煌びやかなトゥインクルシリーズの裏側で、もがき、悩みながらも懸命に走っている、そんなウマ娘たちの欠片。


アプリでクラシック級9月までに未勝利戦を勝てないとゲームオーバーになる設定から、気づいたらできていたので初投稿です。

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夢の終わりと、光の始まり

 少女は夢を見る。

 その永い夢から醒めた時、少女は大人になる。

 

****

 

 夢を見ていた。ウマ娘なら誰もが憧れ、誰もが夢見る舞台。トゥインクルシリーズ。そこで、私は必ず煌めくのだと。そう決意していた。

 

 昔から、根性だけは人一倍自信があった。

 なんでも最後まで達成しないと気が済まない、頑固な気性難。

 だから、どんな障害でも、どんなに高いハードルでも、地道に走り続ければ、きっと超えられると、幼い私は信じて疑わなかった。努力はすべてを超える。私は努力で何もかも超えられると思っていた。どんな花でも、きっと咲いて、実をつけて。

 

 それが誤りだと知るのに時間はそれほどかからなかった。

 

 大きくなって、私は中央トレセン学園に頑張って入学して、そこでどうやっても超えられない、才能という壁にぶつかった。そこで、私の根性や努力でどうにもならないものがあることを知った。

 努力は必要だ。誰だって懸命に努力を積み重ねている。誰だって持ちうるすべてをレースに懸けている。だけどそれは勝利のための必要条件ではあるけれども、必ず『勝利』を約束するものではない。

 運も、強さも、実力も。そして『想い』も。体の限界も、命でさえも懸ける。たった一人にのみ与えられる『勝利』はこれほどまでに遠く、重く。されど眩いばかりの光を放っている。

 

 私には何も足りてない。何も持ってはいない。それを知るとき。それを知ったとき。私はわたしを知る。

 

 永い夢から目が覚める。決して夢見るだけでは夢は掴めない。

 

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

 既に日は沈み、空に残る夕焼けの跡が廊下を薄く照らす。

 トレセン学園の敷地の奥。練習のために残っているウマ娘達の声を聞きながら、廊下をゆっくり歩いていた。

 所属するチームに用意された部屋の前に立つ。窓からは煌々と明かりが漏れ出ている。まだトレーナーはいるようだ。引き戸を開けると、若干疲れたような返事が返ってきた。

 

「おー、お疲れ様。今日はトレーニングの日じゃないけど、どうしたんだ?」

「えぇ、少し用事があって」

 

 相変わらず、トレーナーは疲れた表情で、でもそれを悟られまいと努めて明るい表情で取り繕っていた。多分、私達ウマ娘のために、何度も作戦や案を練っていたのだろう。

 くたびれたスーツや雑に整えられた髪が苦労を忍ばせる。

 その表情が、心遣いが苦しい。私のため、担当を一人勝たせるために、睡眠時間までも削ってまで尽くしてくれるその気遣いが、私に言いようのない罪悪感を抱かせていた。

 

「相談?」

「…はい、トレーナーさん。少し、お話があります」

「…あぁ、わかった。少し待ってくれ」

 

 ずっと前から悩んで、悩んだのちに決めて決意した。それでも、どこか緊張している自分がいる。少し躊躇ってしまう自分がいることに気が付く。

 でも、それも今日で終わりにしよう。

 トレーナーは机に広げられた書類をどかす。レースの資料だったり、トレーニングメニューだったりするそれらは、これからはもう必要のないものになる。

 

「すまないね。片付けるのが苦手でさ、ごちゃごちゃしちゃってて」

「いえ、大丈夫ですよ。待ちますから」

 

 そういう表情は、やはりいつものように笑顔を見せてくる。

 片付け終わるのを待って、私は手に持っていた1枚の書類を机に出す。

 

「これを、渡しに来ました」

「…引退、するのか」

「はい」

 

 机に出したのは、競走登録抹消届。トゥインクルシリーズを走るウマ娘が登録を取り消す書類。

 

 後悔なんてない。やれるだけのことはやった。自分の限界を、幾度となく挑戦した。でもダメだった。

 理由なんていくらでも出てくる。だから、最後はお礼を言おうと決めていた。

 

「いままで……」

 

 ありがとうございました、というだけなのに。出てくるのは自分の情けない声だった。

 心が、胸が詰まるような寂しさと、悲しみが、胸につっかえながら言葉を紡ぐ。

 

「トゥインクルシリーズに挑んで、競って、私もキラキラしたいて思って挑んだ私を、助けてくれて、支えてくれたことに感謝します」

 

 今まで、何にもできなくて。ずっと勝てなくて。いろんな人の期待を背負って走った。それがすべて実を結ばないものであった。

 そんな後悔が、私の中に渦巻いている。

 

「いっぱい迷惑もかけて、靴や蹄鉄もいっぱいすりつぶして。ケガをして」

 

 口からこぼれ出るのは、期待を背負って、夢を抱いて。それを全部落としてしまった私の話。

 何度も挑んだ未勝利戦。接触して転んで、ケガで走れなかった。未勝利戦でも勝てなくて。いいとこ掲示板に入着。

 ケガをして何か月も走れなかった。リハビリも頑張っても、走れるようになっても、結局勝利からは遠のくばかり。

 

「もう、なんで走っていたのか、それすらもわかんなくなって。だから、やめようって思って」

「それは!」

 

 話をさえぎって、トレーナーは話し始める。その顔は、何か悲しそうな顔をしていた。

 

「勝てなかったのは、私の指導力不足で、キミにはなんの責任も、ましてや負い目など感じる必要などないんだ」

 

 トレーナーは誰よりも本当に私の勝利を願って、今まで頑張ってきた。私を夢の果てまで付いてくると、必ず導いていくと、そう語る。私自身が否定するその夢を、誰よりも信じて、真摯に向き合おうとしてくれた人だから。その葛藤というのは、私には知りえない程のものなのだと思う。

 

「キミは誰よりも努力して、誰よりも自分自身を、自分の走りを磨いてきたんだ。その過程が間違っているなんてことはない」

「でも勝てなかった。誰よりも劣っていた。それだけです」

 

 そんなことを言いたいわけじゃない。そんな突き放したいわけじゃない。なのに、口から出てくるのはどこまでも諦念に染まった言葉だ。私が掲げた夢を、私自身があきらめてしまっている。追いかけていたはずの夢がわからなくなってしまったら。私はどうすればいいの?

 

「私には、走るしかない。走る意味さえ見失ってしまえば、何も残らない。何もないんです」

 

 走るしかできなかった私には、この胸の痛みも、悲しさや虚しさもどう言葉にしていいかわからなかった。

 そして、その走ることも手放そうとしている私には、最後に何が残るというのか。何がそこに存在するというのか。

 

「誰かの想いを知るたびに、私はそれに応えられない自分自身が嫌いなんです。もう、嫌なんです、トレーナーさん」

「貴方は、何もないわけじゃない。今までの貴方の努力は嘘じゃないでしょう。大丈夫。今はまだ。でも必ず実る時が来ます」

 

トレーナーは優しく、私を励ましてくれる。

 

「願いも、努力も。それは何がなんでも本物です。貴方が歩んだ道は間違いなく貴方だけの道です。だから」

「もういいの!」

 

 自分でも驚くほど大きい声が出てしまった。でも、もう戻れない。だってそう決めたから。

 胸を締め付けるような痛みだけが、いまの私の中にある、すべてだった。

 

「もう、いいんです」

 

 レースは結果がすべてだ。己の才覚と体一つで戦い、勝敗はすべて私と、今までに積み上げた私の軌跡に帰属する。ゆえに、勝てないウマ娘は、己の能力の不足を呪いながら、いつかレースを去らないといけないのだ。

 

「私は勝てなかった。トレーナーさんがいっぱい時間をかけて考えてくれたのも知ってる。みんなが私を応援してくれたのも知っている。それに応えたかった。夢をかなえたかった」

 

 メイクデビューでは着差以上の、才能や技術の差を見せられた。未勝利では接触に巻き込まれたこともあった。トラウマで走れなくなった。勇気を出して出たレース中のケガで何か月も出場できなくなった。そうしていたら、気づいたら未勝利戦はもうなくなって、格上挑戦しか道がなくなっていた。そんなウマ娘がここにいる意味なんてあるのだろうか?

 

「いつか、絶対に勝ってやるって、努力もいっぱいしてさ。どのレースでも勝てるって思って走ったんだけどね」

 

 なにか掴めるかと思っていた。私が私であることを証明するために走った。

 

「駄目だったんだ。私には、何もかも持ち合わせなんて無かった。走った先には何も無かった…何も掴めなかった」

 

 やれることは何でもやった。自分自身でできることはなんでもやったつもりだ。

 それでも届かない程に、トゥインクルシリーズの壁は高く、分厚かった。

 

 そして私はその下に転げ落ちた一塊に過ぎなかった。

 

 夢を見て、その夢におぼれていた。そのまま夢を見続けれたら。走りたい、勝ちたい、そんな夢が消えたわけではない。それが決して偽りない私の根底だ。

 でも、現実は、夢を追いかけるのにはあまりにも強大で、私は無力だった。それだけが事実であるだけだった。

 

「いつまでも。夢は見たままじゃいれないから」

 

 

◆◆◆

 

 トレーナーとの話を終えて部屋を出た私は扉に寄りかかっていた。

 

 これで、私の居場所はなくなった。

 

 トレセン学園に入るなんて、ウマ娘にとってはとてつもない壁だというのに。夢に挑む志も、勇気も、そして覚悟も足りてなかった。

 私は私にしかなれない。それなのに、『GⅠウマ娘になりたい』っていって。それなのに卑しくも自分じゃない誰かを自分と重ねて、そうだったらいいなって憧れていただけだった。

 無理してお金を出してくれた家族に、応援してくれた友達に。必死に向き合ってくれたトレーナーに。応えられない自分が、嫌になる。

 そして、もう苦しい思いをしなくてもいいことに、少し安心する自分がいてさらに嫌になる。

 

「……弱虫」

 

 小さくつぶやく独り言は、薄暗い廊下の闇に消えてく。

 

 自然と、目からあふれる涙は、彼女の想いに反してどんどんとあふれてくる。

 安心したはずなのに。これで走らなくてもいいはずなのに。

 

「なんで、こんなに悲しいの?涙が、止まらない?」

 

 みんなと走るのが、勝負が、苦痛だった? 嫌いだった? それが私を苦しめていた?

 

 「なん、で?」

 

 この激情に耐え切れず、私は走り出した。あふれる感情の奔流にどうにかなりそうだった。

 トゥインクルシリーズになぜ挑んだの? 私のため? 家族のため? 夢も誇りのため? 誰かのため?

 本当は何も理由なんてないのに。熱い情熱も、背中を押してくれる感情さえも持っててなかったのに。

 

「何も、ないのに!」

 

 校舎の扉を蹴るように開け、走り出す。肌にあたる風が冷たい。街灯がぽつぽつと道を照らしている中を走る。ぽつり、ぽつり。雨が空から落ちてくる。それはいつの間にか激しく降りはじめ、私を濡らしていく。雨が何もかもを濡らして流していく。

 

 頭によぎる記憶が胸を痛める。

 寮の同室になった子といくつもの将来の夢を語り合った。

 週末になると誰かの部屋にお菓子を持ってて集まって夜更かししながら映画を見たりレースを見たり。そして寮長に叱られて解散するまでがワンセットで。

 イベントではファンの人がいっぱい応援してくれた。

 少ないながらも、応援してくれる人もいた。

 それに耐え切れなかった。 終わらせるのに、理由なんていらない。ただ、私は逃げ出してしまった。それだけだ。

 

 何物にもなれず、空っぽのままの私が、嫌いだった。

 

 止めどなく涙があふれてくる。どこまで走っていったのかわからないけど、段差につまずいて派手にコケて、体を激しくコンクリートに打ち付ける。あちこちが痛む。節々が痛い、心が、痛い。

 

「イッ! たぁっ、くそ……」

 

 涙がとめどなく流れる。それは決してこの痛みだけではない。

 抗いえぬ現実に押しつぶされそうになって、現実に目をつぶってしまう。それでも。あきらめられない。ほんの少しの後悔と一筋の光が差し込んでくる。それの正体が何なのか、私にはわからなかった。

 

「くそぉっ!」

 

 こぶしを地面に何度も叩きつける。痛みが増えていく。

 

 あぁ、これが、後悔か。

 永く追い求めたものが何も無かったとしても、走り続けた。走ることさえなくなってしまえば、いったい私には何が残るんだろう?

 

「何も、できなかったなぁ」

 

 自然と乾いた笑いがこみ上げてくる。なのに、涙も、嗚咽も止まることはない。

 

 熱い想いは内から内からとこみ上げる。あきらめられない夢が、小さな誇りが、自尊心が。最後に一思いにと燃えて、胸の奥が熱くて、痛い。もっと。もっと、ここに居たかった。ここにいることを許してほしかった。ただ、それだけだった。

 大声で、人目も憚らず大声で泣く。頬を伝い落ちる涙は、静かに私の中にあった熱を奪っていく。涙とともに、すべて、夕闇に溶けていく。

 

 

◆◆◆

 

 

 ふらふらと、私は立ち上がって歩き出す。雨と風が体温をどんどんと奪っていき、寒さに体が震える。感覚をごまかすようにゆっくりとした足取りで歩き始める。公園のようだが、走り回ったので場所がよくわからない。とりあえず道路に出ようとして歩き出す。

 

 瞬間、私の視界は光に包まれた。まぶしさに目を細める。風も、雨も。すべてが遠く感じる。

 

 ――――もういいか。

 

ふと、雨がさえぎられた。傘だ。

 

「大丈夫か? 寒いでしょ」

「……先輩」

 

 その姿はチームメイトの先輩だった。年は3つ上だけど、デビューは同じ時期で、私は先輩と呼んでいた。

 屋根のあるところに行くと、暖かい見慣れたパッケージのお茶が差し出される。その温もりで、随分と体温が下がっていたことを知った。

 

「ありがとう、先輩」

「ん、いいよ。これで体を拭きな。ひどい顔してるよ」

 

 走って学園を飛び出した私を追いかけたといってタオルを手渡してくる。いろいろと準備してくれているようだった。

 

「ちっとはすっきりしたか?」

「やっぱり、みてたんですか」

「校舎から泣きながら全力疾走で飛び出てきたんだ、そりゃなんかあったって思うでしょ」

 

 そう言うと、彼女はにこりと笑って私の頭を撫でてくれた。ほっとしたというよな笑顔だった。多分、トレーナーとの会話も、引退の話もすべて聞いているのだろう。

 

「全部、聞いてるんですか?」

「……まぁね」

 

 そう言ってタオルで私の頭をぐりぐりぬぐい始める。乱暴にぐしゃぐしゃと頭をかき乱される。私はされるがままにそれを受け入れていた。

 雨は降り続く。闇に包まれた公園の中でちびちびペットボトルの中身を飲む。沈黙が薄暗い公園を支配していた。沈黙を先に破ったのは先輩だった。

 

「ごめんなさい。ずっと考えてたけど、どう声をかければいいのかわからない」

 

 先輩は手元のペットボトルをいじりながら話し出した。

 

「私はオープンウマ娘で。未勝利の、引退しようとしてる貴方に何を言っても、それは嫉妬や嫌味に聞こえてしまうんじゃないかって思うと…何て声をかけるべきなのか…わからないんだ」

「いいんです。先輩」

 

 先輩は数か月ほど前に未勝利戦を勝ち抜いて、今はオープン戦ウマ娘だ。私は未勝利ウマ娘。勝者と敗者。先輩との間には決して超えることができない溝があった。

 

「先輩は勝ち上がった、持ってる側のウマ娘です。そして私は負けた、持たざる側のウマ娘。ただそれだけです」

 

 私の言葉に先輩は目を伏せる。トゥインクルシリーズの世界は厳しい。オープンウマ娘になれば胸を張って地元に帰れるほどの実力者だ。誰もが見ても勝者。先輩はもう手の届かないところにいる。そしてその言葉も、見える景色も、何もかもが異なるものだ

 

「先輩が私のこと、そんなに気にしなくてもいいんじゃないですか」

 

 先輩は寂しそうに私を見る。そうじゃないんだ、と

 

「貴方は今まで頑張って来たのを知ってる。それを一番近くで見てきた。一緒に励まして、一緒にトレーニングをして。ずっと隣にいたはずなのに。それなのに、今の貴方に何を言った言ったらいいのかわからない自分が、心底嫌になるんだ」

 

 私は首を振りながら答える。そんなことないと。本当に優しい先輩だ。私なんかよりよっぽど。

 

「その優しさに何度も助けられたんです。その言葉だけでも嬉しいです」

 

 落ちこぼれの私は、何度も先輩に助けられた。その優しさに何度も救われてきた。同期が次々デビューしていく中、そして未勝利でも勝てない時期で焦っていたとき、ケガをして走れなかった時。

 何度も壁にぶつかってきた。何度も立ち上がっては転んで、倒れて、何も掴めないままでも。先輩は隣にいてくれた。

 そうして励まして、己を鼓舞して、全力で戦ったその結果が、勝利と敗退だった。ただそれだけの話だ。

 

「それに、勝てなかったら契約解除。もとからそういう話でしたから。それが遅いか早いかの違いです」

 

 トゥインクルシリーズのルールの一つに、クラシック級9月までに未勝利戦を勝ち抜けなかった場合、そのウマ娘と担当トレーナーとの契約が解除される。もともと未勝利戦もその時期までしかないので、多くの場合、そこで引退するか、地方に移籍する。格上挑戦を続ける場合もあるが、多くのウマ娘がここで道をあきらめる。

 

 だから、私がいま引退したとしても。ここで居なくなっても。何もおかしなことはない。何も間違っちゃいない。よくある、トゥインクルシリーズの煌めきの影の部分だ。

 

「ありがとうございます、先輩。私はもう大丈夫ですから」

「そんな、貴方なら、またきっと勝ち上がれるわ」

「いえ、もう私は走れない。きっと勝てない」

「……ケガ、なの?」

 

 違うんです、と私は静かに首を振る。

 

「もう、聞いているんでしょ?」

 

 そう言って、私は立ち上がる。

 

「先輩の気持ちも、この暖かさも。うれしいかった。そして先輩は勝ち上がって、オープンにまで手が届くくらいすごいウマ娘です」

 

 それに、と続ける。

 

「それに比べて私は何も持ってなかったんです。才能も、実力も。闘志も理由も何もかも」

 

 夢があった。それに向かって走っていた。だけど、目の前を霧に閉ざされたように、何もわからなくなってしまったのだ。走る意味も。なぜ走っていたのかさえ。

 

「いやでも考えちゃうんです。私は何を根拠に走ってきたの?何を信じて走ってきたの?って」

 

 残るのは胸の奥に残る痛みだけだ。得体の知れない、でも鈍く、ずっと心の奥底で痛むのだ。

 

「その問いの答えが何もないことに。その手には何も残ってないことに」

 

「ずっと、辛くて苦しくて、走るのが嫌になっちゃった。そんな奴がここにいちゃいけない。だってそうでしょ?」

 

 誇り高いトゥインクルシリーズの舞台に、自分はふさわしくない。闘志も志もないウマ娘など、必要とされないのだから。

 

「だから、走るのをやめるの?」

「はい。だって」

 

 空が瞬く。雨の音がやけに大きく聞こえる気がした。

 

「私は、どこまで行っても迷惑ばかりかけている。だから、私なんかいないほうがいいんです」

 

 雨粒が屋根を打ち付ける。街灯がうっすらと私と先輩を照らす。先輩の顔は逆光になっていてその表情がよく見えない。

 

 鈍い音を立ててペットボトルが落ちる。私の前に立った先輩の表情は、怒りのようにも、寂しげにも見えた。そして私の胸倉を掴んだ直後、視界が大きく揺れた。顔の横に強烈な痛みが走る。ジンジンと痛む頬と先輩の降り降ろされた手を見て、私は叩かれたことをようやく認識した。

 

「ばかやろう!」

 

そういう先輩は、とても悲しそうな顔をしていた。

 

「あんたはけがをして、足が動かなくなって倒れても、レースで接触事故が起きた時も。這ってでも前に進んできた。どんな困難も乗り越えてきた。そんなウマ娘じゃないのか」

 

 私の胸倉を掴むその手は、震えていた。その目には涙が浮かんでいた。ここまで感情を露わにする姿は初めて見るものだった。

 

「私は、体が弱くて、ずっと病気で休みがちだったんだ。デビューできるか、それよりも、明日を生きれるかどうか、そんなウマ娘だったんだ。でも、私は貴方を見て、なんてすごいんだろう、なんでこんな頑張れるんだろうって思ったんだ」

 

 違う、それはそうしないと勝てないからだ。ひたすら自分のためなんだ。

 

「何度倒れても。毎日毎日グラウンドで倒れるまで自分を高めようとする貴方が、私の希望だったんだよ」

 

 見苦しく這いずり回らないと勝てないからだ。そんな姿が希望なわけないじゃないか。

 

「貴方は、私の夢だったんだ。あんたが憧れだった。何度でも立ち上がる貴方が目標だったんだ。そんな貴方がいたから、ここまでこれたんだ」

「…私は未勝利ウマ娘だよ」

「そんなこと関係ないよ!」

 

 そういう先輩は、泣いていた。私は、見ていられずに、顔をそらしてしまった。

 

「結果がすべてかもしれない。勝てないと意味がない、そうかもしれないけど!」

 

 先輩の声が、涙でかすれていく。手の力がだんだんと抜けていく。

 

「いない方がいいなんて言わないでくれよ…目をそむけないでくれよ。私達を見てくれよ…!私はあんたのおかげでここまで頑張れたんだよ」

 

 すべてを吐き出して先輩は私の胸で泣いていた。

 すべてが終わったと思っていた。期待が、思いが、重責と感じていた。もう、夢は醒めてしまったと思っていてた。

 

 違う。すべて私が途中で投げ捨てていた。私が、私自身で終わらせていただけだった。

 

『頑張ってね。もし、辛くなったら、いつでも帰ってきていいから』

 背中を押してくれた両親にも。

『頑張って来いよ。今度また勝負だ!』

 応援してくれた友人にも。

『キミとなら、栄光を掴みとれると信じている。僕に担当させてくれないだろうか』

 ずっと支えてくれたトレーナーにも。

 

 気づかないだけで、いろんな人から思いをもらっていた。支えられていた。

 いろんな『想い』を背負っていた。それを見えないふりをしていただけだった。私はちっぽけな夢におぼれてただけだった。

 

「何もないって言うなら、私が貴方の空白を埋める。あたしがあんたの夢を背負って走る。どこまでも行く。あんたが自分の価値がないって言うなら、私が勝って、あんたの人生に価値をつけていく! だから…何もないなんて言わないでくれよ。あんたが私の憧れで、目標で、大好きな存在だったんだから…」

「なんですか、それ」

 

 胸が痛い。締め付けられるような想い。押し込んでいた想いが、涙があふれてくる。

 私は気づかないで、多くのものを取りこぼして、周りが見えていなかった。夢を見て、その夢に囚われて、現実を見ていなかったのは私のほうじゃないか!

 

「私達は一人で走れないんだ。だから、あんたも頼ってくれよ」

 

 そう言って慟哭は段々と弱くなっていく。

 

「一人で、なんでもできるわけじゃないんだよ…」

 

 先輩の優しさが痛い。後悔も、みんなの想いも。ずっと目をそむけていた。それを背負うのが、怖かった。もし負けたら、もし駄目だったら。そんな恐怖や、自分の自信のなさを、直視することを恐れていた。

 

「大丈夫ですか!」

 

 大きな傘を差したトレーナーが泥だらけになるのもいとわず一目散にかけてくる。スーツのジャケットや髪の毛がぐちゃぐちゃに乱れている。

 

「二人とも、体が冷えてしまいますよ」

 

 トレーナーは静かに、そっとタオルと、ジャージを私達の肩にかける。

 

「トレーナー、私は……」

 

 私は言葉を出そうとして、でも何も出てこなかった。さっきあれほど拒絶してしまったのに。私に何が言えるんだろうか。

 

 

「キミの葛藤や悩みがどれほど深いものなのか、わかる、とは言いません。それを言う資格もない。ですが、もし許されるのなら、貴方に伝えたい言葉があります」

 

 ぎこちなく頷くと、トレーナーは優しく語り始めた。

 

「逃げたっていい。投げ捨ててもいい。わからないなりにもがいてもいい。キミはどんな理由を持ってもいい」

 

 優しく肩を叩いてくれる。その大きな手のぬくもりが伝わる。

 

「悩んで、もがいて、その先に貴方が貴方である理由を見つければいい。キミが納得できるような理由を持てばいい。だけど、もし、辛いなら、苦しいなら。遠慮なく頼ってほしい。私はそのためにいるのです」

 

 そういうトレーナーの言葉に私は、あるがままに言葉を紡ぎだす。

 

「最初から才能なんてないことはわかっていたんです。それでも夢を追いかけていたかったから」

 

 中央の才能にあふれるウマ娘に打ちのめされて、期待に応えようと無理してでも頑張っていた。努力がすべてを解決するって信じていた。想いは何もかもを凌駕すると思っていた。

 そうして打ちのめされて、勝ちたいと焦っていた。どうしても勝てない現実が辛かった。

 

「勝てない自分が嫌で、何もない自分が嫌いで。何もできない自分が嫌いでした」

 

 最初から何も無かった。何物にも慣れなかった。いくら走っても超えられない壁があった。上にいるウマ娘のその才能に、煌めきに目が焼かれてしまいそうだ。しんどくなって、勝手に逃げて。勝手に世を恨んで、勝手に折れていた。だけど

 

「それでもいいんです。そうやって私たちは強くなっていく。道を切り開いていく」

 

 トレーナーは静かに語る。幾度も見送り、そして見てきた目は、とても優しい目をしていた。

 

「完璧になどなれません。ただ一つ正しいものなどないのですから。それでも、貴方は唯一無二で、かけがえないそんざいなのですから」 

 

 あぁ、私は。

 なんと、愚かだったのか。

 

「私は……」

 

 結局、私は、どこまで行っても私だった。自分しか見ていなかったのだ。

 

「何もできないと思っていたけど、私は、身近な人を、救えていたんですね」

 

 仲間がいた。隣で支えてくれる人がいた。そして、私の走りで救われた人がいた。

 気づかなかった、気づかないふりをしていた。それを見ろと、勇気をくれた。

 まだ、少し、震えが残っている。決して寒さだけじゃない。それは恐怖だ。それでも。

 

「先輩、ありがとうございます。私は進む勇気をもらいました」

 

 雨はいつか上がる。そして夜は明ける。

 

「夢ばかり見てられないけど、涙は、止まらない、けど。ずっと痛いけれど。誰かのために、私の走りが誰かの力となれるなら、まだ走りたい」

 

 そして、感謝の言葉を伝えよう。今まで支えてくれたこの人に、ありがとうって伝えよう。

 

「ありがとうございます。勇気を。支えてくれた思いをくれて」

 

 何もないわけじゃない。私ひとりじゃない。たくさんの想いを。取りこぼしたモノを手にして走ろう。

 

「先輩、トレーナー。私、痛いけど、苦しいけど、また、頑張ってみるよ」

 

 私の走りが、誰かに届くって、気づいたから。

 

「遅いよ、ばか」

 

 そう言って、先輩は笑った。

 

 冷え切った体に、また熱が入るのを感じながら。私はまた、歩き出す。

 

 

***

 

 夢を見ていた。永い、永い、夢だった。

 その夢から醒めた時、少女は大人になる。少女は現実に戻っていく。

 

 夢を見てばかりはいられない。私達は、夢の主人公で、それはまぎれもない私自身だから。

 

 ゆっくりと、しかしいずれはまた。

 

 そうして、少女は走り出す。消えない炎を胸に灯しながら。


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