バイトの帰り道、ふと思い立ってドーナツでも買っていこうかと思った。
夜の繁華街。そこまで広くもない大通りには、店の呼び込みだの酔っぱらいの集団だのがうんざりするほどいる。
この時間になると必ず目の当たりにする光景に毎度辟易しつつ、私はチェーン店のドーナツ屋で用を済ませた。
腕に抱えた茶色い紙箱。中には六つのドーナツ。私は二つだけ貰おう。時間も時間だ。あまり食べると太る。
騒がしくうんざりする繁華街を抜けて、私は今日最後の目的地に着いた。大きなマンション。鍵を使って入り口のオートロックドアを抜ける。エレベータに入り6のボタン。そのまま603号室。
「ただいま」
「おかえり」
まるで家族か何かのようなやり取りをして部屋に上がる。いい部屋に住んでやがると初めて来た時は思った。
「ドーナツ買ってきたよ」
リビングの机に茶色い紙箱を置く。テレビがついている。テレビというよりモニターか。何かしらのゲームが途中で止まっている。
「いいね」
シュウが白い皿を戸棚から持ってきて、机の上に置いた。
「あたし二つでいいや。六つ買ってきたから。四つ食べて」
「ありがと」
白い皿にドーナツを広げる。私はそのうちの一つに手を伸ばす。彼は別の一つに手を伸ばした。
「旨い」
と彼が言った。多分一人の時はこんな事言わずに黙々と食べるんだろうなと思った。
「美味しいね」
と、私も一人の時には言わない事を言った。
一つ目を食べ終わり、私は二つ目のドーナツに手を伸ばす。彼はもう三つ目のドーナツに口をつけていた。
「今日さ」
「ん?」
「斎藤に会ったよ」
「え。斎藤って、斎藤先生?」
「うん」
「マジ?」
「マジ。配達の時にさ。チャイム押したら斎藤が出てきた」
「え、すごい。偶然?そんなことあるんだ」
「でも」
言いながら彼はウェットティッシュで手を拭いている。三つ目のドーナツはもう無くなっていた。
「向こう俺のこと覚えてなかったみたい。全然気づいてなかった」
「あら」
「俺も話すこと別になかったし、知らないふりして荷物渡して、そのまま何もなく終わった。教師は記憶力良いから教えた生徒の顔全部覚えてるって聞いたことあるけど、斎藤は違ったみたい」
「そうなんだ。しっかりしてそうな人だったけど」
「頭白髪になってたし、歳には勝てないんじゃない」
「へえ……」
言いながらあたしは三つ目のドーナツに手を伸ばす。確か自分の分は二つとしていた気がするが、まあいいや。
「続きやっていい?」
と、彼が言った。止まっているゲームのことだろう。
「どうぞ」
「ん」
シュウがコントローラを手にとって、画面が動き始めた。来る度にゲームをやっている気がする。よく飽きないもんだ。
「ドーナツのさ」
と、モニターと目を合わせたまま彼が言った。
「穴を食べるにはどうすればいいか、って話知ってる?」
「は?」
言っていることの意味がわからず、あたしは聞き返す。
「ドーナツの穴を食べるにはどうすればいいでしょう?ってやつ。聞いたことない?」
「全然。なにそれ」
「ドーナツって穴があるじゃん」
「うん」
「穴は空洞だから、食べようとしても食べれない。でも周りには生地があるからそこは食べられる。じゃあひとまずそこから食べてみる。するといつの間にか穴はなくなっている。でも穴を食べた実感なんて全然ない。食べれたかどうかすらわからない。じゃあ、ドーナツの穴を食べるには一体どうすればいいんだろう?……っていう話」
と、シュウは長々と語ってくれたが、とりあえずあたしが言えそうなことは、
「女子の前で穴穴言わないでくれる?」
このくらいだった。
「そういう話じゃないよ」
苦笑しながら彼が言う。そのくらい分かっているが、
「急に変な話するんだもん。何よ、ドーナツの穴がどうたらって」
「ドーナツ見たら思い出したんだよ。こんな変わった話があったなぁって」
あたしは手に持っているドーナツを見る。もう半分ほど食べていて、Cの字の隙間が広がったような、半円の形をしていた。
シュウは相変わらずモニターから目を離さない。コントローラがかちゃかちゃ鳴っている。
「斎藤に会った時さ」
と、しばらくして口を開いた。
「俺たちはただの配達人と受取人だったよ。昔はあんだけ仲が良かったのに。目の前で呼び捨てにしても全然怒らないような人だったのに。向こうは俺のこと覚えてなくて、俺は何も話すことなかったから知らないふりした。もう何も無くなっちゃってたんだよ」
あたしは残りのドーナツをさらに半分食べる。もう小さなパンのような形になっていて、そのまま口に放り込める大きさだった。
「あの楽しかった時間がまるで無かったことになったような、そんな気持ちになった。ちょっと寂しかったな」
あたしはドーナツの最後のひとかけらを口に放った。
「無くなっちゃったんだね」
むしゃむしゃと噛んで、そのまま飲み込んだ。
砂糖をまぶしたドーナツの、甘い味がした。