研究活動に励んでいた修士2年の頃の夕顔を描いたお話です。
論文制作の様子がほとんどです。研究の内容には触れていません。
夕顔以外の登場人物はオリジナルです。
修士2年は「M2」、1年は「M1」、学部4年は「B4」と呼ばれます。
(「M」:Masterの略, 「B」:Bachelorの略)
博士は「Doctor(ドクター)」です。
■某年11月
★場所:某大学 講義室
【B4男子】
「――報告は以上です。質問はありますか」
【葉月】
「ちょっといいかしら」
【B4男子】
「……はい。なんでしょうか」
【葉月】
「なぜ実験条件を資料に書いていないの。ヒアリングの人数はともかく、これではどんな人物を対象としたのか不鮮明よ」
【葉月】
「それと、表の書き方。何と何の比較をしているのか、一目では分かりにくい。簡潔にまとめられない理由でもあるのかしら」
【B4男子】
「そ、それは……」
【葉月】
「――この程度のレベルで学会に行ったら笑われるわよ。院生の私にまで恥をかかせる気?」
【B4男子】
「!! ……いえ! そういうわけでは!」
【葉月】
「……学会論文の提出期限も近いのだから、真面目にやりなさい。いいわね」
【B4男子】
「は、はい! ありがとうございました!」
★場所:院生研究室
【M1女子】
「葉月さん。お疲れ様でした」
【葉月】
「卒論も近いというのにあれでは先が思いやられるわね。卒業できるのかしら」
【M1男子】
「学会発表用のパワポもあんな感じだったらさすがにヤバいですね」
【葉月】
「書き方の基本を理解していないか、教授の不在を事前に知っていて手を抜いたかのどちらかでしょうね」
【M1女子】
「……そういえば、教授は何か用があったんでしたっけ」
【葉月】
「職員会議よ。それで4年生の指導をよろしくと連絡が来たのよ」
【M1女子】
「うちはドクターもいなければM2も葉月さんしかいませんからね。白羽の矢が立ったってことですか」
【M1男子】
「俺らもM1は二人しかいないだろ」
【葉月】
「別にいいじゃない。私たち三人だけでこの部屋を広々と使えるのだから。他の研究室ではそうはいかないわよ。…………いい気味ねぇ?」
【M1男子】
「ですねぇ。堂々とゲーム実況観れますし」
【葉月】
「私が許すと思ってるの?」
【M1女子】
「……それより。私たちも〆切近いんだから早く原稿書かないと」
【M1男子】
「分かってる。……今度の学会、先輩は参加しないんでしたっけ」
【葉月】
「ジャーナル用の論文で忙しいのよ。それと並行して修士論文も書かなければならないし、審査会の準備もある。その上で学会論文も書くなんてとても無理ね」
【M1男子】
「やっぱM2のこの時期となると忙しそうですね」
【M1女子】
「ジャーナルってたしか条件付き採録でしたっけ」
【葉月】
「えぇ。関連文献をもう数点取り上げるように、というコメントがあったわ。このままだと研究の位置付けが少し不透明だから新規性が弱いとか」
【M1女子】
「なんやかんやサーベイって面倒ですよね」
【葉月】
「少し手を抜いたのが今になって効いてるわ。この上なく面倒よ、まったく」
【M1男子】
「へぇ。先輩でもそういうことあるんですね」
【葉月】
「はぁ?」
【M1男子】
「ごめんなさい」
【M1女子】
「条件付きとはいえアクセプトされただけでもすごいと思いますよ」
【葉月】
「いいからお前たちも早く原稿に取りかかりなさい。そろそろ教授に添削もらわないと間に合わないわよ」
【M1男子】
「そうですね。ちゃちゃっとやらないと」
【M1女子】
「先生の添削地味に厳しいから萎えるんですよね」
【葉月】
「だったら赤字だらけにならないようきちんと書きなさい」
●同日 夜
【葉月】
「……それじゃあ、私は先に帰るわ」
【M1ふたり】
「「お疲れ様です」」
●SE:研究室のドアを閉める音
【葉月】
「…………」
【葉月】
「……はぁ。後輩の面倒を見るのも楽じゃないわね」
【年老いた女性】
「……おや。お帰りですか」
【葉月】
「……教授。会議の方は」
【教授】
「つい先ほど終わりましたよ。今日はゼミを任せてしまってすみませんね」
【葉月】
「いえ。大したほどではありませんでしたので」
【教授】
「……それで、4年生はどうでしたか?」
【葉月】
「学会論文のほうは全員書き進んでいるようですが、ゼミ資料を見ている限りでは内容に少々不安を覚えます」
【教授】
「ではきちんと添削をしないといけませんね。国内学会とはいえクオリティの低いものを講演集に載せられるのも困りますので」
【葉月】
「一方で、M1の二人はもうすぐ書き上がるようです」
【教授】
「そうですか。あの二人は来年国際会議も控えていますからね」
【葉月】
「そちらのほうの原稿も直に完成するそうです。……今度も同行されるんですか」
【教授】
「もちろんです。毎年の楽しみですので。あなたのときはラスベガスでしたね」
【葉月】
「えぇ。帰り際にカジノで遊んだのは今でもいい思い出ですよ」
【教授】
「本当によく無事に帰って来れましたね」
【葉月】
「勝てる勝負しかしない性分ですので」
【教授】
「それならよいのですが。奨学金もあるのですからお金は大事になさい」
【葉月】
「その件ですが、申請のほうは──」
【教授】
「ご心配なく。半額免除となりましたよ」
【葉月】
「……そうですか。ありがとうございます」
【教授】
「実績を考慮すれば当然でしょう。最近で言えば学術論文がアクセプトされたのですから。条件付き採録ではありますが、おそらく問題ないでしょう」
【葉月】
「……再来週には投稿できる見込みです。2月もしくは3月号の学会誌に掲載されると思います」
【教授】
「承知しました。……話は変わりますが、"彼"の行方をご存知ですか。連絡が取れず困っているのですよ」
【葉月】
「……いえ。私も分かりません。噂では九州かどこかにいるそうですが、正確なことは何も」
【教授】
「分かりました。では、論文期待していますよ。万が一にでも採録取り消し、となれば私の評価にも影響しますからね」
【葉月】
「……私はこれで。失礼します」
【葉月】
「…………」
【葉月】
「…………」
【葉月】
「……ちっ。これだから学閥というものは」
●翌日
【M1男子】
「おはようございます。……ふわぁ、眠い」
【葉月】
「もう9時過ぎてるわよ。何をしているの」
【M1女子】
「ずいぶん遅かったね」
【M1男子】
「あぁ……。さっき廊下で先生と少し話してたから」
【葉月】
「……教授?」
【M1男子】
「あっそういえば先輩。先生が呼んでましたよ」
【葉月】
「……なんの用かしら」
【M1男子】
「さぁ。俺は何も聞いてないので」
【葉月】
「分かったわ。少し行ってくるわね」
◆
【葉月】
「……失礼します。お呼びでしょうか」
【教授】
「突然お呼び立てして申し訳ありません。昨夜にお伝えするのを忘れていたことがありまして」
【葉月】
「……と、仰いますと」
【教授】
「今日から1週間ほど出張で留守となります。ですので、私の代わりに4年生の論文添削をお願いしたいのです」
【葉月】
「……は? 私がですか?」
【教授】
「M1の二人の論文は私のほうで添削します。しかし4年生は人数が多いので、出張中に全員分を見るのは不可能なのです」
【教授】
「何かと忙しいのは理解しています。ですがM1の二人も同じこと。あなた以外に頼める者がいないのですよ」
【葉月】
「…………」
【教授】
「どうです。引き受けてもらえますね」
【葉月】
「…………」
【葉月】
「……承知しました。私のほうで添削致します」
【教授】
「よろしい。用件は以上です。退室されて結構ですよ」
【葉月】
「……失礼します」
◆
【M1女子】
「あ、お帰…………葉月さん? どうしたんですか? そんな苦い顔して」
【M1男子】
「お小言でも喰らいました?」
【葉月】
「えぇ。とてもありがたいお小言をいただいたわ。お前たちにもお裾分けしたいぐらいよ」
【M1男子】
「……なんか機嫌悪いですね」
【葉月】
「4年生の論文添削を命じられたわ。出張で不在になるから代役として頼まれたのよ」
【M1男子】
「えっ。ジャーナルに修士論文もあるのに、大丈夫ですか」
【葉月】
「この私を誰だと思っているの。そこらの学生とは一線を画す超エリート、夕顔葉月よ。学部で総長賞、ラスベガスでBest Paper Award。私にできないことはないわ」
【M1男子】
「聞いてないです」
【M1女子】
「……私たちも手伝いましょうか」
【葉月】
「お前たちの手を借りるほどの話じゃないわ。気遣うぐらいなら早く原稿を仕上げなさい」
【M1女子】
「……でも出張なんですよね。私たちの論文はどうすれば──」
【葉月】
「二人の論文だけは添削すると仰ってたわ。書き上げたら送信すればいいでしょう」
【M1女子】
「あ、そうなんですね」
【M1男子】
「でもあまり無理しちゃダメですよ。ジャーナルの投稿に間に合わなくなったら先生ブチギレますよ」
【葉月】
「問題ないと言っているでしょう。それより、4年生全員に通知しなさい。仕上げた者からM2夕顔に原稿データを速やかに送信するようにと」
【M1男子】
「……分かりました」
【M1女子】
「私たちも急いで書きましょう。あまり時間ないし」
◆
【葉月】
「…………ふぅ。こんなところね」
【M1男子】
「お疲れ様です。今日は何人分添削したんですか?」
【葉月】
「6人からメールが来たから6人全員分見たわ。さっき送り返したけれど、この様子だと一人当たり何度もリバイスすることになりそうね」
【M1女子】
「すごいですね。それと並行してジャーナルの原稿も修正していたんでしょう。よく体力持ちますね」
【葉月】
「少し疲れたけれど、どうってことないわ。それより不適切な表現が多すぎて頭を抱えたわよ。それどころか基本構成もなってないわね」
【M1女子】
「誤字脱字とかなら私もたまにやりますけど構成って……。テンプレートありませんでしたっけ」
【M1男子】
「それに先月あたりにゼミで論文の書き方教えたはずなんだけどなぁ……」
【葉月】
「たとえばアブストラクトで先行研究の話がない。背景と手法の簡単な説明だけで先行研究との違いを説明してない。ただただやったことを書いただけ」
【葉月】
「関連研究も列挙はしているけれど、自身の研究とどう繋がっているか理解し辛い」
【葉月】
「実験の部分もそうね。条件はつらつらと文章にしてるだけで表にしていない。添付画像のキャプションの位置もズレてる。考察も論理的でなければ今後の課題もいい加減」
【葉月】
「……挙げたらキリがないわね。極めつけは結論があやふやなせいで提案手法の有効性が不透明。というか言及すらない。もはや論文と言えるのかしら」
【M1男子】
「思ったよりひどいですね」
【M1女子】
「その上で表現誤りですか」
【葉月】
「『多分』『なので』『思う』『すごく』『わかる』といった口語を平気で多用してるわ」
【M1男子】
「赤字だらけなのが目に浮かびますね」
【葉月】
「校正機能をあんなに使ったのは初めてよ。お陰様で使い方を完璧におぼえてしまったわ」
【M1女子】
「じゃあ今度から私たちの論文の添削もお願いしますね」
【葉月】
「剝ぐわよ」
【M1男子】
「何を?」
【M1女子】
「……4年生ってあと3人くらいいましたよね。これ、かなりの重労働じゃないですか」
【葉月】
「…………」
【M1女子】
「……葉月さん? 顔赤いですよ?」
【葉月】
「…………」
【葉月】
「…………なんでもないわ。いいから──」
●SE:打撃音
【葉月】
「……っ!」
【M1男子】
「ちょっと大丈夫ですか。壁に頭ぶつけて」
【葉月】
「……少し横になるわ」
【M1女子】
「はい。こっちのソファー使ってください」
【葉月】
「…………はぁ。少し楽になったわね」
【M1男子】
「…………」
【M1女子】
「どこ見てるの」
【M1男子】
「むn頭。打ったとこ大丈夫かなって」
【葉月】
「〇すわよ」
【M1男子】
「ちょっと見ただけじゃないですか」
【M1女子】
「自白してるじゃん」
【葉月】
「…………」
【葉月】
「……15分経ったら起こしなさい」
【M1女子】
「それは構いませんけど。まさか、起きたらまだ作業する気ですか」
【葉月】
「当然でしょう。修士論文にも手を付けないといけないのだから」
【M1男子】
「今日はもうやめといたほういいですって。今度は本当に倒れますよ」
【葉月】
「余計なお世話よ。〆切もあるのだから仕方ないでしょう」
【M1女子】
「…………」
【M1男子】
「…………」
【M1女子】
「……私たちが添削やります。4年生の論文」
【葉月】
「……何を言っているの? 私の仕事よ。勝手なことをしないでちょうだい」
【葉月】
「……それに、お前たちに添削なんてできるわけ──」
【M1男子】
「大丈夫です。信用してください」
【M1女子】
「先生はもちろん、葉月さんにも鍛えてもらってますから。ちゃんとできます」
【葉月】
「…………」
【葉月】
「……ずいぶんと生意気になったものね。本当に大丈夫なのかしら」
【葉月】
「…………」
【葉月】
「……好きにしなさい。私はもう寝るわよ」
【M1女子】
「……はい。お休みなさい」
【M1男子】
「時間遅いけどメールしとくか。宛先をM1に変更って」
【M1女子】
「うん、そうだね。私のほうでやっとくよ」
【葉月】
「寝てる隙に変なことしたら蹴り潰すわよ」
【M1男子】
「だから何を?」
【M1女子】
「私が監視してますから安心してください」
【M1男子】
「全然信用してないじゃん……」
★場所:教授の部屋
【教授】
「……私のほうでもざっと確認しました。特に問題はありません」
【葉月】
「……そうですか」
【教授】
「任せておいて言うのもなんですが、よく全員分しっかり見れましたね」
【葉月】
「えぇ。この私にかかれば造作もないことです」
【教授】
「さすがですね。予想を超える優秀な働きぶりです」
【葉月】
「…………」
【葉月】
「……冗談です。M1の二人から協力の申し出がありました」
【教授】
「……あの二人も添削してくれたのですか。まったく気が付きませんでしたよ」
【葉月】
「私も驚きました。これで研究室も来年は安泰かと」
【教授】
「来年は二人に期待大ですね」
【葉月】
「…………」
【教授】
「それにしても、あなたの口から冗談が出るとは思いませんでしたよ。なにかいいことでもあったのですか」
【葉月】
「それは意外ですねぇ。学生に対しては
【教授】
「…………」
【教授】
「……用件は以上です。退室して結構」
【葉月】
「えぇ。失礼します」
◆
【M1男子】
「あ、先輩。先生なんて言ってました?」
【葉月】
「特に問題ないそうよ。二人が手伝ったこともそれとなく伝えておいたわ」
【M1女子】
「えっ……本当ですか」
【葉月】
「これで多少評価も上がるでしょう。よかったわねぇ」
【M1男子】
「……なんかすみません。ありがとうございます」
【葉月】
「手伝ってくれたのだから当然のことをしたまでよ」
【M1女子】
「……あれから修士論文のほうはどうですか。まさかもう──」
【葉月】
「そんなわけないでしょう。まだ半分も書けてないわ」
【葉月】
「……でも、あと2週間もあれば完成するわ。ジャーナルの修正が終われば修士論文ぐらいしかやることないのだから」
【M1男子】
「あれ? 審査会の準備は?」
【葉月】
「あんなもの発表資料さえ作れば終わりでしょう。とっくにできてるから問題ないわ」
【M1ふたり】
「「…………」」
【M1男子】
「……じゃあ後はもう、ほとんど卒業を待つだけですね」
【M1女子】
「…………」
【M1女子】
「……卒業されたらどうするんでしたっけ」
【M1男子】
「たしか国家一種に受かってましたよね? 官僚にでもなるんですか?」
【葉月】
「お前たちに教える気はないわ」
【M1女子】
「せめてヒントだけでも」
【葉月】
「もうすぐ学会だというのに発表資料がまだできていないのでしょう。ここ最近弛んでいるようだから私が直々に監視し──」
【M1女子】
「行方知らずの卒業生だっているんですからきちんと教えてください」
【M1男子】
「そうですよ。別に進路ぐらい教えてくれてもいいじゃないですか」
【葉月】
「いつまで私に逆らうつもり? それ以上反抗するようなら引っ叩くわよ」
【M1男子】
「こわっ。女王様か?」
【M1女子】
「どっちかというと刑務官っぽい」