少女が家出をして幾許か、その姿は今ロンドンにあった。とても身綺麗とは言えない格好で、しかしまぁそんな人々はありふれていたのである意味馴染んでもいた。
たった少しの自分の持ち物を売って得た路銀も尽き、いよいよ花でも売ろうかと検討するところまで追い詰められている。花でなければ血かな、と少女は人混みを見回す。滅多に外からひとが訪れない田舎では本人も気付かなかったが、少女は吸血鬼と人間の見分けがつくらしかった。日が暮れた街中にはその気配が微かに混ざっている。見つけて声を掛けることは難しくはないだろう。ただそれで危険な目に合わない保証はない。こんな街中で潜んでいる彼らを見つけてその正体を暴いたとして、果たして無事に帰れるのだろうか、少女には甚だ疑問であった。
しかし、今夜宿を取る持ち合わせも無くては、純潔か血のどちらかは選ばなくてはなるまい。もう彼女にお金に換えられるものはそれくらいしかない。それこそもう、顔も知らない両親の形見まで売ってしまったあとだったのだ。
「何か大きな幸運でも降ってこないかな」
現実逃避気味に空を見上げ、そして、その幸運がまさに降ってこようとしていることに気付いた。
まだ遠く離れているにも関わらず身がすくんでしまいそうなほど大きな気配の吸血鬼が、とてつもない速さでこちらに向かっている。少女は思わず小さく悲鳴を漏らして、息を呑んだ。それは決して恐怖からではなく、歓喜ゆえのものだ。少女はこの気配に心当たりがあった。会ったことはないけれど、この余りに大きな気配はきっと彼のひとであると確信する。滅茶苦茶で破茶滅茶でお茶目な方、端的に言って少女は彼のファンだ。ついでに探しモノの一人でもあった。
惚けている間にも気配はどんどん近付いて、恐らくロンドンのどこかに降り立った。少女には気配が大き過ぎて、遠くからでもすぐ分かったが、距離感が上手く測れない。とにかく気配の強い方向に向かって走るものの、相手もじっとしていないどころではない動き方をするものだから近付くことさえ難しい。まともに食べてもいない体に鞭打って、夜のロンドンを駆ける。しかし、どうにも一向に追いつけない。
すぐに息は切れ、足は上がらなくなり、走っているのか歩いているのかも分からない有様になる。それでも必ず会いたいのだと逸る気持ちが体を急かす。心に体が着いてこず、やがて足が縺れてべちゃりと転けた。その間にも気配は縦横無尽に動き続けている。石畳の道は土の上で転けるのより痛くて、既におかしくなっている情緒にトドメが刺された。
少女は小さく嗚咽を漏らしながら、涙で滲む視界で気配の方向を睨む。立ち上がって走り出したいのに、その気力がもう無い。ぶつけた膝が痛いし、お腹は空いたし、幼い頃から友達の頭痛はいつにも増して絶好調だ。動けずにただ蹲っていると、慌てた声が掛けられた。
「君、大丈夫か!?えらく派手に転けたが」
人間の男性に助け起こされながら、少女は涙目のままその顔を確認する。見覚えのある人物だ。追い掛けていた気配の持ち主ではないけれど、彼もまた探していた内のひとりだった。
少女は安堵した拍子に思わず、うわーん、と幼子のような泣き声をあげて目の前の人物にしがみついた。
「おっと、どうした?そんなにどこか痛いのか?」
慣れた手つきであやす様に少女の背中を撫でるこの男こそ、アルミニウス・ヴァン・ヘルシングその人である。
「助けて、下さい」
少女がそう言った瞬間、ヘルシングが明らかに張り詰めた空気を纏った。
「もしや、なにか危険な吸血鬼にでも襲われ、」
「私を吸血鬼に会わせて下さい!」
言い終わるより前に少女は言葉を被せる。
「やはり吸血鬼に、ん?会わせろ?どういうことだ?」
「私どうしても会いたいんです、会って言いたいことが」
ヘルシングは発言の真意を伺おうと少女の顔を覗き込み、気付いた。後ろ姿からではよく分からなかったが、尖った耳、鋭い犬歯、そして金の瞳という特徴、それの意味するところは。
「君、ひょっとして迷子か?」
「んえ?」
少女はパチクリと瞬いて、首を傾げる。全く見当違いのことを言われたので少し戸惑った。
一方、ヘルシングはどうも親を探している訳ではないらしいと反応から察していた。ダンピールの特徴に「吸血鬼に会いたい」と来たものだから迷子かと考えたわけだ。
「違うのか。ならどうして吸血鬼に会いたいんだ?」
緩みかけた気をもう一度引き締める。改めて少女を観察すれば、痩せぎすな体で顔色も良くない。服も言っては何だが、プライドが高いことの多い高等吸血鬼が背後にいるにしては粗末だ。この時代、ダンピールが平和に暮らすのは正直なところ難しい。人間の中にあっては迫害や差別に晒され、吸血鬼として生活するには性質人間より過ぎる。退治人としては複雑だが、親の支援が得られるならいっそ吸血鬼に転化してしまうほうが余程生きやすい世の中なのだ。
つまるところ、ヘルシングはこの少女に事件性を感じていた。
少女はというと、真剣な顔で問い掛けられて答えに困っていた。疚しいことは何も無いが、素直に答えて信じてもらえる気がしない。なにせ、今まで自分の見えているものを正直に言って信用されたことが無いのだ。しかし、この男に納得してもらえなければ、目的の人物に会わせてもくれないだろうとも思っていた。
微妙に緊張した空気のまま、二人の間に沈黙が流れた。そこに突如として大きな人影が降り立つ。
「鬼ごっこはもうお終い?」
少女が泣きながら追い掛けた相手は、こうしてあっさりと目の前に現れた。
「お前!これ元に戻せよ!!」
ヘルシングは今現れた人物に向けて本を取り出す。表紙にある文字は母国語だったが、少女はそもそも文字が読めないのでなんと書いてあるかは分からなかった。
「どうして?そっちのほうが読みやすいでしょ」
大きな人影、竜の一族の真祖たる吸血鬼は首を傾げながら言う。
「英語で書いてあるんじゃ、堂々とエロ本なんか読めないだろうが!」
ヘルシングは言ってから慌てて腕の中の少女を見た。ついカッとなって、こんな難しい年頃そうな少女の前で墓穴を掘ってしまった。
少女のほうはというと、苦労して探していた相手が突然現れたものだから未だ唖然としていた。ヘルシングとしてはギリギリセーフであろう。セーフだろうか?セーフということにしておこう。
なにはともあれ、こうして少女の夢は実現に一足飛びで近付いたのだ。