やはり俺の行きつけがリコリコなのはまちがっている。 作:百合の間に八幡挟む
一説によれば、人間が一度の集中を継続できるのは時間にして約50分程度にすぎないらしい。
更に言えば、この50分でさえも15分という深い集中を1分ごとの休憩を挟みながらやっているとのことである。
つまり一時間も二時間もダラダラと続ける会議だったりというのは酷く非効率的であり、逆に中学高校の一授業50分で10分休憩という仕組みは実に理にかなったシステムなのだろう。
大学ともなれば一つの講義につき90分にもなるので、現代の人間社会というのは大人になるにつれて加速度的に非効率的なものへと変わっていくものだということが良く分かる。
毎日毎日際限なく残業し、身を削るように何時間も仕事に身を費やすのは、あらゆる方面から見ても好ましくないことであるのは自明の理だ。
つまり何が言いたいのかって言うと働いたら負けってことである。
ビバ・専業主夫。目指せ専業主夫。
社会の歯車になんかなってたまるものか、と心の内で雄叫びを上げながら、英語の講義を乗り切った。
無論、補習と言う訳ではないし、勝手に大学に侵入した訳でも無い。
予備校というやつだ。
高校二年生に向けての夏期講習が開催されていたので、基本的に真面目で優秀な俺も参加していたという訳だった。
教室自体は閑散としていると言うほどでもないが、盛況というほどでもない。
これが高校三年生向けであれば全体的にヒリついており、参加者も多かっただろうが……。
まあ、二年生なんてこんなもんだ。
まだ幾らか以上に余裕のある空気が漂っている。
合計十日間用意されていた講義も本日で折り返し、今日からは英・国を中心とした講義へと移り変わる。
俺の場合、私立文系コースだからな。
理系コースであれば数学だったり科学だったりの講義を受けているのだろう、知らんけど。
今日分の講義は終わったことだし、一番前に座っていた俺もいそいそと帰宅の準備をし始めた。
いそいそっつーかもう、ウッキウキって感じではあるが。ぼっちは帰宅時が一番元気良いからな。
帰宅という行為がもう素晴らしいと思うし、寄り道なんかしている時は文字通り自由を噛みしめている気分になる。
偶然同じ講義を受けていた、同じクラスの川……川、川村? 川なんとかさん(川崎沙希(多分)。小町に這い寄る毒虫の姉。特徴はブラコンであることだ)と目が合ったので軽く会釈してから外へと出る。
むわっと夏特有の、心地の悪い熱気が迎えてくれた。
やっべー、ゲーセンとか寄ろうと思ってたのに帰りたい気持ちでいっぱいいっぱいになってきちゃったよ。
俺の欲望を纏めてさらうとか、流石夏の陽気だな。
よぅし、お兄ちゃん今日はさっさと帰っちゃうぞ! と意気揚々歩いていれば、
「おや、比企谷さん?」
という声が背後から飛んできた。
しかしここで動じてはいけない。
俺は百戦錬磨のぼっち、この程度の罠に引っかかるほど愚かではない。
俺の他に比企谷という名字のやつがいるのだろう。大体、俺のことを呼ぶやつなんて早々いないしな。
加えて、小町と間違われることだってまずありえない。
ここで振り返ったが最後「は? お前誰だよ」みたいな顔をされること間違いなしである。声まで出そうものなら羞恥心で自殺したくなるレベル。
故にここでの正解はスルー。これ一択だ。
「ちょっと、比企谷さん?」
ほら、呼ばれてるぞ、比企谷さん。
早く返事してあげて! じゃないとあっちの子も恥ずかしくなって来ちゃうから!
「ひーきーがーやーさんっ!」
「っおわぁ!?」
背後から両肩にドン! と勢い良く衝撃を与えられ、驚きの声を上げてしまう。
なに? なに? 何なの!?
何かの事件に巻き込まれちゃったりする感じ? と振り返れば見覚えのある女子がそこにいた。
「ッくりしたー……何だ、井ノ上かよ。驚かせんな」
「何度も呼んでいるのに無視する比企谷さんが悪いんです」
「…………」
ふむ……。一理あるどころか百理しかない。反射的に理論武装を試みたが、これは劣勢だと判断して黙することにした。
沈黙は会話におけるリーサルウェポンだからな。因みに土下座は最終兵器である。いや最後には謝るしかなくなってんのかよ。
「まあ、悪かった。ティッシュ配りの人以外に外で声かけられたことないからよ」
「何というか、とても比企谷さんらしい理由ですね……」
「だろ? 何ならそれすら珍しいまであるけどな」
いや本当、目の前通ってるのにあからさまに俺には渡さないのは何? 手を出したのにスルーされちゃうのかなり恥ずかしいんだけど。
ステルスヒッキーの優秀さにも困ったもんだ。意図せず街中に溶け込んじゃうんだもんな。
世が世なら暗殺者とかになれたこと間違いなしである。
多分めっちゃ殺せるぞ、特に陽キャとか超血祭りにあげれると思う。見つからないから名前すら知られてない猛者枠になれるはずだ。
生まれてくる時代を間違えた、か……。
「っつーか、井ノ上はこんなところで何してんだ。今日は休みか?」
「いえ、仕事です」
「? 買い出しとかってことか? こんなところまで?」
「あっ、えーと、その、アレです。そう! 依頼があったので、コーヒー豆等を配達した帰りなんです」
「へぇ、結構広範囲に対応してるんだな」
ここは津田沼だ、電車だと錦糸町から大体30分くらいである。
俺のように気が向いた際に通う程度であれば気にする程でもない時間であるが、彼女のようなバイトが仕事として担当するにはちょっと大変じゃないだろうか。
車は乗れないし、自転車も置いてる様子もないからな、リコリコ。
ああ、でも別に毎日って訳でも無いだろうし、良い息抜きにはなるのか?
内勤だけだと息が詰まるとか聞いたことあるしな。
労働者は大変だ。
俺は改めて働かないぞ、という意志を固め直した。
「比企谷さんはどうしてこちらへ?」
「俺は夏期講習だよ。ほれ、あそこで講義受けてたんだ」
「佐々木ゼミナール……なるほど、そういうのもあるんですね」
「そういうのもって……」
まあ、井ノ上は一つ年下だと聞いたことがある。それはつまり、彼女は高校一年生であるということだ。
大学受験とはまだ無縁だろう。俺も一年前なんかは「受験終わったばっかりだっつーのに、今からまた受験とか考えてられるかよ」なんて思ってスルーしていたものだ。
知らなくても無理はないし、興味がないのも仕方がないことだろう。
「ま、井ノ上も来年には視野に入れといた方が良いかもな」
「どうでしょうか、恐らく通うことはありませんね、私は」
「おぉ……強気だな」
さぞ優秀な成績を誇っているのだろう。何というか、見ての通りといった感じではあった。
「というか私、大学には行きませんからね」
「ん、そうなのか」
「ええ、リコリコが私の居場所ですから」
「あ、え? なに? あそこに正社員? として内定してんのか?」
「……ぷはっ、あはははっ。正社員ですか、ふふっ」
「えぇ……」
ツボったのか、声を上げて笑い続ける井ノ上だった。俺、何か変なこと言ったか?
特段おかしなことを言ったつもりは無いんだけどな……。
もしかしてこの子、これから先もバイトとして生きていくつもりなのかしらん……。
「いえ、ふふっ、ごめんなさい。その理解であってます。あそこに内定をいただいてるんです、千束もそうですよ」
「ほーん、すげぇな」
「凄い、ですか?」
「ああ、今から自分のその、何? 生き方を決めてるってのはすげぇだろ」
俺も専業主夫として生きていく心持ちではあるが、流石に井ノ上とは比べ物にならない。
特に、どこかしらに勤めることを決めるだなんて、学生の身では少々以上の勇気が必要な決断となったことだろう。
肝が据わっている少女であるとは思っていたが、まさかこれほどとは……と驚いてしまう。
思わず井ノ上さんって呼んじゃいかねないレベルだった。
っべーわ、井ノ上さん超リスペクト!
「そこはかとなく馬鹿にされている気がしますね……」
「きっ、きのしぇいじゃないか? そんなことするわけにゃいだろ」
噛み噛みだった。訝し気な目をガンガンに井ノ上がぶつけてくる。悪かったって、俺が悪かったよ。
コホンと井ノ上が一息入れた。
「まあ、良いですけれど……講習が終わったということは、比企谷さんは今暇なんですよね?」
「うん? まあ、そうだな。適当に寄り道しても良いかとは思っていたが、後は帰るだけだ」
「本日はリコリコには?」
「あー、そうだな……」
全然考えてはいなかったが、その提案は結構有りだ。
リコリコは休むには最適だし、鞄には読み止しの小説が入りっぱなしである。
今日の内に読み切っても良いし、講習の内容を復習しても良い。
それに、最近は錦木からの催促も鬱陶しくなってきた。
そろそろ顔を出しても良い頃合いだろう。
「じゃあ、寄らせてもらうとするか」
「そうですか、それは良かったです。それでは行きましょうか」
井ノ上と並んで駅へと入り、ホームで待つこと数分。
やってきた電車に並んで揺られ、錦糸町に降り立った。
そうしてそのままスーパーへ。井ノ上に連れられるようにして買い物を済ませた。
いや、何で?
「本日は買い出しも頼まれていましたので。少量ですので、ついでで請け負ったんです」
「それならそうと先に言えよな……何か当たり前みたいに付き合っちゃったじゃねぇか」
「私は何も言わないんだなあ、と思っていましたけどね」
「じゃあ言えよ……! ったく、ほれ」
「あっ」
井ノ上の持つ買い物袋を受け取れば、妙な表情を向けられた。
驚いたような、意外だったような、そう言った方向性の顔。
「何だよ、今の流れは荷物持ちとして働いてくださいね、ってアピールじゃなかったのか?」
「いっ、いえ、別にそういった意図は無かったのですが……」
「あ、そうなの? じゃあ、まあ、そういう風に使ってくれ」
ここで「じゃあいいや」と返すのもアレだし、どうせ向かうところは同じである。
散々小町に荷物持ちとして扱われ、すっかりその手のプロとして精通している俺からしてみれば負担と言うほどでもない。
とはいえ長々と持っていたくないのも事実であり、さっさと歩き始めれば、井ノ上は変わらず不思議そうな表情を浮かべていた。
「比企谷さんって、働きたくないと言う割には働き者ですよね。将来は立派な社会人になってるように思えます」
「おい、不穏なこと言うなよ……俺の夢は専業主夫だって言ってんだろ」
「ふふっ、似合いませんよ。比企谷さんに専業主夫は」
「急に残酷なこと言うなよな……」
大体、俺だって別に好きで動いている訳じゃない。しかし悲しいかな、家族内カースト最下位である俺は、下っ端としてアレコレ勝手に動くよう、身体が躾けられているのだった。
俺の勤労意欲はいつだってマイナスをぶち抜いているというのに……。
「でも比企谷さんのそういうところ、私は好ましいですよ」
「だろうな、何てったって俺の持つ数少ない、他人の役に立てるスキルだからな」
「またそういう言い方を……でも比企谷さんはそういう人ですもんね」
「あんまり含みある言い方するなよ、怯えちゃうだろ」
因みに他に持っているスキルと言えば、他人に迷惑をかけないスキル等々といったものが揃っている。
俺ってば超無害だし超有益。だから誰か早く専業主夫として雇ってくれないかな。
あっ、平塚先生はNGで……。
「だから、ありがとうございます。お店についたらサービスしますよ」
「そいつは助かるな、MAXコーヒーを一つ頼む」
「うちのメニュー内でお願いします……」
「じゃあ普通のブレンドに砂糖と練乳付けてくれ」
「甘いものであれば他にもあると思うんですけど!?」
MAXコーヒーに執着しすぎじゃないですか!? と叫ぶ井ノ上だった。
とはいえ、MAXコーヒーは千葉県民のソウルドリンクだからな……気を抜いたらつい求めちゃうものなんだよ。
「……そんなに美味しいんですか? それ」
「何だよ、飲んだことなかったのか? やれやれ、仕方ねぇな。ほらよ」
「!!? それ常に携帯しているんですか!?」
おもむろに鞄から取り出せば井ノ上がそう叫ぶ。そんな訳ねぇだろ。
そりゃ俺だって箱買いしているくらいには愛飲しているが、肌身離さず携帯しているほど中毒になっている訳でも無い。
先程、スーパーに寄った際につい買ってしまったのである。これからリコリコに行くって分かっていたのだが、衝動的に買っちゃったんだよな。
千葉県民として生まれた以上これは仕方のないことである……と自分を納得させた次第だ。
「良いんですか……?」
「おう」
「い、いただきます」
黄色と黒色で構成された缶を井ノ上が傾ける。コクリと喉を鳴らし、それから井ノ上は凄まじく苦々しい顔で俺を見た。
おや? おかしいな。
「あっ、甘すぎませんか!? これではコーヒーを甘くしたというより、練乳にコーヒーが入っているようなものです!」
「良く分かってるじゃねぇか、その通りだよ」
だからこそ良いんだよなあ。この甘みが疲れ切った心を癒してくれる、最高の一杯だ。
「つっても、好き嫌いってのはあるもんだからな。苦手なら寄越せ」
「ですが……」
「? あっ、悪い。配慮が足りてなかったな、気にするようなら捨ててくれ」
あっぶねー、つい小町と話してる感覚で言っちまった。小町という妹が生まれてからこの方ずっと兄な俺である。
年下と接する時はついついお兄ちゃんモードが出てきちゃう時があるんだよな。
気を付けないと通報されてもおかしくなさそうである。
「いえ、そうではなく、一度いただいたものを返すというのは……」
「は? それこそ別に、気にすることないだろ。俺が気にしてないんだしな」
それに何より、自分の好きを他人に押し付けるということが、俺はあまり好きではない。
ていうかハッキリ言って嫌いだ。食わず嫌いという言葉があるように、一度経験すること自体は良いと思うが、それ以降ダメだと本人が判断したならそのようにさせろよと強く思う。
トマトは無理だっつってんのに給食時に意地でも食わせようとした担任、今でも許してないからね?
栄養があるだとか、私は美味しいと思うとか知らねーよ。
思わずガン泣きして放課後まで残らされた記憶がフラッシュバックしてしまい、軽く眩暈がした。
だが、だからこそ断言できる。
「自分にとっては苦手でも、誰かにとっては好きだったり得意だったりするもんだ。世の中は役割分担されて作られてるからな、そういうのがあったら積極的に押しつけていくべきなんだよ」
なので俺は働かない。八幡、働きたい人が働けば良いと思うな。
「ふふっ、良いことを言っているのかどうなのか分からないですね、相変わらず。でも、そうですね。これはお返しします」
「良いのか? 別に捨てても構わんぞ」
「いえ、それは流石にもったいないですし、比企谷さんは気にしないでしょう?」
「まあな」
中学時代の俺であれば三日は囚われるくらい気にしただろうが、今の俺は完全無欠、最強のぼっちである。この程度で心が揺れることはない。心を揺らすことはない。
「でも、決めました」
「? 何をだ」
「絶対に、そんなのよりうちのコーヒーが美味しいと言わせられるようなコーヒーを淹れてみせます……!」
メラメラと立ち上がる炎を幻視させるようなやる気を見せる井ノ上。何でそうなったのかしらん……。
方向性が迷子すぎる上に、そもそもコーヒーを淹れているのは店長なのでは……と言うのは流石に野暮か。
今から将来的にも喫茶店に勤めることを決め打ちしているほどの人間である。
むしろそういう気質があって当然と言っても良いのかもしれなかった。
「そうと決まれば早速行きましょう、比企谷さん! 今日のサービスは私からのコーヒーです!」
「えぇ……」
それ本当に大丈夫? 不安だなあ……と伝える前に井ノ上は走り出す。ぽつんとそれを見送る形になった俺に、振り返った井ノ上が「早くしてくださーい!」と両手をメガホンのようにして言った。
……ま、こういうのも悪くないか。
MAXコーヒーをその場で飲み干して、それから後を追う──ん? ちょっと待て。
もしかしなくてもあいつ、MAXコーヒーをそんなの呼ばわりしなかったか?
これは栄えある千葉県民としても、長々と語ってやらねばなるまいな……と地を蹴った。