレンジを使っているよ」
そのお菓子、シュゼットはクレープ生地の上にマーマレードジャムをかけて、スライスしたオレンジを乗せて甘いにおいを醸し出していた。シュゼットのそばに添えられているオレンジ色の花には、見覚えがあった。確かこれは……。
「添えられているこの花……これは……エアリーフローラ?」
「知っていたとは驚きだねぇ、君にそんな趣味があったとは」
「いずれ登山する予定の、白山がある石川県を調べていた時にたまたま知っていただけですよ……」
「まぁいいさ、早く食べたまえ。せっかくこの私が作ったんだ、無駄にしてくれるなよ?」
「はいはい……では、いただきます……」
口に含んだシュゼットは、ほのかな甘さと酸味がクレープの生地とよく合っていて、とても美味しかった。それこそ、あのアグネスタキオンが作った料理だということを忘れてしまうくらいに。そのまま言葉を発することもなく、ただ黙々と、味わうことに集中していた私は、いつの間にかすべて食べてしまっていたことに気が付かなかった。特に抵抗もなく紅茶を口にしていたことにも。
「どうやら、お気に召したようだねぇ」
「はい、ですがまさかアナタがこんなに美味しいものを作れるとは……」
「まぁ、この学園に来てからはずっと研究に集中していたからねぇ。今日はたまたま、気が向いたから作っただけだよ」
なるほど、確かに。彼女は入学して以来ずっと寝る間も惜しんで研究に没頭していた。それは、あの食生活が証明している。だが、そこまで大事な研究よりも優先するシュゼットは、いったい何なのだろうか。先ほどは彼女の母が唯一好んでいたお菓子であると聞いていたが……。
「タキオンさん……先ほど話していた……あなたのお母さんのお話を聞きたいのですが……」
「ん?あぁ、いいとも。少しばかり長くはなるかもしれないが、大丈夫かい?」
「2時間程度でしたら……あまり長引くと買い物に行けなくなるかもしれませんし……」
「わかったよ、カフェ。私の母は、それはそれは素晴らしい成績を残したウマ娘でね、桜花賞とオークスで勝利していたダブルティアラウマ娘だよ。ただ、オークスの後に屈腱炎を発症してね、秋華賞に出れぬまま引退してしまったのさ」
「聞いたことがあります……その人の話は……まさかあの人があなたのお母さんだったとは……」
「おや、知っていたのか。まぁいい。そして親に決められた許嫁と結婚して、私を産んだのさ。あぁ、別に私の父との関係が悪いわけではないよ、むしろ良好なまである。生まれてきた私を、それはそれは溺愛していたものさ。ただ、今でも母は後悔しているんだ」
「何を、ですか」
「ワタシを丈夫に産めなかったことさ」
そのとき、私は川の前に立っている幻覚を見た。そして、その川を渡ればもう戻れなくなる。その川は私にとってのルビコン川であると、理由はわからないが、そう確信していた。まだ、引き返せたのかもしれない。だが、その時の私には引き返すという選択肢は存在していなかった。だから、踏み込んだ。
「タキオンさん……アナタが研究をしている理由は、そこにあるんですか」
「…………少し、昔話をしようか」
はぐらかされた、そう捉えてもいいような答え方であった。話をそらして、その領域に踏み込ませまいとするような。しかし、私は彼女にはぐらかす気はなく、彼女なりに真摯に答えようとしていると、そう信じていた。
「意外かもしれないが、子供のころの私は花を愛で、蝶を追いかける、こんな研究とは無縁の純朴な少女だったよ。」
「そう、なんですね……」
「このシュゼットは、先ほど言った通り母の好物でね。週に一度母が作ってくれるそれを、家族で食べるのが幼い私の楽しみだったものさ」
「母と父と仲良く3人でピクニックにも行ったものさ。私が花冠を作っているところを父が写真に収め、それを見ている母が笑っているところは今でも思い出せるよ。ただ、すべてが変わったのはあの日。そう、私の脚に爆弾があることが発覚した日さ」
◇
「残念ながら、あなたのお子さんの脚は非常に脆いです。いつ故障するかもわからない爆弾を抱えているようなものです。このような脚では、レースの世界に足を踏み入れるのは……」
「う、嘘でしょう……そんな……先生、何とかならないんですか!?」
「誠に申し訳ございませんが、現代の医学ではどうにもならないですね……」
「そ、そんな……あぁ……」
「ママ、わたし、はしれないの?レースに、でられないの?」
「ごめんね……!ごめんね……!タキオン……!」
◇
「その日から、両親は変わってしまった」
初めてみる顔だった。あの、いつも不敵な笑みを浮かべているアグネスタキオンが浮かべているとはとても思えないくらいに、悲し気な笑顔だった。
「母は私を見るたびに泣きそうなくらいに悲痛な笑みを浮かべるようになり、夜な夜なすすり泣くようになってしまってね」
なぜだか、その様子が目に浮かんだ。きっとそれは、アグネスタキオンというウマ娘が抱く、深い愛がシュゼットの甘さを通じて私に伝わったからだろう。それが真実でも、空言でもどうでもよかった。そう、信じたかった。
「父も、それを見て常に辛い顔をするようになって、私とどう関わっていいかわからなくなり、会話は激減した」
やれやれ、とでも言いたげな口調とは裏腹に、目尻にはかすかに涙が見えた。きっとそれは、当時のアグネスタキオンにはとても酷な出来事だったのだろう。
「私は、母の笑顔をなんとか取り戻そうと必死に努力したよ。このシュゼットの作り方も、その時に学んだものでね。だが、それを見た母は余計に悲し気な笑みを浮かべてね。そのうち作るのを辞めてしまったよ」
「そして、ある日見つけたんだ」
「父が読み終えて放置していた雑誌の片隅に掲載されていた、とある研究論文を」
◇
「『ウマムスコンドリアには、ウマ娘の脚に作用して筋骨格を丈夫にする効果がある。定説では、生まれつき保有量が決まっているはずのこの物質だが、長年の研究により保有量を増加させられることが明らかになった。どういった方法で増加させられるのかは未だ不明である。しかしいつの日か、その方法が発見された時は、ウマ娘のレースに革命がおこるであろう。』……これだ……これがあれば……わたしもレースに出られるんだ……わたしのあしがじょうぶなら……ママもまたきっと笑ってくれる……なら、見つけなきゃ。この脚を丈夫にして、いつの日かレースに出られるようにする方法を。そして、取り戻すんだ……お母さんの笑顔を……!」
◇
「その日から、私は猛勉強を始めたよ」
「純朴な少女である『わたし』を捨てて、研究のためにすべてを捧げる『私』を生み出した。幸か不幸か、私には才能があったようでね。論文の内容を完璧に理解するのにそう時間はかからなかった。そして、研究を始めたんだが、子供であった私に出来ることはタカが知れていてね、研究は全く進まなかったよ。」
「それでも諦めなかった私に、一筋の光明が見えたんだよ」
「それが……トレセン学園……」
「そう、私はそれに縋るような思いで入学した。そして、これまでとは比べ物にならないほどの設備と潤沢な予算によって、私は思う存分研究を進められた。実際にその副産物として、色々な薬品が世に出たものさ」
「だが、肝心のウマ娘の脚を丈夫にする研究はまったくもって進まなかった」
「そして、刻一刻と時は過ぎ、あの日を迎えた」
「あなたが、トレーナーと契約した日……」
「その日こそ、私の研究が新たなステージに進んだ日さ。あとは、君の知る通りトゥインクル・シリーズの3年間を駆け抜け、URAファイナルズを制覇した、というわけだよ」
私は、アグネスタキオンというウマ娘を理解したと錯覚していた。アグネスタキオンは、何を考えているかよくわからない、マッドサイエンティストだと。だが、違った。むしろレースに向き合う真摯な姿勢の方が、本来のアグネスタキオンなのだろう。なるほど、私を執拗に実験台にしようとするのも、私の爪の弱さに気づいていたが故だったのかもしれない。
「ふふ……不器用な人……」
「おや、何か言ったかい?カフェ」
「いえ、何も。ただ、今日の紅茶は悪くありませんでしたよ」
「そうかい、さて、約束した通り君の買い物に付き合ってあげよう。なぁに、荷物持ちくらいにはなれるさ」
「そうですね、ありがとうございます……」
シュゼットも美味しかったし、たまには、紅茶も悪くないかもしれない。そう思うある日の夕方の一幕であった。
「待てよ……さっきの言葉……ついにカフェも紅茶の道に目覚めたのかい!?」
「あまりふざけたことを言っていると蹴りますよ?」
……前言撤回。やはりこの人は油断ならない。