少女がこの館に来てから一ヶ月が経った。
その間、ドラウスやゴルゴナをはじめに色々な吸血鬼が入れ代わり立ち代わり様子を見に来たが、未だドラルクには会えていない。ドラウスが渋っているためだ。あと御真祖様にもここに来て以来会っていなかった。少女ははじめそう簡単に会える方ではやはりないのだな、と考えていたのだが、どうもそうではなく、病人に会わせるには刺激が強すぎると御真祖様側に接触禁止令が出ているらしい。
少女だってそう長く臥せっているわけではなく、一週間もすれば回復していた。ただ、少女本人が人生の友だと諦めていた頭痛もなく、食べるにも困っていないのでこれ以上ないほど健康だと主張しても、骨と皮ばかりの子供というのはどうも健康とは思えないらしい。最近は食べられる量が増えてきたためか、とにかく何かにつけて食べ物を貢がれている。少女はだんだんここを出て元の生活に戻る自信が無くなってきている。早くどうにかしないとダメになる!と焦るものの、ドラルクに会わないことには動けずにいた。
ある程度回復した頃には屋敷内を出歩くことも、庭に出ることも許可され、というか健康のためにも推進されていたので少女は庭を散歩中だ。誰の趣味なのかよく手入れされた生垣を眺め、ネズミの後ろを着いて周り、分からないなりに夜空に星座を探して、と好き勝手やっている。ここ一ヶ月ですっかり夜型の生活が身に付いた。
ひとつしかない視界は新鮮で、はじめこそ少し落ち着かなかった。ただ慣れてみると、如何に「今」を蔑ろにしていたのかというのがよく分かる。落ち着いてじっくりと向き合えば、なんだって少女が知っているより色々な側面や表情を持っているものだ。世界は知るよりずっと複雑に出来ており、しかしやはり少女にとっては美しいものだった。
よく見かけるネズミを見失った少女は一休みしようと地面に座り込もうとし、今着ているのがボロ着ではなくゴルゴナが持ってきたフリルたっぷりのワンピースなのを思い出して止める。月を眺めながら、一度屋敷内に戻ろうかと悩む。今日は天気が良いからもう少し外で風に当たっていたい気分なのだが。
少女はふと吸血鬼の気配が近付いてきているのに気付いた。といってもここは気配に溢れていて、どれが誰かまではよく分かっていない。ひとりでないのが分かるので安心する以外の使い道は今のところ出来ていない。御真祖様は例外だが。
誰だろう、と生垣の向こうから現れる気配を待って、目が合ったのが見知った初対面の相手で驚いた。
互いに予想外だったので驚いた顔を見合わせる。
「こんばんは、良い夜ですね」
「こんばんは」
少女はずっとずっと会いたかった相手とぎこちなく挨拶を交わし、次の言葉に困った。言いたいことはある。何だったら練習だって頭の中で何回もしたし、そのためにここまで来たのに、いざ会うと上手くいかないものだ。完全に頭が真っ白だった。言い訳をするなら、こんなにも会わせてもらえないのだから、会う時にはちゃんと機会が用意されるものだと思っていた。油断しきっていたのである。
しかし、言葉は上手く出てこないが、だんだん喜びが溢れてきた。彼に会うために家を飛び出した。どうしても会いたかったのだ。会って、伝えたかった。
たくさんの苦労があり、時には血が流れ、その先に掴み取るあの未来がある。あの、素晴らしい、人間も吸血鬼もなく笑い合い、手を取り合える世界が確かにやって来る。この感動を他の誰でもなく、あの世界で笑っていたこのひとに知って欲しいと思ったのだ。
嗚呼、彼が目の前にいる。
「私ずっとあなたに会いたいと思ってました」
「知っていますよ、お嬢さん」
彼は微笑んでいる。少女が知っている姿からするとキザったらしいというか、なんというか。それが少し残念にも感じたが、しかし些細なことだ。
「でも今、なんだか言葉が上手く出てこなくて」
何度も脳裏に描いたあの光景が頭を過ぎる。あの眩くて騒々しい町のこと。私が見た美しいもの。それが今と確かに地続きに存在する。彼が、確かにここにいる。
「聞いて欲しいことがあるんです。たくさん、ほんとに」
「えぇ、お聞きしましょう。安心してください未だ夜は長い。しかしどうやら、立ち話にするには勿体ない話のようだ。どうぞこちらへ」
差し出された手を取って、少女は花が咲いたように笑った。その目尻を朝露が流れて、しかしそのことに本人は気付かない。蜂蜜色の瞳をただ目の前のひとにだけ向けて輝かせている。だから、その月明かりの下の煌めきを見たのは、内心焦っている彼だけだった。
身一つでただ自分に合うためだけにやって来たという少女、そんな存在が気にならないはずない。自分にだけなかなか会わせて貰えないのでやきもきもした。しかし、少女が溢れんばかりの喜びを真っ直ぐに示すので、これは会わせて貰えなくても仕方ないと考え直す。
それだけ、少女の涙は甘やかに輝いていた。