エロ本どうこうの会話から少女にヘルシングの注意が移ったことをきっかけに、吸血鬼も少女に目を向けた。
「その子、どうしたの?」
「いや、私もそれがさっぱり。お前の血縁ではないんだよな?」
「うん、違うね」
言いながら、吸血鬼はしゃがみこんで少女と視線を合わせた。
「こんばんは、夜と昼の狭間の子」
少女は分かっていたものの、あまりに強大な気配に息を呑みながら、真っ赤な瞳と目を合わせた。本能的な恐怖とファンゆえの興奮で情緒はしっちゃかめっちゃかだったが、幸か不幸か見た目には出なかった。
「こんばんは」
声は少し震えている。なぜ震えているのかは当人にもよく分からない。
「それ、辛くない?」
吸血鬼は少女の目を指差す。
「え?」
「見え過ぎるのも疲れるでしょ」
少女は驚きに目を見開く。信じる信じない以前に、この吸血鬼には何が見えているのか分かったらしかった。
「分からないです。たぶん生まれてからずっと見えてて」
この特異な力とは生まれながらの付き合いで、ついでに少女自身に制御できたためしはない。だから比較のしようはないのだが、確かなのは慢性的な頭痛と成長の遅れ、注意力が散漫なところがあり、ひとより多くの食事と睡眠を必要とする身であることだ。
「それは大変だ。一度目を閉じたほうがいいね」
吸血鬼の大きな手が少女の目元を覆うと、途端に視界は真っ暗になった。肉眼で見えているものだけではなく、絶え間なく常に見えている幾つもの視界も一切見えなくなったのだ。この時、少女は人生で初めて本当に目を閉じた。何も見えない暗闇に少し恐怖を感じたが、それ以上に目に当てられた冷たい手が心地よかった。
手が離れ、改めて目を開くと世界が変わって見えた。世界は私が知っているよりずっと静かで、ずっと複雑に出来ていた。今目の前にあるものをこんなに落ち着いて見ることが出来るのは初めてだ。
「あぁ、すごい」
星が瞬いていることも、地面が冷たいことも、ひとの手が温かいことも、今着ている服が肌触り最悪なことも、目の前の二人の顔がどこか心配げなことだって、少女は初めて知ったのだ。感嘆に溜息をついて、瞬きをした。
「そろそろ、私にも説明してくれないか?」
空気を読んで黙っていたヘルシングが声を上げる。
「見え過ぎてるみたいだったから、目を塞いだ」
「見え過ぎる?なにが」
「未来」
「未来!?ダンピールってそんなこと出来るのか?」
「出来ない。この子も制御不能だったみたいだし」
「それはまた。体に害は無いのか?」
「ある。寿命とか縮むと思う」
「寿命ってお前!今はとりあえず大丈夫なんだよな」
「うん」
吸血鬼が頷いたのを見てヘルシングはやっと息をついた。 吸血鬼が頷いたのを見てヘルシングはやっと息をついた。
「お嬢さん、帰れる場所はあるかい?頼りになる大人はいる?」
「あの違うの!私伝えたいことがあって」
ヘルシングが迷子を諭すように言うので、これで家に帰されては堪らないと少女は声を上げた。
「伝えたいこと?そういえば吸血鬼に会いたいって言ってたな」
「どうしたの?何か面白いものでも見えた?」
吸血鬼は首を傾げる。少女は興味を持って貰えたのが嬉しくて心臓が高鳴った。やっと、やっと伝えられるのだ。
「は、はい。とっても素敵なものが!」
「教えてくれる?」
少女は必死な様子でコクコクと頷くと、自分が見たものについて興奮気味に語った。その内容にヘルシングと吸血鬼は思わず顔を見合わせて、揃って破顔した。
「いいこと聞かせてくれてありがとう」
「あの、私ドラルクさん?にも言いたくて」
一番の希望を叶えるには今しかないと図々しくとも畳み掛ける。なりふり構ってはいられないのだ。
「ドラルクに?」
吸血鬼は少女とじっと目線を合わせる。少女は何を考えているのかイマイチ読めない瞳に見定められているようで緊張しながら、しかし目は逸らさない。少しして、吸血鬼が軽い調子で頷く。
「わかった。行こうか」
少女をヘルシングから受け取り、軽々と抱き上げる。実際、覚えのある我が子よりずっと軽いな、と既に遠い記憶が脳裏を過った。
「わ、わ、はい!」
「またね」
「あ、待て待て」
ヘルシングに吸血鬼が挨拶をして、いざ飛び立つというところを引き止められる。
また会う前提の別れ言葉なのは、もう今更なので訂正しないが、しかしそれはこの吸血鬼とのことであり、少女にまた会う機会があるとは限らないのだ。良い事を教えて貰ったからには、心ばかりだが礼は尽くさねばなるまい。
「お嬢さん、君が言った未来、時間は掛かるかもしれないが私たちが必ず作ってみせるよ」
少女は思いがけない言葉に目を輝かせて頷いた。
「じゃあな」
ヘルシングは少女の頭を優しく撫でて、明るく笑う。
いつか、自分が見た未来に必ず辿り着くとして、しかしその道程が平坦である訳では無い。少女にだってそれが分かるだけの分別はある。そんなこと分からないはずも無いヘルシングが約束をしてくれたので、少女は胸の奥にしまった宝物がより輝きを増した気がした。
吸血鬼が軽く地面を蹴って飛び立つと、遠ざかっていくヘルシングに少女は手を振った。やがて小さくなっていくロンドンの町に煌めかんばかりの夜景は未だ無く、ただそれを悲観することはない。現在の先に未来があることを少女は実感したばかりだったので、今は全てが愛おしく見えた。
ロンドンから離れて少し経った頃、吸血鬼の腕のなかで少女はすでに重い瞼と戦い始めていた。随分高いところを体温の低い吸血鬼に抱かれて飛んでいるのに、不思議と寒くはない。
「ちょっと時間かかるから寝てていいよ」
普通に過ごしていたらまず体験出来ないことをしているのに眠ってしまうのは勿体無い、と少女は首を振る。その仕草がすでに幼子の寝ぐずりのようで、負けの見えた戦いだった。家を出てからこちら、あるいはもっと前から張っていた緊張の糸がすっかり途切れてしまったのだ。
月が近いな、と眠りに落ちる前に思ったのがそれだったからか、少女は月面に降りたって旗を差す夢を見た。