野良の黒猫と出会うジャガーノートの話。

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くろねこジャガーノート

 いつもの魔界。貿易都市リーゼ。

 買い物を済ませた魔剣使いとジャガーノートは、自宅へと帰る途中だった。食材や日用品で埋まった手提げ袋で二人の両手は埋まっている。

 市場を抜け、大通りを進んで細い路地に入り、曲がり角を数回超えた先に二人の家はある。町の中心部から離れた三階建ての一軒家。都市の端っこであること、治安が悪いことなどから中級魔剣使いの彼でも払えるほどの家賃に抑えられている。

 玄関扉の前までたどり着き、魔剣使いが家の鍵を取り出そうとポケットに手を入れるが、手ごたえがない。鍵はどこかと魔剣使いが探しているのを待つ間に、ジャガーノートの視界に黒い生き物の姿が映った。

 四本足で、背は滑らかに曲がっており、尻尾に続く体のラインが美しい。光を飲み込むような黒い毛並みの猫だった。

 ちょうど二人の家と隣の家との間にできている道とも言えない細い隙間から歩いてきたようで、しっぽの先がまだその隙間に隠れている。あちらこちらに顔を向けながらじりじりと歩いたかと思えば、一瞬の内に道路を超えた向かいの家屋の塀の上に渡っていた。ちらりとジャガーノートの方を見やり、塀の向こう側に降りて行ってしまった。

 

「よし、やっと空いた。待たせたジャガーノート、入れるぞ」

「…。はーい」

 

 生返事をして、ジャガーノートはしばらく黒猫の去った方を見つめていた。

 

 

 

 次の日も黒猫の姿は見えた。

 その日は任務の予定のない日で休日のはずだったが、魔剣使いはギルドに用事があるということで、ジャガーノートは自宅の留守を任されていた。

 とはいってもやることはない。半分人間を辞めたような魔剣使いの家に盗みに入ったりする人間もいなければ、正真正銘人間でない魔剣少女を襲おうとする人間もまた居ないからだ。半殺しの目に合うのは明らかだった。

 その様な訳で留守の役目には十分だが、やることがないことが問題だった。

 魔界の娯楽は少ないわけではないが、魔装具(スマホ)でマカインスタを見るのも飽きたし、かといってマスターが買って集めている本を読むことに惹かれるわけでもない。家の中でじっとするのにもなんだかうんざりして、散歩に出ることに決めた。

 目的地があるわけではない。少し外をふらついて、魔剣使いが帰ってくる時間まで気が紛れれば十分だ。

 思いつくさま直ぐに、と家を出るまでは良かった。

 しかし残念なことに、ジャガーノートは近所の散歩を楽しむような性格でもなかった。買い物で通る道やギルドまでの道を避けて知らない場所を散策しても、どこも寂れた風景が変わらず、すぐに飽きてしまった。あるのは汚い道とボロボロの家屋だけだった。

 もう帰ろうかな。今度こそまいってしまったジャガーノートの前に現れたのは昨日見た黒猫だった。

 入り組んだ路地の先で、何かを口と二つの腕で抑えている。何を押さえているのかは日陰の暗さで良く見えなかった。

 それが気になって、その猫を刺激しないようにゆっくりと近づいてみた。一歩前に踏み出しただけで、その猫が背を強張らせてこちらに鋭い目線を向けながら後ずさったので、その後は一歩進むのに何秒もかけて驚かせないようにした。

 それが功を奏したのか、猫に逃げられることなく、その目の前にたどり着くことが出来た。

 ここで逃げられてはたまらない。先ほどまでの緊張を保ちながらゆっくりしゃがみ、日陰で見えなかった、猫の口に収まるそれの正体を知り得た。

 猫は鼠を捕まえてまさに食しているところだったのだ。

 茶色の毛並みの鼠は頭を丸ごと黒猫に咥えられ、何度も顎を動かして咀嚼運動のようなものをされている。まだ息があるのか、猫の口からはみ出ている胴体から下の部分、その先端の細長い脚は痙攣したようにたまに跳ねていた。やがて何回も咀嚼のように顎を動かしたり、少し吐き出して咥え直したりして鼠の咥え方を調整すると、グ、グ、グと猫は鼠を丸ごと飲み込んでしまった。

 

「………」

 

 食事を終えた猫はジャガーノートをしばし見つめ続け、とうとうその場に座り込んでしまった。体を丸めて、無防備にも毛づくろいまで始めている。ジャガーノートまで気が抜けてきた。

「ごはんはおいしかったですかー?もうお腹いっぱいになっちゃいましたかー?」

 なんだか催促されている気になってきて、猫の体を撫でた。手を伸ばしても、触っても逃げる素振りも無いので、撫でることを認められているようだ。案外他の人間たちにもこうしていて、実は人懐っこい猫だったりするのかもしれない。

 毛はゴワゴワとしていて、油もついている。野良猫特有の汚さだ。手が汚れるのは間違いないが、そんなことは気にせずに撫で続ける。

 猫の気持ちよさそうなところを探りながら撫でていくうち、猫がごろんと寝返ってお腹を見せびらかした。

 

「君は本当に人懐っこいですねー?こーんなに無防備におなかを見せちゃうなんて。本当に野良猫なんですかー?」

 

 うりうり。人差し指で猫の顎の下をつつく様に撫でる。うざったいのか、追い払うように頭を振って拒否された。これ以上機嫌が悪くなったら逃げられてしまうかもしれないので、希望通りに撫でる手を猫のお腹に移した。

そうすると猫の機嫌はすぐ直った。目を細め、手足を広げてぐるると小さく鳴く姿は、気持ちいいことを全身でアピールしている様だった。

 

「だらしない姿ですねー。さっきは鼠さんを咥えてあんなにいたぶっていたのにー」

 

 捕食者、鼠よりも生物的強者であった威風はどこにも見当たらない。人から与えられる快楽を享受するだけの愛玩動物に成り下がっている。

 猫のお腹に手を当てると、毛の奥から生物特有の温かさと心臓の鼓動がかすかに伝わってくる。お腹をさする手を腹部から胸へと滑らせると心臓の鼓動はより大きく伝わり、あばら骨の凹凸が皮膚越しに感じられた。

 口から食道が首の中で繋がっていて、それなら胃はこの辺りだろうか、とアタリをつけて猫の胸を撫でる。

 さっき丸のみにされた鼠。生きたまま飲み込まれたあの子はこの毛と肉の向こうでまだ生きているのだろうか。顎で頭を捕まれ、嚥下され、狭い食道で体全体を圧迫され、息もまともに出来ない胃の中で生きたまま消化されているのだろうか。

 それはきっと苦しいだろう。

 もしかしたら、苦しまずに死ぬことを望んでいるかもしれない。

 

「……救ってほしいですかー」

 

 この鼠がそれを望んでいるのなら、猫の腹を裂いて、あるいは猫ごと私の斧で叩き潰して鼠を救ってあげることが出来るだろう。私にはそれが出来るし、私はその為の魔剣だ。だから、この鼠が救済を望むのなら。

 なんて考えていた時だった。

 

「ジャガーノート?」

 

 後ろからよく知る声がかかった。

 

「マスターさん」

「何してるんだ、こんなとこで」

「この子と遊んでいたんですよー、って、あれ?」

 

 マスターに振り向いた頭を猫の方に戻したとき、そこには誰もいなかった。

 

「誰かいたのか?」

 

 いつの間に消えたのだろうか。マスターも気づけない逃げ足だったようだ。

 

「………」

 

 残った温度を確かめるように掌をさすり、つい先ほどまで触れていた彼、あるいは彼女が間違いなく居たことを確かめる。

 

「…。何か用がないなら帰るぞ」

「…はい。帰りましょうかー」

 

 

 

 その日以降もジャガーノートはあの黒猫と時々出くわす日があった。

 買い物のついでに寄り道をしてみれば民家の屋根上で昼寝をしている姿を見つけたし、他の野良猫となにか争って唸っているような場面を覗いたこともあった。

 そうして見つける度に近づいていって交流を試みた。最初は警戒されていたが、初めて会った時のようにゆっくり近寄った。黒猫もジャガーノートのことを覚えていたのか、数回出会う頃には警戒も大分解け、黒猫の方から近づいてくるようにもなった。

 

「また会いましたねー」

 

 最初に出会ったような薄暗い細い路地で、手を伸ばせば届く程寄ってきた黒猫がジャガーノートを見上げてくる。

 また催促されているのかな、と思って、しゃがんだジャガーノートは黒猫の喉のあたりをくすぐるように撫でた。黒い毛並みの感触はもう慣れ親しんだものだった。

 

「うふふ。あなたは本当に気持ちよさそうにしますねー」

 

 目を細めて尻尾を屹立させる姿は分かりやすく満足気であった。野良猫であることが疑わしいくらいだ。

 

「今日は、こんなものを持ってきました」

 

 手に提げた鞄から品を取り出す。包みに覆われたそれは商店街で見つけた干し肉だ。包みを開き、干し肉本体を露出させて猫に見せる。

 

「欲しいですか?」

 

 それを見た途端、黒猫は目を爛々と輝かせ、牙と爪をむき出しにした。一目散に飛びかかろうとして、獲物はひょいと高く掲げられた。

 

「うわ、まさかここまで反応するとは…。もうちょっと落ち着いてくれませんかー」

 

 苦笑気味に掲げた干し肉をひらひらと回せて、黒猫さーん、と反応を窺う。

 頭上で弄ばれている獲物から目を離さず、体を屈めて飛び掛かるタイミングを窺っている。尋常じゃない目つきと真っ直ぐ立った尻尾から鬼気迫るほどの欲求が伝わる。その様子を見ていると、あまりいじり回すのもなんだか悪い気分になってきた。

 このままこの餌を下げたら力づくで奪われそうなので、空いている手を黒猫の頭に置いて抑えておく。

 

「はーい、そのまま落ち着いてくださいねー。ちゃんとあげますからねー」

 

 どうどう、と宥めすかして落ち着いてきた。

 

「いい子ですね。それじゃあお待ちかねの…」

「そこまで」

 

 聞き覚えのある声と共に、黒猫に差し出そうとした手が後ろから握られていた。

 

「…マスター、さん」

「野良猫に餌をやるのはまずいだろう」

「…自慢してただけですよー?」

「猫相手にかよ」

「…」

 

 魔剣使いが呆れたようにジャガーノートを見て、ため息をついた。

 

「野良猫に餌をあげてはいけませんって、町で決められてる」

「だからだめ、ですかー?」

「決められてるなりの理由があるってことだ。餌付けは猫の繁殖につながる。猫が増えると糞やらで街の衛生が悪化したり、疫病に繋がったりする、みたいにな」

「…分かりましたよー」

 

 ジャガーノートは観念したように干し肉を包みに戻し、手提げ鞄にしまう。

 

「まあ、妊娠しているから何か食べさせてやりたくなる気持ちは、分からないでもないさ」

「…え?」

「だから、妊娠した猫を見かねて魔が差したんじゃないのかって。…気づいてなかったのか」

 

 魔剣使いが当然のように呟いたことを、ジャガーノートはさっぱり理解していなかった。

 

「…それ、本当ですかー?」

 

 まさか、と思いながら聞き返す。

 魔剣使いは黒猫に近づき、「ちょっとごめんよ」と断りながら黒猫を抱き上げた。上半身を胸から、下半身をお尻の下に通した腕で支えられた黒猫は、魔剣使いの為すがままに大人しくしている。

 

「ほら、乳首がピンク色になって、ちょっと大きくなってるだろう。妊娠した猫の症状だ」

 

 魔剣使いが抱き上げた黒猫の腹部をジャガーノートに見えるようにして説明する。

 魔剣使いの言葉通り、六つの乳首が毛の中から突き出ていて、どれもピンク色に染まっている。

 

「じゃあ、この子は」

 

 黒猫のお腹をさら、と撫でる。ひと際慎重に指を黒毛に流した。

 

「お母さんになるんですねー」

 

 

 

 その日以来、ジャガーノートはいつにも増してあの黒猫を探すようになった。

 休みの日は必ず、魔剣使いの仕事で駆り出されるような日も、日帰りならば少しの時間でも黒猫の姿を確認出来ないかと外を歩いた。

 しかし、今までより黒猫の姿は見えなかった。

 全く見つからないわけでは無い。数日に一回見つかるくらいだった。魔剣使いに聞くと、出産が近くなって警戒心が強くなってるのかもしれない、と返ってきた。

 日が経つほど黒猫のお腹が大きくなってきて、それに比例するように見つからない日も増えてきた。

そうして数週間が経って、かの黒猫の姿は見えなくなった。

 よく逃げ込んでた壁の隙間や、塀の上、猫の集まる空き地にも一切あの姿は無かった。

 どこかに隠れたんだろうか。それとも居場所を離れたところに変えたのかもしれない。もう子供は産んだのだろうか。それとも何処か知らないところで死んでしまったのか。

 色々な考えがよぎる。いくら探してみても、何処にも見つけられない。

 ああ。これはもう会うことは無いのかな。そう諦めがつきそうなくらいに日が経った頃だった。マスターと一緒に買い出しに行った帰りに、再会した。

 

「あれ」

「どうしました?マスターさん」

「家の玄関に何か…あの猫かな」

 

 マスターの目線の先、家の玄関ドアの足元に黒い猫がうずくまっていた。近づいてよく見てみれば居なくなったあの黒猫だった。毛はくたびれて、体を丸めてぐったりとしている。そして何より目を惹くのは、大きく張ったお腹だった。いつか見た時と比べられないほど大きくなっている。

 黒猫をゆっくりと抱きかかえようとすると抵抗もなく腕に収まった。初めて会ったときのような温かさは感じられない。頭から背なかに沿って撫でると、黒毛が油と土汚れでいつかあった時より硬くなりざらざらとしているのが分かる。抱えた身体は前より重くなってはいたが、子供を孕んでいるにしては軽いくらいだった。

 黒猫はじっとしている。身じろぎもしないで、ただ抱かれている。ジャガーノートに撫でられても辛うじて開いているような眼を細め、尻尾が小さくにぴくぴくと反応するのみだった。

どこか悪いんだろうか。怪我でもしたんだろうか。人間相手ならともかく、猫の診療など分からない。いくら心配しようと、何をすればいいのか分からないジャガーノートには何も出来ない。焦燥が募るばかりで涙が出そうになる。

 

「マスターさん、この子…」

「ひどく弱っているみたいだな」

 

 隣の魔剣使いも痛ましそうに黒猫を見ていた。

魔剣使いが面(おもて)を上げて空の様子を見た。曇りがかっていた空は曇天となる一方で、遠くから雷まで聞こえてくる。

 

「病院に連れて行くぞ。距離はあるけど、走ればまだ間に合うだろう」

「!…はい」

 

 …なんとなく湧き出た疑問がジャガーノートの口から零れた。

 

「…でもー、野良の子を助けちゃっていいんですかー?」

「え」

 

 予想外の質問で魔剣使いの思考と動きが止まるが、程なくして野良猫の街への被害の話かと思い至る。

 

「…人の手で飼えば、もう野良猫じゃない。受け取り手を探すか、見つからなければうちで飼えば問題ないだろう」

「…あは。本当に救いたがりなマスターさんですねー。救いたがりな自分の欲求の為に野良猫の面倒までみるなんてー。身勝手だなー。救えないなー」

「うるさい。雨も降ってきてるんだからさっさと行くぞ」

 

 魔剣使いは買い物の荷物を家に片づけて、戻り掛けに家の中から持ってきた二つの傘の片方を渡してくる。

 

「私、この子を抱えてるから傘差せませんけどー」

「あ、そうか。えーっと雨具は…」

 

 急いで家の中に戻って戸棚を漁っている。思っていたより慌てていたらしい。

魔剣使いを待つ間、黒猫の体に手を添わせ、出来るだけ優しく、体を労わるように撫でた。ゆっくり、ゆっくり。

 

「まったく、どれだけ必死なんでしょうねー」

 

 けど、この子にとっては、あわてんぼうのマスターさんが居て良かったのだと思う。

 

 

 

 魔剣使いが雨具をはじめタオルやら必要そうなものを持ってきた後、急いで動物病院に向かった。なんとか雨足が強くなる前に間に合ったようで、病院内で体を拭いている時には雨粒の跳ねる音が轟音に代わっていた。

 医者に診てもらったところ、黒猫は栄養失調で衰弱していたらしかった。

 魔術治療による体力の回復と食事で栄養失調への応急処置は行い、黒猫も歩けるほどには快復した。

 ただ大変だったのが、所謂つわりが始まってしまったことだ。結局そのまま出産しそうだという見通しになり、魔剣使いとジャガーノートは病院にさらに面倒をかけてしまうことになった。

 猫の出産には数時間かかるらしく、病院の一室を出産の為に使わせて貰えることになった。猫が安心して出産できる様に箱にタオルを敷き詰めて出産場所を作ったり、水を用意したりした。

 

「隠れちゃって出てこないな」

「知らない場所に連れて来られてますからねー。警戒して当然ですねー」

 

 しゃがんで目線を近づけて覗けば、猫が周りをつぶさに窺っていることが見て分かる。

 

「この調子だと産気づくのにも時間がかかりそうだな」

 

 魔剣使いの推測はその通りになった。猫がなんとか産箱の中で落ち着き、鳴き声を上げ始めたのは数時間が立ってからだった。

 

「先生呼んでくる」

 

 魔剣使いが急いで部屋から出て行った。

 鳴き声を絞りながらも体に入れる力は緩めず、お腹がずっと張っている。踏ん張ろうと足を立てては滑っていたからタオルを敷いて引っかかるようにした。

 魔剣使いと一緒に戻ってきた医者は、この状態が数十分して出産、それが数回続くと言った。

 それからはずっと猫を見守っていることしかできなかった。

 猫のいきみがより強くなって、鳴き声の間隔も短くなってきた。お腹が大きくなるのと小さくなるのを繰り返して、体全体で痛みに耐えている。

 

「出血した!」

 

 タオルを敷いて、垂れる分だけ拭き取ればいい、と言う医者の指示にしたがう。

 地面に顔を近づけて猫の股を覗いていた魔剣使いが慌てたように言った。

 

「あ!顔見えてるぞ。子猫の顔!」

 

 ジャガーノートが近づいて魔剣使いと同じように覗いてみると、横たわった母猫の股座から、確かに小さな顔が見えている。

 産みやすいように黒猫が四つん這いの形に体勢を変えた。

 産み落とそうと力を入れるほどお尻は上がっていくように、脚もぴんと張っている。息も細かく荒くなって、身体全体が震えている。

 うぎゃあ、うぎゃあ、と痛みと興奮で滅茶苦茶な鳴き声を上げている。聞いたことも無い大きさと調子の声は、黒猫の痛みがそのまま喉から出てきたみたいで、鼓膜がちぎれんばかりに耳をつんざく。

 鳴き声が耳の奥を刺す度、自身の体中から噴き出る汗をジャガーノートは感じた。額には脂汗がびっちり張り付いていて、零れた大粒は顎先までつるつると滑り落ちていく。顔が真っ青になっているだろうことがその冷たさで自分でも分かった。

 あの子が痛そうで苦しそうで、どうにか出来ないかと煩悶する。

この行いに自分が出来ることは無いと分かっている。それでも居ても立ってもいられなくて、どうにか、という思いだけが溢れる。

もし、あの黒猫が救済を望むのなら、私はいくらでも救うことが出来るだろう。

私の持つ破壊の力を余すことなく振るい、苦しみ一つ与えずにこの痛みから解放させてやれるだろう。

 あなたの鳴き声が救いを求める叫びなら。命を擲つほど逃れたい苦痛を訴えているなら。

 それなら、私の力で助けることが出来たのに。あなたを助けられたのに。

 あなたの願いが、私には分からない。

だから私には何もできない。

 希われねば救うことすら出来ない私には、苦しむあなたをただ見ていることしかできない。

 

「あとちょっと…!がんばれ、がんばれ…!」

 

 張り上げた声じゃない。絞り出すように漏れた小さな声。

 それなのに、マスターさんの声はやけにはっきり聞こえた。

 そうしようと思ったわけじゃないのに、マスターさんが必死に言うから、気づかず自分の口からも漏れた。

 

「………がんばれ」

 

 言った後に何を、と思った。励ましたところでどうにかなるわけでもない。でも、何も出来ない自分にはこれしかできない。

 

「がんばれ…がんばれ…!」

 

 何も出来ないから、どうすればいいか分からないから、どうにか助かってほしいから。

 がんばれ、と言って、祈る事しかできなかった。

 そして意外にもあっけなく終わりは来る。

 ぬる、と頭が全部外に出ると、そのあとはするりと尻尾の先まで産みきった。

 産まれた子猫は羊水でびちゃびちゃで、毛も全部潰れて、目も大きいから同じ生き物に見えなかった。

 そのあと二匹を生んでこの出産事件は幕を終えた。

 

 

 

 びゅう。

 自宅の二階ベランダでジャガーノートは夜風に当たっていた。

 春先から段々気温の上がってくるこの時期の夜は、昼間に比べて風が冷たく感じられて気持ちいい。長い黒髪が吹かれて靡いていくくらいの風は特に。

 猫の出産が終わった後、ひとまず山を越えたということで自宅に帰ってきた。夜になってしまったし、と言う医者の好意だ。猫たちはとりあえず一晩預かってくれるとまで言ってくれたので、魔剣使いとジャガーノートは申し訳なく感じながらも甘えることになった。

 

「ジャガーノート」

 

 ジャガーノートが振り向くと、マグカップを両手に持った魔剣使いが立っていた。

 ベランダの手すりにもたれるジャガーノートの隣に来て、片手のそれを差し出してくる。

 

「ありがとうございます」

「寒くないか?」

「大丈夫ですよー。涼しくて、気持ちいいくらいです」

「そっか。それなら良かった」

 

 お互いそれだけ言って、ベランダの向こうの景色を眺めた。

 街の中心部とそこから伸びている大通りは街灯が整備されている為、真夜中でも魔力の光によって煌々と照らされている。暗闇の中にあって、そこだけ昼間よりも明るかった。

貰ったマグカップに口をつける。ホットミルクだ。牛乳を温めただけなのに、不思議なくらい甘く感じる。体がほぐれる心地だ。ふぅ、と息をついた。

 

「ジャガーノートは」

 

 一拍。続きの言葉に悩んで、マスターさんが言った。

 

「あの猫と、仲が良かったんだよな」

「…そう見えましたかー?」

「餌をあげようとしていたのは誰だったかな」

「…」

「俺が見たこともないような顔をしていたくらいには、仲がよさそうだったぞ」

 

 うぅ。ジャガーノートの口から思わず呻き声が出る。

自分で振り返ってみても、正直、あの黒猫と接しているときは気が緩んでいたように思う。人に見せられない、とまでは言わないが、それでもその時の姿を他人に知られるのは何か恥ずかしくてたまらない。たまらなくて、マグカップを傾けて顔を隠した。残りは思ってたよりも少なくて、すぐ飲み干してしまった。

 

「飲み終わったか」

 

 貰うよ、と伸ばされた魔剣使いの手にマグカップを渡した。

 

「ん。ありがとうございます」

 

 魔剣使いは自分の分の残りを飲み干すと、一度室内に戻ってマグカップを近くの机に置く。戻ってくる

途中、やおら息を吐いた。

 

「お前のマスターとして、俺はそれなりにお前のことを分かってるつもりだ」

「…マスターさん、けっこう気持ち悪いこと言ってますよー?大丈夫ですかー?」

「茶化さない。真面目な話なんだから…」

 

 魔剣使いが苦笑しながら、気を取り直すようにんん、と咳ばらいをする。

 

「あの猫の出産のとき、今にして思えばお前の様子は少し…変だったように見えた。何でも無いことならそれで良い。俺の気のせいならそれで良い。ただ俺がおせっかいを焼いただけで、お前に笑われるだけならそれが良い」

 

 そうであればどれだけいいか。この胸のざわつきも全部勘違いだったと笑って、何も憂うことなく今日を終えられるなら、本当にそうなればいい。

 

「けど俺は……ジャガーノート、お前のことが心配だよ。俺の思ってることが行き過ぎた妄想でないのなら、お前の様子がおかしかった理由がそうなら、お前は…」

 

 その先は口に出さなかった。悩むように視線を迷わせるのも、一瞬だった。

 

「だから…教えてくれジャガーノート。お前があの時何を考えていたか。何をしようとしていたか」

 

 〝何をしようとしていたか〟。

 変な言い方をするなぁ。ジャガーノートは可笑しかった。

 それではまるで自分が〝何かしようとしていた〟みたいじゃないか。

 それに、言葉だけを見れば人を問い詰めるような事を言っているくせに、魔剣使いの方が追い詰められたような顔をしている。眉根が曲がって、悲しむような憐れむような顔をしている。痛ましくて可哀そうなのは魔剣使いの方じゃないか。おかしい。可笑しい。笑えないけど、笑い声が出た。

 

「あはは。うけるー。マスターさん、ひどい顔してますよ」

 

 魔剣使いの表情は変わらない。

 

「別に何もありませんでしたよー。…って私が言ったらどうするつもりなんです?私が本当の事を教えるかなんて分からないじゃないですかー。なのに、わざわざ私に聞くなんて」

 

 魔剣使いの表情は変わらない。

 

「…わざわざこんな聞き方するなんて」

 

 表情は変わらない。

 …あーあ、こんな人が私なんかの為に、こんなに苦しそうにしてるなんて。救えないな。救われないな。

 

「もう気づいているんでしょー?だったら、遠慮しないで聞いていいんですよ。マスターさん」

 

 …本当に救えない。

 

「あの猫を破壊(きゅうさい)しようとしたんじゃないか、って」

 

 表情は、変わらない。

 

 

 

 街の中心が特に明るかったのは、街灯のほかに夜も開いてる店が店頭の照明を点けてたり、屋内の明かりが漏れてたりするからだ。

 店を閉じる時間になって途端に暗くなる。街灯だけが街を照らし、その明かりが光の河のように目に映る。ただ、それでも夜の暗さを消せはしない。長く長く連なるこの河は、この暗闇の中でひどく心細く思えた。

 ジャガーノートは街を見下ろしていた視線を魔剣使いに向け直した。

 

「ただ、私があの黒猫を破壊(きゅうさい)しようとした…というのは、半分正解で半分間違いですよー」

 

 魔剣使いの表情は依然暗いものだったが、ジャガーノートの訂正に少し目が動いた。

 

「ジャガーノートは死によって救済を与える、救済の神です。だからマスターさんの想像通り、私はあの子を破壊(きゅうさい)することも考えました。半分正解と言うのはそれだからです」

「じゃあ、半分間違いの方は」

 

 ジャガーノートは薄く笑みを浮かべた。

 

「救済の神だからこそ、あの子を救うことは私にはできませんでした」

 

 少し俯いて続ける。

 

「私には、あの子が救済を望んでいるか分かりませんでした。猫の気持ちなんて分かるわけないじゃないですかー」

 

 あの黒猫の声を思い出す。耳にこびりついた様だった。手すりに置いた手を重ねてさすった。

 

「救済の神は、救済を求める人を破壊(きゅうさい)するから救済の神なんです。救われる人が救われるこ

とを願うから、破壊(きゅうさい)は救済になるんです。…ねえ、マスターさん」

 

 ジャガーノートは隣の魔剣使いを見つめる。魔剣使いはジャガーノートの仄暗い灰色の眼を綺麗だと思っていた。しかし今魔剣使いに向いたその眼は、ただでさえ薄かった光がさらに少ないように見えた。

 

「もしあの時あの子を破壊(きゅうさい)していたら、救われることを願っているのか分からない命を破壊して(すくって)いたら、それは本当に救済足り得たんでしょうか」

 

 ジャガーノートとは、救済の神の名だ。その神の伝承から生まれ、その神の名を冠するこの魔剣少女もまた、救済の使命を背負っている。もしそんな少女が、救いにならない救済をしてしまったら?

 

「私は、救済の神のままでいられたんでしょうか」

 

 魔剣使いには答えることは出来なかった。使命と罪悪感とに擦り潰れる少女の姿など想像したくもなかった。

 

「…だから私にはあの子を救うことは出来ません。救おうとすることすら出来ません。絶対に。だから半分間違いなんです」

 

 薄く微笑んだその顔がやはり痛ましかった。

 ジャガーノートには救済という選択肢を捨てることが出来ない。きっと、求められれば親しい相手にでも救済の手を伸ばしてしまうのだろう。それが自らの主たる魔剣使いであっても。

 周りのすべてに等しく救いを与えんとする様は正に神のそれだが、ジャガーノートは神などではない唯の少女だ。誰も彼もを救って、いつか彼女一人になって、そうして自らの行いに気づいた時、彼女は耐えられるのだろうか。

 魔剣使いは身勝手な同情だと分かってはいても、このどうしようもなく哀れな少女をどうにか救いたかった。けどどうすればいいか、どうするべきか分からなかった。かける言葉も分からなかった。それでもどうにかしたくて、彼女を抱きしめた。

 

「!」

 

 ジャガーノートは一瞬だけ驚いた顔をしたが、魔剣使いが彼女を離さないと分かると、強張った体から力を抜いて魔剣使いに身を預けた。

 ジャガーノートの体は見た目以上に華奢だった。夜風に触れたせいかひどく冷たい。少しでも自分の熱を分け与えようと、体全体で抱きしめようとした。

 

「…こーんな幼い子の体に急に抱き着くなんて。今のマスターさん、言い逃れの出来ない変態さんですよー?」

「悪い。今だけは許してくれ」

 

 自分に何が出来るか、何をすべきかは魔剣使いには分からない。ただ、それを理由にして何もしないことだけはしたくなかった。彼女を独りにすることだけはしたくなかった。

 そんな気持ちが強くなるほど、彼女の身体を離せなくなった。

 

「ん。しょうがない変態さんですねー」

 

 ジャガーノートは頭をこて、と魔剣使いの胸に倒した。

 

「しょうがなくて救えない変態マスターさんです。どうしようもなく救えないですから、私からも抱き着いてあげます」

 

 魔剣使いの背中に手が回されて、ぎゅうっと、か細い力で抱きしめられる。小さいな、と魔剣使いは思った。線の細い身体だし、身長も魔剣使いの顎下ほどだ。そんな身体を不安に思うと、抱きしめる力は強くなった。

 風が強くなってきた。夜も更けてきて空気も冷たくなってくる。

 

「寒いな」

「寒いですね」

「中、入るか?」

「…もうちょっと、このままで」

 

 二人の身体は震えていた。

 ああ、寒い。この身体には厳しすぎる。

 その身体がそこにあることを確かめるように、どこにもいかないように、抱きしめる腕は離されなかった。

 


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