風が吹き抜ければ、黒い髪が揺れる
少々肌寒い風に身を震わせ、季節の変わり目を実感する
尤もそれは知識として理解しているだけで、こうして体感するのは僕にとっては初めての事なのだが
日が落ち始めたメインストリート
大きな交差点で信号を待ちながら靱は思考を巡らせる
「(無事に退院出来て良かった。
いや、まだ家に着いてないから無事かはわかんないけど)」
「(スマホのナビがあって助かったな。
街並みにも見覚えがないし……これが無きゃマトモに外を歩く事も難しそう)」
そう、今日は退院の日だ
外傷は既に完治した
記憶が戻る事は無かったが、何はともあれ病院内に籠っているだけでは変わらない
故にこうして帰路を辿っている訳だが、今日初めて見る外の景色、街並みは全く見知らぬモノばかり
今までこの街で自分が生きていたという事さえもまるで実感を伴わない感覚でしかない
「(すごく人が多いな……
調べた感じかなり都心の方みたいだし、これが当たり前なのかな。
どうにも慣れないや)」
道行く人々は相当に多い
だからどうという訳ではないが、人とすれ違う度に何となく奇妙な感覚を覚える気がして
「(…………?
…気のせいかな。
次の道を……真っ直ぐ、でいいみたい。
その次の道は…)」
スマホの地図アプリに導かれ、靱は足を進める
幾つかの通りを抜ければ入ったのは静かな住宅街
「(…この先だ。
何事もなく辿り着けそう、かな。
星乃さん達には本当に感謝しないと)」
思い浮かべるのは、手詰まりだった自身に忘れ物を届けてくれた少女達
あれから事態は好転し始めたのだ
初めは帰る家すら解らない始末だったが、こうして自宅へ向かう事が出来ている
「……………」
安心感が沸き上がれば、生まれた余裕を記憶が這い上る
『それなら、やって欲しいことがある』
『退院したら私達の演奏を聴きに来て。
場所は、前のレンタルスタジオでいいから』
「(……星乃さん達の演奏……か)」
浮かぶ言葉は、一週間程前に病室で掛けられたモノ
バンドをやっているらしい彼女達の一人、
日野森 志歩という少女
少々冷たげな印象を受けた無口な彼女は、自分にそんな言葉を投げかけた
どうやら記憶を失う前の僕は、彼女達に酷い言葉を吐いたらしい
発言の詳細までは解らないがそれがかなり酷い暴言であった事は確かだ
それも明らかにこちらに非がある状況で、だ
一体どうしてそんな事を言ったのかは解らない
何も覚えていないし、聞いたところでそれは頭に擦りもしないような話でしか無かったから
杏さん達の時と同じ、全く覚えの無い感覚
「(それで少しでも向こうの気が晴れるんならいいんだけど……
文句を言われるならともかく、“演奏を聴いて欲しい”って……どういう意図があるんだろう)」
考えを巡らせども、答えが出る訳では無い
それは時間を無意味に消費するだけの行為だ
結局は彼女達がそれを望むなら従うだけ、という結論に靱は至る
それが少しでも贖罪になるならば、と
「……着いた…、みたいだけど」
「え、ここ……?」
足を止める
靱の視線の先には、目的地である一軒家
恐らく自宅と思われる家屋が建っている
「……うっわ…」
周囲の家に比べれば、比較的大きな家だ
豪邸という程ではないが敷地はそれなりに広い
その家を見て最初に感じたのは、違和感
何かがおかしい
しかしそれが何かまでは解らない
そして次に目についたのは、異様な凹み跡のついたドア
事故か何かでも起こったように大きくへこんだ扉は不気味な雰囲気を放っており軽く引いてしまう
「そういえば、鍵はどこにあるんだろ。
すっかり忘れてたけど…荷物には無かったし」
ふと、気付く
自分は鍵らしきモノを持っていないと
仮に落としているならば、正直な話みつかりようがない
それがどんなモノかも解らないのだから
扉の前で途方に暮れかけて、
一応試しに扉に手をかけてみる
「あ……」
扉は、あっさりと開いた
それなりに重い感触
頑丈な造りの扉だが、どうやら最初から鍵はかけられていなかったようだ
「え、家を出た時に鍵を掛けずに行ったって事?
……不用心だなぁ」
つまり入院中のこの家は、入り放題な状態だった訳だ
とっくに物盗りにでも漁られているのではないか
そんな疑念を抱きながら靱は家へと足を踏み入れる
「…………」
「………っ
…これ……、は……」
リビングらしき部屋に入ってすぐに
目に飛び込んできた光景に、靱は絶句する
それは、奇妙な光景だった
床も、壁も、異様な程にキズが目立つ
モノを叩き付けたような凹み跡や引き摺ったような跡は無数にあり、壁に至っては大きく壊れて建材が剥き出しになっている箇所もある
だというのに、部屋は整頓されていた
傷一つない家具は綺麗に整頓された状態で配置されており、部屋そのものは散らかっている訳では無いのだ
酷い損壊状態の部屋と、不釣り合いな新品の家具
それはあまりにも不気味な光景だった
「……うっすらホコリが積もってるし、人が入ったって感じはないや。
一人暮らしだったみたいだし、家を出る前からこんな状態だったとしたら」
「………それは……」
自身がやった、という事に他ならない
嫌な感覚を覚えながらも部屋を出て一階のあちこちを見回って、
靱は気付いた
「これ…板……?」
窓を覆うように内側から黒い板のような何かが打ち付けられている事に
「こっちも……まさかこれ、全部に?」
確認すればそれは全ての窓にあった
戸締り、等で片付けられるレベルではないだろう
靱は思わず唸る
「……これが違和感の正体かな。
外から見た時、何か変だと思ったし」
「随分前から打ち付けてあるみたい。
……僕は本当に、どんな人間だったんだろ…」
正直な話、自身がした事だとは思いたくない
マトモな人間がこんな真似をする筈がないからだ
傷だらけの部屋や廊下
異様な程に外と繋がる窓を塞ぐ様子
それとは裏腹に鍵のかかっていなかった扉
考えれば考える程、頭がおかしくなりそうだ
「…はぁ……」
漏れた溜息は薄暗い廊下に溶ける
一階は大体見終わった頃か
階段を上り、次に向かうのは二階
「あんまり変わらないみたいだけど…」
「こっちの部屋は……」
「…………….」
正直あまり見たくないが、これから過ごす我が家だ
隅々まで確認し最後に入ったのは一際暗い部屋
「紙……いや、楽譜かな?」
締め切られた部屋はどこも薄暗いが、その部屋は何故だが一層暗く見えた
部屋に入ってまず目を引くのは、床に散らばった大量の紙
整頓されていた他の全ての部屋とは異なり唯一その部屋だけが酷く散らかっていた
CDの空箱のようなケースや音楽に関連すると思われる機材もあちこちに転がっており、殆ど足の踏み場もないといった具合だ
「これ……何の楽譜だろう」
「乱雑に打ち込んだだけみたいな無機質な譜面。
題は………『幽霊東京』…?」
パソコンで雑に打ち込みを行なったような楽譜
スマホを取り出し、調べてみる
「人口音声ソフトでボーカルを……?
へぇ、こんなジャンルもあるんだ…」
音楽に関する事は病室で幾度もスマホを使って調べていたが、これは初めて見るモノだ
人口音声ソフト、正式名称を『VOCALOID』
サンプリングされた肉声を元にリアルな歌声を合成するソフトウェア
それらを使用した曲が該当する音楽ジャンル
『ボカロ』
十年程前に誕生し、その数年後にとあるVOCALOIDの誕生により爆発的な大ヒットを迎えたジャンルだ
この楽譜の曲『幽霊東京』もその一つで動画サイト等で100万再生を記録しているヒット曲らしい
「クリエイターは⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎、
ボーカルは『初音ミク』……」
楽譜はどうやらギターの譜面のようだ
この曲はギターだけで演奏するモノではないようだし、アレンジされた楽譜だと思われる
靱は、別の楽譜を拾い上げる
何枚かの紙を同時に
「これは…『カゲロウデイズ』……、
クリエイターは⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎、
ボーカルは『初音ミク』」
「こっちは……『オルターエゴ』…、
クリエイターは⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎、
ボーカルは『初音ミク』」
「——って……これ、もしかして…」
幾つかの楽譜を見て靱は共通点を見出だす
全てギターの譜面……という事ではない
もっと単純なモノ
「やっぱり……。
これ、全部『初音ミク』の曲なんだ」
散らばる譜面
手当たり次第に見ては調べる事を繰り返せども、
検索結果には共通する『唄:初音ミク』の文字
『初音ミク』
先行きの怪しいVOCALOIDシリーズの苦境を打破するべく生み出された
“キャラクター•ボーカル•シリーズ”の第一弾
ただの音声でしかない商品に、歌い手としての身体を与える事でリアリティを増す事を狙って発売された
バーチャル•アイドルという女性キャラクターとしての側面が付与されたVOCALOID
それは結果として大成功し、『初音ミク』はVOCALOIDシリーズを一躍時代の主役へと押し上げた最高傑作となった
VOCALOIDが『バーチャル•シンガー』という親しみを込めた名で呼ばれるようになったのも『初音ミク』による成果だ
そんな初音ミクを使用して作られた楽曲
大ヒットしたものからさほど有名でないものまでまちまちな初音ミクの曲の譜面こそが、この部屋に散らばる紙の正体だった
「うーん、本当に初音ミクの曲ばっかりだ。
僕は初音ミクの曲が好きだったのかな?」
幾つも転がったファイルを見渡して
この楽譜は散らばる前は整頓されてファイルに収められていたのではないか
そんな発想に至る
「大事なモノならこんな風に散らかしてるのもなんか変だけど……
どうでも良いモノをこんなに集めないよね」
靱は考え込む
答えには至らず、薄暗い部屋全体を見回して
他に見当たるのは机に乗せられたパソコンや使用感のあるベッドだけ
「この部屋以外のベッドは使われた感じがしなかったし、ここって僕の部屋……なんだよね、多分。
どこもかしこも傷だらけなのは変わらないけど」
「本当に、どんな人だったんだろうな……僕は」
探れば探る程解らなくなってくる気がする
泥沼の思考を巡らせながら靱は無意味な時を過ごし
刻一刻と、少女達との約束の日は迫っていた
本作世界観でのVOCALOID(バーチャル•シンガー)周りの設定は現実のものとも原作プロジェクトセカイのものとも恐らく異なります。
独自設定の為ご容赦を