憧憬というものは、いつまでも人を狂わせる。
いつからだっただろう。あの日を期に競馬記者になってから、どんな名馬を目の当たりにしても物足りなさが胸の内に残り続けた。
そもそも自分自身の理想が高すぎるというのもあるのだろう。
その理想を体現し、僕を狂わせた名馬は、日本の短距離史上最強の一角に数えられるほどなのだから。
かつて中山競馬場で目の当たりにした伝説を、思い返して。
北海道は日高。そこにある牧場の事務所にて。
息を呑めば――目の前には、彼がいる。
僕が憧憬を見出した名馬の馬主が。そう、かつて名馬を購入し、日本に連れ帰ったあの傑物が。
足が震えてばかりだった。
僕にとっての理想を日本に持ち込んでくれたその馬主は、三〇代前半の若い男性。
そんな男性が二〇代で名馬を見出し、日本競馬を大きく沸かせたというのは、今でも信じられない出来事である。
「もしかして、緊張してるのかい?」
不意に言葉を投げかけられる。
声の主は、馬主――
身体がビクッと跳ね上がり、心臓の鼓動が早まる。
一方の笹倉さんは不気味なほどにニコニコと笑みを浮かべていたが。
「ま、まあ、だいぶ……」
「そういや、キミが好きな馬って――」
「はい! 彼女の競馬に一目惚れして、この業界を目指すようになって――あっ……すみません」
「いや、いいよ。むしろもっと聞きたかったよ」
心底嬉しそうに、笹倉さんは後頭部を掻き、照れるような仕草をする。
笹倉さんは思っていたよりかなりフランクな人物だった。簡潔に表すならば……根がとても真面目なチャラ男なのかもしれない。
根が真面目なチャラ男というと、どうしても矛盾しているような気もするが。たぶん気のせいだろう。
「んじゃ、そろそろ本題に入っちゃおうか?」
「はっ、はい!」
笹倉さんに促されて、黒革で包まれたメモ帳を取り出す。
「インタビュー、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いしますね」
先ほどのフランクな雰囲気から一転して、空気が引き締まる。
それだけで、冷や汗が頭部から顎にかけて滴っていく。
これから始まるのは――僕が憧れた名馬の馬主へのインタビュー。
足の震えは止まるどころか、さらに酷くなるばかりだ。
「では始めに。最初に彼女を見たときの印象は?」
「……んー、そうだね。でかいっていう一言に過ぎるね。初見だと黒い石像かと思っちゃったよ。でもね、顔は可愛かったのよ。べっぴんさんで。なかなか美しかったから、あの馬名にしたんだ」
「この時点で競走馬として大成するかどうかは?」
「いや、まったく。新馬戦を圧勝したときなんか、ポカーンって口を開けたぐらいだし。そのあとも連勝してって……驚きの連続だよ」
笹倉さんは参ったとばかりに肩を竦める。
確かにあの血統で走ると確信できるほうがおかしいかもしれない。
「そうだったのですか……正直、それは意外でした」
「馬の能力を見れるなら見てみたいものだよ。まったくわからないね」
「そういえば、今は繁殖牝馬となっていますが、彼女の魅力なんかあったりしますか?」
「もちろんさ! あんな巨体しといて、甘えるときはとことん甘えてくるし、撫でると表情を崩して……あーダメダメ、思い出すだけで心臓が飛び出しそう」
「ははは……」
胸元を抑えて悶える笹倉さんに、思わず苦笑してしまう。
笹倉さんの思わぬ弱点を見つけてしまったかもしれない。
「あっ、笹倉さん。どうしてもお願いしたいことがあって……」
「何? 何? このままだと気になって飯が喉を通りまくっちゃうよ」
「……今彼女と対面したり、なんかは……」
「あっ、いいよ」
「いいんですか⁉」
予期せぬ返答に、全身の血が煮え滾る。
繁殖牝馬となった彼女との対面。
それは競馬記者としても、一ファンとしてもとても光栄なことだった。
「んじゃ、行っちゃおう」
席を立ち上がる際、笹倉さんの表情がやけに嬉々としていたのが印象深かった。
放牧場に出てみると、そこには広大な緑が広がっていた。
鼻腔をくすぐる、すっきりとした匂い。
それを味わいつつ、笹倉さんと共に広大な緑にポツンと佇む巨大な青鹿毛に近づいていく。
そうしていると、あちら側から気づいたようで。
トコトコと芝を踏み鳴らしながら、小走りでこちらへ寄ってきた。
馬体重にして五四〇以上はありそうなあまりにも大きすぎる馬体。
いざ目の当たりにすると、ただただ圧倒されてしまう。
だがそれ以上に。
様々な感情が胸から迫り上がってきて。
気づけば――涙が零れ落ちていた。
あまりにも、あまりにも。
それは、美しかった。
目に焼きつくような感覚が走る。
あの日の憧憬が。
あの日の伝説が。
あの日の思い出が。
今、蘇った。
彼女の美しさは失われてなどいなかった。
僕がこうして、あの日のスプリンターズステークスでの彼女を思い出せるぐらいには。
――と。
不意に笹倉さんが背を押してくれる。
だから、彼女に触れてみる。
そっと、割れ物に触れるかのような手つきで。
彼女の頭部を撫でてみる。
気持ちよさそうに目を瞑る彼女を見て。
ああ、彼女はこんなにも愛らしかったとは。
「僕を憧れさせてくれて、ありがとう――――ブラックキャヴィア」
豪州出身の短距離最強馬の馬名を呟く。
僕がこうして競馬記者をやれているのは彼女のおかげ。
またいつか、彼女を撫でたいものだ。
思い出は、いつまでも。