世界の終わりを中心に叫ぶ Shouting about doomsday. 作:生糸もす
原作:オリジナル
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でもそんな君に好きな人ができたんだって?他人事ながら嬉しいね。
でもさ、君はどんなことがあっても彼女を愛し続ける事が出来るかな。
たとえ世界が滅んだとしても。
夢の中から見守っているよ。
世界の終わりに際して何を考えれば良いか、俺にはさっぱり分からなかった。
ただしかし、今、着実に世界は終わりを迎えようとしているし、世界が終わったらこの先の未来は無くなってしまう。いや、結果的に何もかも無くなるのならば過去も未来もこの現在も無くなってしまうのだったか。
展望台の窓から見える景色はとても現実のものとは思えない有様で、紺碧の大空には大きく亀裂が走り、裂け目に東京の街並みが吸い込まれていく。
人の営みの証が。高層ビルの残骸が。新幹線の車両が。折角埋め立てて作った土地も。全てが飲まれていく。
やがてこの亀裂は世界を覆い尽くすだろう。
そうして世界が終わっていく。
「ねえ、思い出した?あの映画のラストシーン」
そう語りかけてくるのは俺の彼女だ。
決して文学的な言い回しではなく、俺の恋人だ。
映画のラストシーンは確かこうだった。
ビルの最上階で二人が愛の告白をして、そのタイミングで主人公の仕掛けた爆弾が、周りのビルを崩していくのだ。それが暗示するものは文明社会の崩壊か、主人公の心模様を現しているのか、少し考える必要があるが。
しかし、こんな壮大な世界の終わりを月並みな映画のラストシーンで片付けてしまうなんて癪な話だが、俺はそんな彼女の性格も大好きだった。
彼女が俺の顔を覗く。俺も彼女の顔をじっと見つめる。
「キスしよう」
「いいよ」
「私は君のしてくれた選択、嬉しく思うよ」
世界を終わらせる引き金を引いたのは俺だ。
それについて弁明する気持ちはない。
数々の人々の人生を踏み躙っただろう。
俺よりも希望を抱いて人生を歩んでいた人もいただろう。傲慢な選択をしたことはわかっている。
いや、やっぱり実感がないのかも知れない。ほんの小さな選択の違いで世界が滅んでしまうなんて。
しかし、全てが終わった後、過去も未来も無くなってしまうのなら、どうでも良いことなんじゃないか。
それに俺じゃなくてもいつかはその引き金を引いただろう。
とんでもなく奇妙な縁(えにし)の織り重ねの先に、他の誰かがいたかも知れない。
「まだ少し時間があるけれど、どうする」
「君の事がもっと知りたいな」
もう間違えない。俺のしたい事は自分が一番分かっている。
***2034***
大学生活が始まり、しかし、未だに高三の春休みの延長を過ごしているようでなかなか実感が湧かない日々を過ごしている。
俺の名前多場祐介。今年大学生になった。
しかし、大学というのは難儀なもので活動的でなければ空気のように時間が過ぎていく。光陰矢のごとしというやつだ。
高校生の時消極的な姿勢を貫いていた俺は気づいたら大学生一年目の夏を迎えていた。
さて、別に俺は特に小説や、アニメ、映画が好きというわけではない。取り分け語ることもない。消極的な人間であるが、人並みに望みはある。彼女が欲しい。これが強大な唯一つの願いだ。
さてまあ、そんな女子との邂逅も虚しくこの大学生活を謳歌している人間だ。
不満かってそんな事はない。俺には俺でやる事があるからな。アルバイトだ。俺は暇さえあればアルバイトをしている。大学帰りの夜。休日は多くて二つ入れる事がある。夜勤と、昼の出勤とだ。
どれも人とあまり関わらなくてもできるアルバイトだ。
スーパーの品出しとか、コンビニの夜勤とか。
しかし、この大学生活も三ヶ月が経ち、気づいた事がある。それは自分から動かないと出会いがないという事だ。男の知り合いは自然と出来るにしろ、女の知り合いは本当に出来ない。
直接的な原因は明らかだ。なんせ接触をしていないから。
でも仕方ない。女子と会ったって話のきっかけが思いつかない。
例えばある男は言う。
「うん。そん事考えた事ないな。なんでもいいんだよ。彼女の身につけているもの。性格を表した一面をエピソードを交えて褒めてあげるとか」
証言者は自然にこの行為ができると言う。全くあり得ない話だ。まるで理性の持たない動物が人間の想像もつかない奇想天外な作為を巡らす様に。
不毛な話に思考を巡らす時間は終わり、意識がゆっくりと顕になる。
俺は教室にいた。しかも講義を受けている最中だ。どうやら俺は何か珍しい生物の生態に関するビデオを見ている最中だった様だ。
そこでは驚くべき生物の、奇想天外な生態が顕になっていた。
適者生存の末に起こった珍事。こいつらの生態に意志なんて少しも介入していない。
俺には彼女がいない。出来たこともない。気になる女の子もいない。
そんな絶望的な三角形の環境に俺は身を置いている。
**7月21日**
「よし、全員集まったみたいだね」
駐車場で十人以上の我が校の大学生が集まり、点呼をとっていた。
大学前期の授業も終わりという事で、今日の夜はサークルの飲み会ということになっていたのだ。
消極的な俺が一体どんな風の吹き回しかと、驚くかも知れない。
漫画研究会。何処にでもあるありふれた大学のサークルである。
俺がこの漫画研究会に入会したのは先月の末になる。結局俺が入会してからと言うもの活動らしき活動をせず、こうしてほとんど全員の会員と顔見知りになることすら叶わずいきなり飲み会に飛び込むと言う展開になったと言う訳だ。
しかし、漫画研究会といってもゼロ年代の懐かしき暑苦しさ、もとい汗臭さを連想させるヲタク達はおらず、そこらに清潔感を振りまく内実汚濁に塗れた人間ばかりが所属している。
しかし、思えば下心とは我々の中に心がまず一つあるとして、下にもやはり心がもう一つ宿っているという事なのだろうか。
失言した。
こんなことではいけない。
きょうが初対面とは言え女の子と絶対仲良くなると意気込んでこの場に居るのに、危うく自ら独りぼっちになってしまう所だった。
さて、見回してみると人数は計十五人程度。男女比率は男4女6といったところか。
まあ、これなら場がどちらの性別にも支配されることなく、順調に仲良くなれるのではないかと思う。
さあ、戦いを始めよう。人間の対話は戦いだ。相手をどう気持ちよくさせるか、その意図をどれだけ上手に隠せるか。自分を偽れ。相手を酔わせ。
酒と自分に溺れた時が狙いどきだ。手際よく男女二人でこの飲み会を抜けようじゃないか。
「ジントニック」
「生ビール」
「レモンサワー」
「日本酒」
「カシスオレンジ」
「ジンジャーエール」
「焼酎」
席に着くなり始まる纏りの無い交流戦。酒の名前が飛び交う、飛び交う。
幸い、俺は酒が強い方だ。いくら飲んだって構わないだろう。女の子を酔いつぶしてから持ち帰ってもいい。
なんだか考えていたら興奮してきたな。最初から度数の高いものを飲んでしまおうか。
***
気付いたら居酒屋ではなく、全く別の何もない空間にいた。酒を飲んだ時の酩酊感も今は無く、地面を着実に踏み締める事が出来る。
「起きてください」
目の前に何かがある。
最初それは確かかなり不完全な形をしていた。
しかし俺の意識がはっきりしていくにつれ彼は人間となり、服を着て、やがて年齢や性別がはっきりしてきた。
目の前には背広を着た中年の男が立っていた。
しかしよくある中年の男が醸し出す不快感はない。
この男のイメージはむしろそんなものとは無縁に、まるで作為的に作為を感じさせない見た目ですんなりと俺の懐疑の目をくぐり抜けてきたのだ。
「ここはどこですか」
「完全に目が覚めたみたいですね。もしくは完全に伸びてしまっている状態ですか」
酔狂なセリフを吐き捨てて、男は俺の顔を見てくる。
なんだ?俺に質問して欲しいって事か?
「貴方は誰なんですか。ここは一体どこなんですか」
意図を汲み取ってくれた、と嬉しそうに目の前の男は笑みを作り、不快感なく受け答えをこなす。
「私の名前ですか。本名は明かせない事になっているんです。だからそうですね、メイルとでも名乗っておきましょうか」
「メイル」
「貴方はさぞ困惑している事でしょう。今までの経緯を丁寧に説明する必要があるでしょう。
一つに、貴方と私が会うまでのきっかけ。もう一つ、私は誰なのか。
まず私が誰なのか、そこからお話致しましょうか。」
メイルは急に黙ってこちらの顔を見てきた。俺にはその行為の意味が全く分からなかった。
「続けてください」
「先ず私は実在する人物では有りません。貴方の夢の世界の住人です。貴方が夢を見ている時に会う事が出来る。
存在意義というものは実はまだ持っている時では無いのですよ。ですから貴方の相談を聞いてあげる事くらいしかする事は有りません。
貴方と私が出会った理由はもう説明するまでもありません」
そうか。俺は飲み会で潰れたのか。最悪だ。まだ誰とも仲良くなっていないのに。女は愚か男の知り合いすら出来ていないのに。
彼は黙ってこちらの様子を窺っている。
また黙っちゃったよこの人。
どうすんだよ、これから。
「まあそんなに焦る事は有りませんよ。初対面の印象が悪かろうと性分が似ていれば自然と仲良くなれます。あれだけ人数が居れば問題ないでしょう」
「おいあんた。なんで俺が頭で考えている事がわかるんだよ」
「すいません。実はこの会話に鉤括弧は必要ないのですよ。私は今後も鉤括弧を付けて話しますが、貴方は外しても構いません」
そっか。夢の世界だもんな。
「まあ、初めて接触はこれくらいで問題ないでしょう」
というと?
「もう少しで貴方は目が覚めそうです。つまりはもう少しでお別れという事です。
今後は、もう少しインターネットや友人から事前に立ち回り方を調べておいた方がいいかも知れませんね。私からの忠告です。すぐに出来る事ですから。」
***
目が覚めて、真っ先に携帯の時計を見たらもう夜の十二時を回っていた。
夢の出来事は何だったろう。
ぼんやりと男と話したことくらいしか覚えていない。まあ夢の話なんかどうでもいいか。
飲み会の盛り上がりは少しも衰えてはいなかった。宴もたけなわというやつだ。
彼らはひとしきりアニメや漫画の話題を話し尽くした様で、今は高校時代の思い出話を語り合っている様だった。やれ部活がなんだの、高校の友人がとんでもない人間だったとか、そんな話だ。きっと話ならば何でもいいのだろう。
俺は目が覚めたものの未だ怠さは抜けていないから、話をまともに聞くことすら出来ない。
よし、試しに声を出してみよう。まともに喋れるか。
唐揚げ
「ひゃやあえ」
檸檬
「ひぇもん」
麦酒
「ビール」
葡萄酒
「ワイン」
どうやら大丈夫そうだ。
景気付けにもう一杯いくか。
「ひぇんふぁいビールふぉ」
俺を見ている先輩、全員嫌な顔をしている。もうどうしたらいいんだ。分からない。帰ろうにもこんな潰れ方じゃあもう無事に帰れるかどうか分からない。
「あー、私、送りますよ」
救いの手が差し伸べられた。
かわいい。
かわいい。
めちゃくちゃタイプだ。真っ黒な髪を伸ばして、全体的に黒い服装。でも所々にアクセントがあって、綺麗な肌が覗いている。
こんな女の子が俺を送ってくれるのか?そんな幸せな事があっていいのか?
しかし、それを聞いた先輩方の表情と言ったら露骨なものだった。
「いや、山本さんは残ろうよ。あんまり飲んでないんだからさ」
「うんうん。ねえ、山本さん以外で誰かこいつを送ってくれる人いる?」
たしかに、この場にいる中で一番美人なのはこの山本さんだろう。
誰も動かない。男は山本さんにいって欲しくないし、女性陣は早々に潰れた俺なんかを送って行きたくない。
「それじゃあ、私は行くので」
居酒屋をでて、俺は情けなくも彼女の肩を借りて駅まで向かっていた。
「山本さん」
「なに?」
「なんで俺なんかを送るために飲み会抜けちゃったの」
山本さんはため息を吐いて、嫌々口を開いた。
「あんな所普通居たくないから。無理やり誘われて来たけれど。だから酔い潰れた君が絶好の言い訳になったの」
成程。やっぱり女の子は下心に敏感なのか。
いや?だがこうして意図しない形であれこうして男女二人で飲み会を抜けて来て、これはお持ち帰りって言うんじゃないのか?
彼女はそれを分かっているのか?
「君、何か勘違いしてるみたいだけど、送るのは最寄りの駅までだからね」
「そんな、せっかくだし俺の家で休んでいけばいいのに」
「勃たないよ」
「ん?」
「酒に酔っ払うと精力も無くなるらしいから。
君の期待している事態は起こらないよ」
なるほど流石に彼女はそこまで見通して俺を送っていくと決めたらしかった。
畜生。
「ねえ、そのカードは何?」
彼女は俺の右手を指さし聞いてくる。
俺はいつの間にかポケットのカードを握りしめていた。
これは俺の幼少期からの御守り。神の代わりに俺が信じている数字の羅列。
「02738568492」
「それは御守りなんだ。ずっと昔からの」
「ふうん。御守りって普通は神社で買うとか、思い入れのある物を使うんじゃないの?」
「だからだよ。数字の羅列に愛着なんて湧くわけがない。愛着があったらそこに神を見出してしまう。俺は徹底的な無神論者なんだ」
「困った時にその数字に縋るの?」
「そう。そうしたら現実を見て頑張る気になれるだろ」
披露してしまった。俺の痛々しい青春哲学みたいなものを。
普段だったらこんな事絶対喋らなかったのに。酒のせいだ。
でも彼女は俺を単純に面白がって言う。
「君って変な人だね」
本当に今日は災難だった。初めから会ったことのない人間と飲むなんて乗り気じゃなかったけれど、それで潰れた上に女に担がれて家に向かうなんて。
「ひねくれおとこがおりまして
ひねくれみちをあるいてた
ひねくれかきねのきどのそば
ひねくれおかねをひろってね
ひねくれねずみをつかまえた
ひねくれねこをてにいれて
ちいさなひねくれあばらやに
そろってすんだということだ」
彼女は何かの詩を口ずさんだ。一体なんの詩だろう。
「鵞鳥のお母さんのたわごとなんだ」
「そっか」
どうやら答える気はないようだ。
「ひねくれ男は家で幸せに暮らしているのかね」
俺は彼女に問いかけてみる。
「ううん。幸せにはなれないだろうね。ひねくれているから、きっと幸せな暮らしにも何か意味を求めちゃって」
彼女は事もなげに答える。その男は俺と少しだけ似ている。俺だってきっと差支えのない学生生活を送っているだけでも幸せなんだろう。
「でもね、もし幸せになってしまったら彼はひねくれ男ではなくなってしまう。
私の好きなひねくれ男はどこにもいなくなっちゃうんだ。」
それはとても、悲しいことだ。
夜の街は賑やかだ。所々にある居酒屋で、大学生から壮年のサラリーマンまで雑多な人間で賑わっている。
ぼんやりと街を眺めていたら何処からか怒りが湧き上がって来た。
それは情けない自分に対する怒りだったり、どうしようもない間の悪さに対する怒りだったり様々な要因が入り混じっていただろうが、それは単純にこのままなんの成果もなく帰る事はできないという決意を俺にさせた。
もうどうにでもなっちまえ。
思えば特攻精神というのはこういう切羽詰まったときの日本人の精神性を的確についた言葉だと思う。
「山本さん。今度遊びに行きませんか。」
「何処に行くの?」
そうだ。こんな時、女の子と一緒に行くのに丁度いいところってどこなんだ?男となら何処でもいける。でも女の子だったら話の話題だって選ばなきゃならない。
「あー、レストラン?遊園地?」
俺は適当に場所を言いながら彼女の顔を伺う事にした。
彼女はなんだか少し微笑んで言った。俺の心を見透かしたように。一体今の一言で彼女は俺をどこまで知ったのだろう。
「映画館行こっか。少し見たい映画があるんだ」
映画?映画は返って話す雰囲気にならないなんて聞いた事があるぞ?でも、彼女から誘ってくれたし。行かない訳にはいかないが。
「君。少し変な人だから。映画を見て感想聞かせて欲しいな」
「はい!」
「いつにしよっか」
「いつでも!」
「よろしくね。ひねくれ男さん」
そんな訳で、俺は山本さんと映画館に行くことになった。
**7月28日**
飲み会の後、特になにもすることなく夏休みに突入した。それにだ、もう夏休みに入って三日目なのに何も起こっていない。
日がなアルバイトに身をやつす日々だ。
おかしい。こんな事態予測出来なかった。
高校の友人もさしていないし、大学も勿論友好関係の広がりを見せないこの俺がそんな考えを持つことは愚かかもしれない。
まあいいさ、ここから心機一転。今日は例のデートの日なんだ。夏休み中に山本さんとぐうっと仲を深めてお付き合いにまで持っていってやる。
そう考えるとむさ苦しい男からの誘いがないのは返って好都合だな。
集合は午後の四時。今は丁度正午を回った所だ。トーホーシネマズまで三十分ってところだから、よし、行くか。
***
午後一時からこっち二時間をカフェで過ごした後、俺は映画館へ向かった。
辺りは勿論のこと人で賑わっている。東京だからな。
山本さんが来たのは俺が映画館に来てから四十五分後だった。
改めて見て感動した。彼女は飲み会にいた時よりも数段可愛く見えた。相変わらず黒を基調としたファッションで、それだけじゃない、立ち振る舞いだって完璧な上品さだった。
衝撃だった。俺はこんな子とデートするんだ。碌な死に方しねえぞ。
「おお、多場くん、はやいね」
「丁度暇だったから」
「暇だったの?多場くん結構友達いそうだけどなー」
いえいえ、そんな事は。決して。
俺はそれとない返事をし、彼女も俺への返答を決めかねているようだ。
三秒後の今となっては分からない。どうして俺はそんな適当な返事をしてしまったんだ。会話でご機嫌取りするの、得意なはずだったんだけどなあ。
沈黙が生まれた。周りはこんなに騒がしいのに、俺と彼女との間だけ音が消えてしまったみたいだ。苦しい、人との沈黙ってこんなに苦しかったっけ。
「それじゃあ、行きましょっか」
「ああはい」
情けなくも俺は彼女に引っ張られ、エスカレーターを登って行った。エスカレーターを登る行為をするにあたって一つ。俺が前に行けば良かった。彼女の後ろ姿も捨てがたいけれど、やっぱり顔が見たいなあ。
数分間でも彼女の顔を見れないなんて、もったいない。もったいないよ。
どうしよう。失敗した。長いんだよな、エスカレーターに乗ってる時間。
「多場くんは映画とかよくみるの?」
そう言って山本さんは俺の方に振り向いてくれた。振り向くしぐさも完璧だ。おれあなんて幸せなんだ。
「お、俺はまあ、結構見ますね」
「ふうん。沢山見るんだ」
「山本さんも見るんでしょ。どんなジャンルが好きなの?」
山本さんは乗り気なようだ。嬉しい。
「私はねー、案外涙もろいんだ。だから無難に感動する映画が好きだな」
「ショーシャンクとか?」
「定番だねー」
「ファイトクラブとかは?」
「ファイトクラブ!いいね。私ラストシーンがすごい好きだな。」
すごい。別に俺が肯定されているわけでもないのに、すごく幸せだ。良く分かんないけれどふわふわして気持ちいい。
ファイトクラブのラストシーンってどんなものだったかなあ。
「ビルの最上階でね、愛の告白をするの。そこから見える景色が凄く綺麗だった」
そうだ。かしかにそんな感じの最後だった気がする。でもどんな景色だったかな。ビルの最上階から望んだものは。
「固定観念とか、その人の持ってる哲学とか全部ぶっ壊すような景色だったの」
「そっか」
思い出せない。
そのうちエスカレーターを登り切り、映画館の階に着いた。
***
映画の内容はちょっと暗い内容だった。認知症の母を介護する息子の話だった。認知症なんてそもそも俺の身近ではないし、こんなに綺麗な話なのかとも思った。正直な話、良くわからなかった。
隣を見ると、山本さんが真剣に映画を見ていた。目はスクリーンの一点を見つめて、その横顔には喜怒哀楽全ての表情が読み取れるような気がした。
あーあ、映画なんかより山本さんの横顔を眺めていた方がいーや。
不味いな、眠くなってきた。
***
意識ははっきりしていた。何もない空間には中年のサラリーマン風の男が立っていた。
誰だ?
「おはよう。多場くん」
確かお前は、メイル。
またここかよ。ただの不思議な夢だと思っていたのに。二回目ともなれば少し考え物だな。何かの啓示か?
「いやいや、これはただの夢さ。でもね、君とチャンネルを合わせるチューニングは中々難しいんだよ」
やっぱり啓示なのか?そもそもお前はなんで俺なんかに会おうとするんだ。
「ううん、それは言えないんだよ。言えるほどまだ君と僕との窓口は広くない」
まあいいや。早く俺を起こしてくれないか。今は映画を見ているんだ。しかもデートで。お前には悪いけれど、中年のおっさんより女の子と話していた方が俺にとっては幸せなんだよ。
「デートできたんだね。それはおめでとう。でもね、君を起こしてはやれない。
なんでかって、少しだけこの窓口は不便でね。僕から君へ、能動的な行動は出来ないんだ。」
はあ。良く分からない。
「分からなくてもいいよ。とにかく、僕が何かするには君か他の誰かからの働きかけがなければならない。
ルールみたいなものさ。受け入れてくれ」
別に?どうでもいい。お前に相談することなんかない。まともな答えが返ってくるとも思えない。
「まったく、酷い言われ様だね。でも、僕と話すのはこの空間だけだから、だからこそ話せる事もあるんじゃないのかな」
ったく、早く目が覚めねえかな。幸せだったのに。
「もうすぐ目が覚めそうだね。君が寝ていた時間は大体三分くらいだ。
とにかく、今後もまた会う事だろう。バイバイ」
***
俺は自然と目が覚めたけれど、山本さんには上映中寝ていた事がばれてしまっていたらしい。恥ずかしい。
今はエンドロール中だけれど、この後どうするんだ俺は。
「つまらなかった?」
いやいやいや、そんなことありませんよ?
「面白かったー」
俺も!俺も面白かった!
「なんかー普通だったね」
そうですね。特に語ることもないというか。
駄目だ駄目だ。これじゃあ会話が途切れてしまう。なるべく当たり障りなく、笑いながら会話をしたいな。
結局俺の会話シュミレーションは中途半端にはかどらなかった。
やがて映画が終わり、俺たちは映画館を出、カフェで休憩しながら映画について話す事にした。
「つまらなかったね」
そっか。俺も少し寝ちゃったしな。ただ、そんな考えとは裏腹に、口から出た言葉は事を穏便に済ませたいと願った便宜の言葉だった。
「そうかね?」
「うん。私はね、なんだかいらないシーンが多すぎるよ。それに、そのいらないシーンが他のシーンにも悪影響を及ぼしてるね」
「会社のシーンのこと?」
「そ。私はこの映画のテーマも好きだし、実際殆どの部分は満足する出来だったんだけれど、会社のシーンが映画全体をチープに仕立て上げてるの」
どうしてそんな不平不満を言うのか俺は彼女に問いただしたくなった。少しだけ。
だってデートってこんなんじゃないだろ。映画を見て、見終わった後楽しかったね、って笑い合って流れで今後の事を惚けあって話し合ったりするんじゃないのか。
「多場くん、間違えないで欲しいのだけれど、満足出来るっていうのはある一面に置いてだけよ。」
「はい」
「映像。映像はよかった長回しから出るリアリティをうまくテーマに落とし込んでた。でもね、肝心の物語があまりに抽象的すぎて私の心は微塵も揺さぶられなかったわ」
「なるほど」
なんとかしてこれを止めないと。
もしかして彼女にデートしに来たって自覚は無いんじゃないのか?浮かれていたのは俺だけ?
「ねえ、多場くんはどうだった?」
「ああ、俺は面白いと思いましたよ」
「うん、どんな風に?」
「綺麗でしたよ。とっても。画だけじゃない、音の使い方も良かったし、話も具体性がない分リアリティがなかったけれど、でもそれが話そのものを淡く仕立て上げてて、美しいなあって」
「ふうん、随分肩入れするんだね。作者は多分そこまで考えていないと思うよ」
山本さんは目を細めて僕に返した。
違う。違うんだ山本さん。僕はこんなにしっかり批評会を開くなんて思わなかったんだ。
彼女のその表情がやきもちなのか、はたまたいたずら心なのか僕にはわからなかった。
「やめましょうよ、こ、今回はデートなんですから」
「デートなの?」
デート。俺はデートだと思って来てたんだけどなあ。
「ねえ、じゃあデートではどんな事するの?」
彼女は椅子に座り直してから、そんなことを聞いてきた。
まるで淫魔のような質問をしてきた彼女に対して、俺は咄嗟に何もいう事が出来なかった。
彼女の神聖だったイメージがガラガラと崩れていく想像をした。
「互いの事を知り合うとか?」
「ふうん。じゃあさ、私の好きなもの当ててみてよ」
山本さんの好きなものか、なんだろう。全く想像出来ない。そもそも食べ物なのか?趣味のことなのか?抽象的すぎはしないだろうか。
もしかして俺?
「それって食べ物?」
「食べ物にしよっか」
「苺とか」
「違うね」
「ケーキ」
「違うかな」
「クロワッサン」
「離れたね」
「パフェ」
「そう。正解」
成程な。山本さんってパフェが好きなんだ。
結構大人びているけれど意外と女子って感じのものが好きなんだなあ。
「ねえ、奢ってよ」
彼女はレストランのお品書きが書かれた紙を指差した。
しばらくの時間俺と彼女の空間が静かになった。
「いいですよ」
「冗談のつもりだったのに」
嘘だ。絶対嘘だ。
「これくらい大したことないです」
これで俺の財布は空になった。だが後悔はない。
「多場くん。ありがとうのキスをしてあげよっか」
「え?」
俺が固まっている間に彼女はテーブルから身を乗り出す。
身をのり出すと腹の辺りの彼女の服がテーブルに擦れ、少しだけ体の形がわかる
そのまま俺に彼女の綺麗な顔が近づいてくる。ゆっくり、ゆっくりと。
時間の流れは一定なはずなのに永遠に彼女の顔を見ている気がする。
なんて幸せな時間なんだ。
やがて唇が俺の頬に触れる。頬に密着して感触が広がる。俺は何も考える事もなく、じっとその瞬間を吟味していた。
俺は体こそ動かなかったものの、目で彼女がキスする瞬間をしっかりと捉えていた。そうだ。丁度アナログなカメラみたいに俺の目にその画が焼き付けられたんだ。
嘘だろ。
いいのか俺が。こんな美女と。
「ありがとね」
それから俺と山本さんとの間には少しだけ沈黙があった。でも決して息苦しくはない。
こんなに幸せな沈黙は他にない。
少しの時間、彼女の薄く微笑んだ顔を眺めていた。
「山本さん!ま、また次も会いましょうよ。夏休みも長いので」
「いいよ」
なんて言ったんだ。この傲岸不遜な考えを彼女は容認してくれたというのか。こんな事があって良いのか。
「じゃあ今度は何処に行くの」
何処にいくのか。一体何処に行けば良いのだろう。
「じゃあ今度は散歩しましょう。私、東京まだ隅々まで見てないんだ。いろんなとこ歩いて、いろんなもの食べたいな」
「はい!」
「あとさ、私の事名前で呼んでいいよ。ひねくれ男さん」
山本ちひろ。それが彼女の名前だった。
そんな訳で次は彼女と東京観光をする事になった。
**8月2日**
俺はそれからというものずっと頭の中でキスの瞬間が反芻されていた。
身を乗り出すと腹の辺りの彼女の服がテーブルに擦れ、少しだけ体の形がわかる
そのまま俺に彼女の綺麗な顔が近づいてくる。ゆっくり、ゆっくりと。
時間の流れは一定なはずなのに永遠に彼女の顔を見ている気がする。
やがて唇が俺の頬に触れる。頬に密着して感触が広がる。
身を乗り出すと腹の辺りの彼女の服がテーブルに擦れ、少しだけ体の形がわかる
そのまま俺に彼女の綺麗な顔が近づいてくる。ゆっくり、ゆっくりと。
時間の流れは一定なはずなのに永遠に彼女の顔を見ている気がする。
やがて唇が俺の頬に触れる。頬に密着して感触が広がる。
ああ、今日はまたデートの日だ。俺の一日は早い。七時に起きて、朝の食事に取り掛かる。
今日は随分と早く、彼女の要望から9時には来て欲しいとの事だった。
だから俺はこんなに急いでるのだ。
***
集合したのは冨岡八幡宮。東京は何処でも朝から人で賑わっている。
「お。来たね、多場くん。」
と、人混みにまぎれてちひろちゃんがこちらに向かってくる。
どうやら待たせてしまったようだ。
彼女はいつもと同じく黒系の服で統一していた。シースルーの上着から慈しまれているかのように綺麗な肌が覗く。
さて、今日といえば俺は何か東京を散策すると聞いていたが、たどる道までは聞いていない。
「私が案内するね。行きたいところ沢山あるから」
「はい!」
今日も景気良く返事をして、俺は山本さんについて行く。
賑わっている繁華街をしばらく歩くと、人混みの中で再びちひろちゃんは立ち止まった。
「ねえ見て」
彼女が下を指差し、そこにはマンホールがあった。桜の描かれたマンホール。
特になんの変哲もない。
彼女はそのマンホールに両足で飛び乗った。
大胆さに少しだけ彼女の衣装が揺れた。
「ここに戻って来ましょう。そしてまた帰ってきたらこのマンホールを踏むの。
さあ、多場くんも乗って?」
俺は恥ずかしさを感じながらも、客観的にこれが恋愛か、なんて耽りながら同じくマンホールに両足で乗った。
「じゃ、行こうか」
そこからの道のりは酷く過酷なものだった。
築地から東京駅を通り、オフィスビルへ入る。大量のサラリーマンを横目にビル街を抜け、すると江戸城跡に出る。そこから再びビル街へ突入、それからひとまず新宿に着いたので休憩した。
「江戸城跡でランニングしている人って本当にいるんだね」
さて彼女は今度は浅草へ行きたいと言い出したので俺は即答でついて行った。まるで犬を連れての散歩である。
しかし、やはり浅草への道のりも長かった。
東京ドーム、靖国神社など名のある観光地を尻目に、やはり見えてくる江戸城跡、そうして見えてきたヲタクの街、秋葉原。メイド喫茶では高い金を払ったにもかかわらずちひろちゃんより数段不細工なメイドに接待され、昼を過ごした。
彼女は満足そうだった。
少し歩くと浅草寺だった。
ここで終われば、俺の足が悲鳴を上げる事もなかっただろう。
「よし、次は東京タワーね」
俺は二つ返事でついて行った。
神田大明神、将門公の首塚を通り、再び道ゆくサラリーマンがもはや風情を醸し出す東京駅へ戻ってきた。そこからさらに進み、また江戸城が見える。ここの道では俺と山本さんは返って盛り上がったと思う。映画の話に花を咲かせながら虎ノ門ヒルズを眺め、東京タワーへ。
展望台にはレストランがあった。時刻は大体三時を回っていたので、俺は東京の絶景に添えるパフェを彼女のキスと交換で奢り、東京タワーを後にした。
まだ3時だしと、駄目押しとばかりに彼女は護国寺へ行こうと俺に提案した。俺は二つ返事でついて行った。
少し歩いて、国会議事堂を通った。ここが政治で有名な霞ヶ関か。と二人で感心しながらその場を後にして、相変わらずの江戸城跡を通る。ランニングしている人は時間のせいか少なかった。
護国寺について、取り敢えずと富岡八幡宮、靖国神社、神田大明神と、今回四度目となるおみくじを引いて、二人とも中吉だったのを確認した。
お前は神を信じないのではなかったのか。お前には数字の御守りがあるだろう。なんて君たちは言うかもしれない。でもね、おみくじの結果を見せ合う時、彼女の顔が近いんだ。それだけでする価値はある。
話を戻そう。俺たちはやっと冨岡八幡宮まで戻る向きになった。
東京ドームを通り、江戸城、日本橋を通過し、ようやく戻ってくる事ができた。
俺は今日だけで江戸城跡を五度見た。五度も。
こんな体験をする人間はなかなかいないだろう。
「多場くん。ホラ、朝私たちが乗ったマンホールだよ」
うるさい。もう俺の足は動かない。
「ちひろちゃん。全然元気なんだね」
「まあ私は散歩好きだから」
でも今日一日、彼女と色々な話ができた。街に散らばるいろんな物を通して彼女の考えを知れた。俺は幸せだ。
彼女も俺の事悪いようには思っていないようだし。
彼女を見れば、お先、なんて悪戯っぽい顔でマンホールに立っていた。
「ほら、多場くんも早くおいで」
「はい!」
カメラをもって待ち構えていた彼女に不意をつかれて、俺の顔が間抜けに映った二人の記念写真が出来上がった。
こうして長く続いた東京散策は終わったのである。
**9月25日**
彼女と過ごす夏休みは、それは夢のようだった。
二人で博物館も行ったし、水族館にも行った。
しかし、大学生の長い夏休みにも終わりは訪れる。
九月の終わりに彼女は俺と行きたい所があるとデートのお誘いをしてくれた。
俺は、ここで告白をしようと思う。「好きだ。付き合ってください」って月並みだけれど。
一夏を過ごしたからと言って彼女の全てが分かったわけではないが、ちひろちゃんも少しは俺の事、気に入ってくれているんじゃないだろうか。
集合したのは浅草の手前の田原町。
少し歩こうと彼女が言うので、そのまま雷門を通り、隅田川を渡った。
そのまま東京スカイツリーまで歩いた。
東京スカイツリーの展望台からは東京はおろか、首都園の全景が見渡せた。
「こうしてみると、人の営みも大したものよね」
少し他人行儀な彼女の物言いは俺の想像する神様を想起させた。
「ほら見て。江戸城跡。私たちが一日かけて東京を散歩した日の事、覚えてる?」
覚えている。次の日は筋肉痛で足が動かなかった。
「忘れるわけがない。他でもないちひろちゃんと丸一日過ごした日なんだから。」
「嬉しい。
じゃああれは覚えてる?鵞鳥母さんのたわごと」
「もちろん。
ひねくれおとこがおりまして
ひねくれみちをあるいてた
ひねくれかきねのきどのそば
ひねくれおかねをひろってね
ひねくれねずみをつかまえた
ひねくれねこをてにいれて
ちいさなひねくれあばらやに
そろってすんだということだ
忘れない。君が俺にくれた詩だから」
「そうね」
「ちひろちゃんはこの詩好きなの?」
「うん。小さい頃にお母さんが歌ってくれたの」
頑張れ俺。ここで一歩を踏み出すんだ。
「じゃ、じゃあ俺の事は?」
彼女は俺の意志に気付いたようだった。
「ねえ、ちょっとした度胸試しでもしない?」
「どうして?」
「思い出をつくるの。ここまで来たら君の言う事一つだけ、聞いてあげる」
ちひろちゃんはガラス張りの床に飛び乗った。ハイヒールがガラスに触れてカツンと音がする。
怖いもの知らずだなあと、関心とひやひやした感情の入り混じる俺に、お構いなしに手を差し伸べてくる。
「二人で立とうよ、マンホールの時みたいに」
「はい!」
さあ、行こう。このガラス床で寄り添いながら告白するのもいいじゃないか。
しかし、俺の足は動かなかった。俺はちひろちゃんのところへ行きたいのに、まるで本能がガラス床へ行くのを拒んでいるようだ。
予め言っておくが、俺はガラス床程度で怖気ずくような男では決してない。しかし、足が動かないんだ。今すぐ行って彼女に告白しなきゃならないのに。彼女もそれを受け入れる準備ができているというのに。
なにか、なにか忘れていることがある。今やらなきゃいけないこと。
「どうしたの?怖い?」
ちひろちゃんは少し困って急かしてくる。
なんだ?一体何がたりないんだ?満足のいく夏休みだったじゃないか。それに今、彼女の要望に従う以外に大事な事があるのか?告白以上に大事な事が?
なにか、何かあるはずだ。
「ちひろちゃん。俺、何か忘れていることがあると思うんだけれど、心当たりある?」
「んん。なんだろう。君がここまで来ることかな」
忘れ物か?ポケットを探ってみる。
なんにもない。入っていたのはカードだけだった。おれの御守り。何の変哲もない数字の羅列。
「02738568492」
俺は何となくその数字を眺めてみる。それもかなり手慣れた動作だった。少し先で彼女が待っているというのに。
そうだ。電話だ。電話を掛けるんだ。この番号に。
それは何の脈絡もないことに見えた。
「ねー何してるの?」
「電話を掛けるんだよ。このカードの番号に」
「なんで?そんなの今やらなくてもいいじゃない」
いや、多分今やらなきゃ駄目なんだ。彼女の事を差し置いてでも。だって凄く居心地が悪い。電話を掛けないつもりになると、とんでもない罪悪感に襲われるんだ。
「まったく、ひねくれ男さんったら。
怖いなら私の手を握りなよ。
そうだ。おまじないを教えてあげる。怖さを打ち消すおまじない。」
彼女は待ちきれない。当たり前だろう。急にこんな事を言い出して意味が分からないと困惑している事だろう。
でも俺が今からやろうとしている事は恐らくとても高尚な事だ。彼女に告白する以上に。
「ほら、**** *** ******** ** ***。一緒に唱えて」
ケータイを出して番号を入れよう。
「027 3856 8492」
「誰も出ないよ。**** *** ******** ** ***。**** *** ******** ** ***。こっちに来て。」
彼女の急かす声と、ケータイの着信音だけが俺の耳に届いている。
「**** *** ******** ** ***。**** *** ******** ** ***。**** *** ******** ** ***。」
プルルルル、プルルルル、プルルルル、着信音が響く。
「もしもし」
電話は繋がった。
***34856977***
大学生活が始まり、しかし、未だに高三の春休みの延長を過ごしているようでなかなか実感が湧かない日々を過ごしている。
俺の名前多場祐介。今年大学生になった。しかし、大学というのは難儀なもので活動的でなければ空気のように時間が過ぎていく。光陰矢のごとしというやつだ。
高校生の時消極的な姿勢を貫いていた俺は気づいたら大学生一年目の夏を迎えていた。
さて、別に俺は特に小説や、アニメ、映画が好きというわけではない。取り分け語ることもない。消極的な人間であるが、人並みに望みはある。彼女が欲しい。これが強大な唯一つの願いだ。
さてまあ、そんな女子との邂逅も虚しくこの大学生活を謳歌している人間だ。
不満かってそんな事はない。俺には俺でやる事があるからな。アルバイトだ。俺は暇さえあればアルバイトをしている。大学帰りの夜。休日は多くて二つ入れる事がある。夜勤と、昼の出勤とだ。
どれも人とあまり関わらなくてもできるアルバイトだ。
スーパーの品出しとか、コンビニの夜勤とか。
しかし、この大学生活も三ヶ月が経ち、気づいた事がある。それは自分から動かないと出会いがないという事だ。男の知り合いは自然と出来るにしろ、女の知り合いは本当に出来ない。
直接的な原因は明らかだ。なんせ接触をしていないから。
でも仕方ない。女子と会ったって話のきっかけが思いつかない。
例えばある男は言う。
「うん。そん事考えた事ないな。なんでもいいんだよ。彼女の身につけているもの。性格を表した一面をエピソードを交えて褒めてあげるとか」
証言者は自然にこの行為ができると言う。全くあり得ない話だ。まるで理性の持たない動物が人間の想像もつかない奇想天外な作為を巡らす様に。
不毛な話に思考を巡らす時間は終わり、意識がゆっくりと顕になる。
俺は教室にいた。しかも講義を受けている最中だ。どうやら俺は何か珍しい生物の生態に関するビデオを見ている最中だった様だ。
そこでは驚くべき生物の、奇想天外な生態が顕になっていた。
適者生存の末に起こった珍事。こいつらの生態に意志なんて少しも介入していない。
俺には彼女がいない。出来たこともない。気になる女の子もいない。
そんな絶望的な三角形の環境に俺は身を置いている。
**7月21日**
「よし、全員集まったみたいだね」
駐車場で十人以上の我が校の大学生が集まり、点呼をとっていた。
大学前期の授業も終わりという事で、今日の夜はサークルの飲み会ということになっていたのだ。
消極的な俺が一体どんな風の吹き回しかと、驚くかも知れない。
漫画研究会。何処にでもあるありふれた大学のサークルである。俺がこの漫画研究会に入会したのは先月の末になる。結局俺が入会してからと言うもの活動らしき活動をせず、こうしてほとんど全員の会員と顔見知りになることすら叶わずいきなり飲み会に飛び込むと言う展開になったと言う訳だ。
しかし、漫画研究会といってもゼロ年代の懐かしき暑苦しさ、もとい汗臭さを連想させるヲタク達はおらず、そこらに清潔感を振りまく内実汚濁に塗れた人間ばかりが所属している。
しかし、思えば下心とは我々の中に心がまず一つあるとして、下にもやはり心がもう一つ宿っているという事なのだろうか。
失言した。
こんなことではいけない。きょうが初対面とは言え女の子と絶対仲良くなると意気込んでこの場に居るのに、危うく自ら独りぼっちになってしまう所だった。
さて、見回してみると人数は計十五人程度。男女比率は男4女6といったところか。
まあ、これなら場がどちらの性別にも支配されることなく、順調に仲良くなれるのではないかと思う。
さあ、戦いを始めよう。人間の対話は戦いだ。相手をどう気持ちよくさせるか、その意図をどれだけ上手に隠せるか。自分を偽れ。相手を酔わせ。
酒と自分に溺れた時が狙いどきだ。手際よく男女二人でこの飲み会を抜けようじゃないか。
「ジントニック」
「生ビール」
「レモンサワー」
「日本酒」
「カシスオレンジ」
「ジンジャーエール」
「焼酎」
席に着くなり始まる纏りの無い交流戦。酒の名前が飛び交う、飛び交う。
幸い、俺は酒が強い方だ。いくら飲んだって構わないだろう。女の子を酔いつぶしてから持ち帰ってもいい。
なんだか考えていたら興奮してきたな。最初から度数の高いものを飲んでしまおうか。
***
意識ははっきりしていた。ここには俺しかいない。何もない空間が広がっていた。
何もかもがない。例えば色や、感触、それらの認知。そんな概念的なものまでがこの空間にはない様に思えた。
俺の目の前にはやがて何かが起こった。生まれたものはひどくふわふわしたもので、俺なんかには到底捕らえることのできないものだった。
しかし、何故か触れる事は出来た。
それに触れているとそれは悪いものではないと理解する事が出来た。
漠然と、俺のいる空間に常識が生まれた。それは善悪の境界線だった。
それはやがて俺に危機感や焦燥感に近い感情を煽った。只々一途にそれだけを伝えている様だった。
しばらくこの空間にいたら、やがて俺の意識がぼやけていった。
***
呆けていて、携帯の時計を見たらもう夜の十二時を回っていた。
さっきまでの事を全く覚えていない。気付いたら日をまたいでいた。酒って怖え。
飲み会の盛り上がりは少しも衰えてはいなかった。宴もたけなわというやつだ。
彼らはひとしきりアニメや漫画の話題を話し尽くした様で、今は高校時代の思い出話を語り合っている様だった。やれ部活がなんだの、高校の友人がとんでもない人間だったとか、そんな話だ。きっと話ならば何でもいいのだろう。
俺は目が覚めたものの未だ怠さは抜けていないから、話をまともに聞くことすら出来ない。
よし、試しに声を出してみよう。まともに喋れるか。
唐揚げ
「ひゃやあえ」
檸檬
「ひぇもん」
麦酒
「ビール」
葡萄酒
「ワイン」
どうやら大丈夫そうだ。
景気付けにもう一杯いくか。
「ひぇんふぁいビールふぉ」
俺を見ている先輩、全員嫌な顔をしている。もうどうしたらいいんだ。分からない。帰ろうにもこんな潰れ方じゃあもう無事に帰れるかどうか分からない。
「あー、私、送りますよ」
救いの手が差し伸べられた。
かわいい。
かわいい。
めちゃくちゃタイプだ。真っ黒な髪を伸ばして、全体的に黒い服装。でも所々にアクセントがあって、綺麗な肌が覗いている。
こんな女の子が俺を送ってくれるのか?そんな幸せな事があっていいのか?
しかし、それを聞いた先輩方の表情と言ったら露骨なものだった。
「いや、山本さんは残ろうよ。あんまり飲んでないんだからさ」
「うんうん。ねえ、山本さん以外で誰かこいつを送ってくれる人いる?」
たしかに、この場にいる中で一番美人なのはこの山本さんだろう。
誰も動かない。男は山本さんにいって欲しくないし、女性陣は早々に潰れた俺なんかを送って行きたくない。
「それじゃあ、私は行くので」
居酒屋をでて、俺は情けなくも彼女の肩を借りて駅まで向かっていた。
「山本さん」
「なに?」
「なんで俺なんかを送るために飲み会抜けちゃったの」
山本さんはため息を吐いて、嫌々口を開いた。
「あんな所普通居たくないから。無理やり誘われて来たけれど。だから酔い潰れた君が絶好の言い訳になったの」
成程。やっぱり女の子は下心に敏感なのか。いや?だがこうして意図しない形であれこうして男女二人で飲み会を抜けて来て、これはお持ち帰りって言うんじゃないのか?
彼女はそれを分かっているのか?
「君、何か勘違いしてるみたいだけど、送るのは最寄りの駅までだからね」
「そんな、せっかくだし俺の家で休んでいけばいいのに」
「勃たないよ」
「ん?」
「酒に酔っ払うと精力も無くなるらしいから。
君の期待している事態は起こらないよ」
なるほど流石に彼女はそこまで見通して俺を送っていくと決めたらしかった。
畜生。
「ねえ、そのカードは何?」
彼女は俺の右手を指さし聞いてくる。
俺はいつの間にかポケットのカードを握りしめていた。
これは俺の幼少期からの御守り。神の代わりに俺が信じている数字の羅列。
「02738568492」
「それは御守りなんだ。ずっと昔からの」
「ふうん。御守りって普通は神社で買うとか、思い入れのある物を使うんじゃないの?」
「だからだよ。数字の羅列に愛着なんて湧くわけがない。愛着があったらそこに神を見出してしまう。俺は徹底的な無神論者なんだ」
「困った時にその数字に縋るの?」
「そう。そうしたら現実を見て頑張る気になれるだろ」
披露してしまった。俺の痛々しい青春哲学みたいなものを。
普段だったらこんな事絶対喋らなかったのに。酒のせいだ。
でも彼女は俺を単純に面白がって言う。
「君って変な人だね」
本当に今日は災難だった。初めから会ったことのない人間と飲むなんて乗り気じゃなかったけれど、それで潰れた上に女に担がれて家に向かうなんて。
「ひねくれおとこがおりまして
ひねくれみちをあるいてた
ひねくれかきねのきどのそば
ひねくれおかねをひろってね
ひねくれねずみをつかまえた
ひねくれねこをてにいれて
ちいさなひねくれあばらやに
そろってすんだということだ」
彼女は何かの詩を口ずさんだ。一体なんの詩だろう。
「鵞鳥のお母さんのたわごとなんだ」
「そっか」
どうやら答える気はないようだ。
「ひねくれ男は家で幸せに暮らしているのかね」
俺は彼女に問いかけてみる。
「ううん。幸せにはなれないだろうね。ひねくれているから、きっと幸せな暮らしにも何か意味を求めちゃって」
彼女は事もなげに答える。その男は俺と少しだけ似ている。俺だってきっと差支えのない学生生活を送っているだけでも幸せなんだろう。
「でもね、もし幸せになってしまったら彼はひねくれ男ではなくなってしまう。
私の好きなひねくれ男はどこにもいなくなっちゃうんだ。」
それはとても、悲しいことだ。
夜の街は賑やかだ。所々にある居酒屋で、大学生から壮年のサラリーマンまで雑多な人間で賑わっている。
ぼんやりと街を眺めていたら何処からか怒りが湧き上がって来た。それは情けない自分に対する怒りだったり、どうしようもない間の悪さに対する怒りだったり様々な要因が入り混じっていただろうが、それは単純にこのままなんの成果もなく帰る事はできないという決意を俺にさせた。
もうどうにでもなっちまえ。
思えば特攻精神というのはこういう切羽詰まったときの日本人の精神性を的確についた言葉だと思う。
「山本さん。今度遊びに行きませんか。」
「何処に行くの?」
そうだ。こんな時、女の子と一緒に行くのに丁度いいところってどこなんだ?男となら何処でもいける。でも女の子だったら話の話題だって選ばなきゃならない。
「あー、レストラン?遊園地?」
俺は適当に場所を言いながら彼女の顔を伺う事にした。
彼女はなんだか少し微笑んで言った。俺の心を見透かしたように。一体今の一言で彼女は俺をどこまで知ったのだろう。
「映画館行こっか。少し見たい映画があるんだ」
映画?映画は返って話す雰囲気にならないなんて聞いた事があるぞ?でも、彼女から誘ってくれたし。行かない訳にはいかないが。
「君。少し変な人だから。映画を見て感想聞かせて欲しいな」
「はい!」
「いつにしよっか」
「いつでも!」
「よろしくね。ひねくれ男さん」
そんな訳で、俺は山本さんと映画館に行くことになった。
**7月28日**
飲み会の後、特になにもすることなく夏休みに突入した。それにだ、もう夏休みに入って三日目なのに何も起こっていない。
日がなアルバイトに身をやつす日々だ。
おかしい。こんな事態予測出来なかった。
高校の友人もさしていないし、大学も勿論友好関係の広がりを見せないこの俺がそんな考えを持つことは愚かかもしれない。
まあいいさ、ここから心機一転。今日は例のデートの日なんだ。夏休み中に山本さんとぐうっと仲を深めてお付き合いにまで持っていってやる。
そう考えるとむさ苦しい男からの誘いがないのは返って好都合だな。
集合は午後の四時。今は丁度正午を回った所だ。トーホーシネマズまで三十分ってところだから、よし、行くか。
***
午後一時からこっち二時間をカフェで過ごした後、俺は映画館へ向かった。
辺りは勿論のこと人で賑わっている。東京だからな。
山本さんが来たのは俺が映画館に来てから四十五分後だった。
改めて見て感動した。彼女は飲み会にいた時よりも数段可愛く見えた。相変わらず黒を基調としたファッションで、それだけじゃない、立ち振る舞いだって完璧な上品さだった。
衝撃だった。俺はこんな子とデートするんだ。碌な死に方しねえぞ。
「おお、多場くん、はやいね」
「丁度暇だったから」
「暇だったの?多場くん結構友達いそうだけどなー」
いえいえ、そんな事は。決して。
俺はそれとない返事をし、彼女も俺への返答を決めかねているようだ。
三秒後の今となっては分からない。どうして俺はそんな適当な返事をしてしまったんだ。会話でご機嫌取りするの、得意なはずだったんだけどなあ。
沈黙が生まれた。周りはこんなに騒がしいのに、俺と彼女との間だけ音が消えてしまったみたいだ。苦しい、人との沈黙ってこんなに苦しかったっけ。
「それじゃあ、行きましょっか」
「ああはい」
情けなくも俺は彼女に引っ張られ、エスカレーターを登って行った。エスカレーターを登る行為をするにあたって一つ。俺が前に行けば良かった。彼女の後ろ姿も捨てがたいけれど、やっぱり顔が見たいなあ。
数分間でも彼女の顔を見れないなんて、もったいない。もったいないよ。
どうしよう。失敗した。長いんだよな、エスカレーターに乗ってる時間。
「多場くんは映画とかよくみるの?」
そう言って山本さんは俺の方に振り向いてくれた。振り向くしぐさも完璧だ。おれあなんて幸せなんだ。
「お、俺はまあ、結構見ますね」
「ふうん。沢山見るんだ」
「山本さんも見るんでしょ。どんなジャンルが好きなの?」
山本さんは乗り気なようだ。嬉しい。
「私はねー、案外涙もろいんだ。だから無難に感動する映画が好きだな」
「ショーシャンクとか?」
「定番だねー」
「ファイトクラブとかは?」
「ファイトクラブ!いいね。私ラストシーンがすごい好きだな。」
すごい。別に俺が肯定されているわけでもないのに、すごく幸せだ。良く分かんないけれどふわふわして気持ちいい。
ファイトクラブのラストシーンってどんなものだったかなあ。
「ビルの最上階でね、愛の告白をするの。そこから見える景色が凄く綺麗だった」
そうだ。かしかにそんな感じの最後だった気がする。でもどんな景色だったかな。ビルの最上階から望んだものは。
「固定観念とか、その人の持ってる哲学とか全部ぶっ壊すような景色だったの」
「そっか」
思い出せない。
そのうちエスカレーターを登り切り、映画館の階に着いた。
***
映画の内容はちょっと暗い内容だった。認知症の母を介護する息子の話だった。認知症なんてそもそも俺の身近ではないし、こんなに綺麗な話なのかとも思った。正直な話、良くわからなかった。
隣を見ると、山本さんが真剣に映画を見ていた。目はスクリーンの一点を見つめて、その横顔には喜怒哀楽全ての表情が読み取れるような気がした。
あーあ、映画なんかより山本さんの横顔を眺めていた方がいーや。
不味いな、眠くなってきた。
***
気付いたら、何もない空間にいた。そこには本当に何もなかった。
例えば色、感触、それらを通して得られる認識。それら全てが根こそぎ存在しない世界に俺はいる。
しかし、一つだけ触れることができる物がある。といっても実際に手で触れられる訳ではない。その概念を分かち合う事ができる、といった方が近いかもしれない。
それに触れるとそれに危機感と焦燥感がある事が分かった。
長い間それに触れていると、やがて俺の意識は遠のいていった。
***
気付いたら映画のエンドロールが流れていた。隣では山本さんが怪訝な視線をこちらに向けている。やっちまったな。これは。
どうしよう。
俺は彼女の不満げな表情を想像する。
「つまらなかった?」
いやいやいや、そんなことありませんよ?
「面白かったー」
俺も!俺も面白かった!
「なんかー普通だったね」
そうですね。特に語ることもないというか。
駄目だ駄目だ。これじゃあ会話が途切れてしまう。なるべく当たり障りなく、笑いながら会話をしたいな。
結局俺の会話シュミレーションは中途半端にはかどらなかった。
やがて映画が終わり、俺たちは映画館を出、カフェで休憩しながら映画について話す事にした。
「つまらなかったね」
そっか。俺も少し寝ちゃったしな。ただ、そんな考えとは裏腹に、口から出た言葉は事を穏便に済ませたいと願った便宜の言葉だった。
「そうかね?」
「うん。私はね、なんだかいらないシーンが多すぎるよ。それに、そのいらないシーンが他のシーンにも悪影響を及ぼしてるね」
「会社のシーンのこと?」
「そ。私はこの映画のテーマも好きだし、実際殆どの部分は満足する出来だったんだけれど、会社のシーンが映画全体をチープに仕立て上げてるの」
どうしてそんな不平不満を言うのか俺は彼女に問いただしたくなった。少しだけ。
だってデートってこんなんじゃないだろ。映画を見て、見終わった後楽しかったね、って笑い合って流れで今後の事を惚けあって話し合ったりするんじゃないのか。
「多場くん、間違えないで欲しいのだけれど、満足出来るっていうのはある一面に置いてだけよ。」
「はい」
「映像。映像はよかった長回しから出るリアリティをうまくテーマに落とし込んでた。でもね、肝心の物語があまりに抽象的すぎて私の心は微塵も揺さぶられなかったわ」
「なるほど」
なんとかしてこれを止めないと。
もしかして彼女にデートしに来たって自覚は無いんじゃないのか?浮かれていたのは俺だけ?
「ねえ、多場くんはどうだった?」
「ああ、俺は面白いと思いましたよ」
「うん、どんな風に?」
「綺麗でしたよ。とっても。画だけじゃない、音の使い方も良かったし、話も具体性がない分リアリティがなかったけれど、でもそれが話そのものを淡く仕立て上げてて、美しいなあって」
「ふうん、随分肩入れするんだね。作者は多分そこまで考えていないと思うよ」
山本さんは目を細めて僕に返した。
違う。違うんだ山本さん。僕はこんなにしっかり批評会を開くなんて思わなかったんだ。
彼女のその表情がやきもちなのか、はたまたいたずら心なのか僕にはわからなかった。
「やめましょうよ、こ、今回はデートなんですから」
「デートなの?」
デート。俺はデートだと思って来てたんだけどなあ。
「ねえ、じゃあデートではどんな事するの?」
彼女は椅子に座り直してから、そんなことを聞いてきた。
まるで淫魔のような質問をしてきた彼女に対して、俺は咄嗟に何もいう事が出来なかった。
彼女の神聖だったイメージがガラガラと崩れていく想像をした。
「互いの事を知り合うとか?」
「ふうん。じゃあさ、私の好きなもの当ててみてよ」
山本さんの好きなものか、なんだろう。全く想像出来ない。そもそも食べ物なのか?趣味のことなのか?抽象的すぎはしないだろうか。
もしかして俺?
「それって食べ物?」
「食べ物にしよっか」
「苺とか」
「違うね」
「ケーキ」
「違うかな」
「クロワッサン」
「離れたね」
「パフェ」
「そう。正解」
成程な。山本さんってパフェが好きなんだ。
結構大人びているけれど意外と女子って感じのものが好きなんだなあ。
「ねえ、奢ってよ」
彼女はレストランのお品書きが書かれた紙を指差した。
しばらくの時間俺と彼女の空間が静かになった。
「いいですよ」
「冗談のつもりだったのに」
嘘だ。絶対嘘だ。
「これくらい大したことないです」
これで俺の財布は空になった。だが後悔はない。
「多場くん。ありがとうのキスをしてあげよっか」
「え?」
俺が固まっている間に彼女はテーブルから身を乗り出す。
身をのり出すと腹の辺りの彼女の服がテーブルに擦れ、少しだけ体の形がわかる
そのまま俺に彼女の綺麗な顔が近づいてくる。ゆっくり、ゆっくりと。
時間の流れは一定なはずなのに永遠に彼女の顔を見ている気がする。
なんて幸せな時間なんだ。
やがて唇が俺の頬に触れる。頬に密着して感触が広がる。俺は何も考える事もなく、じっとその瞬間を吟味していた。
俺は体こそ動かなかったものの、目で彼女がキスする瞬間をしっかりと捉えていた。そうだ。丁度アナログなカメラみたいに俺の目にその画が焼き付けられたんだ。
嘘だろ。
いいのか俺が。こんな美女と。
「ありがとね」
それから俺と山本さんとの間には少しだけ沈黙があった。でも決して息苦しくはない。
こんなに幸せな沈黙は他にない。
少しの時間、彼女の薄く微笑んだ顔を眺めていた。
「山本さん!ま、また次も会いましょうよ。夏休みも長いので」
「いいよ」
なんて言ったんだ。この傲岸不遜な考えを彼女は容認してくれたというのか。こんな事があって良いのか。
「じゃあ今度は何処に行くの」
何処にいくのか。一体何処に行けば良いのだろう。
「じゃあ今度は散歩しましょう。私、東京まだ隅々まで見てないんだ。いろんなとこ歩いて、いろんなもの食べたいな」
「はい!」
「あとさ、私の事名前で呼んでいいよ。ひねくれ男さん」
山本ちひろ。それが彼女の名前だった。
そんな訳で次は彼女と東京観光をする事になった。
**8月2日**
俺はそれからというものずっと頭の中でキスの瞬間が反芻されていた。
身を乗り出すと腹の辺りの彼女の服がテーブルに擦れ、少しだけ体の形がわかる
そのまま俺に彼女の綺麗な顔が近づいてくる。ゆっくり、ゆっくりと。
時間の流れは一定なはずなのに永遠に彼女の顔を見ている気がする。
やがて唇が俺の頬に触れる。頬に密着して感触が広がる。
身を乗り出すと腹の辺りの彼女の服がテーブルに擦れ、少しだけ体の形がわかる
そのまま俺に彼女の綺麗な顔が近づいてくる。ゆっくり、ゆっくりと。
時間の流れは一定なはずなのに永遠に彼女の顔を見ている気がする。
やがて唇が俺の頬に触れる。頬に密着して感触が広がる。
ああ、今日はまたデートの日だ。俺の一日は早い。七時に起きて、朝の食事に取り掛かる。
今日は随分と早く、彼女の要望から9時には来て欲しいとの事だった。
だから俺はこんなに急いでるのだ。
***
集合したのは冨岡八幡宮。東京は何処でも朝から人で賑わっている。
「お。来たね、多場くん。」
と、人混みにまぎれてちひろちゃんがこちらに向かってくる。
どうやら待たせてしまったようだ。
彼女はいつもと同じく黒系の服で統一していた。シースルーの上着から慈しまれているかのように綺麗な肌が覗く。
さて、今日といえば俺は何か東京を散策すると聞いていたが、たどる道までは聞いていない。
「私が案内するね。行きたいところ沢山あるから」
「はい!」
今日も景気良く返事をして、俺は山本さんについて行く。
賑わっている繁華街をしばらく歩くと、人混みの中で再びちひろちゃんは立ち止まった。
「ねえ見て」
彼女が下を指差し、そこにはマンホールがあった。桜の描かれたマンホール。
特になんの変哲もない。
彼女はそのマンホールに両足で飛び乗った。
大胆さに少しだけ彼女の衣装が揺れた。
「ここに戻って来ましょう。そしてまた帰ってきたらこのマンホールを踏むの。
さあ、多場くんも乗って?」
俺は恥ずかしさを感じながらも、客観的にこれが恋愛か、なんて耽りながら同じくマンホールに両足で乗った。
「じゃ、行こうか」
そこからの道のりは酷く過酷なものだった。
築地から東京駅を通り、オフィスビルへ入る。大量のサラリーマンを横目にビル街を抜け、すると江戸城跡に出る。そこから再びビル街へ突入、それからひとまず新宿に着いたので休憩した。
「江戸城跡でランニングしている人って本当にいるんだね」
さて彼女は今度は浅草へ行きたいと言い出したので俺は即答でついて行った。まるで犬を連れての散歩である。
しかし、やはり浅草への道のりも長かった。
東京ドーム、靖国神社など名のある観光地を尻目に、やはり見えてくる江戸城跡、そうして見えてきたヲタクの街、秋葉原。メイド喫茶では高い金を払ったにもかかわらずちひろちゃんより数段不細工なメイドに接待され、昼を過ごした。
彼女は満足そうだった。
少し歩くと浅草寺だった。
ここで終われば、俺の足が悲鳴を上げる事もなかっただろう。
「よし、次は東京タワーね」
俺は二つ返事でついて行った。
神田大明神、将門公の首塚を通り、再び道ゆくサラリーマンがもはや風情を醸し出す東京駅へ戻ってきた。そこからさらに進み、また江戸城が見える。ここの道では俺と山本さんは返って盛り上がったと思う。映画の話に花を咲かせながら虎ノ門ヒルズを眺め、東京タワーへ。
展望台にはレストランがあった。時刻は大体三時を回っていたので、俺は東京の絶景に添えるパフェを彼女のキスと交換で奢り、東京タワーを後にした。
まだ3時だしと、駄目押しとばかりに彼女は護国寺へ行こうと俺に提案した。俺は二つ返事でついて行った。
少し歩いて、国会議事堂を通った。ここが政治で有名な霞ヶ関か。と二人で感心しながらその場を後にして、相変わらずの江戸城跡を通る。ランニングしている人は時間のせいか少なかった。
護国寺について、取り敢えずと富岡八幡宮、靖国神社、神田大明神と、今回四度目となるおみくじを引いて、二人とも中吉だったのを確認した。
お前は神を信じないのではなかったのか。お前には数字の御守りがあるだろう。なんて君たちは言うかもしれない。でもね、おみくじの結果を見せ合う時、彼女の顔が近いんだ。それだけでする価値はある。
話を戻そう。俺たちはやっと冨岡八幡宮まで戻る向きになった。
東京ドームを通り、江戸城、日本橋を通過し、ようやく戻ってくる事ができた。
俺は今日だけで江戸城跡を五度見た。五度も。
こんな体験をする人間はなかなかいないだろう。
「多場くん。ホラ、朝私たちが乗ったマンホールだよ」
うるさい。もう俺の足は動かない。
「ちひろちゃん。全然元気なんだね」
「まあ私は散歩好きだから」
でも今日一日、彼女と色々な話ができた。街に散らばるいろんな物を通して彼女の考えを知れた。俺は幸せだ。
彼女も俺の事悪いようには思っていないようだし。
彼女を見れば、お先、なんて悪戯っぽい顔でマンホールに立っていた。
「ほら、多場くんも早くおいで」
「はい!」
カメラをもって待ち構えていた彼女に不意をつかれて、俺の顔が間抜けに映った二人の記念写真が出来上がった。
こうして長く続いた東京散策は終わったのである。
**9月25日**
彼女と過ごす夏休みは、それは夢のようだった。
二人で博物館も行ったし、水族館にも行った。
しかし、大学生の長い夏休みにも終わりは訪れる。
九月の終わりに彼女は俺と行きたい所があるとデートのお誘いをしてくれた。
俺は、ここで告白をしようと思う。「好きだ。付き合ってください」って月並みだけれど。
一夏を過ごしたからと言って彼女の全てが分かったわけではないが、ちひろちゃんも少しは俺の事、気に入ってくれているんじゃないだろうか。
集合したのは浅草の手前の田原町。
少し歩こうと彼女が言うので、そのまま雷門を通り、隅田川を渡った。
そのまま東京スカイツリーまで歩いた。
東京スカイツリーの展望台からは東京はおろか、首都園の全景が見渡せた。
「こうしてみると、人の営みも大したものよね」
少し他人行儀な彼女の物言いは俺の想像する神様を想起させた。
「ほら見て。江戸城跡。私たちが一日かけて東京を散歩した日の事、覚えてる?」
覚えている。次の日は筋肉痛で足が動かなかった。
「忘れるわけがない。他でもないちひろちゃんと丸一日過ごした日なんだから。」
「嬉しい。
じゃああれは覚えてる?鵞鳥母さんのたわごと」
「もちろん。
ひねくれおとこがおりまして
ひねくれみちをあるいてた
ひねくれかきねのきどのそば
ひねくれおかねをひろってね
ひねくれねずみをつかまえた
ひねくれねこをてにいれて
ちいさなひねくれあばらやに
そろってすんだということだ
忘れない。君が俺にくれた詩だから」
「そうね」
「ちひろちゃんはこの詩好きなの?」
「うん。小さい頃にお母さんが歌ってくれたの」
頑張れ俺。ここで一歩を踏み出すんだ。
「じゃ、じゃあ俺の事は?」
彼女は俺の意志に気付いたようだった。
「ねえ、ちょっとした度胸試しでもしない?」
「どうして?」
「思い出をつくるの。ここまで来たら君の言う事一つだけ、聞いてあげる」
ちひろちゃんはガラス張りの床に飛び乗った。ハイヒールがガラスに触れてカツンと音がする。
怖いもの知らずだなあと、関心とひやひやした感情の入り混じる俺に、お構いなしに手を差し伸べてくる。
「二人で立とうよ、マンホールの時みたいに」
「はい!」
さあ、行こう。このガラス床で寄り添いながら告白するのもいいじゃないか。
しかし、俺の足は動かなかった。俺はちひろちゃんのところへ行きたいのに、まるで本能がガラス床へ行くのを拒んでいるようだ。
予め言っておくが、俺はガラス床程度で怖気ずくような男では決してない。しかし、足が動かないんだ。今すぐ行って彼女に告白しなきゃならないのに。彼女もそれを受け入れる準備ができているというのに。
なにか、なにか忘れていることがある。今やらなきゃいけないこと。
「どうしたの?怖い?」
ちひろちゃんは少し困って急かしてくる。
なんだ?一体何がたりないんだ?満足のいく夏休みだったじゃないか。それに今、彼女の要望に従う以外に大事な事があるのか?告白以上に大事な事が?
なにか、何かあるはずだ。
「ちひろちゃん。俺、何か忘れていることがあると思うんだけれど、心当たりある?」
「んん。なんだろう。君がここまで来ることかな」
忘れ物か?ポケットを探ってみる。
なんにもない。入っていたのはカードだけだった。おれの御守り。何の変哲もない数字の羅列。
「02738568492」
俺は何となくその数字を眺めてみる。それもかなり手慣れた動作だった。少し先で彼女が待っているというのに。
そうだ。電話だ。電話を掛けるんだ。この番号に。
それは何の脈絡もないことに見えた。
「ねー何してるの?」
「電話を掛けるんだよ。このカードの番号に」
「なんで?そんなの今やらなくてもいいじゃない」
いや、多分今やらなきゃ駄目なんだ。彼女の事を差し置いてでも。だって凄く居心地が悪い。電話を掛けないつもりになると、とんでもない罪悪感に襲われるんだ。
「まったく、ひねくれ男さんったら。
怖いなら私の手を握りなよ。
そうだ。おまじないを教えてあげる。怖さを打ち消すおまじない。」
彼女は待ちきれない。当たり前だろう。急にこんな事を言い出して意味が分からないと困惑している事だろう。
でも俺が今からやろうとしている事は恐らくとても高尚な事だ。彼女に告白する以上に。
「ほら、**** *** ******** ** ***。一緒に唱えて」
ケータイを出して番号を入れよう。
「027 3856 8492」
「誰も出ないよ。**** *** ******** ** ***。**** *** ******** ** ***。こっちに来て。」
彼女の急かす声と、ケータイの着信音だけが俺の耳に届いている。
「**** *** ******** ** ***。**** *** ******** ** ***。**** *** ******** ** ***。」
プルルルル、プルルルル、プルルルル、着信音が響く。
「もしもし」
電話は繋がった。
***103974***
大学生活が始まり、しかし、未だに高三の春休みの延長を過ごしているようでなかなか実感が湧かない日々を過ごしている。
俺の名前多場祐介。今年大学生になった。しかし、大学というのは難儀なもので活動的でなければ空気のように時間が過ぎていく。光陰矢のごとしというやつだ。
高校生の時消極的な姿勢を貫いていた俺は気づいたら大学生一年目の夏を迎えていた。
さて、別に俺は特に小説や、アニメ、映画が好きというわけではない。取り分け語ることもない。消極的な人間であるが、人並みに望みはある。彼女が欲しい。これが強大な唯一つの願いだ。
さてまあ、そんな女子との邂逅も虚しくこの大学生活を謳歌している人間だ。
不満かってそんな事はない。俺には俺でやる事があるからな。アルバイトだ。俺は暇さえあればアルバイトをしている。大学帰りの夜。休日は多くて二つ入れる事がある。夜勤と、昼の出勤とだ。
どれも人とあまり関わらなくてもできるアルバイトだ。
スーパーの品出しとか、コンビニの夜勤とか。
しかし、この大学生活も三ヶ月が経ち、気づいた事がある。それは自分から動かないと出会いがないという事だ。男の知り合いは自然と出来るにしろ、女の知り合いは本当に出来ない。
直接的な原因は明らかだ。なんせ接触をしていないから。
でも仕方ない。女子と会ったって話のきっかけが思いつかない。
例えばある男は言う。
「うん。そん事考えた事ないな。なんでもいいんだよ。彼女の身につけているもの。性格を表した一面をエピソードを交えて褒めてあげるとか」
証言者は自然にこの行為ができると言う。全くあり得ない話だ。まるで理性の持たない動物が人間の想像もつかない奇想天外な作為を巡らす様に。
不毛な話に思考を巡らす時間は終わり、意識がゆっくりと顕になる。
俺は教室にいた。しかも講義を受けている最中だ。どうやら俺は何か珍しい生物の生態に関するビデオを見ている最中だった様だ。
そこでは驚くべき生物の、奇想天外な生態が顕になっていた。
適者生存の末に起こった珍事。こいつらの生態に意志なんて少しも介入していない。
俺には彼女がいない。出来たこともない。気になる女の子もいない。
そんな絶望的な三角形の環境に俺は身を置いている。
**7月21日**
「よし、全員集まったみたいだね」
駐車場で十人以上の我が校の大学生が集まり、点呼をとっていた。
大学前期の授業も終わりという事で、今日の夜はサークルの飲み会ということになっていたのだ。
消極的な俺が一体どんな風の吹き回しかと、驚くかも知れない。
漫画研究会。何処にでもあるありふれた大学のサークルである。俺がこの漫画研究会に入会したのは先月の末になる。結局俺が入会してからと言うもの活動らしき活動をせず、こうしてほとんど全員の会員と顔見知りになることすら叶わずいきなり飲み会に飛び込むと言う展開になったと言う訳だ。
しかし、漫画研究会といってもゼロ年代の懐かしき暑苦しさ、もとい汗臭さを連想させるヲタク達はおらず、そこらに清潔感を振りまく内実汚濁に塗れた人間ばかりが所属している。
しかし、思えば下心とは我々の中に心がまず一つあるとして、下にもやはり心がもう一つ宿っているという事なのだろうか。
失言した。
こんなことではいけない。きょうが初対面とは言え女の子と絶対仲良くなると意気込んでこの場に居るのに、危うく自ら独りぼっちになってしまう所だった。
さて、見回してみると人数は計十五人程度。男女比率は男4女6といったところか。
まあ、これなら場がどちらの性別にも支配されることなく、順調に仲良くなれるのではないかと思う。
さあ、戦いを始めよう。人間の対話は戦いだ。相手をどう気持ちよくさせるか、その意図をどれだけ上手に隠せるか。自分を偽れ。相手を酔わせ。
酒と自分に溺れた時が狙いどきだ。手際よく男女二人でこの飲み会を抜けようじゃないか。
「ジントニック」
「生ビール」
「レモンサワー」
「日本酒」
「カシスオレンジ」
「ジンジャーエール」
「焼酎」
席に着くなり始まる纏りの無い交流戦。酒の名前が飛び交う、飛び交う。
幸い、俺は酒が強い方だ。いくら飲んだって構わないだろう。女の子を酔いつぶしてから持ち帰ってもいい。
なんだか考えていたら興奮してきたな。最初から度数の高いものを飲んでしまおうか。
***
気付いたら俺は何もない空間で一人、サラリーマン風の男を前にして突っ立っていた。
気付いたらっていう感覚は不思議だ。意識がはっきりしているのに、いつから意識があったか分からないのだから。
だが不思議と危機感はなかった。
「おはよう。約十万と三千九百七十四回目の邂逅だね」
男が俺に親しげに話しかける。その行為にはえもいえぬ喜びに包まれているように見えた。
「ああ、挨拶が遅れてすまない。僕の名前はメイル。君が名付けた名前だよ」
分からない。俺が一体お前に何を名付けたって言うんだ。
ここは何処なんだ。俺は今まで何をしていたんだ。
「君は今まで飲み会の最中だったんだよ。酒に酔ってそのままここにいる。
ああ、何回目になるだろうな。この会話は。それでもここまで窓口が広がった事もないし、やっぱり嬉しいな。君と対等に話ができるって事が」
待て待て。会話が一人歩きしているが、俺が君に会うなんて初めての事なんだぞ。
「今更。君が言っているのは縦の時間軸の話だろう。横の時間軸では死ぬ程会っているじゃないか」
そうなのか、そうなんだな。
「そう!君はいつも物分かりが悪くて、僕が一から説明しなくちゃならなかったけれど。と、まあ、そうできる場合だけだけれどね。まあ少し可哀想な言い方だったかな」
それで、ここは何処でお前は誰なんだ。訳の分からない事ばかり言われて俺はお前を不審者としか思えない。
「そうだよね。取り敢えず便宜的な説明をするとここは夢の中なんだよ。それで僕は夢の中の宣告者。もとい善なる神様と言ったところかな」
善なる?なんだ?ますますわからない。俺は気狂いと会話する気なんてない。
「わからないよね。僕の言っていることなんか。でもね。こんなに窓口が広がることなんてもう無いんだ。恐らく今後何億と試行錯誤を重ねてもこんな結果を出すことは叶わないだろう。
だから全てを告白するよ。僕と僕のいる世界の全てを。どうせ君は忘れちまうだろうがね」
急に現れたサラリーマン風の男はどこか深刻で、意味深なことばかり言って俺の話には全く取り合わなかった。何やら今から告白が始まるらしい。俺はここが何処で、どうやってこの空間から抜ければ良いいかすら全くわからないから彼の言うことを聞くしか無いのだった。
「僕のいる世界はね、善なる価値と悪なる価値が永遠の闘争を続けているんだ。
そうだな。君の世界で一番近い世界観はなんだろう。ゾロアスター教なんかかな。
ともかく、それら善なる価値観の一部がこの僕はんだ。そして、悪なる価値観の一部がこの世界に紛れている。
それと僕は永遠の闘争を繰り返している訳だ。
でもね、物語には終止符を打たなければならない。
僕らはね、互いに互いを殺す事が出来ないんだよ。僕らの存在は光と影のようなものだから。どちかが存在しなければもう片方も存在し得ない。酔狂だろう?決着がつかないのに永遠の闘争を繰り返しているんだから。
いや、永遠の闘争だからこそ決着がつかないのかも知れない。
とにかく、僕らはそんな存在なんだ。だから終止符を打つ者が必要だった。それに選ばれたのが偶々君だったと言う訳だ。
別にさしたる意味はない。君が特別優れた人間だからじゃない。
ただ、白黒つける結論には未熟な人間の力が必要だったんだよ。
でもね、今回選ばれたのが君で良かったよ。君は十万と三千九百七十四回の選択のうち、全てを善なる結末に導いた。
邪悪な者が選ばれていたら悪なる結末を辿った世界が数多存在することになったかもしれない。
まあ君の意志だけじゃないだろう。君を形作る環境、過去が君にそう言った選択をさせたんだ。だから大雑把だがこう言う言い方をすべきなのかな、ありがとう、君と君を形作った全ての人間たち。
そんな訳で今回も君は善なる選択肢を選ぶだろう。だからなんにも心配していないよ」
はあ。なんで俺はいつの間にかそんなに面倒くさい戦いにまきこまれたんだ。
それで?俺はここからどう帰ればいいんだ?もしかしてその悪神とやらと殴り合いをしなきゃ帰れないのか。
「ああ、これは君の見ている夢みたいなものだから。自然と目が覚めるよ。今回は僕の干渉で僕から君を起こすこともできるんだが、それだと君はここ数年で一番の幸運を逃して仕舞うことになるだろう」
ここ数年で一番の幸運?そうなのか。
「実際に体験してみたらいいよ。まあ、僕にとっちゃ開戦のゴングみたいなものなんだけれどね」
そうか、善と悪と永遠の闘争ねえ。
「君がやることはただ一つ。僕が9月25日に電話を掛ける。その電話にでることだ。
電話にでる。それだけ。僕から掛けるから。
それじゃあ、僕は話すことを話したし、お暇するかな。
相談したい事があったら何でもきくよ。勝手に夢に出てくるから。」
言いたい放題言ってから、善なる神、もといメイルは何処かに行ってしまった。
俺が訳も分からずきょとんとしていると、次第に意識がぼやけていった。
***
目が覚めて、真っ先に携帯の時計を見たらもう夜の十二時を回っていた。
夢での出来事はこれ以上なくはっきり覚えている。本当に夢なのかってくらいに。
相当ショックな出来事がない限り、今後も夢での会話は覚えていると思う。
さて、飲み会の盛り上がりは少しも衰えてはいなかった。宴もたけなわというやつだ。
彼らはひとしきりアニメや漫画の話題を話し尽くした様で、今は高校時代の思い出話を語り合っている様だった。やれ部活がなんだの、高校の友人がとんでもない人間だったとか、そんな話だ。きっと話ならば何でもいいのだろう。
俺は目が覚めたものの未だ怠さは抜けていないから、話をまともに聞くことすら出来ない。
よし、試しに声を出してみよう。まともに喋れるか。
唐揚げ
「ひゃやあえ」
檸檬
「ひぇもん」
麦酒
「ビール」
葡萄酒
「ワイン」
どうやら大丈夫そうだ。
景気付けにもう一杯いくか。
「ひぇんふぁいビールふぉ」
俺を見ている先輩、全員嫌な顔をしている。もうどうしたらいいんだ。分からない。帰ろうにもこんな潰れ方じゃあもう無事に帰れるかどうか分からない。
「あー、私、送りますよ」
救いの手が差し伸べられた。
かわいい。
かわいい。
めちゃくちゃタイプだ。真っ黒な髪を伸ばして、全体的に黒い服装。でも所々にアクセントがあって、綺麗な肌が覗いている。
もしかしてこれがここ数年に一度の幸運ってやつか?
こんな女の子が俺を送ってくれるなんて、そんな幸せな事があっていいのか?
しかし、それを聞いた先輩方の表情と言ったら露骨なものだった。
「いや、山本さんは残ろうよ。あんまり飲んでないんだからさ」
「うんうん。ねえ、山本さん以外で誰かこいつを送ってくれる人いる?」
たしかに、この場にいる中で一番美人なのはこの山本さんだろう。
誰も動かない。男は山本さんにいって欲しくないし、女性陣は早々に潰れた俺なんかを送って行きたくない。
「それじゃあ、私は行くので」
居酒屋をでて、俺は情けなくも彼女の肩を借りて駅まで向かっていた。
「山本さん」
「なに?」
「なんで俺なんかを送るために飲み会抜けちゃったの」
山本さんはため息を吐いて、嫌々口を開いた。
「あんな所普通居たくないから。無理やり誘われて来たけれど。だから酔い潰れた君が絶好の言い訳になったの」
成程。やっぱり女の子は下心に敏感なのか。いや?だがこうして意図しない形であれこうして男女二人で飲み会を抜けて来て、これはお持ち帰りって言うんじゃないのか?
彼女はそれを分かっているのか?
まあいいか。ここ数年分の運を使ったんだもんな。これくらいあってもいい。
「君、何か勘違いしてるみたいだけど、送るのは最寄りの駅までだからね」
「そんな、せっかくだし俺の家で休んでいけばいいのに」
「勃たないよ」
「ん?」
「酒に酔っ払うと精力も無くなるらしいから。
君の期待している事態は起こらないよ」
なるほど流石に彼女はそこまで見通して俺を送っていくと決めたらしかった。
畜生。幸運なんて嘘じゃねえか。
「ねえ、そのカードは何?」
彼女は俺の右手を指さし聞いてくる。
俺はいつの間にかポケットのカードを握りしめていた。
これは俺の幼少期からの御守り。神の代わりに俺が信じている数字の羅列。
「02738568492」
「それは御守りなんだ。ずっと昔からの」
「ふうん。御守りって普通は神社で買うとか、思い入れのある物を使うんじゃないの?」
「だからだよ。数字の羅列に愛着なんて湧くわけがない。愛着があったらそこに神を見出してしまう。俺は徹底的な無神論者なんだ」
「困った時にその数字に縋るの?」
「そう。そうしたら現実を見て頑張る気になれるだろ」
披露してしまった。俺の痛々しい青春哲学みたいなものを。
普段だったらこんな事絶対喋らなかったのに。酒のせいだ。
でも彼女は俺を単純に面白がって言う。
「君って変な人だね」
本当に今日は災難だった。初めから会ったことのない人間と飲むなんて乗り気じゃなかったけれど、それで潰れた上に女に担がれて家に向かうなんて。
「ひねくれおとこがおりまして
ひねくれみちをあるいてた
ひねくれかきねのきどのそば
ひねくれおかねをひろってね
ひねくれねずみをつかまえた
ひねくれねこをてにいれて
ちいさなひねくれあばらやに
そろってすんだということだ」
彼女は何かの詩を口ずさんだ。一体なんの詩だろう。
「鵞鳥のお母さんのたわごとなんだ」
「そっか」
どうやら答える気はないようだ。
「ひねくれ男は家で幸せに暮らしているのかね」
俺は彼女に問いかけてみる。
「ううん。幸せにはなれないだろうね。ひねくれているから、きっと幸せな暮らしにも何か意味を求めちゃって」
彼女は事もなげに答える。その男は俺と少しだけ似ている。俺だってきっと差支えのない学生生活を送っているだけでも幸せなんだろう。
「でもね、もし幸せになってしまったら彼はひねくれ男ではなくなってしまう。
私の好きなひねくれ男はどこにもいなくなっちゃうんだ。」
それはとても、悲しいことだ。
夜の街は賑やかだ。所々にある居酒屋で、大学生から壮年のサラリーマンまで雑多な人間で賑わっている。それと比べるとやっぱりメイルは普通のサラリーマンではないな。
ぼんやりと街を眺めていたら何処からか怒りが湧き上がって来た。それは情けない自分に対する怒りだったり、どうしようもない間の悪さに対する怒りだったり様々な要因が入り混じっていただろうが、それは単純にこのままなんの成果もなく帰る事はできないという決意を俺にさせた。
夢での啓示もあったしな。
思えば特攻精神というのはこういう切羽詰まったときの日本人の精神性を的確についた言葉だと思う。
「山本さん。今度遊びに行きませんか。」
「何処に行くの?」
そうだ。こんな時、女の子と一緒に行くのに丁度いいところってどこなんだ?男となら何処でもいける。でも女の子だったら話の話題だって選ばなきゃならない。
「あー、レストラン?遊園地?」
俺は適当に場所を言いながら彼女の顔を伺う事にした。
彼女はなんだか少し微笑んで言った。俺の心を見透かしたように。一体今の一言で彼女は俺をどこまで知ったのだろう。
「映画館行こっか。少し見たい映画があるんだ」
映画?映画は返って話す雰囲気にならないなんて聞いた事があるぞ?でも、彼女から誘ってくれたし。行かない訳にはいかないが。
「君。少し変な人だから。映画を見て感想聞かせて欲しいな」
「はい!」
「いつにしよっか」
「いつでも!」
「よろしくね。ひねくれ男さん」
そんな訳で、俺は山本さんと映画館に行くことになった。ああ!なんていい日なんだ!乾杯!
**7月28日**
飲み会の後、特になにもすることなく夏休みに突入した。それにだ、もう夏休みに入って三日目なのに何も起こっていない。
日がなアルバイトに身をやつす日々だ。
おかしい。こんな事態予測出来なかった。
高校の友人もさしていないし、大学も勿論友好関係の広がりを見せないこの俺がそんな考えを持つことは愚かかもしれない。
まあいいさ、ここから心機一転。今日は例のデートの日なんだ。夏休み中に山本さんとぐうっと仲を深めてお付き合いにまで持っていってやる。
そう考えるとむさ苦しい男からの誘いがないのは返って好都合だな。
集合は午後の四時。今は丁度正午を回った所だ。トーホーシネマズまで三十分ってところだから、よし、行くか。
***
午後一時からこっち二時間をカフェで過ごした後、俺は映画館へ向かった。
辺りは勿論のこと人で賑わっている。東京だからな。
山本さんが来たのは俺が映画館に来てから四十五分後だった。
改めて見て感動した。彼女は飲み会にいた時よりも数段可愛く見えた。相変わらず黒を基調としたファッションで、それだけじゃない、立ち振る舞いだって完璧な上品さだった。
衝撃だった。俺はこんな子とデートするんだ。碌な死に方しねえぞ。
「おお、多場くん、はやいね」
「丁度暇だったから」
「暇だったの?多場くん結構友達いそうだけどなー」
いえいえ、そんな事は。決して。
俺はそれとない返事をし、彼女も俺への返答を決めかねているようだ。
三秒後の今となっては分からない。どうして俺はそんな適当な返事をしてしまったんだ。会話でご機嫌取りするの、得意なはずだったんだけどなあ。
沈黙が生まれた。周りはこんなに騒がしいのに、俺と彼女との間だけ音が消えてしまったみたいだ。苦しい、人との沈黙ってこんなに苦しかったっけ。
「それじゃあ、行きましょっか」
「ああはい」
情けなくも俺は彼女に引っ張られ、エスカレーターを登って行った。エスカレーターを登る行為をするにあたって一つ。俺が前に行けば良かった。彼女の後ろ姿も捨てがたいけれど、やっぱり顔が見たいなあ。
数分間でも彼女の顔を見れないなんて、もったいない。もったいないよ。
どうしよう。失敗した。長いんだよな、エスカレーターに乗ってる時間。
「多場くんは映画とかよくみるの?」
そう言って山本さんは俺の方に振り向いてくれた。振り向くしぐさも完璧だ。おれあなんて幸せなんだ。
「お、俺はまあ、結構見ますね」
「ふうん。沢山見るんだ」
「山本さんも見るんでしょ。どんなジャンルが好きなの?」
山本さんは乗り気なようだ。嬉しい。
「私はねー、案外涙もろいんだ。だから無難に感動する映画が好きだな」
「ショーシャンクとか?」
「定番だねー」
「ファイトクラブとかは?」
「ファイトクラブ!いいね。私ラストシーンがすごい好きだな。」
すごい。別に俺が肯定されているわけでもないのに、すごく幸せだ。良く分かんないけれどふわふわして気持ちいい。
ファイトクラブのラストシーンってどんなものだったかなあ。
「ビルの最上階でね、愛の告白をするの。そこから見える景色が凄く綺麗だった」
そうだ。かしかにそんな感じの最後だった気がする。でもどんな景色だったかな。ビルの最上階から望んだものは。
「固定観念とか、その人の持ってる哲学とか全部ぶっ壊すような景色だったの」
「そっか」
思い出せない。
そのうちエスカレーターを登り切り、映画館の階に着いた。
***
映画の内容はちょっと暗い内容だった。認知症の母を介護する息子の話だった。認知症なんてそもそも俺の身近ではないし、こんなに綺麗な話なのかとも思った。正直な話、良くわからなかった。
隣を見ると、山本さんが真剣に映画を見ていた。目はスクリーンの一点を見つめて、その横顔には喜怒哀楽全ての表情が読み取れるような気がした。
あーあ、映画なんかより山本さんの横顔を眺めていた方がいーや。
不味いな、眠くなってきた。
***
気付いたら何もない空間にいた。
「おい!何寝てんだよ」
そんな空間に一人、俺に怒鳴る奴がいる。お前は、確かメイル。
彼はどうやらかなり焦っている様子だ。
「うるさい。それどころじゃないぞ。君はあろう事か彼女とのデート中に寝てるんだぞ?
映画が終わって、彼女と盛り上がるんだろう?映画の話題で」
うわ。そうだった。俺デート中に寝ちゃってたのか。それよりなんでこんなに俺に親身なんだこの人。
まあどうでもいいか。今は取り敢えずメイル、俺を起こしてくれないか?
「勿論。頑張れよ。
お節介だが忠告しておいてやる。空気を読んで、彼女の望んでいる事をしてやれ。分かったな」
分かった。
ここでプツリと俺の夢は終わった。こんなにすっきりした夢の終わりがあっていいものか。
***
落ち着け、落ち着け、大丈夫。彼女の望んでいる事をしてやるんだ。お前を信じるぞ。メイル。
いや?待てよ。彼女の望んだことをしてやれって、良く考えなくてもそんなの当たり前の事じゃないか。
なんの忠告にもなってない。インチキ占い師みたいなこと言いやがって。
やがて映画が終わり、俺たちは映画館を出、カフェで休憩しながら映画について話す事にした。
「つまらなかったね」
そっか。俺も少し寝ちゃったしな。ただ、そんな考えとは裏腹に、口から出た言葉は事を穏便に済ませたいと願った便宜の言葉だった。
「そうかね?」
「うん。私はね、なんだかいらないシーンが多すぎるよ。それに、そのいらないシーンが他のシーンにも悪影響を及ぼしてるね」
「会社のシーンのこと?」
「そ。私はこの映画のテーマも好きだし、実際殆どの部分は満足する出来だったんだけれど、会社のシーンが映画全体をチープに仕立て上げてるの」
どうしてそんな不平不満を言うのか俺は彼女に問いただしたくなった。少しだけ。
だってデートってこんなんじゃないだろ。映画を見て、見終わった後楽しかったね、って笑い合って流れで今後の事を惚けあって話し合ったりするんじゃないのか。
「多場くん、間違えないで欲しいのだけれど、満足出来るっていうのはある一面に置いてだけよ。」
「はい」
「映像。映像はよかった長回しから出るリアリティをうまくテーマに落とし込んでた。でもね、肝心の物語があまりに抽象的すぎて私の心は微塵も揺さぶられなかったわ」
「なるほど」
なんとかしてこれを止めないと。
もしかして彼女にデートしに来たって自覚は無いんじゃないのか?浮かれていたのは俺だけ?
「ねえ、多場くんはどうだった?」
「ああ、俺は面白いと思いましたよ」
「うん、どんな風に?」
「綺麗でしたよ。とっても。画だけじゃない、音の使い方も良かったし、話も具体性がない分リアリティがなかったけれど、でもそれが話そのものを淡く仕立て上げてて、美しいなあって」
「ふうん、随分肩入れするんだね。作者は多分そこまで考えていないと思うよ」
山本さんは目を細めて僕に返した。
違う。違うんだ山本さん。僕はこんなにしっかり批評会を開くなんて思わなかったんだ。
彼女のその表情がやきもちなのか、はたまたいたずら心なのか僕にはわからなかった。
「やめましょうよ、こ、今回はデートなんですから」
「デートなの?」
デート。俺はデートだと思って来てたんだけどなあ。
「ねえ、じゃあデートではどんな事するの?」
彼女は椅子に座り直してから、そんなことを聞いてきた。
まるで淫魔のような質問をしてきた彼女に対して、俺は咄嗟に何もいう事が出来なかった。
彼女の神聖だったイメージがガラガラと崩れていく想像をした。
「互いの事を知り合うとか?」
「ふうん。じゃあさ、私の好きなもの当ててみてよ」
山本さんの好きなものか、なんだろう。全く想像出来ない。そもそも食べ物なのか?趣味のことなのか?抽象的すぎはしないだろうか。
もしかして俺?
「それって食べ物?」
「食べ物にしよっか」
「苺とか」
「違うね」
「ケーキ」
「違うかな」
「クロワッサン」
「離れたね」
「パフェ」
「そう。正解」
成程な。山本さんってパフェが好きなんだ。
結構大人びているけれど意外と女子って感じのものが好きなんだなあ。
「ねえ、奢ってよ」
彼女はレストランのお品書きが書かれた紙を指差した。
しばらくの時間俺と彼女の空間が静かになった。
「いいですよ」
メイルからの忠告もあったが、そんな事がなくても俺は彼女にパフェを奢っていただろう。
「冗談のつもりだったのに」
彼女は満足そうだ。
「これくらい大したことないです」
これで俺の財布は空になった。だが後悔はない。
「多場くん。ありがとうのキスをしてあげよっか」
「え?」
俺が固まっている間に彼女はテーブルから身を乗り出す。
身をのり出すと腹の辺りの彼女の服がテーブルに擦れ、少しだけ体の形がわかる
そのまま俺に彼女の綺麗な顔が近づいてくる。ゆっくり、ゆっくりと。
時間の流れは一定なはずなのに永遠に彼女の顔を見ている気がする。
なんて幸せな時間なんだ。
やがて唇が俺の頬に触れる。頬に密着して感触が広がる。俺は何も考える事もなく、じっとその瞬間を吟味していた。
俺は体こそ動かなかったものの、目で彼女がキスする瞬間をしっかりと捉えていた。そうだ。丁度アナログなカメラみたいに俺の目にその画が焼き付けられたんだ。
嘘だろ。
いいのか俺が。こんな美女と。
「ありがとね」
それから俺と山本さんとの間には少しだけ沈黙があった。でも決して息苦しくはない。
こんなに幸せな沈黙は他にない。
少しの時間、彼女の薄く微笑んだ顔を眺めていた。
「山本さん!ま、また次も会いましょうよ。夏休みも長いので」
「いいよ」
なんて言ったんだ。この傲岸不遜な考えを彼女は容認してくれたというのか。こんな事があって良いのか。
「じゃあ今度は何処に行くの」
何処にいくのか。一体何処に行けば良いのだろう。
「じゃあ今度は散歩しましょう。私、東京まだ隅々まで見てないんだ。いろんなとこ歩いて、いろんなもの食べたいな」
「はい!」
「あとさ、私の事名前で呼んでいいよ。ひねくれ男さん」
山本ちひろ。それが彼女の名前だった。
そんな訳で次は彼女と東京観光をする事になった。
**8月2日**
俺はそれからというものずっと頭の中でキスの瞬間が反芻されていた。
身を乗り出すと腹の辺りの彼女の服がテーブルに擦れ、少しだけ体の形がわかる
そのまま俺に彼女の綺麗な顔が近づいてくる。ゆっくり、ゆっくりと。
時間の流れは一定なはずなのに永遠に彼女の顔を見ている気がする。
やがて唇が俺の頬に触れる。頬に密着して感触が広がる。
身を乗り出すと腹の辺りの彼女の服がテーブルに擦れ、少しだけ体の形がわかる
そのまま俺に彼女の綺麗な顔が近づいてくる。ゆっくり、ゆっくりと。
時間の流れは一定なはずなのに永遠に彼女の顔を見ている気がする。
やがて唇が俺の頬に触れる。頬に密着して感触が広がる。
ああ、今日はまたデートの日だ。俺の一日は早い。七時に起きて、朝の食事に取り掛かる。
今日は随分と早く、彼女の要望から9時には来て欲しいとの事だった。
だから俺はこんなに急いでるのだ。
***
集合したのは冨岡八幡宮。東京は何処でも朝から人で賑わっている。
「お。来たね、多場くん。」
と、人混みにまぎれてちひろちゃんがこちらに向かってくる。
どうやら待たせてしまったようだ。
彼女はいつもと同じく黒系の服で統一していた。シースルーの上着から慈しまれているかのように綺麗な肌が覗く。
さて、今日といえば俺は何か東京を散策すると聞いていたが、たどる道までは聞いていない。
「私が案内するね。行きたいところ沢山あるから」
「はい!」
今日も景気良く返事をして、俺は山本さんについて行く。
賑わっている繁華街をしばらく歩くと、人混みの中で再びちひろちゃんは立ち止まった。
「ねえ見て」
彼女が下を指差し、そこにはマンホールがあった。桜の描かれたマンホール。
特になんの変哲もない。
彼女はそのマンホールに両足で飛び乗った。
大胆さに少しだけ彼女の衣装が揺れた。
「ここに戻って来ましょう。そしてまた帰ってきたらこのマンホールを踏むの。
さあ、多場くんも乗って?」
俺は恥ずかしさを感じながらも、客観的にこれが恋愛か、なんて耽りながら同じくマンホールに両足で乗った。
「じゃ、行こうか」
そこからの道のりは酷く過酷なものだった。
築地から東京駅を通り、オフィスビルへ入る。大量のサラリーマンを横目にビル街を抜け、すると江戸城跡に出る。そこから再びビル街へ突入、それからひとまず新宿に着いたので休憩した。
「江戸城跡でランニングしている人って本当にいるんだね」
さて彼女は今度は浅草へ行きたいと言い出したので俺は即答でついて行った。まるで犬を連れての散歩である。
しかし、やはり浅草への道のりも長かった。
東京ドーム、靖国神社など名のある観光地を尻目に、やはり見えてくる江戸城跡、そうして見えてきたヲタクの街、秋葉原。メイド喫茶では高い金を払ったにもかかわらずちひろちゃんより数段不細工なメイドに接待され、昼を過ごした。
彼女は満足そうだった。
少し歩くと浅草寺だった。
ここで終われば、俺の足が悲鳴を上げる事もなかっただろう。
「よし、次は東京タワーね」
俺は二つ返事でついて行った。
神田大明神、将門公の首塚を通り、再び道ゆくサラリーマンがもはや風情を醸し出す東京駅へ戻ってきた。そこからさらに進み、また江戸城が見える。ここの道では俺と山本さんは返って盛り上がったと思う。映画の話に花を咲かせながら虎ノ門ヒルズを眺め、東京タワーへ。
展望台にはレストランがあった。時刻は大体三時を回っていたので、俺は東京の絶景に添えるパフェを彼女のキスと交換で奢り、東京タワーを後にした。
まだ3時だしと、駄目押しとばかりに彼女は護国寺へ行こうと俺に提案した。俺は二つ返事でついて行った。
少し歩いて、国会議事堂を通った。ここが政治で有名な霞ヶ関か。と二人で感心しながらその場を後にして、相変わらずの江戸城跡を通る。ランニングしている人は時間のせいか少なかった。
護国寺について、取り敢えずと富岡八幡宮、靖国神社、神田大明神と、今回四度目となるおみくじを引いて、二人とも中吉だったのを確認した。
お前は神を信じないのではなかったのか。お前には数字の御守りがあるだろう。なんて君たちは言うかもしれない。でもね、おみくじの結果を見せ合う時、彼女の顔が近いんだ。それだけでする価値はある。
話を戻そう。俺たちはやっと冨岡八幡宮まで戻る向きになった。
東京ドームを通り、江戸城、日本橋を通過し、ようやく戻ってくる事ができた。
俺は今日だけで江戸城跡を五度見た。五度も。
こんな体験をする人間はなかなかいないだろう。
「多場くん。ホラ、朝私たちが乗ったマンホールだよ」
うるさい。もう俺の足は動かない。
「ちひろちゃん。全然元気なんだね」
「まあ私は散歩好きだから」
でも今日一日、彼女と色々な話ができた。街に散らばるいろんな物を通して彼女の考えを知れた。俺は幸せだ。
彼女も俺の事悪いようには思っていないようだし。
彼女を見れば、お先、なんて悪戯っぽい顔でマンホールに立っていた。
「ほら、多場くんも早くおいで」
「はい!」
カメラをもって待ち構えていた彼女に不意をつかれて、俺の顔が間抜けに映った二人の記念写真が出来上がった。
こうして長く続いた東京散策は終わったのである。
**9月12日**
彼女と水族館の帰り、レストランで二人してディナー後の休憩を楽しんでいた時に、誰かから電話がかかってきた。こんな時に、こんな俺に一体なんの用だろう。
「やあやあ、僕だよ。」
「お前は」
メイルからだ。
「いや、君は何も喋らないで良い。君の身体状況を僕は逐一把握できるから。」
いきなり電話を掛けてきてなんて横暴な野郎だ。
お前は夢の中の存在じゃないのか?
「そんな時もあったね。」
おい。なんで俺の思考を盗んでんだよ。夢の中じゃないんだぞ。
「関係ないよ。
それでね。九月二十五日を待たずに僕が電話を掛けたのにはしっかりと理由があるんだ。
詰まる所勝利宣言をしようと思ってね。」
誰に?
「悪神さ。どうしてそんな煽るような事をするのか疑問だろう。善の神らしくない事をしている様に見えるからね。
違う。これは互いにとって良いことさ。今回ばかりは僕と君との窓口が広すぎる。この状況から悪神の逆転はないだろう。だから早めに勝ち目のない状況を悪神に伝えて今回は休憩しようって事さ」
そんな事を言われても俺にはどうすることも出来ない。大体今ちひろちゃんと一緒なんだ。彼女のために何かする以外に今するつもりはない。
「まあまあ、そうカリカリしないで欲しいな。だからね、彼女にこそこの事情を教えてあげたいんだ」
はあ?なんでそこでちひろちゃんが出てくるんだ。関係ないだろ。
「あー、うん。それは彼女自身が言ってくれるさ。良いから変わって」
困ったな。ちひろちゃんだってこんな不審者に急に電話越しにある事ない事言われても困るだろう。
俺が頭を抱えて悩んでいると、テーブル越しの彼女が気になって話しかけてきた。
「多場くん、なにかあったの?」
「ほらほら、彼女が僕をお呼びだぞ?」
「ちひろちゃん。少し迷惑かも知れないけれど、俺の電話相手が君と話したいって言っているんだ。変わってくれる?」
「いいよ」
俺は嫌々ながらも彼女に携帯電話を渡した。
彼女が俺の携帯電話を受け取ってからというもの、彼女は神妙に受け答えをしていた。
「多場くん。少しトイレにでも行っていてくれる?
後で全部話すから」
俺は彼女に促されるままにトイレへと向かった。
***
「ねえ、このケータイ捨てていい?」
トイレから帰るなり、メイルとの会話を終えたちひろちゃんはそんな事を言い出した。
いくらちひろちゃんでも携帯電話を捨てられるのは困るかな。
「あいつと何を話したの?ちひろちゃん」
「うん。あいつがまた嫌みたらしく説教垂れてきただけだよ。
それで君に私の事全部話せってさ」
さっきから気になっているのだけれど、全部話すって言うのはどういう事なんだろう。
それに彼、メイルと彼女はどんな関係なんだろうか。
なんか、俺だけ置いてけぼりだな。
「取り敢えず、外出よっか」
俺とちひろちゃんはレストランを後にした。
会計は二千五百円。
俺が千五百円、彼女が千円出した。
注文内容はちひろちゃんの頼んだハンバーグセット、ドリンクバー、俺はスープ付きのグラタンを頼んだ。追加で彼女はスイーツを幾つが食べていたが彼女の満足そうな顔が見られたから俺は満足だ。
さて、レストランの入り口に備えてある小さな鐘を景気よく鳴らし、外に出て俺と彼女はしばらく黙って道を歩いた。
俺と彼女が行き着いたのは公園だった。
夜の公園は少し不気味と言う人もいるが、俺は風情があって好きだ。公園からは街の雰囲気がよくわかる。
俺は彼女に促されるままベンチに腰を下ろした。
彼女はたったままだった。
彼女は隠していた事を俺に話してくれるようだから、俺は黙って聞くことにした。
「今から全部話すよ。何て言ったらいいんだろう。私自身もまだ収集がついていなくて、自分の気持ちがどんなものなのか、まだ分からないの。
多場くん。私はね、悪い神様なんだよ。
正確にはその一部なんだけれど、どうかな。こんな事を聞かされて。
今私は悪い神様として存在しているけど、でも山本ちひろっていう人は確かにいたの。
彼女はとっても不運な人でね。彼女の兄がオカルト好きで、悪魔召喚の儀式をしていて、偶々何かの間違いでその儀式によって悪神の一部に触れちゃったんだよ。
それで彼女はその皺寄せを食らって、依代になって私がこの世界に出てくる事になったの。
私の役割は私の全てこの世界に顕すこと。
彼女の兄は儀式で死んでしまったから、別の人をその依代にしようと思ったのだけれど、私は貴方が気に入ったみたい。
この世界ってどうやって出来たか知ってる?
実はね、最初っから世界なんて出来ていないんだよ。世界なんて存在しないの。
全部夢だったの。私の見ている夢がこの世界なの。
それでね、私がこの世界に完全に顕れれば、善と悪の境界線がなくなる。二つのうち一つが消えるの。光と影、勝ちと負け、本を開いた状態、閉じた状態。どちらかしか残らない。
だからこの世界が崩れていくの。夢の世界が無くなれば、最後に私は夢から覚める。
それが私の役割なの。
だけれど彼が私に勝てば悪はこの世から消える。私は消えてしまうの。夢を見ているのは私だから、私が消えたら私は永遠に目が覚めなくなる。
実際、自分の夢で自分が殺される事なんてあるのかしら。だから彼、メイルがこの戦いに勝てば世界はまた存続していくのかも知れない。
私にはその先のことは分からないけれど、私の役割ではないから関係ない。
これで分かってくれたかな。
私と付き合うっていうのはそういうこと。
貴方がどれだけ私を好きでも、流石に世界の終わりを天秤にかけられたら躊躇ってしまうでしょう?
君は今真実を知ってしまったから、今回は彼の勝ちね。
世界を滅ぼせなくて残念。」
俺は彼女の言っている事に何一つ返事を返せなかった。訳の分からない事を言われて頭が追い付かないという事もあるだろう。
しかし、それよりも考えていた。
俺の渋滞した頭とは裏腹に、彼女は俺を置いて去ってしまう。
彼女が去っていくのを黙って俺は見ていた。
九月二十五日まで、彼女のケータイは繋がらなかった。
きっと今回はもう諦めたんだろう。メイルに促された通りに。
もう全てが癪に触る。こんなのどちらをとっても誰かの手のひらの上じゃないか。
**9月25日**
「やあ、今日がいよいよ運命の日だよ。僕に電話をするか、彼女の手を取るか。」
俺は彼女に告白するよ。
そう俺が言うとメイルはこれ以上なく面食らった顔をした。
こんな顔は今までの人生でもなかなかお目にかかれなかった。
「冗談だろ?世界が終わるんだぞ?
分かった。君に考えらしき考えなんてないんだろう。現代病に侵されているんだ。刹那的な考え方だ。そんな暴挙を容認するわけにはいかない」
うるさい。なんとでも言ったらいい。
「よく考えるんだ。君が告白しようとしている存在は人間じゃないんだぞ。まして生物ですらない。理性があるかも分からない。ただのシステムなんだよ。
システムに告白するやつがあるか。」
嘘だったって言うのか?彼女の挙動何一つとっても。
「そうだよ。君を依代にするために取った行動だよ。君を拐かすのがいい方法だとあれは割り出したんだ。」
じゃあ依代になる事を交換条件に出せば付き合えるのか?
「救いようがないな。君は。
全部なくなるんだよ。君と"彼女"との今後も。
それどころか今まで起こったことすらも。
大変な事だろう。
あれに告白するというのが無意な行動だとどうか分かってくれ」
それでも、俺は彼女が好きだ。
なあ。都合の悪いことは話さないのか?善の神の癖に。
最初に会った時、お前は今が十万と三千七百九十四回目の邂逅だと言った。
善なる選択肢を選んだとしてもこの先の未来は保証されていないんだろ?
だから世界が繰り返されているんだ。そうだろ?
「はあ。もはや聞き慣れた難癖だね。大きな役割のために小さな役割を必要に応じて捨てる。システムとして当然の事だろう。
君らの作る出来の悪いカラクリとは違う。僕らはそんな簡単な事でエラーは起こさないよ」
時間が巻き戻っている理由はなんだ?
「時間を巻き戻しているのは僕じゃない。悪神が今回は粘り強いんだ。
君が僕へ電話をかける事によって僕の空間と君の世界が窓口で繋がるんだ。それによって僕は世界を善にする。そうすれば悪神は負ける。
だから負ける寸前であれは時間を巻き戻しているんだ」
悪神が諦めたらどうなるんだ?
「さあね。ただ悪神が完全に目を覚ませば世界は終わる。それだけは確実だ」
なあ。今俺はひどくあやふやな土台に立っていると思わないか。
善悪の勝敗をつける人間は誰が選ばれていてもおかしくなかったとお前は言った。
そうして折角つけた勝敗の先の世界はどちらにしろ補償されていない。
今じゃ世界は核で滅ぶし、十分前には世界が始まってなかったなんて仮説も出たりしてる。
「だから君が滅亡の引き金を引いてもいいと?
よく考えたまえ」
俺は彼女が大好きだ。山本ちひろが好きだ。
彼女の発する一言一句が。挙動の一つ一つが俺の心臓を熱くさせるんだ。
「馬鹿な。あれの名前は山本ちひろじゃないって言っただろ」
なんだか、意識がぼやけてきた。
「あーあ、もうお目覚めか。随分気合が入ってるね。まだ朝の六時だってのに。
まあいいよ。僕は君の判断に干渉出来ない。
結局僕が何を言ったって最後には君の勝手さ。
せいぜい頑張れ。選択したら泣いたって後戻りできないんだぞ」
恋は盲目って言葉があったな。理性で色恋沙汰が片付くかよ馬鹿野郎。
***
家を出るにあたって携帯電話は置いてきた。持ってきても電話に出る気はないが、むさい男の誘いがないのが俺の夏休みの特徴だからだ。
東京スカイツリーに行く前に、俺は花屋に寄って花束を買った。真っ赤な薔薇だ。
告白の仕方はさっきまでいろいろ調べていたけれど、やっぱりストレートの方がいいだろう。
東京の道を歩く。この東京も今日で見納めと思うと少し感慨深いものがある。
三ヶ月の付き合いだった。
東京には相変わらず高層ビルが立ち並んでいて、道ゆく人々は何時だってわんさかいる。
俺は彼ら全員の人生を犠牲にして今から彼女に告白するんだ。そう考えると少し悪いと思わなくもないが、そう言った感情も日が変わる前に無くなってしまうのだ。
「今回ばかりは貴方も私も災難ね。こんな日まであいつの勝手な行動に付き合わされているのだから」
出会ってから彼女が発したのはそんな台詞だった。
俺は彼女のところまで歩いて行って、彼女はようやく俺の事を見てくれた。
その姿は相変わらずの彼女だった。
なにも変わっていない。この夏の数多の思い出を過ごしたあの山本ちひろちゃんだ。
「来たよ。ちひろちゃん。
東京の景色はどうかな。綺麗かな」
「そうね。
でも、これは貴方を拐かすために形作られた感情に過ぎないの」
「知ってる」
彼女は俺にいちいち確認する様にそんな事を聞いてくる。
もしかしたら彼女は俺がここに来ないと思っていたのではないだろうか。知った現実があまりに深刻で。
ここに来た理由は簡単だ。準備していた事を言うだけだ。
やっぱり、緊張するなあ。女の子に告白するなんて初めてのことだから。
でも俺は勇気を振り絞って口を開けた。
「君が好きだ。付き合ってほしい」
「いいよ。世界が滅んでもいいのなら」
彼女は事もなげに返答する。
まるで自信が何か大きな法則によって動かされる機関のように。
その様子を見ていると彼女が、俺の知っている山本ちひろではない様に見えた。
「君は!生きている!
たとえ君が悪神の一部だろうと、大きな世界の法則の一部だろうとも、俺を拐かすためだけに作られた感情でも、君は確かに笑って、時にはミステリアスに俺に話しかけてくれた。
現実を見ていないのはどっちだ!君は生きている!どう足掻いたって生きている!百人中百人がそう答えるだろう!悪神がなんだ!システムがなんだ!そんなのなんだって言うんだ!俺は君が好きだ!君が何者だろうと、いかなる結末を君がもたらすとしても!君が好きだ!」
俺が一生懸命に告白したって今日の彼女は無表情だ。
「やっぱり君の考えはおかしいよ。ひねくれ男さん」
「おかしいよな。でも、どうしようもないんだ。君が好きで好きで、仕方がないんだ。パフェを奢ったご褒美に貰ったキスのシーン。それが俺の頭の中で離れないんだ。
同じく君と過ごした一ヶ月と少しの時間が」
正直に。ありのままを伝えた。
彼女はそれに答える様に今までの無表情を崩して笑った。ちひろちゃんの笑顔だ。
「いいよ。じゃあさ、手を繋ごう。二人でおまじないを唱えるの」
俺は彼女の言われるがままに手を繋いだ。
「おまじないって?」
「世界を滅ぼすおまじない。一緒に言って」
「「ザイウェソ ウェカト ケオソ クスネウェ ルロム クセウェラトル」」
俺と彼女との言葉がぎこちなく重なり、折り重なっていく。
「「メンハトイ ザイウェトロスト ズイ ズルロゴス ヨグ ソトース オラリ イスゲウォト、ホモル アタナトス ナイウェ ズムクロス イセキロロセト クソネオゼベトオス アザトース」」
空には亀裂が走り、巨大な地鳴りがする。
冨岡八幡宮から新宿へ光の線が走り、新宿から浅草、浅草から東京タワー、東京タワーから護国寺へやがて冨岡八幡宮で繋がる。
江戸城跡を中心に、東京に巨大な五芒星が書き出された。それは二人で散歩した思い出の道だった。
「「クソノ ズウェゼト クイヘト ケソス イスゲボト ナイアーラトテップ ズイ ルモイ クアノ ドゥズイ クセイエラトル イシェト ティイム クァオエ クセエラトル フォエ ナゴオ ハスター ハガトウォス ヤキロス ガバ シュブ ニグラス メウェト クソソイ ウゼウォス」」
俺と彼女は手を繋いで顔を見合わせた。
「君の本当の名前を教えて欲しい」
「人間の舌じゃ発音できないのよ」
すこし冗談めかして彼女が言う。でも本当なんだろう。だったら仕方がない。
「君の事、なんて呼んだらいいかな」
「ヨグ・ソトース。それが一番近い名前かも」
不思議だな。今まで彼女の名前すら知らなかったなんて。
世界の終わりに際して何を考えれば良いか、俺にはさっぱり分からなかった。
ただしかし、今、着実に世界は終わりを迎えようとしているし、世界が終わったらこの先の未来は無くなってしまう。いや、結果的に何もかも無くなるのならば過去も未来もこの現在も無くなってしまうのだったか。
展望台の窓から見える景色はとても現実のものとは思えない有様で、紺碧の大空には大きく亀裂が走り、裂け目に東京の街並みが吸い込まれていく。
人の営みの証が。高層ビルの残骸が。新幹線の車両が。折角埋め立てて作った土地も。全てが飲まれていく。
やがてこの亀裂は世界を覆い尽くすだろう。
そうして世界が終わっていく。
「ねえ、思い出した?あの映画のラストシーン」
そう語りかけてくるのは俺の彼女だ。決して文学的な言い回しではなく、俺の恋人だ。
映画のラストシーンは確かこうだった。ビルの最上階で二人が愛の告白をして、そのタイミングで主人公の仕掛けた爆弾が、周りのビルを崩していくのだ。それが暗示するものは文明社会の崩壊か、主人公の心模様を現しているのか、少し考える必要があるが。
しかし、こんな壮大な世界の終わりを月並みな映画のラストシーンで片付けてしまうなんて癪な話だが、俺はそんな彼女の性格も大好きだった。
彼女が俺の顔を覗く。俺も彼女の顔をじっと見つめる。
「キスしよう」
「いいよ」
「私は君のしてくれた選択、嬉しく思うよ」
世界を終わらせる引き金を引いたのは俺だ。
それについて弁明する気持ちはない。
数々の人々の人生を踏み躙っただろう。俺よりも希望を抱いて人生を歩んでいた人もいただろう。傲慢な選択をしたことはわかっている。
いや、やっぱり実感がないのかも知れない。ほんの小さな選択の違いで世界が滅んでしまうなんて。
しかし、全てが終わった後、過去も未来も無くなってしまうのなら、どうでも良いことなんじゃないか。
それに俺じゃなくてもいつかはその引き金を引いただろう。とんでもなく奇妙な縁(えにし)の織り重ねの先に、他の誰かがいたかも知れない。
「まだ少し時間があるけれど、どうする」
「君の事がもっと知りたいな」
もう間違えない。俺のしたい事は自分が一番分かっている。
おしまい The end or happy doomsday.
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
今後もよろしくお願いします。