絶対零度女学園 【長編ローファンタジー】   作:ミカ塚原

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そこに誰かがいた

 その城は巨大すぎて、近付くほどに視界を占領していき、やがて巨大さが実感できなくなるほどだった。

 校舎はまだ残っていた。ただし、校舎の上にその巨大な城が覆いかぶさっている。校舎どころか、城は学園の敷地を大きくはみ出して、地面から立ち上がった巨大な木の幹のような氷の柱に支えられて、あたかも浮かんでいるようにさえ見えた。

 というより、ひょっとして本当に浮かんでいるのではないだろうか。

 

 空には相変わらずオーロラが浮かんでいる。この地域全体が、オーロラで囲まれているように見えた。町はどうなっているのだろう。

 

 校門は、まだ残っている。しかし、門柱は地面から湧き出したように見える氷に覆われて、学校の名前がきちんと読めない。

 城が覆いかぶさっているため、その下はとても暗かった。百合香は、周囲に警戒しながら、そこかしこに立ち上がっている氷の柱に隠れつつ、校舎に近付いてみた。手には、黄金の剣がしっかりと握られている。

 

 当然、恐怖はあった。恐怖、混乱、困惑、焦燥、およそ不安の全てがある。

 しかし、それを打ち消すかのように、百合香の心の奥底からは、静かな勇気が湧き上がっていた。

「校舎は…」

 近寄りながら、小さくつぶやく。

 昇降口は、さきほどの門柱のように地面から盛り上がった氷に覆われていて、とても入れそうには見えない。

 百合香は試みに、比較的氷が薄く見える場所に、黄金の剣を突き立ててみた。しかし、まるで手応えがない。

「剣道もフェンシングもやった事ないしな」

 そういうレベルの問題でない事は百合香もわかっているが、今の状況で冗談のひとつも言わないと、精神が参ってしまいそうだった。

 

 ふと駐車場に目をやると、例の大学だかの調査チームのものらしいバンが、後部ハッチドアを開けたまま氷漬けになっている。中には、たぶん高価であろう意味不明の機材が、冷凍保存されていた。何百万円するのかわからないが、ああなっても使えるのだろうか。

 運転席や座席は、氷が厚すぎて見えない。人がいたとしたら、おそらく生きてはいまい。百合香はぞっとして蒼白になった。校舎も同じ事になっていたら、中にいる生徒や教師たちは、どうなってしまったのか。確かめなくてはならない。

 

 そう思った時、またしても百合香は、氷の壁面にあの人影を見た。自分とよく似たシルエットの人影。

「!」

 まただ。さすがに何度もチラチラと現れると、恐怖や困惑と同時に、微かな苛立ちが湧いてくる。振り返っても、例によってどこにもいない。

「誰なの!?」

 百合香は、あの声の主が彼女なのではないか、と考えた。

「さっき私に声を送っていたのは、あなた!?」

 そこまで声を張り上げて、百合香は自分の肺が何ともない事に気が付いた。

「あ…」

 何ともない。大きな声を上げたり、少し走っただけで悲鳴をあげる肺が、あの氷の怪物と戦った時以来、胸に何の苦しさも感じない。それは、肺炎にかかる前の、健康体と同じだった。

 

 否、それどころか、健康体以上の何かを百合香は感じていた。

 

 さっき、自分はあの怪物に剣を突き入れた。今は昇降口を埋め尽くす厚い氷に、1ミリも切っ先が食い込んだかどうか、という所だが、それならあの怪物の硬そうな胴体を貫く事も、出来たとは思えない。

 

 間違いなく自分に、異様な力が沸き起こったのだ。今は鳴りを潜めているが、それはまだ胸のうちに在る、と百合香は感じていた。

 わけがわからない。あまりにも、出来事の情報量が多すぎる。何が起きているのか誰か教えてくれ、と言いたかった。

 

 だが、百合香は再び、さきほど聞いた無気味な足音で我に返った。

 振り返ると、そこには再び、先程の氷の怪物がいた。

「あっ!」

 どこから現れたのか、百合香は戦慄した。さっき、あの人影に大声で呼びかけたせいで、気付かれたのかも知れない。恐怖と同時に、あの少女への苛立ちがまた湧いてきた。

 

 同じ怪物かと思ったが、少し違う。もっと無骨な、ゴツゴツしたデザインだ。甲冑というよりも、彫刻の途中で歩き出した像、といった所だ。頭も手足も、岩の塊のようだった。指は太く、短い。

 怪物は、百合香の姿を確認すると、太い声を上げて突進してきた。

「ひっ!」

 驚いて百合香は、その場を横に飛んで避けた。怪物は氷の壁面に激突し、厚い氷にヒビが入る。あの体当たりを受けたら、だいぶ悲惨な状態で死を迎える事になりそうだ。

 背中を向ける怪物から、百合香は剣を構えて後退した。竹刀さえ握った事がないので、情けないほど素人の構えになってしまう。クラスメイトの剣道部の彼女に代わって欲しい、そう思った。

 

 バスケットボールで培ったフットワークで、素人剣技をカバーする以外にない。百合香は素人なりになんとか構えの形をつけ、動きが鈍い怪物に斬りかかった。

「えやーっ!」

 剣を振り降ろしながら、素人だなと自分でも思う。それでも黄金の剣の刃は、怪物の肩を直撃した。

 しかし、今度はさきほどの細い人形のようにはいかず、剣は大きく弾かれてしまった。

「うあっ!」

 剣に引っ張られて、百合香は思わず体勢を崩してしまう。映画の剣闘士のようにはいかない。

 そこへ、怪物は体当たりを食らわせてきた。すんでの所で回避したつもりだったが、怪物の腕が背中を掠め、肩甲骨に衝撃が走った。

「あぐっ!」

 これはまずいのではないか、と妙な冷静さをもって百合香は体勢を立て直す。

 しかし自分でも驚いたが、百合香の肩や背中には何のダメージもなかった。

 

 その時気付いた事だが、百合香の身体や制服の表面には、微かな炎のようなエネルギーが波打っているように見えた。どうやら、これがあの怪物の攻撃でも、制服さえダメージを受けていない理由らしい。

 それは少しだけ百合香に希望と安堵感を与えたが、同時に相手もまた、全くダメージを負っていないのがひと目でわかる。

 

 どう考えても殺意をもって向かってきている以上、逃げるか、さっきみたいに倒すかしなくてはならない。

 

 逃げる?一体どこへ?

 

 百合香は考えた。そもそも、自分はどこへ行けばいいのか。何をすればいいのか。というより、何ができるのか。

 相手は、考える暇も逃げる隙も与えてはくれなかった。運悪く、百合香が退避した場所は氷の柱に囲まれた場所だったのだ。

 

 倒すしかない。百合香はそう決意し、勇気を振り絞って剣を構えた。

 だが、自分の未熟な剣技で、どうすればいいのか。いや、そもそも剣道の達人だって、こんな氷の塊と戦う事はないだろう。

 

 その時百合香に、小さな閃きが起きた。

 

 剣道は知らないが、バスケットボールなら熟達している。今すぐオリンピックに出ても、活躍できる自信がある。

 

 剣を、バスケットボールの要領で振るう事はできないか。

 

 そんな無茶苦茶な理屈が、百合香に根拠も保証もない自信を与えた。

 

 それ以上考える間もなく、怪物は腕を上げて再び突進してきた。

 百合香は、これがバスケットボールの試合の相手選手なら、と本能的に考える。ボールはこっちが持っている。ならば。

「はっ!」

 百合香は、相手がわずかに開けた氷柱との間のスペースを、ドリブルで突破する要領で走り抜けた。やった、と心の中で小さなガッツポーズをする。

 

 しかし目の前に、別な氷柱が現れた。このままではボールを奪われる。

 その時、右手方向から声が聞こえる気がした。南先輩の、少しだけハスキーな張りのある声だ。

『百合香!』

 パスを求める先輩の声がする。百合香は振り向いた。怪物が、背中を向けている。首がガラ空きなっていた。

 先輩を信じてパスを送るいつもの瞬間のように、百合香はしっかりと黄金の剣の柄を両手で握り、脚に力をこめ、両腕を一気に突き出した。

「えや――――っ!!」

 

 一瞬の沈黙があった。

 

 百合香が突き出した剣は、怪物の首の付け根に深々と突き立てられていた。その剣身には、太陽の輝きのようなエネルギーが満ちていた。

 百合香の口をついて、言葉が紡がれる。

 

『シャイニング・ニードル!!!』

 

 百合香の全身から立ち昇ったエネルギーが、柄から剣身を伝って、一直線に突き抜けた。

 それは怪物の首を切断して跳ね飛ばし、昇降口のガラス扉を氷ごと貫通した。

 

 ゴトリ、と重く硬い音を立てて、怪物の首が床に落ちる。怪物の首から下は、糸が切れたようにその場に崩れ落ち、ぴくりともしなくなった。

 百合香は距離を取って後ずさり、怪物が本当に動かなくなったのかどうか、恐る恐る確認した。剣先でチョンチョンと身体をつつき、押してみる。しかし、さっきまで満ちていたエネルギーのようなものが、まるっきり消え去っていた。

 

 ほっと息を吐いて、百合香はその場に膝をついた。どうやら、今度も倒せたらしい。これを一体倒すだけでこれほど苦労するようでは、もっと大量に出てきたらどうすればいいのか。考えただけでゾッとしたので、百合香はまずどこかに身を隠さなくては、と考えた。

 

 その時だった。昇降口から、ビキビキと鈍い音がした。

 

 さきほどの、最後の攻撃の余波が、昇降口を貫いた跡からの音だった。最初は全く歯が立たなかった氷塊を、ガラスごと見事に貫通して、幅10cm程度の穴が開いている。

 その穴を中心に、少しずつ亀裂が拡がって行った。

「あっ!」

 百合香が驚く間もなく、亀裂の入った部分がガラス扉ごと崩落して、なんとか女子が一人通れるくらいの穴ができたのだった。

 

 百合香は周囲を警戒しながら、身体をねじるようにして校舎に入ってみた。比較的身長はある方なのと、バストが若干つかえて苦労した。

 そこには静寂だけがあった。校内にはそれほど大量の氷は侵入していないが、やはりほとんど凍結している。昇降口にある自販機も凍結し、電源が切れていた。

 照明もついていない。停電しているのか、それとも凍結したせいでこうなったのか。

 

 とりあえず、職員室と階段がある方に歩いてみる。

 掲示板を通り過ぎて、職員室や生徒指導室などがある廊下に出たとき、百合香は息をのんだ。

「!!」

 生徒がいた。鞄を持っている。ニコニコして、帰ろうとしているようだった。

 しかし、その姿は異様だった。翻ったスカートのプリーツが、固まったまま静止している。長い髪も同様だった。

 恐る恐る近付いて良く見ると、遠目にはわからないが、全身が薄い青紫の氷の膜に覆われて、凍結していたのだった。

「ひっ」

 百合香は思わず後ずさった。生きているのだろうか。不思議と、死んだようには見えない。しかし、生きているようにもまた見えない。

 よく見ると、彼女の身体から床を伝って、何かキラキラした光が、間断なく流れ出ている。その光は壁や柱を伝って、上に上っているように見えた。

 大丈夫か、と声をかけるのはあまりにも愚かに思えた。大丈夫なわけがない。

 

 今さらだが、異常事態だと百合香は思った。こんな現象、聞いた事がない。

 精一杯冷静さを保って、職員室の開いた扉を見る。話し声ひとつしない。またしても恐る恐る、百合香は近付いて、ゆっくりと室内を覗いた。

 

 なんとか、悲鳴を上げないと心に決めた課題は乗り越えた。しかし、驚きのあまり百合香は硬直して、しばらく動く事ができなかった。

 予想していた事ではあるが、職員室の中の人間もまた廊下の生徒と同様に、普段どおりの動作そのままの状態で凍結していたのだ。提出された課題を、渋い表情で睨んでいる顎ひげの先生。カップに給湯器からお湯を注いでいる、頭頂部が寂しい先生。給湯器から流れ出ているお湯が、動画プレイヤーを一時停止したように固まっている。

 そして応接スペースでは、例の大学の調査チームとその後から歩いてきた数名の教職員が、話し込んでいるそのままの状態で凍結していた。

 

「どういうことなの…」

 かすれるような小さな声で、百合香は呟いた。どうやら、校内の人間はみな、一瞬で凍結してしまったらしい。

 だが、先ほどの生徒と同じように、やはり凍結した教職員らの表情も、まだ生気が感じられるのが逆に不気味だった。

 

 生きている。

 

 直感でそう思った。生きてはいるが、動いていない。

 百合香はその時吉沢さんから、文芸部のミステリ小説の書評を頼まれていた事を思い出した。推理小説の名探偵たちなら、この状況をどう分析するだろう。

 かろうじて読んでいるシャーロック・ホームズは、「どれほど奇妙に思えようと、あり得ない要素を排除して最後に残ったのが真実だ」と言っている。では、あり得ない事、奇妙な事だらけのこの状況は、どう理解すればいいというのか。私がホームズなら、諦めてポワロさんに仕事を丸投げするところだ。

 

 だがその時、名探偵百合香はひとつ気付いた事があった。

 

 応接スペースのソファーが一箇所、凹んでいる。

 

 つまり、そこに誰かが座っていたという事だ。

 もし、ここにいる人達と一緒に座っていたのなら、一緒に凍結していても良さそうなものだ。ソファーもまた凍結してカチコチに固まっているため、この凹みは凍結する瞬間、誰かが座っていたために出来た凹みのはずである。

 

 つまりこの状況は、謎の凍結現象のあとで、この応接間を立ち去った人間がいる事を示している。

 そして、座っている位置からして、これは学校の人間だ。さらに、凹みの大きさは小さく丸い。比較的身体が細い人間のものだ。

 

 この異常な状況下で、無事でいられる人間がいたらしい。おそらく先生の一人だ。その先生は、どこに行ったのか。昇降口も、その隣の来客・教職員玄関も、凍結していて出ることはできなかったはずだ。つまり、校内のどこかに現在もいると考えるべきだろう。この異常を、単身で調べに出た事も考えられる。

 

 百合香は、その「生き残り」を探すため校舎を捜索する事にした。ひょっとして、他にも同じように助かった生徒がいるかも知れない。

 まず、南先輩の無事を確かめる事もあり、百合香は体育館に向かった。

 


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