もう限界なので休ませてください。。。 作:オティヌス
「あー疲れたー」
「ちょっと浅倉、寝転がるなら汗拭いてからにして」
その日、283プロダクションの提携しているレッスンスタジオで浅倉透と樋口円香はダンスの自主練習に勤しんでいた。
「はーい......樋口、タオル取って」
「自分で取れ」
再度浅倉透は間延びした返事をしてバッグからタオルを取り出して拭き始めた。
それを見た樋口円香は少々の溜め息を吐きながら自身もタオルで汗を拭くと、スポーツドリンクに口をつける。
◯塚製薬から出ている青いあれである。
「透せんぱ〜い!」
レッスン室の扉が開かれると、ふわふわな雰囲気を纏った少女が現れる。
表情筋がもうニパーッと開放されていた。
「もう! 走らないでよ、雛菜ちゃん!」
そんな少女の後ろから小柄な少女が追走してくる。
その様子から普段から振り回されていることが容易に想像できた。
「......雛菜、騒がしい」
「あー円香先輩お疲れ様〜」
雛菜と呼ばれた少女、市川雛菜は透の持っていたタオルを取って髪を拭いてあげながら円香の方を向いて言う。
「うーん、雛菜もうちょっと後ろー。かゆい」
「あはー。痒いところはありませんか〜?」
透と雛菜は二人で何やら小芝居めいたものを始めている。
「小糸、そっちはどうだった?」
「あ、うん! きちんとやってきたよ! 途中、雛菜ちゃんが飽きそうになってたけどね」
ふんすと返答する小糸と呼ばれた少女は福丸小糸。
後半の発言を聞いた円香はやっぱりねと思いつつ、いつものことかとすぐに気にしなくなった。
彼女たちは『Noctchill(ノクチル)』。
283プロダクションが誇る幼馴染4人組で結成されたアイドルグループで、業界でもかなり珍しい組み合わせの彼女たちは透明感溢れる独特の世界観で人気を博しており、割合女性人気の高いグループでもある。
現在彼女たちはこのレッスンスタジオで、ダンスレッスンとボーカルレッスンに分かれて練習をしていたのだった。
「そうだ〜。ねぇねぇ、お昼食べに行こ〜?」
透の汗を拭き終わった雛菜がそう提案し、確かに時間的には丁度良いなと円香は納得した。
どうせ自主練習は午前中で終わる予定だったし、確かに空腹気味にはなっていると。
「いいね。何食べよう? ......小糸ちゃんは何が良い?」
「ぴぇっ! え、えっと......」
まさか自分に振られるとは思わなかったのか、いつも通りの可愛いらしい奇声を上げ、思案している。
基本的にこういう場合、透か雛菜の食べたいものを食べに行くことが多い。
勿論、円香や小糸が食べたいものを食べに行くこともあるが、割合的には少なかったりする。
「雛菜はね〜、ラーメン食べた〜い」
すると雛菜の口から彼女のチョイスとしてはかなり珍しいメニューが放たれた。
この四人でラーメンを食べに行ったことは片手で数えられるくらいだろう。
確かに透か雛菜のチョイスになるとは行ったがファーストフードやファミレスが主体であり、専門の店に行くことは割りと少なく、特にラーメンというのは女子高生4人組としては少々ハードルの高いものであった。
「......雛菜ちゃん、珍しいね。いつもならハンバーガーとかなのに」
何故か小糸は恐る恐るといった様子だった。
そう、ここで小糸は何か嫌な予感を感じていたのだ。
たかがランチに何を食べるかを決めるだけなのに。
小糸は昔から勘が良かった。
良かった故に起きる弊害というべきか。
「うん、プロデューサーと前に二人っきりでラーメン屋さん行ったんだけどすごく美味しかったから〜」
そしてやはり予感は的中した。
明らかに4人の間に流れる空気が凍っており、体感温度も下がっている。
もし第三者がこの場にいたら、即時退散するオーラが場を支配していた。
「......へぇ、雛菜。プロデューサーと二人きりで食べに行ったんだ」
透の声色は酷く低い。
明らかにランチ前のテンションではなかった。
「うん、プロデューサーの大好物なんだって〜。大盛り食べてて男の人って感じだったよ〜」
雛菜の声色は変わらない。
その表情はとても幸せそうに見える。
まるで私は彼の私生活を知っているとマウントを取る悪女のようだった。
「あの人、アイドルに対してよりにもよってラーメンって......」
円香の声色は酷く苛ついている。
アイドルは見られる仕事である。
だからこそ身体はしっかりと維持しなければならない。
そんな自分たちを連れて行くお店に選択するのがラーメンというのは納得がいかなかった。
「え〜。でも円香先輩、雛菜達だって普段からハンバーガーとか食べてるでしょ〜?」
それに雛菜はその辺りちゃんとしてるよ〜と煽るように言ってくる。
そう、それは円香自身分かっていた。
普段からトレーニングや私生活で健康管理はしっかりとしている。
アイドルという仕事を始めてからそれは切っても切れないものになった。
応援してくれているファンが見ているから。
決してあの人に見られているからとかそういった事情はないと円香談。
「......それでも二人っきりで行くっていうのも、そこでカロリーの高いものを選択するのも、アイドルとしてどうかと思うし。それにあの人もあの人_____」
「円香先ぱ〜い。雛菜がプロデューサーの好きなものが食べたいって言ったんだよ〜」
______なんでプロデューサーを責めるの〜?
雛菜の声は深淵の奥底から聞こえる魔性そのもののように思えた。
「ぴ、ぴぇぇぇっ......」
小糸はその瘴気に当てられて、産まれたての子鹿の如く震えていた。
「......私も今度プロデューサーとラーメン食べに行こ」
「は?」
「あは〜」
「ぴぇっ」
そして透の一言でさらに泥沼が加速した。
なぜプロデューサーとラーメンを食べに行っただけでこんなことになっているのか。
別にアイドルだから食生活に気をつけろだとか、二人きりで行くこと(これは多少問題ではある)を問題にしているわけではない。
プロデューサーは周りのことをよく気にしている、いやしてくれている。
食事に行く時は相手の状況で判断して店を選択しているため、ノクチルの4人は今までファミレスやお洒落な喫茶店などの選択肢が多かった。
故にプロデューサーの好きなもの、という選択肢であるラーメンは誰も行ったことはなかったのだ。
あの自分ではなく周り優先のプロデューサーの好きな店に連れて行ってもらった、これが4人にとって一番重要であり、引っかかっているところであった。
「やっほー。みんなお疲れ様ー」
その時であった。
凍結した空間を粉砕するかの如く、スタジオの扉を開けて現れたのは件のプロデューサーであった。
タイミングが良いのか悪いのか。
彼の表情はのほほんとしている気がした。
「やは〜♡ プロデューサ〜。雛菜頑張ったよ〜」
そしてそんなプロデューサーの元へいち早く駆け寄り、抱きついたのは空間を凍結させる原因を作った雛菜。
その速度、縮地の如くであった。
「っと、こら危ないだろ。でも頑張ったなら褒めないとね。偉いぞー」
プロデューサーはそう叱りつつも、よしよしと頭を撫でた。
まるで愛犬を撫でる飼い主のようである。
「あは〜、くすぐったいよ〜」
雛菜はそうは言いつつもめちゃくちゃ嬉しそうである。
そう建前というやつであった。
以前プロデューサーはそう言われて、撫でるのを止めたら不機嫌になって仕事にほんの少し支障がでかけたことがあったため、取り敢えず撫でるのは止めないのである。
「ひ、雛菜ちゃん、ちょっと......」
そして小糸は小糸で万能地雷グレイモヤと化した幼馴染の暴挙を止めるべく動こうとする。
本来ならばここでこの状況を止めることが可能な人物がいるのだが。
「......」
「......」
今円香と透は無言で制汗スプレーを全身に吹きかけていた。
何ならタオルでさらに汗を拭き残しがないレベルで拭いていた。
彼女たちは今日の自主練をボーカルレッスンにしておけば良かったと後悔していた。
ダンスレッスンはボーカルレッスンに比べて汗を掻く。
当たり前のことであった。
「小糸もありがとね」
するとプロデューサーはスマートフォンを取り出し、何かを打ち込むと小糸のポケットが振動する。
少しびっくりしながらスマートフォンを見るとメッセージアプリの『CHAIN』の通知が来ていたので覗いてみると。
『小糸にはいつも助けてもらってるな。雛菜のこと本当にありがとね』
それを見た小糸はすぐに顔を見上げ、プロデューサーに視線を向ける。
プロデューサーはニコリと小糸にウィンクをして微笑んだ。
本当にプロデューサーさんはわたしがいないとダメダメなんですから......!
彼女も彼女で駄目な様子であった。
既に小糸の表情は後方彼女面というべきか、周りのちょっと子供っぽい友人達を大人っぽい彼と並んで笑いながら面倒を見てるというやつだ。
やれやれと言いつつも嬉しそうな一昔前のラノベ主人公のようでもある。
「貴方はいつまで雛菜と抱き合っているつもりですか。ミスター・ロリコン」
そして全身フローラルな香りに身を包んだ円香は漸く復帰したのか、いつもの罵倒混じりのコミュニケーション方法でプロデューサーへ寄っていく。
ロリコンと言う割りには円香も円香でプロデューサーと一歩半程の距離まで近づくあたり、本心では思っていないのは確かであった。
「いやこれは抱き合っているというか、抱きつかれたというか......」
「雛菜のせいにするんですね。そういうの責任転嫁って言うんですよ」
「疑わしきは罰せずという言葉があってだな」
「プロデューサ〜、別に雛菜は良いんだよ〜」
「.....っ!」
「そんな鋭い眼光で睨まれてもなぁ。あと小糸、スマホ見てニコニコしてないでこの子達止めるの手伝って」
「えい」
そしてそんなやり取りの最中、プロデューサーの背中から挟み込むように汗対策ばっちりな透がピッタリと抱きついた。
淡いサボンの香りが立ち上がる。
実はプロデューサーがここに来た時点で一目散に行きたかったのは透であった。
故のこの行動(バックスタブ)である。
「こら透。俺の背後を取るとは......やるな」
「うん、みんなに構ってばっかりで隙ありだったよ」
透の何故か自分を少し責めるような発言にプロデューサーは脳内にクエスチョンマークが浮かんだ。
彼はただ仕事の合間を縫って、練習の様子を見に来ただけだというのに。
この状況、理不尽極まりない。
「透も早くその男から離れて。貴方もされるがままなのは何なんですか。女子高生を侍らせて楽しいんですか、ミスター・ハーレム」
「うん、まあ性犯罪者とか言わないでくれたのは良かったかな」
プロデューサーが引き剥がさないのは下手に触れてセクハラになるのを恐れているからである。
先程雛菜の頭を撫でていたのは関係性からそこまでは許されているのを確信しているからこその言動であり、且つ雛菜の機嫌が良くなり、仕事にプラスになるのであればやらない手はない、というのがプロデューサーの出した結論であった。
まあ、円香の当たりの強さは今に始まったことではない。
初めて会った時からである。
悲しくはなるが。
「そうだ、ちょうどお昼の時間だから一緒にご飯食べに行かないか? 奢るぞー」
プロデューサーは思い出したかのようにそう提案する。
そもそもの目的は様子を見に来たというものではあるが、実際は昼食を奢りに来たというのがメインであった。
こういった積み重ねが仕事のしやすさに直結するのである。
「行くー♡」
「うん」
「い、行きますっ!」
「......相変わらずご機嫌取りが上手ですね」
円香に関しては分かりづらいが全員が行くと、承諾してくれたようだ。
プロデューサーは少し安堵した。
この謎の状況を取り敢えず打破できたのは僥倖なのか。
ここの所、こういった事例が発生することが多くトラブル解決能力が上昇していると少し思い始めたプロデューサーであった。
まあその分財布が軽くなっているのだが。
「みんな何か食べたいのある?」
この付近だとランチをやっている喫茶店やスペインバル、イタリアンもしくは普通にファミレス辺りかなと目星をつけるプロデューサー。
プロデューサーの基本スキルとしてスムーズに店選びが出来るというものがあり、これは取引先との接待で身につけた技能である。
こういった時、慌てなくて済むのは習得できて良かったとプロデューサー談。
「「「「プロデューサー(貴方)(プロデューサーさん)の好きなもの」」」」
4人の二人称は別としてシンクロしたその要望はプロデューサーを困らせるものだった。
そんなこと普段彼女たちは滅多に言わないのにと、頭を抱えそうになる。
「......うーん、そうだな」
ここで再度、彼女たちに問いかけても同じ返答しか帰ってこなさそうだと判断したプロデューサー。
少し思考の海へと入る。
さあ、ここでもうお分かりだとは思うが彼女たちはプロデューサーに対して複雑な感情を抱いていることは最早言うまでもないと思う。
プロデューサーの好物を食べたいというのはそういった感情から来た可愛い要望なのである。
浅倉透は過去にある公園のジャングルジムでプロデューサーと出会った。
曰く、一目惚れ。
樋口円香は幼馴染みが突然アイドルになると言い出し、それを心配して事務所に突撃したときにプロデューサーと出会った。
曰く、監視のため。
市川雛菜はアイドルになった幼馴染みに影響され、オーディションへ参加し、そこでプロデューサーと出会った。
曰く、幸せのために。
福丸小糸は幼馴染み全員がアイドルになり、置いてきぼりになるのを恐れ、オーディションへ参加しそこでプロデューサーと出会った。
曰く、追いつくために。
各々が自身の目的のためにアイドルになった彼女たち。
ここまで来るのに様々なことがあったのだが、今やアイドルになる前の4人とはかなり変わった。
良い意味でも悪い意味でも。
抱えていた彼女たちの問題をプロデューサーが親身に解決した結果である。
彼女たちの世界は彼女たちの世界で完結していたのをプロデューサーがこじ開け、世界を広げた。
彼にその自覚はないが、彼女たちは全員の共通認識である。
決して口には出さないが。
思春期とも呼べる多感な時期に出会って(喰らって)しまった強烈な男性観破壊。
既に彼女たちは元には戻れなくなっていたのだ。
元の男性観に。
「じゃあ、俺がよく行く町中華にでも______」
その時、彼のスマートフォンが鳴った。
ごめんと一言良い、電話に出るともしもーしと会話を始めた。
どうやら仲の良い仕事先の人のようだ。
4人は少しムッとしつつも仕事の邪魔はしてはいけないと少し静かにする。
するとそのままプロデューサーはスタジオを出ていった。
この時、4人を謎の直感が襲い、スタジオの扉へ向かい、そして少しだけ開けた。
プロデューサーは少し離れた自販機の近くで会話をしているようだったが声を聞き取ることができた。
「ええ、はい......ああ、大丈夫ですよ」
にこやかに話を進めるプロデューサー。
良い仕事が来たのか、そう4人は思っていたがその先の言葉を聞いて時間が止まることになった。
「______俺もあと半年なんで、ちゃんと引き継ぎの準備は進めてますよ」
ノクチルの女性人気高そう感は異常。
透と雛菜は特に。
あと引き継ぎは大事。