対策はしているがそれなりに煙は出る。食材が焼ける音と一緒に薄く絶えず立ち上っていく。
「……あんま焼けてねえなこれ」
家の壁にもたれ、紙皿に乗せたタマネギを食べる。少し離れたコンロの周辺では我慢が出来なかったのか、見張りをしていた石上チームの二人が美味そうに肉を食っていた。石上は何故か庭に倒れて悶絶している。
「ただいま」
そんな光景を見ていると、いつのまにか同じく紙皿を手に持った静夜が横に居た。
「楽しんでるか」
「うん。面白い人達と友達なのね」
「仲良くなれそうか」
「それはどうかな。キヨリちゃんもミエちゃんもユイちゃんも、まだ少ししか話してないけど良い人。でもちょっと怖いわ」
「怖い?」
「気づいてないなら良いんじゃない? ……ふう、やっぱりお兄ちゃんと話すのは楽ね」
「光栄だな。
「さあ? こんばんは、って挨拶したらああなったんだけど、何かまずかった?」
「いや、気にしなくて良い」
「そう? それにしても本当にヤンキーって居るのね。空想上の生物だと思ってた」
「アイツらが変なだけでここら辺じゃ絶滅危惧種だよ」
いつもと変わらない微かに触れ合うような会話。今日を機に静夜は変わっていくのかもしれない。それでも、この感覚だけは無くならないだろう。
「花火、混ざらなくて良いのか」
目の前では何人かが花火を付け始めている。カラフルな光が音と火薬の匂いと一緒に届いて来る。
「今はいいわ。そうだ、花火といえば覚えてる?」
「窓から顔出してやったヤツだろ」
「そうそう」
「お前がどうしても花火やりたい、それも打ち上げがいいって言うから手に持ってやったんだよな。近所迷惑だわ危ないわでえげつないくらい叱られた。忘れたくても忘れられない」
「懐かしい。本当、色々な事を求めてきた。この家の中で」
横目に見ると静夜は俺の方を向いていた。紙皿を横に、薄く生えた草の上で膝を折りたたみ正座していた。
「静夜?」
「ありがとね、お兄ちゃん。今日まで退屈のしない日々でした」
「なんだ、急に改まって」
「言ったでしょ。帰らないといけないの」
「どこに」
「月」
能面のような表情だった。誤魔化しのない冷たい表情に思わず目を逸らす。逸らした先の夜空には、何故か今日一日一度も見ようとしなかった空の上には。
あの月が満ちていた。大きく、眩しく、言いようの無い不安を掻き立てられる光。それが徐々に強くなっている。
気づけば友人達の喧噪は消えていた。全員が地面に倒れ、持ち手を失った花火が小さく光り、コンロのそれと混じった煙がたなびいている。
「八月十五日は旧暦の話なんだけどね。向こうも価値観をアップデートしてるのかしら」
静夜が何かを言っている。光が強くなっていく。言葉は聞き取れても理解が出来ない。頭に靄がかかったようだった。
「もう行かなきゃいけないみたい」
眩しい。静夜が前に踏み出している。月に向かって、雲のような足場に立つ人影達に向かって、宙を踏んでいる。
全身の感覚が抜け落ちていく。それでも俺は立っていた。前を行く静夜に追い縋る。
ふと、静夜が振り返った。
「置き土産」
唇に冷たい感触がした。
☆
俺は理解していたのかもしれない。静夜が居なくなる事を。
嘘でも、冗談でもない。どれだけ話が荒唐無稽でも手紙を差し出した静夜の表情がそれを物語っていた。それでも表面では認めようとはしなかった癖に、
最後に外へ、俺以外の他人と、未知のひと時を。そう考えて俺は用意をしたのだろうし、静夜もそれを理解していたから外に出た。
これは送別会だったんだ。俺はとっくに別れを受け入れていた。静夜が言う以上はそうなんだろうと。
光が満ちていく中でそんな事を考えながら、俺は意識を──。
「根ッッ性ぉぉぉぉぉ!!!!!」
手放さなかった。耳に響く怒号と衝突音。そいつはその特徴的な髪型を直立させ、光の中からこちらへと飛び出して来た。
「おま、え」
石上だった。なぜか額から血が流れていた。
「てめえも──目ぇ覚ませ!!」
頬を張られた感覚と鈍い痛みが走る。ぼやけた頭が少しクリアになり、間髪入れずに肩を掴まれる。
「訳分かんねえけどあれがお前の言ってたストーカー野郎なんだろ!?」
勢いに押されて無意識に首肯する。
「だったら早く追いかけろ! 呆けてる暇ねえぞ──
名前を呼ばれた。また少し意識が鮮明になり、肩を掴む手の力が弱まった。
「静夜ちゃんだろ、お前しか居ねえだろ、くそっ……」
前に倒れ込んできた石上の額が頭にぶつかり、視界が揺れる。身体の痺れが解けたような感覚が広がった。
それと同時に、俺は何を考える訳でも無くその場から走り出していた。
「跳べ……」
倒れた石上の呟きが微かに聞こえた。俺は光を掻き分けて庭の隅にある倉庫に向かい、扉を開ける。雑多な道具の中でも一際大きい梯子。それを抱えて家の壁に。
また頭が働かなくなってくる。全てを忘れて眠る時のような感覚。立てかけた梯子を上り、屋根を歩きまた上へ。そうして頂上に辿り着いた時、目の前には高度を下げた雲とそこに足を踏み入れた静夜の姿があった。
大きく息を吸い。助走をつけて何も考えずに全力で跳ぶ直前。
「お兄ちゃん」
さっきの無表情じゃない、いつもと変わらない静夜の顔が見えた。空を跳ぶ奇妙な感覚。それでも完全には届かない。
雲のような変な足場、そこに腹を打ち付けながら俺は掴まった。
目の前で無数の揺れる人影の前に立つ静夜。いつの間にかサンダルは脱いだのか素足だった。
「ダメだよ。私は帰らないといけないの」
突き放されるような冷たい声。そんな感想が不意に出るくらいにはもう頭の中は光でぐずぐずだった。
「俺は、お前が月に帰ったら、多分生きるのがイヤになる」
咄嗟に口に出たのはあの時の答え。
「だから、帰って来い」
手を伸ばす。届かない。身体を支える力も抜け落ちていく。
そうして今度こそ意識を失い、俺は足場からずり落ちる。
「お兄ちゃん!!」
その時、手の中には確かな感触があった。
☆
今日から家族になる。そう言われて家の玄関で初めて、その子と顔を合わせた。
「はじめまして」
丁寧な挨拶だった。奇麗な長い髪、頭の芯まで届くような声、人形のような佇まい。
背丈は俺よりも小さく、顔立ちは幼い。それでも自分よりも年下だとは思っていなかった。学校で、公園で、店で。様々な場面でたまに感じる大人をその子からも感じていた。
「私のお兄ちゃんになってくれる?」
その子の最初の要望はそれだった。俺はそれに応えたいと思った。それからは兄としてその子に振舞い始めた。名前は呼び捨てに、口調はぶっきらぼうに、常に前に立つように。
「あははっ! 今日からあなたは私のお兄ちゃん!」
そうするとその子は無邪気に笑った。
ああ、そうだ。俺がなんで静夜の願いを聞いてしまうのか、そんなの分かり切ってたじゃないか。
初めて会ったあの日から、その笑顔を見た時から。
俺は静夜を──。
☆
俺達は宙を浮いていた。いや、ゆっくりと落下しているらしい。奥に見える雲が遠ざかっていく。
「あははっ!」
何がおかしいのか静夜は笑っていた。手はしっかりと繋がれて、俺の後を追ってふわふわと落ちて来る。
「簡単な事だったんだわ。あの子は自ら帰還を望んでいた。迎えを受け入れた。故郷が寂しかったのかしら」
静夜を中心に俺達は光に包まれているようだった。温度も音も、不思議なほど外部から遮断されている感覚。互いの息遣いと声以外には何も聞こえない。
「それでも残りたいのなら。やりたい事が、心残りがあれば飛び降りれば良かった。どうせ罪人なんだから向こうは深追いしてこなかったかもしれない。不浄な地の上を選んだとしてね。それだけの話、諦める必要なんてどこにもなかった」
「静夜」
「なに、お兄ちゃん?」
「俺達なんで浮いてんだ?」
「気になる?」
「あとアイツらなんだったんだ」
「聞きたい?」
「……いや、別に良いや」
「そうね、気にしなくて良い。そんな事」
一帯を覆っていた光はもう無い。下を見れば倒れたままの友人達。上を見れば奇麗な円を描く小さな満月と、まばらに見える星が夜空にあった。
「石上には後で礼を言っとかなきゃな。アイツが居なきゃやばかった。……なあ、まだ月は怖いか」
「ううん、ぜーんぜん。私に愛想尽きちゃったみたい。お兄ちゃんのお陰」
「そうか。じゃ、これからはどこにでも行けるな」
「それもそうね」
結局、俺は静夜を何も理解出来ていないのかもしれない。
もしかしたら、もしかすれば。俺の妹はかぐや姫なのかもしれない。
ただ、そんなのはもうどうだっていい事だ。
「どこに行きたい、何がやりたい」
そうしてまた、望みを聞く。俺がなんでそうするのかはもう分かり切ってる。
「うーん……色々あるけど、手始めにお兄ちゃんと一緒に──」
静夜は笑う。夜空を背負って、物思いのない無邪気な、俺の好きな顔で。
「プールに行きたいわ」