病室のベッドで横になっている楠本命の独白です。
突然ですが、みなさんは入院経験はありますか?
それも、長い、長い時間を。一ヶ月、半年、一年……それ以上の期間です。もちろん、まったくないという人もいるでしょう。それは、とても良いことだと思います。
────わたしは、10年近く
正確にいえば、入退院を繰り返す生活を10年も続けているのです。
病院生活とは、とても退屈なものです。わたしの場合は個室なので、他の患者さんと会話する機会もありません。……いえ、会話すること自体が厳しい病状なので、どちらにしてもまともな会話などできないと思いますが。
とにかく、やることがまったくないのです。
比較的に元気な患者さんは、病院のロビーにある漫画を持ってきて自分の病室で読みます。1枚1000円くらいのテレビカードを買って何かの番組を見ます。休憩室に集まって雑談を交わすお爺さんお婆さんもいらっしゃいます。
わたしは、とてもではありませんが、元気とは言えない状態です。テレビどころか漫画を読むこともできません。病院の中を軽く散歩することだってままなりません。ですので、わたしにとって病院生活とは非常に退屈なものなのです。
退屈は心を蝕み、やがて陰をもたらします。
没頭できるもの、熱中できるもの、夢中になれるもの……などなど。そんな何かがあれば、その人の目に見えている世界は、とても素敵で輝いていることかと思います。
逆にいえば、それらがない人の心には、きっと影が差し込んでいるのではないでしょうか。…………いえ、一概にはなんとも言えませんね。
そんな、ずっと病院のベッドで寝ているだけのわたしにとって、世界は、果たして輝いていると言えるのでしょうか。
◆
わたしは楠本
また、矢矧桜学園に通う2年生です。とっても病弱で、しょっちゅう休みがちな、そんなわたしですが、実は彼氏がいます。わたしにはもったいないくらいの、とても素敵な人です。
わたしが入院している病院の近くに、楠本家が住んでいるマンションがあります。長期入院患者向けのマンションです。つまり、わたしのためですね。
小さい頃からずっと心臓と肝臓を患っています。それも、とっても、とっても、重い病気。
隔世遺伝というもので、わたしのおばあちゃんも同じ病気を患っていたようです。三姉妹の中で、病気に罹ったのはわたしだけで、姉と妹は無事でした。
わたしだけで済んでよかった…………心の底から、そう安堵しています。
しかし……そんなわたしの病気は、非常に深刻化しており、とても長生きはできません。言ってしまえば、余命がとても短いのです。
心臓と肝臓だけではありません。視野狭窄に夜盲も抱えています。あと、耳が聞こえなくなることもあります。水分を補給するにも、制限があり、お水も好きに飲めません。その上、よく咳き込みます。
常に、苦しいのです。
退院し、普通に日常生活を過ごしていても、気づく前にふらっと倒れる可能性があり、視界は劣悪で、会話を満足に聞き取ることもできません。
学園では無口で大人しくしています。それらを誤魔化すために。
わたしの入院部屋は、お金持ちの人や、わたしのような重病人の方向けのフロアに属します。他の病棟のフロアとは異なり、雰囲気がとてもピリピリしています。
いつどうなるかわからない患者さんばかりが集まるフロアなので、当たり前と言えば当たり前かもしれませんね。現にわたしがそうですので。
近いうちに手術があるそうですが、成功確率は円周率ぐらいしかありません。
仮に成功したとしても、長いリハビリが必要だそうです。
どこまでもいっても……自由になれない。
それがわたし、楠本命の運命なのかもしれません。
◆
入院部屋の天井の染みを数えることがあります。暇なときあるあるです。
……いえ、後からわかったことなのですが、あれは正確には染みではないようです。トラバーチン模様……正式な名称はジプトーンと言うらしいです。古代ローマの建設模様として使われていた模様だとかなんとか。
誰かから、そんなことを聞きました。
あれです。ポツポツと穴が空いていたり、工具か何かでちょっと引きずってできたような痕がある、あれです。……伝わりますでしょうか。
その、いわゆるトラバーチン模様というのは……どうやら機能的には、模様表面の穴によって天井の表面積が広がり、吸音性能が高くなるようです。その結果、室内の気になる反響音が抑えられるそうです。
なるほどな、と思いました。道理で入院部屋というものは、他の建物の部屋と異なり、やけに静寂が漂っているわけです。耳を澄ますと微妙にキーンとするような、あの感じの音すらシャットアウトする。入院患者さんのためを想った工夫、繊細な心配りなんですね。
そもそも耳の悪いわたしには、その効果が実感としてはあまりよくわからないので、あくまで伝聞による情報です。
染み……いえ、模様と呼びます。あの模様って、いろんな形をしていますよね。どこかの都道府県だったり、外国の地形、島とか。そんなものを想起します。いろんなところを旅してみたい、わたしのそんな思いから来ているのかもしれません。
たとえば、ほら、あそこの模様が東京っぽいですよね。その隣にあるのが……京都? みたいな形をしています。東京と京都がこんなに近かったら、修学旅行は京都一択ですよね。
いえ、そうでもありませんね。あまりにも近すぎると、旅行の醍醐味である、移動の楽しみがありませんので。
ちなみに、わたしは修学旅行というものに一度も行ったことがありません。理由は先に述べたとおり、持病のためです。いつこの爆弾が暴発するか分かりませんので。言うまでもなかったかもしれませんね。
それでも、
ですので、天井の模様を見て、よく頭の中で旅行のシミュレーションをします。東京を出発したら京都で抹茶を飲み、和歌山で温州みかんを生でいただいて、兵庫で神戸牛を食べ、北海道で寒さに震えながらミルクバニラを頬張った後は味噌バターコーンラーメンを食べます。
食べ物のことばかりですね。経路もめちゃくちゃです。本当の旅人さんにこんな話を聞かせたら大いに笑われると思います。せめて北海道に先に行ってから下れよ、みたいな。
……そんな旅行のことを考えたり、視界に映る範囲の模様の数を数えたりもします。ギリギリ見えるかどうかわからないぐらいの、小さな模様も頑張ってカウントします。
数え上げた結果、数が素数だと少しテンションが上がります。なぜなのかはよくわかりません。簡単に
たとえば、模様を97個見つけたとします。これは素数ですよね。しかし、天井をよく見てみると、本当にごく小さい黒い斑点を発見することがあります。もしこれもカウントするとしたら98個となり、素数ではなくなります。
でも、あれは模様なのでしょうか。経年により付着した染みではないのでしょうか。そんな考えを脳内に巡らせ、グレーなものはノーカウントとします。なので素数になります。嬉しいですね。
都合がいいかもしれませんが、割り切れてしまうのはなんだか面白くありませんので。
……それだと偶数が嫌いみたいになってしまいますね。「6」とか「28」は好きです。完全数なので。
とは言うものの、やっぱり素数の方がなんだかいい感じがします。「13」とか「31」とか好きですね。こう、なんと言いますか、割り切れないだけあって、たとえ独りでも特別感があるといいますか。
……わたしって、そんなに素数が好きなんでしたっけ。別に嫌いというわけではありませんが。性質に惹かれるものがあるのでしょうか。
でも、素数について考えるというのは、退屈しのぎとしては割と楽しい方です。
部屋にある備え付けの木製タンスの木目をじっと見つめたり、ナースコールのボタンの色がなぜ黄色なのかと考えてたりしても、何も面白くありませんので。というより、どうでもいいのです。
あ、でも窓の外の景色を眺めるのも割と楽しい方です。素数程ではありませんけど。素数は強い。
たとえば、樹木の葉がわずかに揺れていれば、今日はそこまで風は強くないんだなと。葉っぱから何かが落ちたような軌跡が見えたら、もしかしてあれは毛虫かなと。目が悪いので、実際何が落ちたのかはわかりません。
窓の外を眺めていて一番テンションが上がるのは、小鳥さんたちが樹木に留まるときです。多分、スズメさんだと思います。
一羽目のスズメさんが来て、おもむろに樹をつついたと思ったら、その後ろから二羽目のスズメさんがやってきます。一羽目のスズメさんがそれに気づき、振り返ります。チュンチュンとなにやら歓談している様子です。もしかしたら喧嘩かなにかかもしれませんけれど。
三羽目のスズメさんがやってきます。おそらくですが、口に何かを咥えています。虫さんでしょうか。それをみなさんで一緒につついているようです。仲良く召し上がっているのか、貴重な食料をとり合っているのか、いまいちよくわかりません。
もしわたしが体を動かせる状態であったら、窓の外まで近づき、窓を開け、生米を与えたいと思います。
おーいこっちだよー、と。
それで近寄ってきてくれたらとても嬉しいですね。人肌が恋しいので、スズメさんとの交流もきっと楽しいと思います。
人肌と言っているのに、相手が鳥さんというのもおかしな話ですけれど。
……その前に、お前が食事をしっかり摂れるようになれよ、と言われそうですね。どこかの誰かさんに。
先に述べたように、水を飲むにも制限があるので、入院中の食事もかなり気を遣われています。点滴による栄養摂取が主なので、食事自体はほとんど流動食とかになります。まあ、体に負担がかからないようにするためだと思います。
仕方のないことかもしれませんが、味気も何もないので、とても無為な時を過ごしているように感じます。いったい、これはなんの時間なのだろうと。だったらむしろ、食事はいらないんじゃないかと思うこともあります。
ただただ辛いだけですので。
他にもおトイレだったりとか、なにかと看護師さんが付き添う形になります。申し訳なさしかありません。と同時に、わたしはとても不自由なんだなと、陰鬱な気分になることもあります。
入院するにしても、たとえば院内をお散歩してみたい。お水も好きに飲みたい。食事も一般的な病院食を口にしてみたい。テレビや漫画を読みたい。他の入院患者さんと何気ない会話をしてみたい。
────いろんな思いが、頭の中を巡らせます。
せめて、もう少し、もう少しだけ、自由がほしい。普通に生きたいと。
◆
「生きる」とは、なんなのでしょうか。
ただただ生命活動を継続できていれば、生きているといえるのでしょうか。
体を動かせなくても喋ることさえできれば、それでいいのでしょうか。
肉体的な制限が多くても、思考ができればいいのでしょうか。
独りでも、五体満足ならいいのでしょうか。
10年もこのような生活を続けていたら、さすがに少し哲学的なことも考えます。
実際、まだわたしは確かに生きています。今はベッドで横になっていますが、まったく体を動かせないわけではありませんし、今現在のように思考を巡らせることだってできます。
でも、基本的にそれだけです。
学校であれば、クラスメイトと面白おかしい話で盛り上がったり、授業中にしっかりお勉強をしながらも隣の席の人と少しだけこそこそとお話したり。お友達と一緒にお昼ご飯を食べたり、体育や学校行事でみなさんと一つになって団結力を高めたり。
家族であれば、朝起きて朝ご飯を食べて、行ってきますと言いながらお友達と通学したり。時に親や姉妹と喧嘩することがあっても気づいたら何事もなかったかのようにみんなで夕食を摂ったり。夏休みに家族全員でどこか旅行に行ったり。
────そんな何気ない生活を、自由に過ごせることを、「生きる」と言うのではないでしょうか。
そう考えると、わたしは生きているとは言えないのでしょう。ただただ、命があるだけ。心臓がかろうじて動いているだけ。生きているのに生きていない。どういうことなのでしょうか。
でも、そんなことを言ってしまったら、寝たきりの方など、わたしよりもっと酷い症状の方々に失礼ですよね。そんなつもりではなかったのですけれど。
少なくとも、入院中のわたしは生の実感を得られていません。
抜け殻、とまでは言いませんが、まるで、人形がそこに佇んでいるかのような。生き物のそれではない、そんな感じなのです。
少しでも早く退院し、
────お付き合いを始めてから、そんな思いにずっと駆られています。
どうしてわたしは、こんなことになっているのでしょうか。
たとえ、運命と言えど、ここまで続くものなのでしょうか。
10年も経てば、さすがに体調もある程度は良好になるはずだと思うのです。
それなのに。
快復傾向があまりにも見られない。
水が飲めない。食事も質素。そんな不自由はかまわない。
でも、
時々、面会にはいらしてくれます。しかし、時間が短すぎるのです。もっとお話ししたい。最近の出来事でも、くだらない冗談でも、何でもいい。同じ時間をもっと過ごしたい。そして、笑顔を見せたい。
だって、わたしは元気が売りの少女ですから。
最近は、面会にいらしてくれません。なにかあったのかと思いました。でも、
行かない方が良いと、そのような判断をしたのでしょう。
────違います。そんなわけありません。
あなたがいるから。そばにいてくれるから。わたしは元気でいられる。
あなたこそが、わたしにとって、なによりもの特効薬なんです。
わたしは気づいたのです。
病気が体を蝕んでいるのではなく。
会えない事実が、心を蝕んでいるのだと。
……このまま衰弱して死ぬ。それはそれで避けられないことなのかもしれません。
でも、あなたに会えないまま死ぬのだけは嫌なのです。
あなたと一緒にいるときこそ、最も「生きている」と、そう感じるのです。
このまま、死ぬわけにはいかないのです。あなたに会うため、これからも共に生きていくため。
……あなたに出会うまでは、こんなこと、一度も考えたことがありませんでした。
「生」についての理解、「生」への固執…………。
────「生」を得るために、ずっとあなたを探していたのかもしれません。
では、逆に「死」とはなんなのでしょうか。
もちろん、命がなくなることです。体全体の機能が果たせなくなることです。
でも……それだけじゃないとわたしは思います。
もし、あなたと会えなくなったら。独りになってしまったら。
きっと、わたしは自棄になるでしょう。
その先の未来を何も想像することができなくなる。"明"が消えてなくなる。
そんな状態になると思います。
人はただ生きているのではなく、なにか好きなもの、愛せるもの、夢中になれるもの……、そういったものを抱えて過ごしているでしょう。
分かりやすく言えば、”希望”です。
たとえ貧しくても、病気で苦しんでいるとしても、死に直面している状態でも。
そこに希望があれば、人は「生」きられるのではないでしょうか。
逆に、希望がない場合。
富んでいても、名声があっても、権力があっても……。
その人の目の前に広がっている世界は、輝いているのでしょうか。
わたしは……そうは思いません。
辺り一面、真っ暗だと思います。
だって、希望の光が差し込んでいない、ということなのですから。
とある映画で、こんなセリフがありました。
『希望はいいものだ。多分最高のものだ。素晴らしいものは決して滅びない。』
確かこんな感じです。
希望があるからこそ、悲願が叶う。
希望があるからこそ、「生」が輝くのです。
希望がない状態。
"絶望”こそが「死」なんじゃないかと、わたしは思います。
つまり、わたしは「死」なないのです。
たとえ、病気がこの命を削っているとしても、今は独りでも。
寿命が尽き死んだとしても、わたしは「死」に至ることはないのです。
……みなさんは、「生死」について、どうお考えですか?
◆◆◆
手術の時間が近づいてきました。
これに失敗すれば、私はこの世から消えていなくなります。
成功しても、長い、長い、リハビリ生活になります。
……暗いです。とっても、暗いです。
いざとなると、やはりどうしても恐怖が襲い掛かってきます。
ネガティブなイメージばかりが、わたしの脳内を支配します。
わたしがいなくなったら、
泣いてくれないのも、もちろん悲しいですけれど。
泣かれるのはもっと悲しいです。
笑顔を奪ってしまい、ごめんなさい。
病弱なわたしで、ごめんなさい。
お父さん、お母さん……体が弱いせいで何度も泣かせてしまってごめんなさい。
……覚悟はしていたつもりでした。
手術の成功確率は3パーセント。
100回手術したら、そのうち97回は失敗。
……やっぱり、そうですよね。上手くいくとは思えませんよね。
たとえ神様にお願いしたとしても、都合よく生かせてくれるなんて、そんなわけないと思います。無茶言うなって怒られちゃうかもしれせん。
……死後の世界ってどんなところなんでしょうか。
無がずっと続く感じ、みたいな話を聞いたことがあります。
こう、寝ていて、気づいたら数時間が経過していた時の、あの無意識感。
その無意識な状態が永遠に続くってことなのでしょうか?
もしそうなら案外怖くないかもしれません。
だって、何も辛くなければ、何も苦しくないので。
何も楽しくも、嬉しいこともありませんけど。
……でも、わたしには
そうです。何も恐れることなんてありません。
この気持ちのままでいれば、決して「死」ぬことはないのです。
とってもいい気分。
手術前の心持ちとは思えないぐらい、爽やかな感じ。
……人を好きになるって、とても素敵なことですね。
でも、
少しだけ期待していたところはあったのですが。
いや、これで逆によかったのかもしれません。
死に目に会わせて、泣かせるのも嫌ですので。
窓の外をふと見たら、飛行機雲ができていた……のですが、すぐ消えてしまいました。
もしかしたら、これからのわたしを示唆しているのかもしれませんね。
…………。
もう、何も思い残すことはありません。
最後にこうして、あなたへの愛を歌えたのですから。
たとえ、わたしがいなくなって、この先何年、何十年と経ったら、きっとあなたの心からわたしは消えてゆくでしょう。
それでも、かまいません。
みなさんを……あなたを見守る星に、きっと生まれ変わってみせますから。
────その刹那。
「みことぉっ!」
……わたしの愛する人の声が。
「み゛こどぉ!」
…………。
「きばれよ!」
……うん。
「がんばれよ、命!」
がんばる。
「お前なら、はぁ……きっと、手術を乗り越えられる!」
あなたがいるだけで、わたしは生きていける。
「俺が、お前が頑張れるように、祈っててやる!」
あなたと出会えて、本当に良かった。
「お前はもう観念してるのかもしれないけど……」
「でも……絶対に諦めるな!」
あなたと二人で生きていくためにも……諦めたりなんかしない。
「うん……待ってて」
生きる力と、生きる勇気を与えてくれて、ありがとう。
それと。
「すぐに、戻ってくるから……」