クレイジーサイコレズ系主人公が錦木千束の心臓を死ぬほど欲しがる話 作:靉靆
シテ…ユルシテ……
この胸に宿る激情の名前を、わたしは知らない。
『私はキミと逢えて嬉しい!』
千束さんが喜びを口にしてわたしを抱き上げる。
先程まで心には暗雲ばかりが立ち込めていたはずなのに、今はただ胸を締め付けるような息詰まりを感じてしまう。
『私はいつもやりたいこと最優先!』
花のように咲き誇る笑顔と、凛々しい顔つきでわたしの仇討ちへと向かって行くその姿に、唖然としながら立ち尽くすことしか出来なかった。
行くべきなのだと分かっているのに、何故か動けない。
元はと言えばわたしの未練が引き起こした揉め事なのに、当事者である自分はこうしてただ呆然とするだけ。
無責任なこの現状に腹立たしさすら覚えてしまう。
『仲間を救った。カッコいいよ、誰にでもできることじゃない』
思えば、この早鐘を打つ鼓動には予兆があった。
初めて千束さんと出逢ったあの日に貰った赦しの言葉に感じた喜びが、心地良い。
偶然の巡り合わせを、運命と呼ぶ。
よく響奏がわたしに話してくれたことです。
もしかしたらわたしが千束さんに出逢えたのも、千束さんの言葉に高鳴る鼓動も、彼女と過ごす時間の全てがわたしにとっての“運命”なのかもしれません。
錦木千束……不殺を貫く異端のリコリス。
わたしが忌み嫌う不合理にて生きるあの人に感じたこの思いは、きっと──。
「たきな」
思考の海に沈みかけると、呼び止める声がした。
甘い蜜のように蕩ける美声に安堵を覚えてしまう。
たった一人の家族が、背後から柔い抱擁でわたしを包みこむ。
「響奏……?」
「お姉ちゃん。と呼んでくれないのですか?」
名前を呼ぶと、抱き締める腕の力がぎゅっと強まった。
いつもはわたしが甘えてばかりだからか、響奏の方から触れてくることが珍しく思ってしまう。
それに、こうして響奏が姉呼びをねだって来るのも懐かしい。
「来るなら、報せてくれても良かったのに」
「すいません……少し、言いづらくて」
抱擁を解くと、響奏がいじけた様子でわたしの頬を優しく撫でる。
結果的に汚名を着せられDAを追いやられたわたしが、こうして本部を訪れることを知られるのに少しばかりの抵抗があったのも事実でした。
それにしても今日の響奏は随分といつもと違った印象を抱かせる仕草をしてる。
まるで、先程のわたしの様に……。
「……もしかして、さっきの見てましたか?」
「ええ。ばっちりと」
響奏の肯定に対して、羞恥心で上がる体温を実感した。
千束さんに抱き上げられたあの瞬間も、彼女の笑顔に絆されたあの時の弱々しいわたしの姿を見られたかと思うと気恥ずかしい気分になってしまう。
「仕方のない娘」
「……?」
すると響奏が、どこか憂うような声色を発する。
「誰にでも優しいことが千束の美徳ではありますが──少し、嫉妬してしまいます」
「それは……」
それは、どちらに対しての感情なのでしょう。
千束さんに抱かれたわたしに対してか、それともわたしを抱きしめた千束さんに対しての言葉なのでしょうか。
響奏が優しさ以外の感情を伴わせてわたしに触れてくるのが初めての経験で、少し戸惑いを感じて萎縮してしまう。
「……ごめんなさい」
「たきな?」
思わず、懺悔の言葉が息を吐いて出た。
司令やフキさんに見放された時にかけられた言葉が脳裏を過ぎると共に、こんなわたしを今も愛してくれる姉への申し訳なさで胸がいっぱいになる。
「期待に応えられなくて、わたしは響奏の妹なのに結果を残せなくて。DAにも司令にも、フキさんにもみんなにも失望されて……ごめんなさい」
「たきな……」
これまでに数多の任務を完遂し、多くのリコリスたちからの羨望を一身に受ける史上最優のリコリス──それがわたしのお姉ちゃん、霧霞響奏。
その憧れに追い縋りたかった。
だけど本部への栄転が決まった時の喜びも、今はもう過去の残影でしかない。
お姉ちゃんみたいに、お姉ちゃんと一緒に、そしてお姉ちゃんの愛情と期待に応えられるようなリコリスに結局わたしは成れなかった。
「──本当に、仕方のない娘」
「っ」
それは、どんな意味を孕んだ言葉なのだろう。
失望か、憐憫か、それとも無能なわたしへの憤りだろうか……今は響奏の顔を見るのが怖くて仕方がない。
「そんな貴女も愛おしい」
「きょ、響奏っ!?」
俯いたままで時が止まったかのような錯覚を覚えた一瞬ののちに、またぎゅっと熱い抱擁がわたしを包んだ。
「懐かしいですね。こうしていると、京都にいた頃を思い出します」
優しく、けれども力強く抱きしめる。
甘い言葉が耳を撫でた。
目頭が熱い。涙が溢れそうになるのを自覚しながら、先程千束さんに抱かれた時のような安堵感が胸いっぱいに広がる。
「たきなが何処にいようとも関係ありません。今も昔も、貴女は私の可愛い妹なのですから」
「おねえ、ちゃん……」
こんなわたしを、まだ妹と呼んでくれるのですか?
ずっと焦がれ続けた憧れの腕に抱かれる幸せが、永遠に続けば良いのにとさえ思ってしまう程に嬉しかった。
「たきなは、もっと我儘に生きて良いんですよ」
我儘に……それは、リコリスとして全てを捧げてきた今までのわたしにとっては縁遠い衝動でした。
任務の遂行とDAへの献身こそがリコリスの存在意義。
わたしには達せられず、もはや失ってしまったその意義とは別の教えが、するりと胸に溶け入る。
「衝動に身を委ねて、本能のままに、その瞳に欲しいものだけを映して生きなさい。私は、そんな貴女を愛してる」
わたしの、やりたいこと。
響奏が愛を囁くたびに蕩けて堕ちてしまいそうな自我を必死に抑え、逡巡と悔恨と懊悩に咽びそれだけを考える。
まるで先程の千束さんが言ってくれたような救いを言葉にして紡ぐ姉の腕に抱かれる心地良さに身体を預けて、わたしは心の中で答えを模索した。
『──まだ途中だよ、遅くなんかない。チャンスは必ず来る。その時に、たきなのしたいことを選べば良い』
「ぁ……」
そうだ、そうだったんだ。
わたしのやりたいことは、知りたいことはつまり──。
「わたし、行かないと。千束さん……千束のところに」
「えっ?」
あの時、あの瞬間に知った初めての感情が蘇る。
優しくて、甘い。私を抱きしめる千束がくれた啓示。
「わたしは千束と一緒に、この感情がなんなのかを識りたいです。多分、それが千束の言っていた今のわたしの
「えっ、ちょっと待ってちが……」
響奏の抱擁から離れるのに寂寥を覚えると同時に、わたしの胸にリコリスとしてのそれとは違う使命感が帯びる。
今も私のために一人で戦う千束の許に向かおうと、わたしの決意もまた固くなった。
「──ありがとうございます、お姉ちゃん。またリコリコに来てくださいね」
「あっ、はい」
最後に大好きなお姉ちゃんに感謝を伝えて、わたしは駆けた。
█
足取りが重い。
ゆらゆら、ゆらゆらと覚束ない歩みで私は化粧室の鏡の前に辿り着く。
ひどい顔だ。憔悴しきった自分の青褪めた表情を見ながら、私は処方された安定剤を再び口に含んで噛み砕く。
「違う」
否定する。
「違う」
否定する。
「違う。違う、違うッ!」
否定、拒絶。
あのような変化はあってはならないのだと、現実から目を背け鏡を殴る。
罅割れた硝子、破片が散り拳に突き刺さる。
滴る己の赫い血に覚えた感情は、未だ胸の奥に燻る赫怒だけだった。
「なんですかあの蕩けた
合理性という檻に囚われていたはずの狂犬が、愛玩動物の如く弛んだ様へと
「あれでは、まるで──」
──まるで、
まるで大切な宝物がこの手のひらから零れ落ちていくかの様な喪失感に、脳がぐちゃぐちゃになる。
千束が憎い。千束が愛おしい。
たきなが憎い。たきなが愛おしい。
この歪な感情は矛盾か否か。あぁ、否だ。この荒れ狂う二つの激情は断じて真逆のものではなく、表裏一体の美しい
「──殺したい」
それと同時に、加速する衝動と濡れる
身体は正直だと言わんばかりに、この現状に対して興奮してしまう自分がいた。
綺麗だった。
愛しい妹を抱く初恋の姿。
想い人を寝取られたかの様な歪な情景が私の本能を刺激して止まない。
『お姉ちゃん』
獣が愛を知った。殺意のみを纏い合理を成す怪物が、救済者によって人へと堕とされた。十年の時をかけた私の
だけどやっぱり、あの光景が尊くて仕方がない。
「殺したい。殺したい。殺したい。尊厳を踏み躙って、高潔な魂を陵辱して、絶望の泥濘に沈めて、尊い純潔をこの手で散らして──っ!」
私の本性を告げながら殺したい。
首を絞めながら愛を囁いて殺したい。
唇を奪い、舌を絡め、噛み締めてその血を嚥下しながら殺したい。
犯して、奪って、嬲って、私と過ごした今までの時間と絆を裏切られ絶望するあの娘たちを殺したい。
「殺し、尽くしたい」
左の拳から滴る血を、じっと見つめる。
私の大好きな赤色。千束の眼と同じその血色が、私は好きだ。
「模擬戦、模擬戦と言っていましたか……確か」
たきなが私から離れる際に聞こえたアナウンスを想起しながら、ハンカチで血塗れの手を包み止血する。
見たい。
感じたい。
触れたい。
千束が鉄火を携えその才能を振るう姿を、たきなが洗練された魔弾を放つ姿を見たい。
滾る本能を抑えることなく、戦意を漲らせる。
「──少し、味見でもしますか」
█
「──これでお相子ですね」
「……っ」
濡羽色の美髪を靡かせ、井ノ上たきなが妖美に微笑む。
そして、殴り抜かれ赤く腫らした頬に手を添えながら春川フキが睨みを利かせる。
「はっ。やっぱお前使い物にならねえリコリスだよ──ムカつくとこまで
失笑を溢し、どこか吹っ切れたかのように皮肉を言う。
春川フキと乙女サクラのタッグを相手にした模擬戦は、錦木千束と井ノ上たきなの圧勝を以て締めくくりとなった。
この勝負に、リコリスとしての意味はないのだろう。
しかし互いの矜持と因縁を複雑に絡ませたこの一戦は、たきなにとって何よりも実りのある戦いであったと言える。
「おーいたきなー。帰るよー」
「──はい。今行きます、千束」
これまでで家族以外の他人には見せたことのないような優しい笑みを浮かべ、たきなは千束の呼びかけに返答する。
本部を騒がせた因縁の模擬戦はこれにて終幕、見物のリコリスたちも勝負の結果を見届け各々談笑と共に踵を返そうとした──その時。
「おや、もう帰るのですか?」
凛とした声が、屋内訓練場に響いた。
自室へと戻ろうとした衆目の騒めきがより深まり、視線がただ一点に注がれる。
「……お姉ちゃん?」
困惑の情を含ませながら、愛する姉を呼ぶ。
神々しい白銀、真紅と琥珀の瞳。絶世の美貌に何処か恐ろしさを感じさせる笑みを浮かべながら、霧霞響奏が歩みを進める。
労いの言葉を掛けに来たとは思えない出立ち。
布で包まれた左手には塗料が塗られたゴム製のナイフ。右手にペイント弾入りと思しき訓練用の銃を持っており、今にも此方の首を刈り取りに来るのではないかと思わざるを得ないほどの闘志が全身から漲っていた。
「どったの、響奏?」
「あぁいえ。特に深い事情があるわけでもないのですが」
帰り支度を済まそうとしていた千束が、上階から問い掛ける。
それに対して響奏は、その身に燻る殺意と衝動を必死に抑えながら自分を取り繕い、愛する人と愛しい妹に微笑みかけた。
「──私とも、少し手合わせしませんか。千束、たきな」
殺人鬼が、己の本能に枷を掛け這い寄る。