平凡なサラリーマンのおうちの娘、杜若あいりは、すこし普通である。

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バタフラ・iris・エフェクト

「あ、どうも、シュルツです」

「あー……」

 

 その赤髪の少女は、細く長い声をあげる。

 つるんとしたストロベリーカラーのサテンのパジャマを着ているその少女は、こめかみをかきながら。

 

「なんなのここ。あたし、急に連れて来られたワケ?」

「ずいぶんと落ち着いているんだなあ」

 

 シュルツと名乗る黒猫のぬいぐるみは、思わず唸った。

 

 この空間――つまりは四方を真っ白な壁に覆われた、窓もドアもない個室だが――において絶対的な支配力を持つシュルツは、こほんと咳払いし、目の前の少女に向けてマニュアルに沿った話術を展開する。

 

「えー、このたびはおめでとうございます」

「なにが?」

「あなたは乙女ゲーのモニター係に選ばれました」

「……乙女ゲー?」

 

 彼女はしばし眉根を寄せて、目を閉じる。

 

「……もしかして、あの子からあたしを紹介された、ってわけじゃないわよね?」

「え? いや、こっちである条件の元に選ばれた被験者だけど……」

「ああ、そう。ならいいんだけど……」

 

 いや良いわけではないだろうが。

 色んなものをすっ飛ばしながら、彼女は斜め下を眺めて、つぶやく。

 

「乙女ゲー、乙女ゲーね。懐かしいわね」

「というとプレイ経験があるんだね」

「まあ昔、ちょっとね? それよりなんなのよあんた、ここって別にミライヴギアに接続した先ってわけじゃないわよね」

「謎の乙女ゲー空間だよ」

「適当だわ……」

 

 娘は特に突っ込んでこようとはしなかった。

 落ち着いているように見えるが、案外内心では理解が追いつかず、パニック状態なのかもしれない。

 得体の知れない黒猫が目の前にいるから、警戒心もバリバリなのだろうか。

 

「というわけで、杜若あいりさん」

「ああ、名前とかも、もう知っているわけね」

「ボクは未来から来たんです。キミにぜひとも未来の乙女ゲーのテストプレイヤーになってほしくてね」

「……改めて聞くけど、ホントにあの子の関係者じゃないのよね?」

「違うよ。誰のことだよ」

 

 念押す彼女に、シュルツは嫌そうな顔をした。

 なんとなく、その名を口に出してはいけないような気がしたのであった。まるで災厄を司る神のようであった。

 

 

 というわけで、杜若(かきつばた)あいり。服飾デザイン系の専修学校に通う17歳である。

 将来の夢は、アパレルデザイナーだ。

 

 いつものようにベッドで眠っていたら、こんなおかしな夢を見てしまった。

 やはり最近ハマっているVRMMOゲームの影響なのだろう。

 しかしそれにしてもVR乙女ゲーか。

 そんなものがあったらあの子が喜びそうだな、なんてことを思いながらも、あいりは赤髪を撫でて。

 

「それで、どんなゲームなの?」

「え? 乙女ゲーだけど」

「乙女ゲーって言ったっていろいろあるでしょ。パラメータがあるやつとか、ノベル方式のやつとか、ミニゲームを攻略していくことで進めていくやつとか」

「おー、あいりさん、ずいぶん詳しいね」

「……まあ、ちょっとね」

 

 あいりは物憂げな顔をした。

 服飾デザイン系の学校はこういったゲームで遊ぶ人に対して偏見があるわけではないだろうが、あまり進んで乙女ゲーのお喋りする友達がいないのもまた事実であった。

 知らない人(そもそも人なのかどうかはわからないが)と乙女ゲーの話をするのも、なんとなく居心地の悪さを感じてしまう。

 

 ともあれ。

 

「ちなみにこちらは、当社の開発したゲームで、『乙女は辛いデス』っていうタイトルでね」

「ふーん、変な名前ね」

「まあその内容はおいおいと説明するとして……」

 

 シュルツはなぜか視線を逸らしながら解説を省いた。

 

「じゃ、じゃあ、とりあえずゲームをプレイしてもらおうかな」

 

 シュルツがパチっと指を鳴らす仕草をする――ぬいぐるみなので当然鳴らない――と、部屋の壁が一瞬にして書き換わってゆく。

 

「おおぅ……!」

 

 これには、あいりも驚いた。

 そこに映し出された風景は、とある学園の校門前であった。

 

「あ、あれ? あたし、いつの間にセーラー服に。なにこれ!」

 

 同じように、あいりが着ていた衣装も変化していた。パジャマではなくセーラー服への変化だ。

 ひらひらとしたスカートの裾をつまみ、こんな技術があったら世の中のモデルは大助かりね……なんてことを思う。

 

「これが未来のテクノロジーってやつなんでげすよ」

「ふーん……それにしては、地味ね」

 

 切って捨てたつもりはないのだが、そうつぶやくと黒猫はなにやら悲しそうな顔をした。

 それはまあ、いい。

 

「では、キミには今からこの学園に通って、様々な恋をしてもらいます」

「……えー」

「いやまあ、乙女ゲーだし? そりゃ恋をするゲームですから?」

「恋、ねえ……」

 

 このあいり、別に今まで一度も恋をしたことがない! とまでは言わない。

 ただ今はその恋以上に夢中になれることがあって、そのために全力を注いでいるだけの話であった。

 心の余白があまりないのだ。

 男の子と遊んでいても、通りを歩く女性の服装ばかりが気になってしまう。杜若あいり、夢を追いかける17歳である。

 

「えー、興味ないかな? 恋とか。普通の一般的な女の子だったら、当然大好きだと思うんだけど」

 

 シュルツの言葉に、わずかにカチンと来た。

 これが眠って見る夢であるのなら、話は別だ。

 

「……まあ、そりゃあね? あたしだって17歳の乙女ですから、そりゃあ理想だって、あるわよ……たぶん……」

 

 語気が尻すぼみになってゆくのは、話しながらあいりに自信がなくなっていったからだ。

 そもそもパッと思い浮かばなかった時点でそんなものはひょっとしたらないんじゃないだろうかと我ながら気づき、あいりは顔を背けた。

 いいやある、あるのだ。自分でも気づいていないだけなのだ。17歳の乙女なのだから、ないはずがない。

 

「あ、あるわよ、あるはずよ……あるに、決まっているでしょ……花も恥じらう乙女なんだから、あたしは……!」

「なんか段々聞いているこっちが辛くなってきたからそこらへんでいいよ」

「うるさいわね! よく聞いておきなさいよ! あ、あたしは……や、優しい人が……タイプなのよ!」

「へー」

 

 能面のようなシュルツを前に、あいりは釈然としない顔で拳を握る。

 そうだ、実際にはそんなタイプなんて口だけだ。会ってみるまでどうなるかわからない。所詮は机上の空論だ。自分が悪いわけではない。自分がおかしいわけではないのだ。

 まあ、頭の中に思い浮かんだタイプというのも、同性の友達だったりしたのだが……。

 

「ははは、まあでも、そんなキミにだからこそオススメなのかもしれないね、このゲームは」

「そんなってなによ、そんなって」

「タイプなんて関係なくなるぐらいに、最高のショーをキミにあげようじゃないか」

「そんなことを黒猫のぬいぐるみに言われてもね……」

 

 あいりは腕組みして首をひねる。

 

「ま、それじゃあ誰かひとりを攻略したら、元の世界に戻してあげますから。もちろん、それなりに報酬も支払うからね? ね?」

「報酬……ってなによ、マタタビとかもらっても嬉しくないわよ」

 

 警戒心バリバリのあいりに、シュルツは揉み手しながら近寄る。

 

「そんなわけないでしょ、ちゃんとお金だよ」

「未来の?」

「この時代で使えるお金だよ」

「ふーん……」

 

 あいりはぽりぽりとこめかみをかいた。

 

 

「あのね、シュルツくん……だっけ。なんか勘違いしているみたいだから、先に言っておくけど、別にあたし、乙女ゲーはプレイしたことあるけど、だからといってあの子みたいにマニアってわけじゃないんだから……」

「キミの時代のお金で三百万円出すよ」

「うっ……」

「そうだよ、ナロファンの課金剣なら2500本買えるよ」

「そんな贅沢な使い方をするやつ、絶対にいないわよ」

 

 ゲーマーのご多分に漏れず、シュルツも当然VRMMOはプレイしてきた身だ。

 ナロファンというのは、正式名称『ナロー・ファンタジー・オンライン』のことである。

 確か今の時代のVRMMOは、ナロファンともうひとつぐらいしかなくて、その中ではナロファンは知名度があったほうのゲームだ。ゲームバランスとか色々と問題も多かったが、ヘッドギアタイプの装置『ミライヴギア』を頭にかぶってダイブするその感覚は、世界を大いにざわめかせていた。

 

 あいりがナロファンプレイヤーであるということは、リサーチ済みだ。

 だからこそ、乙女ゲーのバーチャル空間にも『バーチャル酔い』せずに、問題なくプレイをすることができるだろう、というのが上の――シュルツをけしかけた営業部長の――見解であった。

 

 まあしかし、シュルツが胡散臭いのは間違いない。

 三百万円というのも、女子高生が持つには多すぎるお金だ。

 あいりがそう簡単に首を縦に振るとは思えなかったので、残るは泣き落としくらいかな、と考えていたけれど。

 

「……三百万円、ね」

 

 あいりはぽつりとつぶやいた。

 

「や、やるわ……」

 

 さすがのシュルツもビビった。

 彼女は簡単に首を縦に振ったのだった。

 

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 

 杜若(かきつばた)あいり。服飾デザイン系の専修学校に通う17歳である。

 将来の夢は、アパレルデザイナーだ。

 

 デザイン系というのは、これはこれで大変なお金がかかるものだ。

 学校で使える設備も材料も限られているから、自主練を積もうとしてもなかなかうまくはいかない。

 自分に才能がないのならまだしも、材料費などの問題でちょっとリッチなお友達に差を付けられていくのは、釈然としない思いがある。

 そのためにはお金が必要だ。必要なのだ。

 

「……いや、夢だって、わかっているんだけど」

 

 眉間を押さえるあいり。誰に言ったわけでもないが。

 校門前に立つセーラー服のあいりの鞄には、黒猫のキーホルダーがくくりつけられていた。

 

「そろそろ行かないの?」

「もうちょっと待ってよ」

「かれこれ三十分ぐらいここらへんにいるんだけど……」

「こっちにだって心の準備ってものがあるのよ! あんたから頼んできたんでしょ!」

「あ、はい。でも一応、了承してもらった以上、これ仕事なんで」

「くっ……」

 

 グゥの音も出なかった。

 そうだ、三百万円に眼が眩んだのは自分で、目が眩んだからにはまっとうにお仕事をしなければならないのだ。

 

 説明されたのは、このゲームの特色である。

 あいりの手首にくくりつけられたブレスレットには三桁までの数字が表示されている。

 ちなみに現在の表示は『012』である。

 この数値が千を超えたそのとき――あいりは死ぬのだ。

 

 それが『恋をすると死ぬ』という、この乙女ゲーの掟だ。

 そのために何度か死んでデータを集めてほしいらしいが、ずいぶんと簡単に言ってくれる。

 まあお金のためだから、やるけど……。

 

 死ぬと言ってももちろん本当に死んでしまうわけではない。

 セーブポイントに戻るだけである。あるのだが、怖くないといえば嘘になる。だって死んでしまうのだから。

 

「あ、一応言っておくと、一年間が過ぎてしまったらタイムオーバーになっちゃうからね。ゲーム外に強制排出になっちゃうよ、今回のルールでは」

「誰ともエンディングを見れなかったらってことでしょ。そんなに難しいの? これ」

「いや全然。普通にやったらいけると思うよ」

「わかったわ」

 

 たったひとりのキャラクターとのエンディングを見るだけで三百万円だ。

 チョロい、チョロすぎる。

 やってやろうじゃん。覚悟を決めたあいりは学園に向けて一歩を踏み出す。

 

 すると。

 

「おいおい、あいり。ひとりで勝手にいくなって」

「え?」

 

 彼に声をかけられて、あいりは振り返る。

 そこには背の高い赤髪の、美形の青年が立っていた。

 気軽に近づいてくる彼に対して、あいりはわずかに距離を取る。

 

「だめだろ、お前方向音痴なんだからさー。転校初日なんだから、一緒に行こうぜって誘っただろ。ったく、あんまり俺に世話かけんなよー?」

 

 優しげな笑みを浮かべる優斗に対し、あいりは――。

 

「え、えっと……ごめんね? その、あ、優斗くんって言うのね」

「ああ、きょうからまた、よろしくな」

「う、うん、よろしくね」

 

 あいりは曖昧な笑みを浮かべながら片手をあげた。

 普段滅多に話すこともないような美形だ。雑誌の中から抜け出てきたモデルのようである。

 さすが、乙女の夢である乙女ゲーを実物に落とし込もうというのだから、これぐらいはやってしまえるのかもしれない。

 こんな人と付き合いたいと、女子高生――あいりは亜種だが――ならば誰でも思ってしまうのではないだろうか。

 

 と、あいりはチラと右手のブレスレットを確認した。

 そこにあった数字は『012』である。

 

(……あれ……?)

 

 微塵も変動していない。

 おかしい、どういうことだ。

 

「じゃ、いこうぜ、あいり」

「う、うん」

 

 とても良い笑顔を向けられても、あいりの心にはさざなみ一つ立たない。

 自分だって恋に恋するお年頃の17歳の乙女であるはずなのに。

 

「どうなっているのかしら、これ……」

「ん?」

「う、ううん、こっちのセリフ」

「はは、なんだよあいり。ま、そういうところも可愛いんだけどな」

 

 そんな歯の浮くような言葉を投げられて。

 あいりは適当に返事をした後、再びブレスレットを見下ろした。

 

『012』

 

 壊れているんじゃないのこれ。

 あいりに暗澹とした気持ちが広がってゆくのだった……。

 

 

 その後、下駄箱で椋と会い、教師である樹に案内され、あいりは教室へと向かう。

 とりあえずこの時点で、攻略対象キャラクターと三人会ったのだが。

 

(まあ、九条くんはないかな)

 

 彼はメガネをかけた財閥の御曹司だ。なぜだか知らないが、その御曹司というフレーズが妙にいけ好かないのだ。もしかしたら前世でなんか縁があったのかもしれない。

 あまり『生理的に受け付けない』などというバカっぽいフレーズを使うのは好きではないが、まあ割と、そんな感じであった。

 

(樹先生は……先生だしね)

 

 あいりは遊び慣れているような外見から、比較的チャラいと思われることが多いけれど、根は真面目な娘なのだ。

 ひとりの乙女として生徒と教師の恋愛に憧れない気持ちがないわけでもないけれど、だからといって実物を前にするとさすがに倫理的にどうかと思ってしまう。

 あいりは根は真面目な娘なのだ。

 

 さて、教室だ。

 

「杜若あいりって言います。よろしくね」

 

 頭を下げてクラスメイトたちに歓迎されると、あいりは自分の席へと向かう。

 あいりを手招きするように、そこにはひとりの女の子が座っていた。

 

「こっちこっち」

「えっと」

「あたしは凛子。百地凛子っていうの。よろしくね」

「う、うん。あいりよ。よろしく」

 

 愛嬌のある笑顔を向けてくる美人に、あいりは小さく頭を下げた。

 凛子はさらにグッと距離を詰めてきて。

 

「ねえねえ、あいりちゃんって呼んでもいいかな?」

「別に構わないけど。じゃああたしは凛子って呼ぶわよ」

「うん、ありがとー。あいりちゃん、そのピアスとっても可愛いね」

「えっ? そ、そう? ま、まあね。あたしの友達の趣味なんだけど……」

 

 わずかに耳たぶに触れて、ハートのアクセサリーを見せつけると、凛子は目を細めて笑う。

 

「センスいいね、あいりちゃん」

「……そ、そうかしら?」

 

 あいりもいっぱしの乙女ゲープレイヤーだったからわかる。彼女は『親友』ポジションにいるキャラクターだ。

 だからこそこんなにグイグイと仲良くなろうとしてくれるのだが。

 

(……なんか、悪い気は、しないわね?)

 

 そんなことを思ったあいりが、再びブレスレットを見やると。

 

『012』

 

 やっぱり壊れているのだと思う。

 ちらと視線を向けると、シュルツは残念そうな顔で小さく首を振っていた。

 

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 

 初日が終わり、二日目が終わり、そしてゴールデンウィークを過ぎて。

 あいりの乙女ゲー生活は、順調に経過してゆく。

 

「はー」

 

 がらりと教室のドアを開くあいり。

 

「おはよー、あいりちゃん」

「うん、おはよう、凛子」

「どうしたの? 浮かない顔だけど」

「見てよこれ」

 

 あいりが手に持っていたのは、女性ファッション誌であった。

 そこで特集されているのは、この近くに近日オープンする新たなアパレルショップである。

 

「ミカさんからもらったんだけど」

「ああ、【プレシャス・ビビッド】の。今バイトしているんだっけ?」

「うん、まぁね。組み合わせたいコーデいっぱいあるし……それで、新店オープンっていわばライバル店じゃない? ミカさんが目を吊り上げちゃっててさ。あたしに潜入捜査してこいーとか言ってきて」

「わー、あいりちゃん大変だね」

「まったくよ……」

 

 ため息をついて、あいりは席につく。

 するとやってきたのは優斗と椋だ。

 

「おー、あいり、なに今度は【ショッキング・ピュア】でバイトするのか?」

「なによ、優斗くん、聞いてたの?」

「はは、聞いていなくても聞こえるだろー」

「あーはいはい、そうですねー」

 

 肩を竦めるあいりの周りは、がやがやと賑やかなものになってゆく。

 

「はぁ……どうしよっかしら。特別ボーナスもらえるらしいし、たぶん、イベントも進むのよねー」

 

 あいりは頬杖をつきながらファンション誌をめくる。

 内装の完成予想図らしきものが描かれているが、確かに魅力的な店だ。自分が作った商品を置くなら、こういうお店に置いてほしい。

 

「……まぁ、イベント進めないといけないしねー……」

 

 誰に言い訳をしているわけではないが、そうひとりごちる。

 もはや癖となったブレスレットを見やるその仕草であったが。

 

『012』

 

 数字に変動はない。

 

 仮にもあいりは17歳の恋に恋する乙女だ。それなのにこんな美男美女に囲まれた環境で少しもドキドキしないなんてことがありえるはずがない。

 ありえないのだ。中学時代はそれなりにカッコいい先輩を目で追ったり、テレビの中のアイドルにちょっと気を惹かれたりしていたのだから……。

 

「壊れてはないんですが」 

「……壊れているんでしょ」

 

 鞄にくくりつけられたシュルツの小さな指摘に、あいりはそっと目を逸らしたのだった。

 

 ――そしてあいりの乙女ゲー生活は、夏を迎える。

 

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 

「……あのね、シュルツくん」

「なーにー」

「夏って、あれよね。世間一般的には、恋の季節よね」

「そうだねー」

 

 プリントを前に、あいりは頭を抱えていた。

 

「なのになんであたしは、クーラーの利いた教室にひとりで、勉強なんてしているのかしら……」

「アルバイトでお金ばっかり稼いでいて、勉学ステータスをまったくあげていなかったからじゃないかな……」

「お金、お金! まったく、ここでも、モノを言うのは、お金なのね……!」

「いや今回に限っては計画性だと思うよ」

「うっ……」

 

 シュルツの極めて正しい意見に、あいりは同年代に比べてもややスリムな胸を押さえた。

 確かにあいりはいくつかの女性向けADVゲームをプレイしてきた経験があるが、だからといってイコール得意というわけではない。

 どちらかというと目先の利益を追いかけて、あとで損をしてしまうタイプであった。

 

「考えていないわけじゃないのよ……。でも、ミカさんが、もうちょっとがんばったら、あたしにとりあえず、ジュエリーデザインからやらせてくれるって言うから……」

「このゲームは恋をするゲームなんですが」

「わ、わかっているわよ!」

 

 ちなみにあいりは某乙女ゲーでも、攻略対象キャラそっちのけで作詞作曲に取り組んでいた過去がある。

 結局はモノ作りからは離れられない宿命を背負っているのかもしれない。

 

「なんなのかしらね……みんなかっこよくて、優しいのは十分わかっているんだけど……」

「その割にはドキドキメーターがぴくりともしないんですが……」

「わかっているわよ! だってしょうがないでしょ、ドキドキしないんだから! なんでよ!」

「ボクに聞かれましても」

「ホントに、どうなっているのかしら……あんまり格好良すぎるのが良くないのかしらね、現実感がなさすぎて……そうね、もしかしたらそういうことなのかもしれないわ」

「それだったら逆に下がってもいいはずだよ。微増も微減もしないってことは、彼らがそもそも眼中にないってことだよ」

「あたしだって17歳の乙女なのよ!?」

「ボクに言われましても」

 

 相変わらず小憎たらしい顔をしたシュルツに、あいりは拳を握り締める。

 まったく、どうなっているんだこれは。イベントは順調に進めていたが、それでもあいりの心にはそよ風ひとつ起こらない。

 

 ここまで来ると、さすがのあいりにも少なからず複雑な思いが出てくる。

 もしかしたら自分は、女子高生(亜種)として、割と欠陥品なのではないだろうか――。

 

 次々と顔も性格も良くて、気配りが上手だったり、スポーツの才能があったり、お金持ちだったり、バンドをやっていたり、すごく大人びていたり。

 そんな男の子たちにかわるがわる言い寄られていながら、あいりは彼らを「いいなあ」と思うことはあっても、まるでドキドキしないのだ!

 

「なんなのよ! あたしが感情のない冷血人間だっていうの!?」

「ボクはなんも言っていないよ」

「あたしだって、それなりに理想だってあるのよ! あるに決まっているでしょ! 花も恥じらう乙女なんだから、あたしは!」

「どんな人がタイプなの?」

「優しい人だって言っているでしょ!!」

 

 あいりはバンバンと机を叩く。

 そのときである。

 

 あまりの騒がしさを聞きつけたのか、がらりとドアを開けて、やってきたのは最後の攻略対象キャラだった。

 学園の堂々たる生徒会長にして、我が道をゆく帝王。

 

「へえ、まだ学校に残っている人がいたんだ?」

 

 ――その名も大石蕗一朗(オオイシ・フキイチロー)。

 アイドル歌手であった人をモデルにして作られたキャラクターである。

 

 大石はポケットに手を突っ込みながら、微笑を浮かべている。

 その佇まいは、かつて隆盛を極めたツワブキ・コンツェルンの御曹司そのものと言っていいほどに似ていた。肖像権が心配になるほどの完成度だ。

 高校生と呼ぶには洗練されすぎている雰囲気だが、それもまあ許容範囲内ではあるだろう。

 

 あいりは不審げに彼を見返す。

 

「誰よあんた」

「ナンセンス。この学校の生徒会長だけど、まあ気にしなくていいよ。僕も君のことを知らないから」

「はぁ!?」

 

 教室の中に入ってきた大石は、あいりの手元を見ると、やはり爽やかに微笑んだ。

 

「いいね、それ」

「え?」

 

 あいりは視線を落とした。

 机の上には、プリントがある。

 こいつはなにを言っているのか……と思ったあいりは、すぐに気づく。

 プリントの余白。逃避代わりにあいりが書き込んでいた蝶のデザインのブローチのことだ。

 

 どきりとした。

 

「……これ、そんなによかったの?」

「正直デザインは微妙だと思うよ」

「悪かったわね」

「でも僕は気に入った」

 

 突然そんなことを言われても、困る。

 あいりは閉口した。

 

「その蝶のブローチ、実際の蝶に似ているね。僕の好きな斑紋だ。ぜひ色を塗ってみてほしいと思うよ」

 

 ブローチのデザインは携帯ウィンドウをいじって、適当な蝶をモチーフに選んだに過ぎない。

 だが大石はそれだけを告げると、踵を返して立ち去ろうとしていた。

 

 なんなのこいつ、気に入らないわ、という想いともうひとつ。

 複雑な感情が、あいりの中でわずかに鎌首をもたげた。

 

 そうだ、こいつも攻略対象キャラなのだ

 

 ふと気づいたそのとき。

 あいりは思わず彼を呼び止めてしまった。

 

「ねえ、ちょっと」

「ん」

 

 彼はポケットに手を入れたまま、あくまでも優雅に振り返ってくる。

 あいりはここが乙女ゲーの世界だと十分に知っている。――その割にはなにもかもがうまくいかないが――だからそんな風に、声をかけてしまったのだけど。

 

「……か、完成したら、見てくれる?」

 

 そっぽを向きながらのそんな提案に。

 彼は肩の高さに手を挙げて、涼やかな微笑みをたたえながら。

 

「楽しみにしているよ」

 

 その瞬間。

 このゲームの中で初めて――あいりのドキドキメーターの数値が変化した。

 

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 

 だが、結局のところ。

 それが恋のドキドキであろうが、なかろうが、ドキドキであることは変わりがなかったわけなのだけど。

 

「不本意だわ」

「ボクもだよ」

 

 教室でひとり、あいりは頭を抱えていた。

 

 三学期の春休み直前、である。

 すなわちきょうこそが、『乙女は辛いデス』のプレイ期間の最終日であった。

 

「まだ誰も攻略できていないわ……」

「そうだね……」

「原因はちゃんとわかっているわよ……」

「でしょうね……」

 

 喋るごとにふたりの周りの空気が落ち込んでいっているような気がした。

 

 敗因は明確すぎるほどに明確だ。

 本筋とは関係のないイベントに、あいりが時間を費やしすぎたのだ。

 

 芸術のメーターに全振りしたあいりは、【プレシャス・ビビット】でとにかく修行を積んだ。この時点で完全に恋愛そっちのけの行動であったのだが、そこから先がさらに悪かった。

 あいりはアクセサリーを作るための能力『クラフトマン』を取得し、自由行動のすべてをその強化に注ぎ込んだ。

 あいりの半年は鬼のような早さで過ぎていった。

 

 プレイヤーの自由にさせた結果のことだが、シュルツはシュルツで顔に手を当ててうめく。

 

「こんなの乙女ゲーでもなんでもないよね……」

「わかってんのよ……!」

 

 吐き捨てるようなあいり。

 

 わかっていたはずだが、根本的なところではわかっていなかったので、こういう状況になっているのだが。

 お金を稼ぎ、芸術にステータスを振り、クラウトマンを習得し、いくつものイベントをこなして工房を使わせてもらえるようになり、それでも納得の一品を作れずに……。

 

 一体なんのゲームだ。

 

「はぁ……結局、バイト代もなにもかも消えてしまったわ。残ったのはこれだけ……」

 

 あいりの手のひらの上にあるのは、ひとつのブローチだ。

 夏休みの補習の日に、気まぐれに書いてみた蝶のデザイン画。それを立体に起こしたものがこれだった。

 それにしたって、納得のいく出来とは到底呼べない。

 ポリゴンも荒く、現実世界と見分けがつかないようなこの世界において、ただひとつゲーム中の作り物とわかってしまうような不審ブツである。

 

 それはそれで異彩を放っているとは言えるのだが。

 別に異彩を放つようなアクセサリーを作りたかったわけではないのだ。

 

 チャイムの音が鳴る。

 あいりに残された時間はもはや幾ばくもない。

 

「誰も攻略できなかった場合って、どうなるのかしら」

「そりゃあバッドエンドなんじゃないかな……」

「その場合、三百万円は」

「当然ないよ」

「そうよね……」

 

 まあ諦めていたことではある。

 

 あいりはガタッと席を立つ。

 今からできることは、基本的にはない。

 

「でも、割と楽しかったわ。ありがとうね」

「そう言ってもらえると、嬉しいよ」

「なんか、うん……あたしってとことん恋とかそういうのに向いてないっていうのがわかったわよ。今度はあたしの代わりに、友達を誘ってみて」

「恋に向いている子なの?」

「そうね。控えめに言っても……たぶん、宇宙一だと思う」

「ははは、それはいいね。たくさん死んでくれそうだよ」

 

 シュルツの声も、これで聞き納めだ。

 結局一度も死ななかったあいりは、校内を散策でもしようと思って教室を出て。

 

「やぁ、僕だ」

 

 その男の胸に、ぽふんとぶつかって――。

 

 

 ――そこで目が覚めた。

 

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 

「……変な夢だったわ」

 

 ベッドから身を起こしたあいりの視線の先に。

 机の上の、書きかけのデザイン画があった。

 

 これこそ夢の中に出てきた、蝶をモチーフにしたブローチのスケッチである。 

 昨夜は遅くまでこれをこねくり回していたから、あんな変な夢を見たのだろう。

 

 なぜ乙女ゲーと黒猫が関わってきたのかは、まったくわからない。

 それにしてはやけに既視感のある黒猫だったが……。

 

 まあいい。

 今度機会があったら、あの友達に電話をしてみようかしら。

 こういうオカルト関係にはとことん強い子だし。

 

 あいりは朝のシャワーを浴びると、軽く髪を乾かしてから薄いメイクを整える。

 自分の髪はかなり気合を入れて編みこんでいるため、それなりに時間がかかる。まあこれも尊敬する人の影響であるのだが。

 

「……はぁ」

 

 結局三百万円もこの手には残らなかったし、アクセサリー工房も好きには使わせてもらえないし、その上なんだか得体の知れない男に褒められたブローチをおだてられて木に登る猿のごとく制作しようと奮闘してしまったし。

 

 なにもかも夢だったのだ。

 なんだか朝から余計に疲れてしまった気がする。

 

 これから学校だ。

 正直、体が重いけれど。

 

「……」

 

 あいりは枕元に置いたままのミライヴ・ギアを見やる。

 あの世界でとりあえずなにかひとつアイテムを作ってみようと思って、昨夜は色々とデッサンをこねくり回していたのだが。

 

 別に、夢を見たから、というわけではない。

 無論、あの男に褒められたから、というわけでは断じてない。

 あんな堂々としていてカネの匂いがする男なんて、あいりは気に入らないのだ。

 だから、これは関係のないことなのだが――。

 

「……そうね」

 

 ――やはりブローチにしよう。

 帰ってきたら、描画ソフトであのアクセサリーを完成させよう。

 初めての作成アイテムだ。売れるといいな。

 

 乙女ゲーの世界で作り上げた、ただひとつのアクセサリー。

 それが完成したあの瞬間の感覚だけは――夢などでは、ない。

 

 あいりはスケッチブックを鞄に入れると、朝ごはんのパンを一口かじってから家を出る。

 

「いってきまーす」

 

 

 杜若(かきつばた)あいり。服飾デザイン系の専修学校に通う17歳である。

 将来の夢は、アパレルデザイナーだ。

 

 彼女の物語は、ひとつのブローチから、始まる――。

 

 



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