ネイチャさん誕生日おめでとう。
早いもので、最初の選抜レースが開催されてからもう既に1ヶ月が経った。
そう、1ヶ月も経ったのだ…………
1回目の選抜レースは仕方ないとしても、月2回あるはずの選抜レース…………まさか2回目の選抜レースすら私は出走することが出来なかった。
本格化に伴う身体の変化。夜毎に痛む成長痛は中々私から消え去ることはなく、諦め悪くギリギリまで粘ってみたのだけれど結局ルドルフ先輩やテンポイントさん、そして一応沖野さんと相談した上で第2回の選抜レースも出走を見送ることにした。
走れなくて悔しい…………と言うよりも出走出来なくて残念だ、という気持ちの方が強い。
不思議な事に、ルドルフ先輩曰く一般的なウマ娘の本格化と言うのは早くて1週間。長くても2週間行かないくらいで終わりを迎え本格的な走りの体へと成長するのだとか。だがしかし、私の本格化は1ヶ月経った今でも未だ終わりを迎えることはなく。果たして本格化がいつ頃に終わるのか、皆目見当もつかない状態なのである。
これには私を含め、多くの知り合い達が首を傾げながら待つしかない。幸いなのは、ピークを越えたのか成長痛の痛みが日に日に小さくなっていること。
最近では痛み止めを飲まずとも夜中に痛みで起きることなく眠れているから、恐らくもう少しすれば完全に成長痛を感じることも無くなって本格化も終わると思われる。
とは言えそんなこんなで未だ競争ウマ娘としての一歩を踏み出せないでいる私だけれど、かといって夢に向かって脚を止める訳にはいかない。
「副木は前腕の下から添える様に、そうです…………固定は肘と手首の2か所を三角巾で縛る様に。」
「こんな感じかな?大丈夫南坂さん、痛くない?」
視線の先に写る南坂さんの細く、けれどしっかりとした腕に私は手に持っていた三角巾で添えていた副木と腕を縛った。
「…………はい。キツくもなく、ですがしっかりと副木を固定出来ています。ネイチャさん、上々です。」
確かめる様に何度か腕を動かして、南坂さんは笑顔でそう評価してくれた。この南坂さんの評価に、私は思わず安堵の溜息を吐いてしまった。
ここはチームカノープスの部室、そして今私は南坂さんに応急処置の方法を実地で教わっている。
応急処置と言っても、状況や場合によってその対応は千差万別だ。骨折に打撲、挫傷etc…………だけど確実に言えるのは要救助者を見つけた時、そして自身が事故などで要救助者となった時…………
知っているのと知らないのとでは雲泥の差であるということだ。もっとも、定義としては応急処置は救急隊員が行うことを指し、
まぁ、取りあえず今は応急処置と一纏めにしておこう。
「しかし、1度私が実演しただけで此処まで出来る様になるなんてネイチャさんは素晴らしいですね。」
「あははは…………いや南坂さんの指導が良いからですよ。」
関心した様子で私にそう言って来た南坂さんに私は乾いた笑いでそうそう謙遜するしかなかった。この応急処置、実は前世で一通りやってたんですよ…………なんて言えないから仕方ない。
応急手当・救命手当は怪我や病気を治療する行為(医療行為)ではない。あくまでも、怪我人や病人を医師等に引き渡すまでの間に症状を悪化させないための一時的な措置である。前世自衛官だった私は出港からの戦闘訓練のたびに応急処置の訓練をさせられた。
止血・骨折の副木固定・でき者救助・心肺蘇生…………なんならAEDやトリアージだって訓練させられた。
正直、仕事をやめてしまって記憶も掠れて朧げな部分が多々あるけど、それでも多少覚えているだけで此処まで出来たのは南坂さんの指導が良いからだろう。
「それにしても、トレーナーには
「そうですね。トレーナーという職業はウマ娘の人生を預かっていると言っても過言ではありませんから。」
先ほどまでの微笑を消して真面目な顔でそう告げる南坂さんの言葉に、私は自然と姿勢を正して聞いていた。
「怪我、病気、不慮の事故…………場合によってはその所為で後遺症が残ったり、最悪担当していたウマ娘が亡くなってしまうことだってあるかもしれません。だからこそ最悪を退けるために私達トレーナーは可能な限り最善を尽くし怪我の予防、そして怪我への対処を憶えておかなければならないのです。」
南坂さんのこの言葉は重く、そして刻まれるかの様に私の内へと圧し掛かって来た。この南坂さんの言葉は初めてではない。最初の座学からずっと、私の耳にタコが出来るくらいには頻繁に口にしていた言葉である。
何度も同じことを言われてウザったい…………なんてこと、私は1mmとも思わない。
だってそうでしょうが。この世界はアプリの様に保健室に行ったり、神社でお祈りするだけでバッドコンディションが治るなんて都合の良いことはないんだ。アニメ2期のトウカイテイオーの様に怪我をしたら苦しんで苦しんで、それでも走ることを諦めきれなくて必死になって足掻いて這いずり回って。
辛いリハビリと、本当に走れるのか、元の様に走れるのかっていう心の不安と戦って。そりゃあ、それで復帰して勝利出来れば正しく美談、華々しい物語の中の1つのアクセントで済まされるかもしれないけれど。実際はそんなことなんて殆ど無い。
競争ウマ娘として終わった後も人生は続いて行く訳だからトレーナーとしては後遺症や怪我の跡なんて残させたくない。だからこそ無事是名バを目指すのならば怪我をしないに越したことは無いし、その為に取り組めることは何だってやるのがウマ娘のトレーナーなのだ。
南坂さんの言葉はそのことを忘れない様にと繰り返し私に伝えてくれている。将来私がトレーナーになった時…………私の肩に、そして私の背中に、担当ウマ娘の人生が圧し掛かって行くことになるのだから。
だから私も、何度も聞かされてウザったい…………ではなくその都度心に刻む様に真剣に南坂さんの言葉を聞く。
「さて、ネイチャさんの副木固定の処置は十分でしたので、ではこのまま次に行きましょうか。」
空気を切り替える様に、先ほどまでの真剣な表情から微笑みへと戻った南坂さんは机に置いていた実習用の応急処置道具の中から綺麗にアイロン掛けされた三角巾を1枚手に取って、それをそのまま私の方へと差し出して来た。
先ほど副木固定で使った三角巾もそうだけど南坂さんが長年使って来たのか、日焼けや色褪せで本来の白さはくすみ所々ほつれも目立つ三角巾は、しかし大切に大切に使われてきたのが一目で分かるほど綺麗だ。
そんな三角巾を南坂さんから受け取って広げながら、さてどうしたものかと私はその手を止めてしまった。
何故、南坂さんは細かい指示を出さずに三角巾だけを私に差し出したのか。いや、恐らく上腕骨や前腕骨、肘の骨折を固定する方法…………アニメやドラマなどで良く描写される様な、三角巾で輪を作り、それを首から下げてその輪を使って腕を吊り下げる方法がこの場合適切なのだけれど。
果たしてそれだけなのだろうか?今まで南坂さんから学んできた限り、南坂さんは事前にきちんと座学を行って尚且つ実習でも最初は口頭で説明しながら確実に最後まで丁寧に教えるスタンスだった。
つまりこれは南坂さんがあえて何も説明せずに私に練習を行わせようとしている…………ということだろう。
(えぇ…………まぁ取りあえず座学で教えて貰った通りやるけどさぁ)
私は広げた三角巾を持って南坂さんの隣へと移動する。そばにあった椅子を引き寄せて、私は南坂さんにそっと座る様に促した。本番を想定するのならば流石に立ったまま処置することは無いし、あとは単純に座って貰った方が処置しやすいって言うのもある。
三角巾を副木で固定した南坂さんの下から潜らせる様に包む。三角巾を二等辺三角形で例えるならば90度の角が肘の方へと来る形。反対の二等辺三角形で言う底辺の方を手首が出ないギリギリの所で位置調整してから、私は残る2つの角を南坂さんの首元へとまわした。
腕を吊り下げる為に三角巾の端っこ同士を結ぶのだけど、ここで重要なのは結び目を背中側で作るのではなくて、首の右左どちらかの側面方向で結ぶこと。
何故そうするのかと言えば、首の真後ろで結び目を作ってしまうと腕を吊った時に脊椎…………所謂背骨の部分に結び目のコブが当たって負担が掛かってしまう。なので極力体への負担を減らす為にワザと真後ろからずらして結び目を作るのだ。
「この位置はどう南坂さん? 腕はきつくない? 」
結び目の位置を決める為に、私はそう南坂さんへと尋ねた。これは首の時と同様に、傷者役である南坂さんの負担にならない位置に腕の吊る高さを合わせるのだ。
「えぇ、今の位置で大丈夫ですよ。」
「わかった。んじゃこの位置で結ぶね。」
南坂さんの返事を聞いて、私はスルスルと三角巾の末端を結んでいく。結び目は私の立ち位置的にやや右側に寄せて、結んで余った部分は末端処理として三角巾の内側へと埋める。
結び目が終わればお次は肘の部分。二等辺三角形で言えば頂点の部分だけど、此処も重要なのだ。
肘を安定させるため此処にも結び目を作るのだけど、肘には
肘の下、もしくは内側に結び目が来ないようにすることで圧迫させない様にするのが大切なのだけど、前世で私が教わった方法としては一度肘を包む様に三角巾を束ねて、肘…………丁度上腕骨の肘ギリギリの部分で結び目を作る。
こうすることで尺骨神経を圧迫させずに肘を包む様に安定させることが出来る。あとは首の時と同様に末端処理として余った部分を三角巾の内側にねじ込んだら一応の完成だ。
…………だけど、これで終わって良いのだろうか?
ちらりと私は南坂さんの顔を見たけれど、南坂さんは何時ものニコニコ顔で特に何かを感じ取れることは無い。しかし何となくだけど此処で終わってはダメな様な気がしてしまうのだ。
(しょうがない…………蛇足になるかもだけどもうちょっちやってみるかぁ……)
そう内心溢しながら、私は新たな三角巾を1枚机から手に取った。幅5㎝程度まで三角巾を折りたたんで細長い包帯の様にしてから、腕を吊り下げている三角巾を押さえつける様に折りたたんだ三角巾を南坂さんの胸へと回した。
折りたたんだ三角巾の末端をそれぞれ南坂さんの脇の下を通して、末端同士を軽く結んだ。
「南坂さん、深く息を吸ってぇ…………吐いてぇ…………良し。」
南坂さんが私の合図で南坂さんが大きく息を吐く。そのタイミングに合わせて仮で軽く結んでいた三角巾を締めた。
「どう? 苦しくない? 」
「はい、大丈夫ですよ。」
折りたたんだ三角巾の役割は単純で、言ってみれば吊った腕が大きく揺れない様にする為の固縛みたいな物だ。結んだ三角巾の末端をこれまで通り処理しながら、きちんと固定されているかなどを私は南坂さんの吊っている腕を少しだけ触って確かめた。
「ん…………大丈夫そう。終わったよ南坂さん。」
「はい、手順などを見ていましたが特に指摘する事もありませんでした。良く勉強されてますねネイチャさん。」
「あはは~いやぁ、南坂さんが何にも言ってくれないから何処までやって良いのか分からなくて。」
「はい。自分で考えて何処までやれるのか…………ネイチャさんには十分な知識があると私は判断してあえて黙っていました。」
微笑ながらそう私の処置の感想を言ってくれる南坂さんに、私はこそばゆくなってポリポリと思わず頬を掻いた。
何というか、私は褒められ慣れてないので南坂さんの誉め言葉が物凄くこそばゆい。思わず話題を変えようと思わず机に置いてあった三角巾を手に持った。
「それにしても南坂さん。どうして未だに三角巾で応急処置をやってるのさ? いや私的には三角巾の方が手に馴染んでいるし、安いから良いんだけど。」
手に取った三角巾を少しだけヒラつかせてそう質問した私に、南坂さんは少しだけ困った様に笑った。
実際に最近では簡単に装着出来る副木や、三角巾で吊らなくてもいいアームサスペンダー等…………時間もかからず簡単に傷者に使用出来る道具も増えている。入手方法も最近ではUMAZON等のネット通販でも簡単に購入出来る様になってきているし、効率を考えればそう言った最新の道具を使った方が良いのではないか? そう思ってしまう。
「そうですね…………何故かと言われれば幾つか理由はありますが、やはり基本を押さえる事が重要だからでしょうね。」
「あぁ…………確かにこれを学んでおけば、まぁ最悪手元に器具が無くても布と硬い物があれば応用して処置出来るしねぇ。」
「えぇ、そう言う事です。」
なるほどねぇ…………と軽く南坂さんの言葉に私は納得しながら、手に持っていた三角巾を机の上へと戻した。
「んじゃ、一度片付けますか? 解くからそのまま動かないでね南坂さん。」
「そうですね、ではお願いしますネイチャさん。」
座ったままの南坂さんに私はそう言って、今までとは逆の手順で解き始めた。1つ1つ、使った三角巾は机の上にある物とは分けておく。これは南坂さんとお勉強会が終わった後で一纏めにして私が洗濯とアイロン掛けする為だ。
(…………私も自分用の道具を買おうかなぁ。」
「よろしければ私が伝手を使ってネイチャさん用のを一通り集めておきましょうか?」
「いひゃ!? 」
心の中で少しだけ自分用の道具一式が欲しいなと思っていた所で、いきなり南坂さんにそう声を掛けられて思わず変な声が出てしまった。
「…………聞こえてた? 」
「えぇ、ばっちりと」
「わいちゃぁ…………恥ずかしい。」
「いえいえ、誰しも自分専用の道具と言う物に憧れるモノです。
で、どうしますかネイチャさん? 」
少しだけ恥ずかしさで顔をそむける私と、笑顔でそう言ってくれる南坂さん。
「じゃ、じゃぁ…………お願いします。」
「はい、ネイチャさんに合う物を揃えておきますね。」
クッソ良い笑顔でそう言う南坂さんに、私も少しだけ笑って返した。
南坂さんってこんなにグイグイ来る人だったけ? 思わずそんなことを思ってしまうけれど、ここは素直に南坂さんのご厚意に甘える事にしよう。
(…………終わったら南坂さんの分もお茶でも入れよう。)
使った道具を片付けながら、私は今度こそ南坂さんに聞こえない様にそう心の中で呟いた。
これを書くにあたって知り合いのお医者さんに道具のカタログ借りたんですけど、私が習っていた頃より色々進化しているんですねぇ。
いや、もしくは予算の関係で道具が更新されていなかったのか…………
どっちにしろ応急手当は大切ですから1から学べたのは個人的に良かったですねぇ。
私の上司も道端で倒れている人を助けて警察かどっかで表彰されていたし、皆さんに一度くらい講習でも何でも受けてみると、いざという時助けになるかもしれませんよ?
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