通話が切れ、画面に終了の文字が現れる。
敵陣営として言える事は言ったつもりだったが、それを正直に受け取ってくれるとは思えない。そんな事をシンボリルドルフのトレーナーは考えた。
合宿中には担当に発破をかけたはいいものの、いざ菊花賞での出走が近づいてくると本当に大丈夫か迷う気持ちが生まれてくる。予測不可能な要素の多さが安心を揺らがせる。
今もレースコースを走り続ける彼女の姿を眺めながら、険しい表情を見られる前に切り替えようと視線を彷徨わせていると、こちらへ歩いてくる女性が二人見える。
「こちらに来ていたんですね」
「樫本トレーナーと桐生院トレーナー。何かありました?」
「次の練習予定……と、それから、菊花賞についてを少し……」
「なるほど。少し待ってください……ルドルフ!」
少し離れた場所を走るシンボリルドルフに声を掛けると、その足が少しずつ緩み、止まる。
顔を向けたので少し話をするのでメニューが終わり次第次のメニューに移るように伝えると、分かったと返事が聞こえまた走り出した。
「おまたせしました……どうしたんですか、二人とも」
視線を二人に戻すと、両者共に視線がシンボリルドルフに向かっている。どちらも目を丸くし、そして真剣にその走る姿を見ていた。
「…これは……」
「合宿中の様子も見ていたはずなのに……!」
「……ああ、そうですね。ここ暫くはずっと調子が安定しています」
「セントライト記念のレース映像は私も見ましたが、ここまでとは……、リトルココンとビターグラッセも遅かれ早かれ彼女とは対戦する事になるでしょう、少しでも差を縮める必要はありますね……」
樫本は即座にこれからの方針を組み立て始める一方、桐生院は不安気にトレーナーへ視線を向ける。
「……菊花賞は、どうなるでしょうか……」
「少なくとも今の様子だと、ルドルフとスタートワンの一騎打ちになる可能性が高いだろうな」
「これまでの戦績で見れば、シンボリルドルフさんの方が有利に思えますが……。あの前走を見ると、そう言い切る自信が少し無くなります」
「長距離、それも不調を加味して尚か……」
「……スタートワンさんがどう出るか。そこによっては展開も大きく変化するでしょう……巻き込まれる他の子達、何とも間の悪さを感じてしまいますが」
思考を止め、樫本が二人の会話に続ける。前走の様子から見ても両者の出方によって菊花賞の結果は様変わりする。
それはどちらがどう進めたとしても、他の者達にとっては必ず強烈な不利を生み出す。セントライト記念のように蹴散らされるか神戸新聞杯のように潰されるかという二者択一はどちらを選んでも最悪の一言に尽きるだろう。
「正直な事を言えば、スタートワンの能力でルドルフに勝つことは不可能だと思っている」
「それは、やはり後遺症の点から?」
「要素としては大きいが……それ以上にもっと根本的な、違いのようなものがあると思う」
「……。」
桐生院は言葉に迷い、そして閉口する。事実としてすっぱりと言い切られたその切れ味が、反論さえも許さない鋭さを持っていた。
「デビュー以前からその差については常々周囲でも言われていた事だし、俺自身、ルドルフへの評価には贔屓目がある。その上でスタートワンが勝つことは無いと思っているのも確かだ」
「元々スタートワンさんの距離適性は長距離だったと見られていますし、彼女自身もそう考えています。菊花賞当日も、同じようにシンボリルドルフさんが勝つと?」
「絶対にです。スタートワンではルドルフには絶対に勝てない」
空気さえ切り裂いてしまいそうな、確信を持った断言。樫本も桐生院も、真っすぐシンボリルドルフを見つめるその姿に思わず息を呑む。
樫本が少し怯みながらも問う。
「……今のスタートワンさんは今までとは違います。それでも?」
「有り得ません。ダービーまでならまだしも、今の彼女では猶更に」
「距離以上の問題がある、という事ですか?」
「勿論距離についてもです。菊花賞より、ホープフルステークスや皐月賞の方が互いにとって万全に挑めたでしょう……こればかりは皐月賞の時、その万全で競えなかった事が心苦しくはあります」
ここまでの六戦で最大の誤算は皐月賞だった、とトレーナーは続ける。レース中のアクシデント自体は防ぐことが難しい、それは理解している。それ以上に大きかったのは、シンボリルドルフの接触が間接的にと言えスタートワンの走行を妨害したという事だろう。
皐月賞のあれさえなければ、という声がSNSを始め各所で散見されたのも見ていた。スタートワンが神戸新聞杯で見せた異常も皐月賞が原因にあるのでは、という声が世間に燻っているのも知っている。予想外への対処とその後の対応という点では、自分達よりもスタートワン陣営の方がよほど冷静だった。それほどに、アクシデントが生んだ動揺はシンボリルドルフに大きな衝撃を与えた。
完成された『皇帝』に生まれた揺らぎ。外様の友人という存在の与えたそれに対応するのは難しい事では無かったが、その上で常にライバルとしてのスタートワンを上方修正し続けた。
「どんな事があっても揺るがないための精神。ルドルフが既に持っているそれも、スタートワンの前ではどうしても脆くなる。柵無く真正面からぶつかれる、そんな彼女の存在を嬉しく思いながら、それでも打倒しなければならないからだろう。だからこそダービーは本気で挑んだ」
日本ダービーでの展開は、予想以上に予想通りになるよう注意した。あらゆる可能性を考慮し、あらゆる陣営の動きを対策した。アクシデントさえ対応出来るようにし、結果は盤石の勝利。一バ身の間はその証とも言えた。
菊花賞も同じように進めるだけ。その最中でのスタートワンの不調と異常は、再びの試練となる。
「菊花賞前にスタートワンの調子が大きく崩れたのは予想外だったし、ルドルフにとっても良い事じゃない。だがそれを三冠で負ける理由にしてはいけない。俺はトレーナーなんだ、何を言われても、何をしようともルドルフに三冠を取らせるのが役目だ」
どれだけ悩む事があろうとも、そこを間違えてはいけない。自分が躓くならまだしも、教え子まで躓かせるわけにはいかない。その為にトレーナーとして居るのだから。
「その上でもう一つ分かるのは、今のスタートワンは雑念に飲まれている」
「雑念、ですか」
「何が彼女の思考を圧迫しているかは分からない。でも、あの神戸新聞杯を見て確信を持った。今の彼女は勝つ事そのものへの執着が優先して走りが疎かになっているんだ」
「勝利を欲するあまり、走りを鈍らせていると?」
「そうなります」
スタートワンの最も脅威を感じる点は勝利に対する一切の妥協が無い事だった。諸刃の力に頼らざるを得ない己の状況を理解しながら、その使い方を考え、使う時は一切手を緩める事無く走る。しかしその走りはああまで滅茶苦茶では無く、一瞬でも気を緩めれば間違いなく追い抜かれると思わせるだけの気迫があった。
「今のスタートワンも強い。彼女がああなってまで菊花賞に出ようとしているのは、やはりルドルフが居るからだろう。何があったとしても、絶対に菊花賞に出てくる覚悟は脅威だ。だが勝ちたい思いが先行するあまり冷静さを失っている。ルドルフも今の彼女に負けるくらいなら他の選手に負ける事を選ぶだろう」
気迫という点だけで言えば神戸新聞杯のそれにもある。しかしそれは勝利への執着のみで動く力であり、スタートワンが元々持っていたものではない。本来の強みが活かせない今の状態で、シンボリルドルフに勝つことは不可能だ。
それは彼女のトレーナーも気付いている事だろう。その上で出走を決めざるを得なかった。ならば此方はそれを理解したうえで、一切の妥協無く勝利するまで。
「凄まじい覚悟ですね……」
「…、そこまで力強く言えた事では無いですがね。勿論レースはレース。菊花賞を勝つと言っても、必ずそうなるとは言えません。それでも俺は言います。今のスタートワンはルドルフに勝てないと」
「それが、貴方とシンボリルドルフさんの信頼の形ですか」
「……ええ。菊花賞を勝つのは俺達です」
樫本の言葉に一瞬迷い、頷く。本心には、トレーナーもスタートワンには恩を感じているところがあった。
スカウトのきっかけの一つである選抜レース、シンボリルドルフの強さを際立たせたのは最終直線で見せたスタートワンの猛攻があったから。デビューを目指しトレーニングを積む際も、共に競う予定を組み切磋琢磨する事で効率的な成長を促せた。マルゼンスキーとハッピーミークとのトレーニングのハードルが低くなったのも、ミスターシービーをはじめとする他の参加者が増えたのも、シンボリルドルフではなくスタートワンの存在が大きい事は事実だった。
ホープフルステークス、皐月賞、日本ダービー。ここまでの三戦でシンボリルドルフの人気に一層の盛り上がりがあったのも、連続での三冠というだけでなく台頭した彼女のライバルという演出が少なからずあるだろう。
学園の規範であろうと何処か硬い空気を纏う事が多かった契約直後と比べると、夏合宿の頃などはその柔らかい笑みで多くの生徒を魅了する程だった。同じ学年の生徒とも気安く接する事が出来るんだ。そう嬉しそうに語るシンボリルドルフの顔は、契約する相手を選ぶあの日見せた写真のように華やいでいた。
スタートワンの存在は、シンボリルドルフの周りを彩るかのように在り続けた。まるで輝きを強めるために、その陰に隠れようとするかのようにこの一年半を鮮やかにした。
こんな言い方をすれば、きっと彼女の担当は顔を思い切り顰めるだろう。彼女自身がどう受け取るかは分からない。そこまでの距離は、お互いに近く無かった。分かるのは勝利への執着――――勝利は勝利でも、
「何としても、勝たなければいけないんです」
だから、シンボリルドルフのトレーナーとして。
スタートワンが何もかもを犠牲にしようとしてまで得ようとしているシンボリルドルフからの勝利を、全力で阻止する。
その姿になってまで得ようとしている冠を渡せない事を。
冠を得るため、そんな姿になってはいけない事を。
その姿を見て、それでも共に堕ちようとしている者が居る事を。
その全てが間違っている事を、勝利によって見せつけなければならない。
樫本も桐生院もトレーナーに気圧されたのか、表情が硬くなる。残る僅かな出走までの時間を無駄にできない。それを言外に含んだ重く、激しい力を伴う言葉だった。
言いたい事を言い切ったからか「では、俺はトレーニングに戻ります」とその場を離れようとした彼を、樫本の漏らした独白が止める。
「ここまで来て言う事でもありませんが……はやり、彼女の学園での生活には、もっと声を掛けるべきだったと思っています」
「スタートワンの、ですか?」
「ええ。以前から彼女には無理をしないように言っていたのですが、それでも一切手を緩めず……」
「…、俺から言える事でもありませんが、アイツが扱いに困るレベルなら、スタートワンのトレーナーでない樫本トレーナーから出来る事は殆ど無いでしょう。考え込んでも、仕方ない事ではあります」
「そこまで言いますか……」
「私から言える事ではないかもしれませんが、私から見てもスタートワンさんはとても頑固な人ですし……」
桐生院にも心当たりはあるらしい。申し訳なさそうな顔はしているが、言いたくなる程度には引っかかる事なのだろう。
「アイツの苦労が目に見えるようですよ」
「今も何とかしようと、頑張っているのでしょうね……」
「我々は託すしかないという事でしょうね。彼女の事を」
結局、どれだけ考えを巡らせようとも、担当トレーナーなのはここに居る三人では無い。
菊花賞までに、菊花賞後にどうなるかを選べるのは、彼一人なのだ。同じ師の下、共に学んだ者としての協力は惜しまないつもりで、呟いた言葉が寒さを強めた空気に消えていく。
「本当になんとかしろよ。お前しか出来ないんだぞ」
菊花賞が、来る。