TYPE-MOON作品「魔法使いの夜」
同人サークル「あるけてろす」七周年記念同人に寄稿させていただいた作品になります。
本来登場しない水泳部部長を登場させた変わり種です。

十周年を記念した同人誌にも寄稿させていただきますので、冬コミ行かれる方がいらっしゃれば是非手に取っていただきたいです。参加者七十名オーバーの極太薄い本となります。

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魔法使いの夜─夜伽の人魚姫─

 

 

「部長、部長。おとぎ話と童話と寓話って、なにが違うんですか?」

 

 

 遠慮する色合いもなく、【王子さま】はあたしに質問を投げかけた。

 子どものような質問に大人としてのいい面を見せようと、繰り返し知ったかぶりと寄せ集めの知識で対応したことが良くなかったらしい。どうやらあたしは【鏡よ鏡】になってしまったようだ。

「あたしが教えたことは、覚えているよね」

「ええ」

 質問を投げかけた彼──静希草十郎はプールのへりから手を放して水の中に立つ。

「水泳の意味、スイミングスクールの場所、塩素の匂い、暖かい水、泳ぎ方、脂肪と筋肉との比重、改めて泳ぎ方、ビート板、バタ足、息継ぎのタイミング……」

 教えてもらったと記憶しているものは十を越えていたのか、両手の指を折りたたみ終える。面白いほど淀みなく握られた拳は逆再生するように元の形に開いていく。

 内容は次第に水泳の内容から離れ、日常生活における彼の疑問点へと移っていく。

「まさか学校っていうものがこの街にすら十近くあるなんて思いませんでした」

 小さな万歳をするように笑う彼は、あろうことか小学校と中学校との違いも明確には把握していなかったのだ。

 スクール? こんな近くにも学校が?

 と首を傾げた季節外れの転校生は記憶に新しい。

 その転校生はいままでと変わらず私に質問を投げかける。

『水泳部の部長だからってそんなよくわらかん違いを考えてると思うのは、いかんせん幻想の見過ぎなのではないだろうか』

 それを訂正するには憚られる。あたしに【何でも知っている水泳部の美少女天才部長】という幻想をぶつけてしまう年下の男子生徒がいるという事実はきっとあたしを強くする。うへへ。

「先輩?」

 呼びかけられ、愛らしい後輩の顔を見る。

 そして、そのあどけなさが残る素朴な表情とは裏腹に首にはなにかを隠すような包帯、左腕にはガラスでなんども突き刺されたかのような古い傷跡。

 ――なんてものがどうでも良くなるくらいの肉体美。

 山育ちとはいかなるものか。服の上からはほっそりとした印象を受けていたはずなのに、彼の水着姿には驚いた。

 動くだけで筋肉の擦れる音が聞こえてきそうなほど圧縮された筋肉。鍛えたというより、筋肉を削って彫り出した芸術品だとすら思った。

 なんというか! もう! おっぱい! すごく! 雄っぱいなんです!

 

 

 

 受験生たる我々三年生はどこかピリピリとした、独特な毒々しい空気をまき散らしながら、それでもなんとかなるだろうと、若者特有の向こう見ずな弛んだ気配も感じ取れる。

 といっても、あたしは地元の大学に推薦がほぼ決まっているので、弛ませている責任の一端を担っている。

 そんな無責任な責任を取らされたのだろうか。

 生徒会室に呼び出されたあたしと陸上部の元部長は、生きた伝説を前にして冷や汗が止まらない。

 彼女はなにを怒っているのだろう。

 蒼崎青子。

 黙っていれば綺麗なのにという言葉はあるが、まあ確かに美人だ。だけど絶対お前笑ったほうが可愛いからな!

 眉目に小さなしわを作りながら、生徒会室に入室したあたしたち二人を目視した現生徒会長は立ち上がって目礼を送ってきた。

「ご足労をかけしました」

 ここまで近づけばアホな男たちがキャーキャー言う理由がわかる。もし彼女がフリフリのドレスでも着てアイドルよろしく歌と踊りを披露してくれたのなら一夜にして国民的アイドルへのし上がれるだろう。

 それが笑顔ならば、の前提はあるが。

「大した用事ではないのですけど」

 あたしたちを空席に促した彼女は会話の切り口にそんな言葉を選んだ。

 大した用事なら呼び出さないでほしい、主に心臓のため。

「いまは三年生にとって大事な時期ですから、こういう形で呼び出して申し訳ありませんでした」

 ……矮小なあたしをどうか許してださい。心臓を捧げましょうか。

「簡単に説明すると、二年C組の静希草十郎という生徒をどちらかに入部させてほしいという要求です」

 陸上部元部長は静かに息を深く吐いた。あたしも同じ気持ちなので良くわかる。

 予算削減とか推薦取り消しとか、そういった重々しい話題だと怯えた年上がここに二人。

 あたしたちの反応を見てか、蒼崎さんは一層とっつきにくい顔になる。なんでこの子は年がら年中不機嫌なのだろうか。

「もっともこの話はその転入生にはこれから話す予定ですので、まずはお二人に許可を、と思いまして」

「ところでオレは? オレは元、部長なんだけど」

 疑問はわかる。運動部・文化部含め部活動において、受験シーズを迎えている三年生は引退し、二年生を主体にした新体制に移行している時期なのだ。

 三咲高校水泳部は特例で、というか冬の間の水泳部はほとんどが地元のスイミングスクールに自主参加しての練習なので、正直だれが部長でも問題はない。二月に行われる追い出しコンパで引き継ぎ用紙に記入することが伝統の一つになっている。これが強豪校ならば合宿だ基礎体力だの毎日なのかもしれないが、あたしが推薦を決めている渠裸体育大学ですら水泳部は優秀とは言い切れない。

 簡単に言ってしまえば、泳ぐことが好きな連中の集まりだった。

「いまだに陸上部の練習に参加し、強い影響力がある三年生ならば、そちらに話を通したほうが手っ取り早いと判断しました。繰り返しますが、転入生がどちらの部活動を希望するかは計りかねますので」

「まあ、いいけど。転校生の件も」

 陸上部の部長はちょっと困った顔をしながらも快い返答。水泳部としてももとくに問題はないとうなずいた。彼女はもう一度「ご足労ありがとうございました」とあたしたちに頭を下げて今日の呼び出しは終わった。

 

 

 

 生徒会長から持ち掛けられた一件は、三年生の教室に朴念仁を絵に描いたような、パッとしない二年生がやってきたことから加速する。

 見慣れない男子生徒。身長は高いけどひょろっとした体つきで、でも三年生というステータスに怯える様子も見せない彼の手には、

『水泳部入部希望』

 その用紙が握られていた。すでに顧問のサインは入っているため、あたしのサインをもらいに来たのだろう。

「静希草十郎くんねー。蒼崎さんから話は聞いてたよー!」

 昼休みの廊下はやや喧噪としながらも、あたしたち二人の会話を気にするクラスメイトもいない。受け取ったプリントの記入欄を見ながら常に不機嫌さを纏う生徒会長を思い出していた。

「陸上部もあったのに、冬の水泳部なんてもの好きだねー」

「ええ、だからだと思います」

 ……いま、会話かみ合ってたか?

 静希くんって天然?

 少し気になって、不躾ながら詮索させてもらうことにする。

「えっと、友だちから天然って言われない?」

 彼は口元に優しい笑みを作りながら、まるであたしが不思議なことを言ったかのように小首を傾げている。

 天然だなぁ。

「どこ中だったの? この辺だった?」

「どこちゅう……中学校って意味でしたよね」

 まさかの返しである。ここまで来ると天然なのかフリなのか判断できないな。うーん、二年生……どうしようかなー。

 人間関係の軋轢はどうしたって気になってしまう。これが天然ぶりっ子女の子ならすぐさま蒼崎さんにリリースするのだが、こんな優しそうな男の子だからな。うーん。

「えっと、中学校には行ったことがないんです」

「はぁ!?」

 素っ頓狂な声に周囲が振り返ったが、いまはそれどころではない。

「え! ごめんね! 家庭の事情⁉ あっ! 首の包帯ってそういう⁉」

 大変なことを聞いてしまったらしい! 虐待⁉ 育児放棄⁉ 拉致監禁⁉

「先月まで山に住んでまして」

「山に!? え、なに、わけわかんない!」

「なので泳いだことなくて」

「なんで水泳部選んだの!?」

 わけわかんないんだけど!!

 

 ──これがあたしと王子さまの出会いだったりする。

 と、言っても、この時はまさかこんな天然素朴少年に恋をするなんて、想像もしていなかった。

 

 

 

 自室のベッドに寝転がりながら、昼間受け取った入部届に見入る。

 静希くんから要領を得ないとりとめのない会話を統合すると、彼は物心ついた頃から十六年間ほど電気もない星空の綺麗な山奥での生活をしていたらしく、いまは街に降りてきて一週間ほど。学生アルバイトとは名ばかりのアルバイトの合間に学生をしているかのような一人暮らし……。

 親御さんに関してはちょっと怖くて聞けなかった。だって昔の話でお父さんとかお母さんって単語一回も聞けなかったんだもん! こえーよ! 普通にこえーよ!

「水道ってすごいですね。蛇口ひねると出てくるんですよ」

 小学生でもそんな話はしないだろう、便利とすら思わない【当たり前】を嬉しそうに話題に選んだ彼は、幸いなことにぶりっ子じゃなかった。ただの純粋天然山育ちだった。

 これはどうしよう、入部してもらおうか。軽く話してみたけどすごくいい子なんだよな。

 人柄、十点。

 常識、零点。

 水泳、零点。

 常識ないのに良識があるってどんな奇跡なのか。

 まあ常識なさすぎて会話のどこに彼の地雷があるのか不安になるのはマイナスポイントだけど。

 現状お断りしようかと思っているけど、蒼崎さんからの依頼だしなー。

 ここで中学生活合わせて水泳部部長を五年ほど経験したあたしの才能が光る。

『あ、面倒くさいから一度泳がせてレベル次第にしよう』

 明日はスイミングスクールに行く日だし、彼のバイトの都合によっては学校から直行できるだろう。静希くんお金はなさそうだから水着は父親のを借りよう。どこにあるだろうか、探してみよう。

「おかーさーん…………おかーざーん!!」

 召喚士あたしの呼びかけで青筋浮かべた母親が扉を開けた。

 ごめんね、えっと、ごめんね。

 夕飯の手伝いと皿洗いを代償に父親の海パンをビニール袋に詰めてもらう。直接触りたくはないのでこのまま静希くんに渡そう。なんだったらあげよう。お姉さんの株が上がっていくはずだ。へへへ。

 

 

 唐突だが、あたしは恋に落ちた。

 ストンと、恋は落ちるものだと知ったのだ。

 

 

 男子更衣室から出てきた静希くんは、昨日の初対面で感じた印象とは別物だった。

 父親の茶色い海パンは結構似合っていたとか、

 首の包帯は泳いでいい傷なのかとか、

 住んでいた山って? 恐山? エベレスト? とか、

  ――なんてものがどうでも良くなる肉体美。

 山育ちとはいかなるものか。服の上からはほっそりとした印象を受けていたはずなのに、彼の水着姿に驚いた。

 動くだけで筋肉の擦れる音が聞こえてきそうなほど圧縮された筋肉。鍛えたというより、筋肉を削って彫り出した芸術品だとすら思った。

 なんというか! もう! おっぱい! すごく! 雄っぱいです!

「先輩?」

「はい先輩です! ありがとうございます!」

 あ、いや、違うわ。落ち着け落ち着け。

「えっと、ちょっとまずいことになったのだけれど」

「履き方間違えてましたか?」

 チラチラと海パンで見え隠れさせる見事なシックスパック……エイトパック!? そんなところまで割れるの!? うぇ柔らかい!? うわー! 指が埋まりそう! どうなってんだこれ!

「先輩?」

「ごめんねこれしかたないの泳ぐってとても危険な行為だから死ぬから! わかる? わかって! わかった⁉」

 施設の端っこに追いやって筋肉を堪能させていただいた。すごいのだ。力を入れてもらうと鉄のように硬くなる。柔軟させればあたしよりよっぽど柔らかいし、これだけ筋肉量があるのに身体の動きが阻害されるようなことはない。テレビに映る格闘家ですら機能美では劣るだろう。肉体美が売りのボディービルダーたちは彼を見た後では不格好すぎる。

「今日は水に慣れるところから始めよう」

 柔軟を終わらせ、あたしは静希くんにそう言った。

 山では水浴び程度しかしたことがないらしい。風呂の話はしなかったな、やっぱり五右衛門風呂で薪使ってたのかな? それともドラム缶?

「あったかい……」

「冬だからねー。泳ぎすぎるとのぼせるし、適度に水分補給しないと脱水症状で筋肉が攣る」

 冬場の公式大会もこんなものだよと説明しようかとも思ったが、彼の「水道代や光熱費いくらかかるんだろう……」という小さなつぶやきを聞いて止めておいた。

 知識を与える事に純白なナニカが汚らしく染まっていくイメージがあったからだ。

「しかも水泳って意外なほど疲れるからね。今日もバイトあるんだし、三十分くらいで終わらせちゃおう」

 プールの水は腰程度の高さ。このスイミングスクールでは十レーンあるうちの四レーンは子供用のプールという扱いになっている。おかげで周囲にはわちゃわちゃ戯れている少年少女。何人かは明らかにこちらに注目しているが、彼の筋肉のおかげかあたしの大人っぽさか、それとも教官の睨みのおかげか、声はかけられない。

「じゃまずはこれで」

 プールのへりに捕まってバタ足をする。顔は浮かしたままなのですぐに上体が浮き上がって水平になった。あまりにも簡単にやったため彼はすぐにできると勘違いしたのだろう。

 真似をさせた彼の足はバチャバチャと水面を蹴りつつも、あっという間に沈んでいった。動きはキレッキレなんだけどなぁ。筋肉がなぁ。

「あれ?」

 それを何度か繰り返して、水の中に立った彼は首を傾げた。

「なにか間違えていましたか?」

「んー……静希くんは水泳部に向かないってこと」

 理解できなかったのか彼の首がもう一度傾いた。フクロウかミミズクのようで可愛らしい。

「えっとね、静希くん。水と油って言葉は知っている?」

「水と油は混ざらないってやつですよね」

「うんうん。水より油のほうが軽いから、水の中に油を入れると浮いちゃうの」

 へぇ、と感心するように笑う彼。まるで子供電話相談室のような会話ではあるが、事実はもっと深刻だ。

「一番簡単な言葉で言ってしまえば、太ってるヤツは浮くの。筋肉すごいヤツは沈むの」

 あたしは――浮きやすいの……。

 

 

 

 次の日、彼の処遇を決めるため水泳部顧問のもとに確認を取りに来ていた。

 静希くんはバイトのことを伏せておいてほしいと言っていたので、それらしく答えておく。

 

「静希くんのことですが、こちらではお断りさせていただきます。理由としては、やはり泳ぐことすらできない彼を水泳部が受け入れ、部員の練習がおろそかになることが懸念されるからです。しかし、彼の家庭環境を鑑みるに泳いでみたいという彼の要望は至極真っ当であり、我々の不安だけで却下することは決して褒められた選択とは言えません。なので、彼の部活動に対する補填として、水泳部部長のこのワタクシが! 彼に泳ぎを教えるということに致しました! もちろんワタクシは引退時期。教えられる量にも限りがありまして、いえ、決して裏なんて。好みか好みじゃないかで言えば俄然好みではありますが、いえいえ、そんなふしだらな、いえいえ、いえいえいえいえ」

 

 その足で静希くんに今日の放課後の練習を取り付けたのだが、その放課後に罠が仕掛けられていた。

 その日は生憎の曇り空。いつもなら早々に帰宅する生徒たちで校庭がまばらに染められているのだが、あたしの予想に反して正門前に群がる生徒たちが視界に入る。おもに男子の制服が目立つが、もしやアイドルでも来ているのか……なっ⁉

 正門前。男子生徒に遠巻きで観察されている三咲高校のアイドルこと蒼崎青子会長。そして三咲町を問わず男子高校生にとってのアイドル高校、礼園女学院の制服を着こんだ少女がそこにいた。

 黒髪を短髪に切り揃えている美少女である。ワンレンヘアの蒼崎さんと並べば国民的アイドルなんて裸足で逃げ出すほどの格差が生まれる。

 納得である。そりゃ遠巻きにもなりますわ。

 理由は異なるが、あたしも礼園女学院とも関わり合いになりたくない。というのも、これでもワタクシ生まれも育ちも三咲町で見ればとてもとても良いのだ。家柄だけで言えば礼園女学院に通える資格は十二分にあったのだけれど、いかんせん頭の出来は良くなかった。推薦を受けられず一般でも落とされたので平々凡々とした三咲高校へ入学したものの、母親からはいまだに小言を言われ続けている。そう思うと槻司くんって可哀想だよね。頭脳で言えば一流大学の付属高校も目指せただろうに。

 なんて、考え事をしていたのが悪かったのだろうか。

 毒々しさすらまとう空気で会話をする彼女たちに無遠慮に近づく男子生徒に、あたしはまったく気付かなかった。

 周囲の男子たちの羨望も嫉妬も気にすることなく、止める間もなく、美少女たちに挨拶をする度胸の塊のようなその男子生徒こそ静希草十郎くん。二、三会話を済ませると彼は優しい笑みを浮かべて帰路についた。まあ正確にはスイミングスルールへ向かうのだけれど。

 一方の蒼崎さんたちは、どこか不穏な表情で静希くんの背中を眺めている。ここまで不機嫌そうな蒼崎さんも珍しい。普段から怒っているような表情はしているが、それは生来の顔つきであって実際に怒っているわけじゃない(はずだ)。だけどいまの彼女は明らかに不機嫌だ。

 それを察したのはあたしだけじゃないらしく、周囲の男子たちは抜け駆けされたというのに蒼崎さんたちに言い寄ることもできずにいる。

 そのうちに二人も歩き出し、姿が見えなくなったころに男子たちも帰り始めた。それに紛れてあたしも駅方面へ向かい始める。

 この日を境に、この三咲町をどこか剣呑とした空気が包みだしたのである。

 

 

 

 嘘ですごめんなさい。この日を境っていうかあたしたちの学年はずっと剣呑としていて、むしろ「あー静希くんに会いたーい」って数日学校を休んでいる彼に対して発言したところ、受験組からすごい勢いで睨まれただけです。剣呑してます。呑気ですみません。

 静希くんが数日休んでいること以外は平々凡々としたもので、せいぜいが三咲市が誇ったキッツィーランドの施設の一つが潰れていたとニュースで流れていたことだろう。地元のニュースキャスターはなにか恨みでもあるのだろうか、早く解体するべきだと叫んでいた。千葉にできた大型テーマパークとは雲泥の差である。ああ、あのアニメのようなお城をいつか静希くんと二人で歩けないものだろうか。

 何日か後には体調不良で休んでいたらしい静希くんもスイミングスクールに顔を出してくれるようになったが、ふと違和感を覚えて質問をした。

「あれ? 今日ってバイトないんだよね。買い物?」

 練習も終わった帰り道。彼があたしと同じ方へ歩きだしたので首を傾げてしまった。

 はっ! もしや夜の街を女性一人で歩かせられないという紳士的側面が!

「いえ、いままで住んでいたアパートを引き払ったので、帰り道も変わったんです」

 知ってたよちきしょー。

「どこに住み始めたの? 安いところ?」

 そう聞くと、彼はニコニコしながらスッと指を上に向けた。いや、上ではなく山だ。……山?

 つまりとうとう街での暮らしに限界を迎え、野生に帰ったっていうことですか?

「山の屋敷で部屋を貸してもらってます」

 違った。けど山の屋敷ってあの大金持ちの、久遠寺さんのお屋敷だよね。娘さんは礼園女学院に通っているのに、と母親になんど愚痴られたことかわからないので、しっかりと覚えている。久遠寺さんの屋敷で寝泊まりしているってこと?

 一つの会話の成立でここまで考えさせるとは、本当に天然ちゃんだなぁ静希くんは。……いや、え、なに、本当にどういうこと? キミが休む前に正門前にいた礼園女学院の美少女がまさかあの有名な久遠寺有珠さんで、一緒に住んでいるとでも? という疑問。

 いやいや、そんなことより山に良い小屋を見つけてそこに住むことにしたって可能性がよっぽど高いか。静希くんってそういうところありそうだもんなぁ。まあ万が一ってこともあるので、念のため質問だけは投げかけておく。

「山の屋敷? 久遠寺さんのところの」

「部長、有珠を知っているんですか?」

 なんでだよちきしょー。

 質問はいっぱいあった。

 なんであの屋敷に住むことになったの。休んでたってそこらへんも関係しているの。あたしは部長で大金持ちの娘は名前で呼ぶの。久遠寺有珠ってあんな可愛い人だったの。学校側もそのこと知っているの。これって人に話していい問題なの。とか、いっぱいあった。

 なのに、そういったこちらの考えを踏みつぶして征くのが彼なのだ。

「じゃあ蒼崎ってなんで有珠と暮らしているかわかります?」

「あ、蒼崎さん? え、え、え、え」

 なにがなにやらわからないが、ひどい疎外感は味わってしまった。友だちならまだいい。距離を取るか、腹を割って話すか、気づかなかったことにしてもいい。だけど、あたしのこの気持ちは、あたしの立場は、どうしろっていうんだ。

 

 

 

 そこから数日は練習にも身が入らず、静希くんと話すたびにモヤモヤとした気持ちを抱えてしまった。たまに遊びにくる水泳部員に静希くんのことを知られてしまったり、彼が犬かきだけは泳げるようになったりもしたが、気持ちはこれっぽっちも晴れることはなかった。

 そんなある日、彼から久々に質問を受けた。

 

「部長、部長、おとぎ話と童話と寓話って、なにが違うんですか?」

 

 まったくコイツは……。

 こちらの気も知らずニコニコと笑顔を向ける青年と雑談を交わしながら、ストレスで鈍痛すら覚える脳みそで彼の質問に答えることにした。

「えーっとね、おとぎ話ってのはー。人魚姫でしょー、あとはー、一寸法師とか? 童話だとねー……えーっと……グリム?」

 いやわかんねぇよ。

 たしかに子供らしい質問だ。朝の空と夕方の空の色は似ているけどなにが違いますかってのとほぼ同義だと思うね。大人はこう返すわけだ。

『朝は朝日で夕方は夕日だよ』

 無論質問の答えではないので納得できるわけがない。だけど大人ってのはそういう理解の仕方で十分なのだ。

 曖昧な理解。それでこの世界は回っている。少なくともあたしの世界はそう回っていた。

 彼に出会うまでは。

「ごめん! わからないです!」

 両手を合わせて頭を下げる。

 【何でも知っている水泳部の美少女天才部長】なんて、それこそ寓話や童話やおとぎ話だ。はぁ……純朴少年に充てられすぎたかなぁ。

「宿題にしていい? 絶対に答え見つけるから!」

 静希くんはしばらくきょとんとしていたが、理解したのか、あるいは理解することを諦めたのか、満面の笑みでうなずいた。

 とはいっても、童話と寓話とおとぎ話? そんなどこから調べていいかわからない宿題とはなぁ……。

 静希くんとの関係は、割り切れない気持ちを抱えたまま週一の練習となったり、彼のシフトの関係で一か月会えなかったり。とくに肝心の冬休みはまたも静希くんの体調不良で会えなくて。

 冬休み前に会ったときは首元に巻いていた包帯がなぜか犬の首輪に変わっていた。しかも嬉しそうにしているのだから聞きたいことがさらに増えてしまった。

 そこから先は教習所にも行かなければならなくなったし。あたしの卒業を機に彼の練習は後輩へと引き継いたので、率先して会うこともなくなってしまった。

 あたしはこの宿題を、次の年の夏休みまで持ち越すことになった。

 

 

 

 高校でも大学でも、水泳大会は大体が七月末である。あたしが通う渠裸体育大学が県大会で敗退したことで、気の抜けた空気になっていた。

 夏休みはまだひと月以上あり、高校生である静希くんも本来であれば休みを謳歌している年代のはずだ。だが、アルバイトに忙殺されているであろう彼を遊びに誘うのはすこしだけ、すこーしだけ憚られた。

『もしもし』

 静かで優しい声。なんども聞いた静希くんの声だ。

『久遠寺ですが』

 とても柔らかく、それでいて男性らしい……久遠寺。

「静希くんだよね?」

 あれぇ?

『はい、自分は静希草十郎ですけど……あ、もしかして部長ですか?』

「あ、えっと、はい。部長じゃないけど、部長だったものです」

 それよりあなたはいまも静希くんなんですよね……。

 卒業前に彼からもらった電話番号の紙を見返す。なんども読み返したので折り目が汚れてしまっている。

 まだあの美少女の家にお世話になっているとは……。

 敗北感で膝をつきたくなる気持ちを堪えるものの、さきほど聞いた「久遠寺です」という響きが耳から離れない。言わせてぇ! あたしの苗字を電話番する彼に言わせてぇ‼

 もうあたしが頑張って稼ぐから婿入りしてくれないかな? なんであればいまから彼をアスリートとして迎え入れてもいいはずだ。大学は喜んで彼を特待生にするだろう。それほどまでの肉体美なのだ。

『部長?』

「あの、えっとね。ちょっとお願い、というか、静希くんの休みの日を貸してほしくて……」

『休みの日を、貸す? バイトのシフト交換ってことですか?』

「いや天然かよ。休みの日に、静希くんとお出かけをね、したいと思っておりまして」

『ああ、はい』

「ほ、ほら、静希くんって水に浮かないじゃない?」

 あー! 顔が熱いよおおおおお。おかーちゃーん!

「だから、その海がね、あの、海ならね」

『あ! 前に言っていた、塩分濃度とかですよね。覚えてます』

「そうなのですよ! なので、休みの日に、海をですね! 泳ぎのね! それでね!」

『わかりました。では都合のいい日を折り返しますね』

 うわー! これはもう言っちまったなぁ。なんだったら脈ありですなぁ‼ いくら彼が天然ちゃんでも年上の女性から海への誘いだ。理由もその後のこともわかっているだろう。わかっているよね。

 その三日後、バイト先の定休日が重なって働けない日があると連絡があった。車で迎えに行くことを告げ、当日までとてもとても幸せな日々を過ごしましたとさ。

 当日までは、な!

 

 

 

 その山道は、車で登ってもなお息苦しいと思えるほど鬱蒼とした旅路だった。カーブが多いし急斜面の道もあったため、二足と三足を入れ替えながらゆっくり進む。

時計を見ても約束の時間には若干の余裕がある。カセットから流れる流行りの曲は趣味ではなく、どちらかといえば静希くんをもてなすため。トランクのクーラーボックスには手作りのお弁当も入っていたりもする。

 ちょっと攻めすぎかなぁと思いつつ、彼くらい天然ならこれぐらいイケイケでも問題ないとも考えている。水着も結構大胆なものを選んだので良い反応をもらえるのではないだろうか。問題があるとすれば大学生になって三キロ太ったことと、競泳水着の日焼け跡くらいだろうか。すくなくともドラマや映画のような「日焼け止めを塗ってくださいませ」はできないだろう。むしろ全身焼いてまだら模様を消したいくらいだ。……一応は持ってきてあるが。

 水泳部一筋というわけでもないのに、家庭の事情で彼氏も作れずにこの年まで来てしまった。焦るわけではないが、ただただ強い羨望がある。

 そう、彼氏がほしい。

 最低でも静希くんと真夏のビーチを二人で歩いたという思い出がほしい。そしてあわよくば彼氏がほしい。

 ひょろっとあたしと静希くんとの間に現れた久遠寺のお嬢さんに盗られたくない! そして蒼崎さんだって正直怖い。蒼崎さんと静希くんがどのような経緯で久遠寺邸に住んでいるのか、二人の関係は、いや、三人の関係はどうなのか是が非でも聞き出さなければあたしは前に進めないのだ。

 そして大学生車持ちというアドバンテージを存分に活かして、あわよくば彼氏がほしい。

 

 久遠寺邸は初めてみた。

 地元の名士である槻司さんの実家にも劣らない非常に立派な建造物で、より年代を刻んでいる気がする。

 無論、ボロいとか汚いという印象はなかった。よほどいい庭師がいるのか真夏にも関わらず、庭の踏み石の周囲にすら雑草が生えている気配はない。周囲の木の枝葉も手入れされているのか、非常に清涼感のある洋館。

 さて、どうしたものか。

 友だちの家ならば二、三度クラクションを鳴らせば済むのだが、相手は静希くんで、おまけにここは久遠寺様のお屋敷である。無体はできない。

 素直に車から降りると真夏の暑さに肌を焼かれるようだった。喉と足がヒリヒリと痛み出す。編み上げサンダルはやめたほうが良かったかな。

 海に行くならば、とホットパンツにしたおかげで太ももも大胆に露出しているので比較的恥ずかしい。水泳部のくせになに言っているんだと思われるかもしれないが、それはそれ、これはこれ、である。相手は静希くんなのだ。女性らしさを全開でアピールしていくしかない。

 手汗をホットパンツで拭いながら、久遠寺別宅のチャイムを鳴らす。

 重厚な扉の向こうから鍵を開ける音とともに現れた蒼崎さんと目が合った。

 彼女の私服は初めて見た。ジーンズに無地の白いシャツ姿。観衆に媚びを売るような姿ではないのに、まるで卸したてのような白いシャツからは、なぜか彼女らしさを強く感じた。

「お久しぶりです。先輩」

「う、うん、お久ぶりです、蒼崎さん」

 ちゃんと顔を合わせたのは半年ぶりなので、高校を卒業してしまったあたしとしては、どこか感慨深い気持ちになった。どこか気まずさを感じて視線を逸らすと、まるで今から世界旅行に行くような荷物が、屋敷のホールにいくつも並べられているのが目に入る。

「蒼崎さんもお出かけ? っていうか旅行だよね」

「え」

 あたしから零れた声に蒼崎さんもなにか感じるところがあったらしい。彼女は勢いよく振り返って、ちょうど奥から現れた静希くんを見やる。

「部長、おはようございます」

 真っ赤なアロハシャツに黒いズボン。初めての海に気分が高まっているのだろう彼は、ニコニコと満面の笑みである。その後ろから、この屋敷の正式な住人である久遠寺有珠さんも付いてきている。なぜか重そうな椅子を持ってきている。見送りだろうか。見送りであってほしい。きっと彼女は自前の椅子を玄関先に置いて屋敷から去る友人を見送ろうというのだ。きっとそうだ。

「部長、不躾なんですけど車のトランクって荷物どのくらい載りますか? 有珠の荷物が思ったよりも多くて」

 有珠と、久遠寺さんの娘さんの名前を、まるで友だちか恋人かのように自然に呼んでいる静希くんを見ながら、あたしは静かにため息を吐いた。

 

 

 ◆  ◆  ◆

 

 

 気まずい。

 青子は玄関先ですでに倒れそうになっている女性を見ながらそう思った。

 ことの始まりは一週間ほど前、のほほんと車のトランクに荷物を運びこんでいる青年が、青子と有珠に持ち掛けてきた一つの話題から始まった。

『大学生の先輩に海に行かないかって誘われたんだ。車だって言っていたからみんなで行けるね』

 受験生である青子はそれを理由に断ったものの、次の日から準備を始めた有珠のどこかワクワクとした表情と、『蒼崎も行くんだよね』と無言のプレッシャーをかけてくる草十郎に辟易したので、参加を決意した。

 洋館に備え付けられていたはずの椅子を重たそうに持ちながら、トランクの近くをウロウロと歩く有珠に「諦めなさい」と一言告げておく。彼女はその言葉を理解するのに時間がかかったらしい。視線をきょろきょろと動かしながら、その椅子をホールにまで戻していた。

 そもそも海に椅子はいらない。

 ちなみにそんな彼女の恰好は、真夏にも関わらず礼園女学院の制服である。車内で死ぬのではないだろうか。

 さて、ここまで隣人の暴挙を見守っていたが、自身はもう一度この海の旅を拒否したい気持ちになっていた。

 水泳部部長が泳げない草十郎を指導にかこつけてデートに誘ったことは明確であり、一転、この状況で落胆している理由は言わずもがな、というものだろう。

 男の趣味の悪さを指摘するべきか、そもそも海への付き添いを遠慮するべきか。

 おまけにお邪魔虫はもう一匹いるのだ。正式にはもう一頭である。

「草十郎、絶対ボクに乗っていったほうが早いよ」

 草十郎とお揃いのアロハシャツを着こんだ外国の少年。

 金の綿毛のような短髪を風で揺らしながら、草十郎のシャツの裾を引っ張るルゥ=ベオウルフを見ながら、青子は強く深くため息を吐いた。

 

 

 

 青子の記憶では、海までは車で一時間程度だったはずだ。

 名実ともに深窓の令嬢たる有珠は窓の外をかぶりつくように見続け、彼女と青子との間に座るルゥはすでに大あくびをしている。

 助手席にすわる草十郎は、青々と草木茂る山を見るたび、感慨深そうに「わー」とか「おー」とか言っている。テーマパークでもあるまいし、会話には逆立ちしても成りえない。

 死んだ魚のような目で運転する彼女に声をかけられるとすれば。

 普段の青子であれば他人の落ち込みなど気にしない。人の気持ちが理解できないわけではないが、だからと言って自分が気を遣うのはなにかが違うだろうと考えてしまうのだ。

 そう、この状況を無視して、すべて草十郎のせいにして自分はこの日帰り旅行を楽しめばいい。それが自分であると理解はしていても。

「こ、この曲知ってますよー……。やっぱり流行りとしては押さえておきたいですよねー」

「あ、え、う、うん。その、男の子ってこういう曲のほうがいいかなーって思って……」

 デートに向けてカセットテープの録画ボタンを押しながら、周囲の音が入らないように努力をする先輩を想像してしまった。

 あきらかな地雷である。

 青子は慌てて話題を変えた。

「そ、そういえば、先輩の車ってエアコン付いているんですね! 親御さんのですか? 先輩のですか?」

 当たり障りのない、それでいて彼女が中心になるような会話展開。仮に彼女の返答が「親の車をデートのために借りて」「デートのために新車を」というワードだとしても、「エアコン付きの車だったら大学でも頼りにされるんじゃないですかー?」「アッシーじゃーん」「あははー」という会話も想定している。これがコミュニケーション能力というものなのだ。

「この車はあたしのだねー。大学生だからってことで買ってもらったんだー」

「へー! すごいですね! エアコン付きの車だったら大学でも」

「あ、でも久遠寺さんのところほど裕福じゃないからぶふぅ‼ 危ない! 蒼崎さん危ない‼」

 青子は咄嗟に運転席側に手を伸ばして、口を一瞬だけ塞いだ。結果として青子は危ないヤツというレッテルは貼られたものの、親友たる有珠の名誉は守られた。

 この先輩は、まるで地雷原であると青子は評価した。

(もういい! 気を遣った私が馬鹿だったんだ!)

 会話に混ざらず、外の景色を眺め続ける有珠には聞かれていなかったようだ。安心してふて寝できると判断する。

 五分も無言で走ると、痺れを切らしたのは先輩のほうだった。

 地雷原のくせに自分から爆発するとはひどい戦場である。

「静希くん、宿題に答えてもいいかな?」

 宿題? 青子は片目を開けて運転席と助手席との二人を見やる。草十郎も良く分かっていないのか、首を傾げて「宿題?」とオウム返ししていた。

「冬休み前にね、静希くんが言っていた、おとぎ話と寓話と童話の違い! ようやくわかったんだー。まあなんとなくだけど。……どうしたの?」

 助手席をチラチラと確認する先輩は、喉に手を置いて苦しそうにもがく草十郎を心配している。

「だ、大丈夫、です」

「酔っちゃった? 窓開けていいからね」

 やり取りを見ながら草十郎に着けている首輪に魔力を送り続ける。地雷があまりにも多すぎるのだ。

 おそらくは【あの遊園地】での出来事の後だろう。草十郎にはある程度説明したが、彼が本当の意味であの使い魔たちを理解しているとは思っていなかった。せいぜいが『童話やおとぎ話をモチーフにして作られた有珠の手駒』という理解の仕方だろう。さすがに使い魔云々は人に話せないギアスを組んでいたが、定義の違いを聞く分には問題なかったようだ。

 普段は大人しい飼い犬が、たまにしか会わない母親に一番懐いているような錯覚。なぜか少し嫌な気分になったので、一度しっかりと首輪を締め直してみた。

「久遠寺さんも、蒼崎さんも、ルゥくんも、酔ったら言ってね。すぐ車停めるから」

 バックミラーで視線が合うが、正直それどころではない。草十郎の質問内容によっては神秘に抵触する確率がある以上、聞き耳を立てておかなければならない。それ以上の理由はない。無いったら無い。

「まずね! 質問が難しすぎたからね! 簡単かなって思ったらもう調べれば調べるほどわけわかんなかったから!」

 へらへら笑いながら怒る彼女に、草十郎は笑みを湛えたまま首を傾げている。青子も質問だけ聞けば確かに悩むだろう。有珠にとっては童話とはマザー・グースが代表作であると答えるだろうが、この場合の草十郎が求める答えとは異なるはずだ。

 イギリスを代表する童話。彼女と常に共にある【童話の怪物】の元になった物語である。果たして【どちらが本当に元になったのか】は青子の知識の及ばないところにはなるけれど。

 マザー・グースは童話、であろう。たぶん、きっと。

 青子はこの時点で愕然としていた。自分もそのようなことを気にしていなかったことに。

 そしてなんて質問をするんだ、と草十郎をひと睨みして先輩の答えを待つことにした。

「最初さー。辞書とか調べてたわけ。で、んーなんだっけ。たしか童話は文字通り子どもに読み聞かせる話ね。寓話は子どもとか大人とか関係なく聞かせるものなんだって」

 つまりは寓話の中に童話があるということだろう。

「じゃあおとぎ話ってなにかってなるよね。まったく同じ意味で違う言葉かと思ったけど、ちょっと違うの。メルヘンって知ってるよね」

「ドイツ語で、おとぎ話や童話を指す言葉……」

 窓の外を見たまま、有珠が会話に加わった。珍しいものを見たと思ったが、話題が話題だ。加わりたくなったのかもしれない。

「さすが久遠寺さん的確です。そうなの。辞書にはこうあったわ。『童話、またはおとぎ話』って。面白いことに、おとぎ話と童話って似てるけど別物なの! あちゃーと思ったよねー。これはいよいよ面倒なことに成ってきたと。おとぎ話って、漢字もあるから日本独自なのはわかるけど、なんでそんなに昔話を枝分かれさせたのかなーって。謎、謎よ、謎」

 じゃあ……と先輩は一息置いた。

「前提が間違えてるんじゃないかって思ったの。おとぎ話を昔話とか神話とか寓話、童話の広義に置いたらどうかって。【まあ結果としてそれも間違いだったんだけど】」

 なるほど、と青子は納得した。興味のない話題についていけず眠ってしまったルゥ越しに、有珠もうなずいているのが見える。

「昔話はメルヘン。神話もメルヘン。おとぎ話もメルヘンってことですよね」

「そうそう。海外ってそういうところ大らかだからね。一緒くたにしても受け取り側で意味を変えていいと思ったの。日本の寓話なんてほとんど海外産だからね。桃太郎とか金太郎とかはあるけど。あ! そうそう、桃太郎と金太郎と竹取物語とかって区分は寓話なんだよ! 変だよね! 子どもに読み聞かせるのに!」

「桃太郎は、本当は桃を食べて若返ったおじいさんとおばあさんが産んだ子どもの物語。絵本に書かれている桃太郎は童話であるはず」

 バックミラーに映る先輩の顔が感心するように上下した。

「さすが久遠寺さん。どうやって調べたの?」

「本を、読んでいるだけ」

「完全に教養の差ですね……」

 先輩は咳払いを一つすると説明に戻った。

「まずはおとぎ話を主軸に置いて、残りの物語を小分けに定義づけしてみたの。まずは神話でしょ。これは分かりやすいの。宗教よ。日本に置ける天皇家の基盤。キリスト教の聖書。龍とかも儒教から生まれたっていうし、ヒンドゥー教とかの神話も、全然調べられなかったけど、神様の数はありそうだからね。って、あはは、ごめんね静希くん。ちょっと難しかったかな」

「コイツのことは無視して大丈夫なので、良ければ続きを」

 青子が声をかけると、魚っとした様子の先輩が一瞬振り返る。

「意外。蒼崎さんってこういう話興味あるの?」

「あ、いえ、まぁ、はい」

 興味、があるのだろうか。少なくとも有珠は聞き耳では済まなくなっている。

「まあいいけど。静希くん、わからないことあったらあとで聞いてね?」

「はい」

「ん、じゃー。次は昔話にしようか。『むかしむかしあるところに』なんて聞いたことあるよね。あれ、全部昔話」

 あまりにも雑な定義づけに青子は肩透かしを受けた。有珠も眉をひそめて顎に手を当てている。

「昔話には神話も童話も寓話も当てはまるんだよね。まぁこれも広義ではおとぎ話と同じだと思うの。だけど昔の話にしか当てはまらないからおとぎ話よりは狭いんだけど」

 納得できたような、できないような。

「昔話って、要は童話なんだよね。正確には、子どもに聞かせるためにどんな残酷な話でもなんとなく丸めちゃったやつ。さっきの桃太郎ってあったでしょ? おじいさんとおばあさんが子作りって、子どもには聞かせられないしねー」

 と言ってから、慌てて「ルゥくん寝てる? 寝てるよね? ごめんね」と謝罪してきた彼女に、「これは年齢とかそういうものを超越した存在ですよ」と訂正するべきか一瞬だけ悩んだ。まさか先輩も、宗教が産んだ神話が自身の車で寝ているとは思わないだろう。

「まあ昔話はそんなところでいいと思う。おとぎ話のほうが広義だってことを押さえておけば、正直日常会話の分類に送ってもいいかなって思ったくらい」

 確かに、自分の過去を説明するために【昔話】という言葉を使うことは多い。五十年前に戦争があったが、それすらも【昔話】だろう。

「えー次が本題。寓話。これ一番難しかった。あたしも調べ出したとき、寓話が広義で、その中の一つに童話があると思ってたんだもん。ジャックの豆の木とか知ってる?」

「ジョセフ・ジェイコブ編纂『イングランド民話集』の話の一つ」

 ノータイムの返答に先輩が苦笑いをした。

「もうさすがとしか言いようがないです久遠寺さん。もしかして寓話の話はしなくていいんじゃないかな」

「……寓話は例外なく、必ず人間以外の存在が描かれていて、それが教訓や風刺を伝える、たとえ話として認識しています」

「さっすが久遠寺さん。そうそう、ジャックの豆の木も、もとは民話だったものを、物は大切にしなさいとか、手の届かないところにいったら大変なことになるよとか、そういったものを後付けされた物語だと思うの。北風と太陽はイソップだけど、これも急がば回れみたいな意味があるでしょ? 子どもとは問わず、『これをやっちゃいけないよ』とか『こうしたほうがいいよ』ってたとえ話にされているの。イソップ、アンデルセン。ぜーんぶ。あ、でも人間以外が必ず出てくるってのは初めて聞いたなぁ」

「イソップ寓話は全部そうなっていて、アンデルセンとグリムは童話として改編されたものが多い。もともとはしっかりとしたストーリーがつけられていた」

「ああ! そういえば! そうだよねー! あとで図書館行こうかな! 読み直したいなー」

 先輩の言葉に、なにを考えたのか、きょろきょろと不自然に視線を泳がせる有珠。その様子も気になったが、青子も別に気になっていることがあった。

「まとめると、神話は宗教から生まれて。寓話は教訓話。童話と昔話は子供向けにされている物語ってことですか?」

「そ、そ。さすがだなぁ蒼崎さんは。あたしなんてそれまとめるのにひと月はかかったっていうのに」

 しかし、たったひと月でこれだけまとめた先輩がどれほどの本を読んだのか、あるいは区分したのだろうか。草十郎に対する本気具合が伺える。

「んでもねー。不思議な話もあってさ。ね、みんなは狼男って知ってるよね」

「うぐっ!」

 草十郎がうめき声を上げたが、こちらはそれどころではない。魔力の流れを見ると青子だけではなく、有珠も冷や汗を流して草十郎の首輪を締めあげている。

「え、静希くんどうし」

「先輩続き聞きたいです続き!!」

 最悪の場合、有珠が忘却のルーンで先輩の記憶をあらかた消すことになるだろう。しかし、まさかピンポイントでそんな話題が出されるとは……。

 人狼の神子たるルゥ=ベオウルフに目配せすれば、すやすやとした寝息が聞こえるだけだった

「う、うん、えっと、テレビでさ、狼男って海外の話だと思ってたの。ほら、わかりやすいところで言えば『赤ずきんちゃん』ね」

 じょじょに魔力を抜くことで、首輪が緩んだらしい。草十郎が抗議をあげた。

「急になにするんだ蒼崎! さすがに苦しいだろう!」

「え!? どうしたの静希くん、蒼崎さんになにかされてた?」

 先輩の頭にクエスチョンが浮かんでいるようだ。話をややこしくされたくないので、青子は満面の笑みで草十郎を黙らせた。

「いえ、なんか夢でした。どうぞ、続きを」

 そう。それでいい。

 先輩も「難しかったかー。ごめんねー」と謝っている。

「あ、で、そうそう狼男。ワーウルフとか、ウルフマンとか言われているけど、日本でもあるの【狼憑き】って言うんだよ。調べたら、本当に昔から、それこそ江戸時代には書かれてたらしいの。そのころってもちろん海外の童話も入ってきていただろうけどさ。それが世界中にあるんだよ。狼男って!」

 そりゃあいますから、実際に。とは言えず、有珠ともども外の景色を眺めることになった。

「変なのーって思ったんだけど、狼男に限らず、人魚とか白鯨とか、世界中で共有されている存在っていたんだよねー。あ、これはさっきの童話とか関係なくて、ただ不思議だなーって思ったの」

「人魚は……いるわ」

 有珠が答えた。青子は「また始まった」とばかりに鼻で笑うと、とたん隣人に睨みつけられる。

 人狼はいるし、集落もある。吸血鬼も存在しているし、始祖という神話級生物もいる。魔眼もあるし、魔術もあるし、魔法もある。海に住まう魚人のような存在もいる。

「人魚姫? オーノー、有り得ないわ」

 言葉だけではなく、大げさなジェスチャーも使って有珠のメルヘンを否定する青子。スゥっと有珠の眼が光った。

「狼男もガーゴイルもいるのに、なぜ青子は人魚を否定するの? それこそ不合理よ」

「い、いるって! あくまで世界中でそういう話がされているってだけでしょ!」

 唐突に魔術師の禁忌を破り出した有珠に驚きながら、バックミラー越しに先輩の様子を見やる。彼女はなにを勘違いしたのか、へらへらと笑いながら有珠に声をかけた。

「あー、ガーゴイルね。わかるわかる。日本だと狛犬とかそうだよねー。人魚もいると思うなー。ほら、上が人間ってことは肺呼吸できるわけだし、海にいなくても地上で暮らしてるって!」

 「蒼崎さんは夢がないなー」と笑っていた。

 普段は否定される人魚への憧れを認められたことで、どうやら有珠は先輩に懐いてしまったらしい。寓話や童話に出てくる【神秘以外の存在】の話を何度も繰り返しドライブ中繰り返していた。

 

 

◆  ◆  ◆

 

 

 いやー、長い運転だった。まさか久遠寺の娘さんがあそこまでメルヘンな子だったとは。どちらかといえば【人魚やたぬきが変化の術でも使えて人間に紛れて生活している】みたいなちょっとリアルな内容を想像しているだけの自分にとって、人魚の国が海の中に存在していて、それがバミューダトライアングルとかにあると言われても、非常に反応に困ってしまっていた。助けを求め蒼崎さんのほうを見れば無視されるし、静希くんは「面白いな今日の有珠は」と笑っているだけなのでまったく頼りにならなかった。

 海が見えた途端に有珠さんは窓の外に夢中になったのでどうにかなったが……。それでも、道中が無言にはならず非常に助かったのは確かだ。久遠寺有珠さん、結構好きかもしれない。

 ってダメだダメだ! 彼女は恋のライバル! 蒼崎さん同様に、敵‼ とは言っても、美貌では正直勝てる気はしないし、【鏡よ鏡】にはなれなかったと思う……。はぁ……。

「海だー‼」

 ルゥくんがやっと着いたとばかりに元気な声を上げた。結構スピード出したんだけど、さすがに子どもには窮屈な時間だったみたい。帰りどうしよう。子供向けのカセットなんてあったっけなぁ?

 車から出るとあまりの暑さに目が焼かれた。

姿勢は美しいままの有珠さんだが、礼園女学院の制服はさすがに辛そうに見える。平然とした顔をしているのは、ルゥくんと静希くんだけだ。蒼崎さん被っていた麦わら帽子で顔を仰いでいる。彼女の髪はあたしより輪を掛けて長いのだ。暑かろう。

 さて、車のトランクを開けて愕然としたのだが、こんなに荷物が入るのかと思うほど、ぎっちりと詰まっていた。

 思い起こせば久遠寺邸で現実逃避をしていた時間があったが、その時みんなが詰め込んだのだろう。はてさて、どうしたのもか。というかあたしが作ったサンドイッチどうしよう。多めに作ったがせいぜい三人分だ。有珠さんの荷物があらかた取り出されたあとにクーラーボックスを開けたが、ひんやりとしていたので一安心である。ドリンクなども入っているのでとりあえずは持ってビーチまで行くけど……。

「なんで!! 私の荷物を!! 置いて!! くるのよ!!」

 不機嫌を通り越して普通に激怒している蒼崎さん。彼女がここまで感情を表に出すことはなかったはずだ。すくなくともあたしは初めて見た。

「ごめん、そういえば入らない荷物は家にまとめて置いてきたんだ」

「だったら! 私の荷物が最初でしょうが! リュック一つ分よ!」

 うわー、さすが蒼崎さん、威圧感がすごい。有珠さんは見た目通り力がないらしく、荷物一つ持てなくて車の後ろを右往左往している。

「ルゥくんダメー! 離れないでー!」

 まとまりのない大人たちに飽き飽きしたのか、ルゥくんは海にかけ出そうとしていた。

 この混乱を収拾させるにはどうしたらいいのか。童話のことを調べるより、頭を使いそうです。

 

 

 

 果たして、有珠さんの荷物はすべて仕舞われた。彼女の荷物は水着以外ほとんど意味を成さないものばかりだったのだ。着替えはまあいいとしても、テントや紅茶、ティーポットはなかなかどうして使いづらい。すくなくとも海にいる間は放置でいいだろう。紅茶ってこの高温でも大丈夫なものなのかな? トランクに荷物が仕舞われるたびに八の字眉が下っていく様は、見ていてこちらまで同情してしまったが、それ以上に可愛らしいのでぜひもう一度見てみたい。一方の手荷物がなくなってしまった蒼崎さんの水着は、海の家のもので代用することにした。もともと柄物のビキニタイプだったというが、残念ながらサイズの問題でもっと攻め立てた水着になった。大きすぎるのが悪いので諦めてもらおう。

 海の家で水着を購入した蒼崎さんは顔を赤らめながら車へと向かっていった。女性のあたしからして期待に胸膨らませるものがある。

 楽しみ半分、不安が半分である。

 あたしは水着を洋服の下に着こんでいたので、最初に静希くんに見せることが叶った。とは言え、蒼崎さんのおっぱいがなぁ……。あたしの胸も小さくはないが、蒼崎さんの胸は服の上からでも明らかに大きいと確信できるくらいだ。せめてもっと大胆なビキニにするべきだったか、でも日焼け跡がなぁ。ハイネックビキニじゃ勝てる気はしないが、テレビで流行りだって言ってたんだよな。柄物じゃなくてピンクにするべきだったかな。失敗したかもしれない。

 いや、そもそも先週の電話で「これはデート、二人きりでのお出かけよウフフ」って言えれば良かったんだ。次の機会はあるのだろうか……。

 ルゥくんには、海の深いところには行かないようにと注意して、彼が視界に入る程度の位置に海の家から借りたパラソルを立てていく。さすが夏休みは家族連れが多く、パラソルを立て終わる頃には五人くらい同年代の女の子にルゥくんは囲まれていた。いや、まあ、いいんだけどさ。あ、そういえば静希くんも今日はあたしと蒼崎さんと有珠さんに囲まれているわけで。……男に産まれたかったな。

 ちなみにビーチチェアも借りることはできたが、二つだけだ。蒼崎さんと有珠さんが使うだろう。あたしは持ってきたレジャーシートを静希くんと使うのだ。策士である。うへへ。

 クーラーボックスに水を張ったり氷を入れたりと、細かな気遣いをして待っていたのになかなか来ない。

 ルゥくんも目を離せばどこかに連れていかれそうな見た目だし、これはどうしたものか。

 悩んでいると昼のピークを迎えたのか、人混みが一層増えてきた。早めにビーチの真ん中を取ったのはいいが、追いやられそうである。

 そんな人混みをモーゼのように割る存在がいた。

 鋭い眼光。その肩は風を切るように。太陽の光を反射する長髪を靡かせて。

 その極道の妻は歩いてきた。

「ひっ!」

 思わず声が漏れる。

 極道ではなく三咲高校の妻が目を吊り上げて闊歩していたのだ。

 あたしが貸したバスタオルを肩に掛けているものの、安物の三角ビキニからは夢と希望が零れそうになっているし、それを恥ずかしそうに腕組で隠す蒼崎青子さん。蒼崎青子なのに顔も水着も真っ赤なんですけど。

 周囲にいる若い男たちも注目しているが、触れるもの皆傷つけそうな存在感に声を掛けられないでいる。

 一直線にこちらへ向かってくるものだから、あたしとしては青ざめるしかない。

 彼女の威圧感で気付かなかったが、近くまでくれば後ろには有珠さんと静希くんがいることを確認できた。やはりというかなんというか、彼女の怒りで近づけないでいるようで少し距離がある。

 それにしても周囲のやっかみの視線が痛い。男性の視線は蒼崎さんと有珠さんとを行ったり来たり。デートの邪魔をされたのか、周囲の女性からも睨まれていたりもする。それはともかくルゥくんを囲む女性たちは着実に増えてきている。将来が非常に恐ろしい。女性を泣かせるんじゃないよ?

「先輩、すみませんいろいろお任せしちゃって」

「う、ううん、大丈夫ですよ」

 蒼崎さんから溢れ出る怒気に怯えつつ、静希くんたちの合流を少し待つ。なぜかは知らないが、海の家の前から有珠さんが動かなくなって静希くんも足を止めてしまったからだ。

「なにしてるの有珠。こっち着なさいよー」

 蒼崎さんの声に反応して、海の家からは視線を逸らさずにこちらに向かう二人。

 というか有珠さんの肌白いな! なに? 真珠?

 黒いワンピースタイプの水着だが、有珠さんの低身長でも子どもらしさは一切感じない大人のデザイン。ポイントはフリルスカートでも、バックリボンでもなく、背中のリボンからチラリと見える彼女の素肌だろう。黒と白と、色分けできるくらい真っ白の肌からは、女性のあたしをしてドキドキとするものがある。

 さて、ここでもう一つ問題が発生する。

 有珠さんと静希くん。蒼崎さんとあたしで対面になる恰好になったため、あたしはすぐさま有珠さんの隣に移った。これは別に蒼崎さんにビビったからではない。

 身長だけならあたしと同じくらいの蒼崎さんだけど、横から見ると、とてもじゃないが一緒にいられないのだ。いままでの人生、別にコンプレックスでも困ることでもなかったのに、静希くんに見られているというだけで絶望感がある。というわけで有珠さんだ。へへ。

 肌の白さ、造形の美しさでは明らかに劣っているあたしだが、ここは海で、あたしたちは水着。男たちがどこを見るかなんて……どこを……え、有珠さんの、え、腰の、え、足、長っ!

 思わず三度三見しても彼女の腰の位置は変わらず、あたしより若干高い。水泳部の人魚姫を名乗っていた昔の自分をぶん殴りたくなく現実がそこにはあった。

 なんと、久遠寺グループの娘さんは、脱いでもすごいのだ……。

「有珠、とりあえず」

 静希くんはなにを思ったのか、有珠さんをビーチチェアに座らせると手荷物から日焼け止めクリームを取り出して、それを彼女の足に塗り始めた。

「んっ」

「冷たいけど、有珠は肌弱そうなんだからこういうのは必要なんだろ? なら早めのほうがいい。だろ、蒼崎」

 あたし同様に二人に置いてけぼりされた蒼崎さんは、どこか気まずそうに視線を逸らせながらうなずいた。少しだけ、口を尖らせて。

 ……する!?

 まままままずは落ち着け。静希くんは天然だ。きっと昨日はこんな会話があったと思われる。

 蒼崎さんがこういうのだ。「有珠は肌弱いんだから日焼け止めは塗っておきなさいよ」有珠さんはこう返す「日焼け止めは嫌い、肌に合わないのよ」静希くんはこうだ「日焼け止めってなんだい?」

 よしここまでは完璧。

 彼は日焼け止めの効能は知っているから、気を効かせて有珠さんに塗ってあげているだけなのだ。

 問題は女性二人の行動だ!

 一緒に住んでいるとはいえ、同じグループに女が二人いるのに静希くんに任せきりってなに⁉ 仲良しなの⁉ そして蒼崎さんが口を尖らせるってなに⁉ 彼女って怒り以外の感情表に出すタイプじゃなかったと思うんですけど‼

 え、ええー……。もうなんだろう心が痛い。なんであたしは真っ黒なんだろう。蒼崎さんと同じく、スクール水着の跡はバッチリだけどさ。なんていうかもうええーとしか言いようがないんですけど。

 日焼け止めを塗り終えるまで、あたしはレジャーシートを一人で使うことになった。

 

 

 

 日焼け止めも塗り終わり静希くんと有珠さんが少し距離を開けたことで、あたしのさざ波立った心もどこか落ち着いてきた。

「蒼崎さん、先にご飯にしちゃう?」

「そうですね」

 死んだ目をした女性が二人。

 ルゥくんを見てみると、焼きそばやイカ焼きを持った女の子に囲まれてまんざらでもなさそうだ。色気より食い気の年頃だ。

 静希くんを荷物番に残し、女性陣三人で海の家に入る。

 どこか気持ちの繋がった蒼崎さんだけで良かったのに……。とはいえ、店の中をきょろきょろと見渡す有珠さんは非常に愛らしい。こんな庶民的なところには来ないよねー。

 店内では食べられる場所もあるが、家族連れとカップルで埋まっているし、注文の場所でもちょっとした行列ができている。有珠さんと蒼崎さんの後ろに並ぶあたしは生きた心地がしない。これが冬なら、厚着ならと深刻に思う。

「マブいな」

「声かけようぜ」

 と背後から知らない男性の声がするけど、蒼崎さんが振り返っただけで気配が消えた。ナンパされない魔法でもかかっているのか、彼女の眼には……。

 注文までに時間はかかったものの、受け渡しは非常に速かった。

焼きそばと半分に切られた焼きトウモロコシを人数分。トウモロコシは有珠さんに持ってもらった。飲み物はもう十分冷えているだろう。

 さて、ここで問題が発生した。

 蒼崎さんが焼きそばを、あたしが缶ジュースを手渡していると、なぜか有珠さんがその皿を抱きしめ逃げようとするのだ。

「一人一本に決まっているでしょうが!」

「これ、わたしのだから」

「違うでしょ! だいたいそんなに食べられるわけないじゃない!」

 二本半か……あたしならペロリだな。

 缶のプルタブを小指に嵌めながら焼きそばを頬張った。

 そこから有珠さんの心をつかむようなものはなかったのか、彼女はビーチパラソルの影に入って文庫本を読み始めてしまった。

 三人で軽い準備運動だけ行って海へと向かう。

「わっ! なんだこれ」

 波打ち際で大声を出す静希くん。足元の砂が引き潮に攫われていく感覚は、海以外で味わうことのできないものだ。

 蒼崎さんはクスクスと笑いながら静希くんの背中を押して海に追い立てた。

「ほぉら! 先輩と特訓した成果見せてみなさいよ!」

 静希くんは困ったように海に入っていく。それはそうだ。彼は練習でも一人で泳げたことはない。

 そういえば二人は静希くんの肉体美を見ても驚きの一つもなかったな。駐車場で見ない間に、という空気でもなかったが。やっぱり一緒に暮らしてるからかなぁ。あたしはいまでも見ているだけでドキドキしている。

 なんか、悔しいなぁ……。

 少し、ほんの少しだけ距離を空けてあたしも海に入る。五歩も進まないうちにひざ下まで海水に飲まれた。生暖かい海水。上も、下もこんなキラキラしているのに、あたしの心だけが海中にいるかのようだ。

 プールだったら、いいのにな。

 二人で練習していた温水のプールの暖かさが懐かしかった。

 三人の間はきっと人ひとり分だ。なのにどうしてこんなに、こんなに――。

 ズズと鼻をすすって涙ごと飲み込む。

 顔を見られたくなくて、ひとりで先へ、腰まで浸かるくらいに進んでいく。それでもなお進んで行きたかったのに、誰かに手を引っ張られた。振り返りたくなくて、でも静希くんの顔は、あの笑顔が見たくて。あたしは振り返った。

「……ルゥくん」

「お姉さんお腹すいた」

 さっき女の子からいっぱいもらってたよね?

 彼の手を引いてパラソルまで戻る。有珠さんは無警戒に本を読んだままだが、悪い虫たちは寄ってこなかっただろうか。心配である。

 クーラーボックス近くに置いてあるタッパーの蓋を開けた。

「大丈夫かなぁ?」

 サンドイッチの匂いを嗅ぎながら、タッパーごとルゥくんに渡すと、パクパクと食べ始めた。余ったら有珠さんにもオススメしよう。そういえば気にしてなかったけど、お金って全部あたし持ちだったよね。……なんか気になりだしたら腹立ってきたな! アッシーやって財布くんもあたしで! 久遠寺グループはなにかあたしにお返しするべきでは⁉ 具体的には静希くんと二人きりのデートとかさ!

 あたしの真似をしてタッパーの匂いを嗅ぐルゥくんだったが、その鼻がなぜか上に行ったり、下に行ったり。

「えっ、ちょ、どうしたのルゥくん。恥ずかしいんだけど」

 彼の顔があたしの太もも付近にある。羞恥心で顔を背けると、周囲の小学生くらいの女子たちから殺気立った目を向けられていた。

 慌てて視線を戻すと、ルゥくんの綺麗な瞳と目があった。

 そして、その小さな口から言葉が飛び出してくる。

 

「お姉さん、なんか生臭いね」

 

 後方から本が落とされる音が聞こえた。さび付いたブリキのように有珠さんを見やると、思い切り視線を逸らされた。

「あ、有珠さんも……そう思う、の?」

「わたしは、なにも……」

 女性たるもの、生臭い匂いには覚えがあるがいまはその周期ではない。

「有珠もおいでよー。草十郎ったら全然ダメね、手を離すとすぐ沈んじゃうわー」

 練習の効果出てないんじゃないー? と隣の静希くんをせせら笑う蒼崎さんだったが、あたしたちに流れる不思議な雰囲気に視線を行ったり来たりさせている。

「どうしたの?」

 それに答えたのは、二つ目のサンドイッチに手を伸ばすルゥくんだった。

「このお姉さん生臭いって言ったら、泣きそうになっちゃったの。ごめんねお姉さん」

 ここまで残酷な謝罪があるのだろうか。心がバキバキに砕け散りそうである。さっき我慢した涙が零れそうである。先ほどとの違いはあって、甘酸っぱさの欠片もなく、人間としての尊厳がすべてなくなった虚しさの涙である。

「そそそそんなわけないでしょうが!」

 蒼崎さんのフォローが虚しく力強く響くが、すぐに無駄になった。

「あ、その匂いだったのか。いつもは塩素の臭いでわからなかったけど」

 えっ、ちょ、静希……くん……?

「生臭いっていうか、魚臭いって匂いなんだよね」

「お前は黙ってろ! せ、先輩! せんぱーい‼」

 少女漫画のヒロインのように、駐車場に向かって走り出す。

「足はやっ! 陸上部か!」

 蒼崎さんの声を置き去りにして砂浜を後にしようと思ったが、車に戻ったところで発進はできないし、そもそも車の鍵はビーチパラソル近くの手荷物に入っている。綺麗なUターンを決めてみんなの元へ戻る。

「先輩って意外と愉快な方なんですね……」

「愉快だし魚臭いよ!」

 怒りながらビーチチェアに腰掛ける。

「静希くん正座! もう怒ったんだから!」

 あー、もうなんかどうでも良くなった! 女性の匂いとかさ! 嗅ぐなよ! ルゥくんはもういなくなってたけどさ! サンドイッチは全部ないし! デート誘ったのにほかの女誘うなよ! 防護線張ったわけじゃないならさ! 良くないよそういうの!

 などと、公衆の面前で言えるわけもなく……。

「泳ぐとき! 力が入りすぎ! 水を怖がっちゃだめ! 人間は浮かぶの! 筋肉があっても海なら浮かぶの! 浮かばないのは力んでいるからです!」

 と、臆病者のあたしから出た言葉は、きっとこの言葉はお説教なんかじゃなく、【いままでの関係に逃げるための言葉】だった。

 怒るふりをしながら、自分の恋が終わる瞬間を、自覚しているわけだ。

 ああ、せめて、今日は楽しくすごそうじゃないか。

 

 

◆  ◆  ◆

 

 

 その日の夕暮れ。

「あれ? ルゥくんは?」

 みんな普段着に着替え終わり駐車場に集合したのだが、きょろきょろと周囲を見渡す先輩に、青子はなにも言えないでいた。

「彼は走って帰るって」

「言うな!!」

 青子のボディブローが草十郎の腹直筋に突き刺さった。

「走っ、え?」

「い、いえいえいえ! あの彼のお父さんが車でこの近く走ってきてたらしく、乗せて帰っていきました」

「へー。すごい偶然!」

 訝しみながらも納得したようにうなずきながら、エンジンをかける先輩。草十郎が助手席に乗り込むと熱風が目を焼いた。山でも街でも感じたことのない熱い風に、眉をしかめてしまう。それもつかの間、車が発進して幾ばくも経たないうちに冷たい風が流れてきた。夕日が沈もうとする山並みは遠く、郷愁は味わえない。

 草十郎がバックミラーに目を向けると、有珠が眠たそうに目を擦ったのが見えた。疲れているとはいえ、リラックスしているようにも見える。

 そうか、と草十郎はゆったりと息を吐く。

「これから、帰るんだ……」

 零れた言葉。

 山はとても懐かしいし、見れば心がほっとする。だけど、恋しいのはやっぱり――。

「あ、そういえば部長」

 彼は唐突に自分の思考と乖離した。

 結局、自分はそこにいるしかないのだ。ここが自身のいるべき場所なのだと、諦めではなく、自然にそう思えるようになったのだ。

「んー?」

 一行は海に入るための細道から出て、帰宅のための国道へ進入したところだ。集中力も失っているのか、それとも草十郎と話すための【力み】が消えたのか。彼女はとても自然に彼に笑いかけた。

「行くときの話、あのおとぎ話の話なんですけど」

 青子は片眉を上げて静希を見つめる。そういう話に興味をもつことはわかる。彼が経験した神秘の話題は、きっと山でも経験することのないような不思議なことばかりだっただろう。だけど彼は一度解決したことに反芻するようなことはしない。ありのままを受け入れる、それが静希草十郎だと思っていた。

 おとぎ話は、神話は宗教から生まれて。寓話は教訓話。童話と昔話は子供向けにされている物語ということで区分けが完成したではないか。

 有珠も草十郎を見つめながら不思議そうにしている。

「おとぎ話ってなんなんですか?」

 青子は大きく肩を落とした。暇つぶしの会話とは言えその会話が完結してからまだ六時間程度しか経っていないし、先輩の話は着地点としては十分だったと思っていたからだ。

「あのねぇ、おとぎ話の定義は神話とか寓話とかの一番広い意味なの。全部おとぎ話ってことで結論がついたでしょう?」

「え、それは違うぞ蒼崎」

 あまりと言えばあまりの否定に、青子は自身の間違いを思い返す。

(こいつがここまで言うってことは、なにか忘れてることがあるのか、そもそもの質問が間違っていたか)

 はて、と悩むがすぐには思いつかない。青子が隣を盗み見れば、有珠も顎に手を当てて悩んでいるようであった。

「ほら、部長は言っていたじゃないか。おとぎ話を昔話とか神話とか寓話、童話の広義に置いたって」

 なんだ、私の記憶に間違いはなかったじゃないか。そう言い募ろうとしたが、彼は言葉を付け加えた。

「そしてそのあと【まあ結果としてそれも間違いだったんだけど】って」

 青子は慌てて口元を覆った。驚きの声が漏れそうだったのだ。そうだ、確かに言っていた。

「あー、それねー。ルゥくんいたからあんまり話せなかったし、別にみんなの前で話す内容じゃなかったからさ」

 もごもごと緊張にも似た言葉の濁し方である。

「最初はね、それでいいと思ってたの。でもさ、おとぎ話だけ、漢字じゃないじゃん?」

「漢字……。え、でも当て字みたいなのありますよね? おん、とぎ、はなし」

「そうそう、謎じゃない? 御伽話ってさ。とぎってあんた。あと話も漢字違うのだったりして、曖昧だなぁって思ってさ」

 片手ハンドルで空中に文字を書く先輩の姿を見ながら、青子も空中の文字を脳内でなぞる。

 噺……。おそらくは落語を元にしている言葉だろう。モノガタリとも読めるその漢字は、口から発せられるストーリーに当てられる漢字であるように感じる。

 そして伽。こちらにも何種類かの意味がある漢字ではあるが、有名なところでは【夜伽】などがある。

 そして、さきほど先輩が発した言葉がつながった。

『あー、それねー。ルゥくんいたからあんまり話せなかったし、別にみんなの前で話す内容じゃなかったからさ』

 子どもには聞かせられない内容の話題とは、つまり、つまるのである。

「あははー、青子さんは気づいたみたいだねー。そうなの! 御伽噺って、調べれば調べるほどピロートークなんだよね!」

 自分でも言っていて恥ずかしいのか、それらを吹き飛ばすように明るく話す先輩だったが、彼女は知らないようだ。一見知識を蓄えるだけ蓄えた我が友人は、反面、丸っと俗語に疎いのでいまからそれを説明しなければいけないことを。

「ピロートークってなんですか?」

「いやお前もか!」

 草十郎の天然も忘れていた。……いや、ある意味それが彼女の今日の狙いだったのかもしれない。そこまで調べて挑んだデートが不発だったのだ。心臓がぎゅうと掴まれた気分になる。

「ピロートークって単語は置いといて、伽って言葉の意味だと、『夜の間、誰かと話すこと』ってあるんだよね。恋人同士の語らいは【夜伽噺】。お母さんが子どもに童話を聞かせたり、逆に子どもが親に今日の出来事を話したりするのが【御伽噺】。とりとめもない、無意味な、それでいてとっても大切な噺が、きっとそれが全部おとぎ話だったら、一番素敵だなって、思ったの」

 一度言葉を切って、彼女は大きく笑った。

「ちょっとメルヘンすぎるよねー!」

「メルヘンって、おとぎ話や童話って意味なんですよね。なら、すごい綺麗な考えだと思いますよ」

「ん……そうかな……へへ」

 先輩の頬が濡れている理由を、草十郎が知るときはあるのだろうか。

 どこか痛む胸を忘れたくて、青子は目をつむることにした。

 

 

 

 洋館に辿り着くころにはもう真っ暗で、荷物を降ろすのも一苦労だ。もっとも苦労したのは草十郎一人であったが。

 青子が荷物の確認にと車を懐中電灯で照らしていると運転席の足場マットにキラキラと光るなにかを見つけた。

 大き目の砂かと思い手の平を当てると、硬度のある球状の物体が押し返してきた。指で拾い上げると、虹色の光を反射する、小指の爪のほどの大きさの球であることわかる。

「真珠だ……」

 作り物か? あいにくと青子に真珠への審美眼などあるはずもなく、コロコロと指の中で転がすのである。しかも何個か転がっていたので拾ってみると、四つほど回収することができた。

「先輩、これ落ちてましたけど」

 有珠と最後の歓談をしていた彼女は、青子の手のひらに乗っている真珠を見てゴクリと生唾を飲み込む。そして引きつる笑いを顔に張り付けた。

「あ、あは、それ、ネックレス、壊れたの」

「ネックレス?」

 青子の記憶では彼女が真珠のネックレスをつけていた記憶はない。なにを焦っているのか、先輩は「前、ね! 前そうなったの!」と聞いてもいない言い訳をする。

「あ、でも四つか……」

 粒の数えた彼女は、ふむぅと一度唸ってから言った。

「それ、あげる。みんなに一つずつ」

「えっ?」

「というか、あげたいんだよね。まあ今日みたいな日が、楽しかったっていうのならって前提だけどさ」

 そんな小悪魔のような発言を聞いて、青子はさっそく一つ自分のポケットへ入れた。その様子を見ていた有珠もひょいと真珠を一粒受け取る。

「静希くんには、あたし帰ったら聞いてみて」

 不安そうに笑う彼女に、大丈夫ですよと告げる。それから十分もしないうちに先輩は山を下ってしまった。来年も遊ぼうと言い残して……。

 来年という言葉に、青子も有珠も曖昧なうなずきしか返せない。

 いつかは殺し合わなければならない二人ではあるが、それでも、まるで普通の友だちのようにお揃いのアイテムを持つことがおもしろくて、不思議になってしまった。

 さあ、そろそろ三人で【御伽噺】の時間にでもしようかな。

 なんて、言葉には出さなくてもそろって居間に向かった。もっとも体力馬鹿の草十郎は夜にバイトが控えていてその準備に取り掛かってしまったのだが。

 というわけで居間には二人。と、空を飛び回る使い魔が一匹。

 コロコロと真珠で遊びながら、今日の話しを思い出す。

 親から子へ、恋人から恋人へ、友人から友人へ。伝わったはずの物語。口伝であるはずの【御伽噺】に人魚や狼男が世界中で見られたことは確かに不思議である。日本産狼男か……。一度見てみたいなと思いながら、青子はふとした違和感を覚えた。

「ねえ有珠」

「なに?」

「そっちの真珠に穴って開いてる?」

 テーブルの上に、宝物のように置かれた真珠を持ち上げ、確認する有珠はふるふると首を横に振った。

 はて、先輩がつけていたネックレスのデザインはいかなるものか、と二人はのんびりとした夜を過ごすのであった。

 

 

◆  ◆  ◆

 

 

「ふんぬ! ふんぬ!!」

 その日の晩、あたしはお風呂の中で一生懸命足を擦ることになった。日焼けの痛みなどはないが、擦りすぎて涙が溢れている。

「いい加減に出なさいよ」

 母親が浴槽と床に散らばる【真珠】を集めながら文句を垂れる。たが今日に限ってはあたしに気を遣ってほしい。

「生臭いって言われたの!」

「海で? あはは、【気づく人】もいるんだね」

 朗らかに笑うがまったくこれっぽっちも笑い話にするつもりはない。なにが【人魚姫】だ、お前だって王子に生臭いとか思われてたんだぞ! ああアンデルセンめ! 許しがたい。

 バスタブのふちに腰掛け、お湯につけた【下半身】を見下ろす。まるで真珠の中のオーロラのような鱗は、子どものころはこんなきれいな足をしていることを自慢に思っていたのに、いざ大人になってみればこんなものだ。剥がすのは痛いが、擦っても痛かった。

 ため息一つ吐いてお風呂から上がることにする。

 浴槽の鏡を見れば髪の毛に残っている砂がキラキラと輝いているようにも見えた。

「ああ、失恋しちゃったなー」

 ぽろぽろと零れる涙は、洗面台の排水口に転がっていく。

「ちょっと! 詰まるから泣くなら部屋で泣きなさい!」

「慰めるとかないの!?」

 親子喧嘩が勃発したころ、父から自分の水着を知らないかと聞かれ、慌てて部屋に逃げ帰ることになる。

 逃げてばかりの一日だったが、次の恋での経験に活かそうと前向きに考えながら、真珠の枕で眠るのであった。

 


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