幻想郷《げんそうきょう》、そう呼ばれる広大な土地が日本にあった。
人が立ち入ることのない山奥を越えたそのさらに奥。幻想郷は人間が到底みつけることのできない場所にある。そのうえ、二つの結界が幻想郷には張り巡らされていた。その結界によって、たとえ人間が幻想郷にたどり着いたとしても中に入ることはできない。それどころか「入れない」ことを認識すらできなかった。
そんな厳重に外界と隔離された内側には、人間の他に妖怪、精霊、幽霊、果てには神。人ならざる者があまた存在し、共存していた。まさに幻想の世界がそこにあった。
しかし、共存といっても様々な種族の集まり。多種多様な勢力や思想があり、広大な土地であっても小競り合いや衝突という問題は日常茶飯事起きていた。また、意図せず幻想郷に影響を及ぼすほどの強大な力を持つ者もいる。放っておいたら共存のバランスはいつ崩れて去ってもおかしくはなかった。
それを代々守ってきたのが博麗《はくれい》神社の巫女だ。博麗神社は幻想郷と外側の境に建てられ、巫女は結界の管理と幻想郷の守護を任されている。何百年にわたって幻想郷で起きた騒動は巫女によって対処されてきた。
一括りに騒動といっても多岐にわたる。妖怪同士の争いなどは原因がはっきりとしていて良い。その仲裁に入り、言うことを聞かないのであれば退治するだけだ。
ところが、元凶が分からない怪事件などは困る。たとえば幻想郷全体が紅い霧に覆われたり、五月になっても冬が終わらなかったり……。そういった規模の大きい原因不明の事件は「異変」と呼ばれ、大抵が巫女の力でも一筋縄ではいかない強者が絡んでいる。一言でいうと解決に骨が折れるのである。
とはいえ、幻想郷の住人に直接は危害が及ばない異変であっても、無視をしていると次第に結界に影響を与え、最終的には幻想郷の崩壊にまで発展する。どのような異変でも博麗神社の巫女として放置できない。
そのため、巫女は何代にもわたり、異変の数々を解決してきた。幻想郷が平和であることは、博麗神社とその巫女がいたおかげというのも大げさではない。
現在の巫女に代が替わっても、幻想郷では数多くの異変が発生し、彼女によって解決されてきた。彼女もまた巫女としての務めを全うしているのだ。
しかし、今までの巫女とは少し様子が違った。彼女の人柄も影響しているのか、博麗神社に近寄らなかった妖怪達が神社に姿を現すようになった。さらには食べ物や酒を持ち寄り宴会までする始末。元々から幻想郷の端にある博麗神社は人間の参拝客が少なかった。付け加えて神社に妖怪達が居座ることで、人の出入りはぱったりと途絶えてしまった。そのことについて、当の巫女は妖怪達と一緒になって酒を酌み交わし、全く気にしていない様子だった。
宴会の席でとある妖怪が、自分達とつるんでいて良いのかと巫女に尋ねたとき、
「博麗の巫女はちゃんとやってるからいいじゃない」
と酒を催促された。
今では少し考えを改め、人間の信仰を考えるようになったが、賽銭欲しさという面が大きい。
それでも歴代の巫女と変わらず人々から慕われているのは、同じくそんな人柄によるものだろう。
博麗霊夢《はくれいれいむ》、それが風変りな現在の巫女の名前だ。
◇
のちに幻境異変《げんきょういへん》と呼ばれる異変の始まりは静かだった。
ある日の早朝、空に浮かんでいる黒い点を人間の里の民が見つけた。常に目を凝らしていないと見失うほど小さな点。最初は星か何かと思われたが、点は雲が横切っている最中も確認でき、その下にあることがわかった。
人から人へ、ときには妖怪へ、あっという間に黒い点の噂は里中へ広まった。ところが、形は違えど、幻想郷でこのような不思議な現象はよくあること。人々は日常生活を営みながら、念のため博麗霊夢に空の異常を伝えることを決めると、騒ぎは収束に向かっていった。
博麗神社に向けて着物姿の四人の男達はすぐに里を出た。里から神社までは遠く、出発が遅ければ日が暮れるまでに帰ってこれなくなる。日が落ちれば、妖怪達の時間だ。命の危険も出てくる。
人間の里から東には木々が生い茂る丘が見える。緑で隠れて里からは見えないが、その丘の上に博麗神社はあった。
神社に近づくとともに道は細くなり、草木の密度が高くなっていく。最後に曲がりくねった坂を登っていくと長く続く石段が見えてきた。その石段の先には鳥居がある。丘をぐるりと半周しており、鳥居は里とは反対の方向を向いていた。
博麗神社に里の男達が到着したころには、すでに日は高い位置にあった。石段を上り、鳥居をくぐる前に参道を箒で掃いている巫女装束の少女が視界に入った。肩まで伸びる黒髪、頭には大きな赤いリボンをつけている。幼さは残るが誰もが美しいと答える顔立ち。彼女が博麗神社の巫女、博麗霊夢だった。
霊夢は顔を上げると、箒を持ったまま着物姿の男達に近寄ってくる。
「連れ立ってどうしたの? 参拝って様子じゃなさそうだけど」
男の一人が空を指さした。人の里は社殿の先に位置しており、木々が邪魔をして見えない。しかし、上空に浮かぶ黒い点は博麗神社からでも見えた。
男は黒い点について霊夢に説明する。説明といっても二言、三言で済む内容だった。
霊夢は目を細めると、すぐに黒い点を見つけた。
「本当ね。何あれ?」
「さぁ、里の人間ではさっぱりわからんのです」
「私が気づかなかったなんて……嫌な感じね。近くで見てくるか」
隣にいた男に霊夢は箒を投げ渡した。次の瞬間、地面から霊夢の足が離れる。重力を忘れた霊夢の髪が風になびく。宙に浮いた身体はゆっくりと上昇した。
空を飛ぶ程度の能力。霊夢が持つ特殊能力の一つ。正確には飛んでいるのではなく、重力などの影響から身体を切り離して浮いている。切り離す度合いをコントロールして空を自由に移動しているのだ。
「箒、玄関の前にでも置いといて。私はあの『黒いの』まで出かけてくるから。あんた達はもう里に帰って。あぁ、あとせっかく神社に来たならお賽銭ぐらい納めていきなさい」
言い切ると同時に、霊夢は黒い点へ一直線に飛んでいった。
◇
霊夢が黒い点にたどり着くまで三十分ほどかかった。移動に費やした時間は、高度を上げるよりも横への移動がほとんどだった。黒い点は、人間が住む里を越え、その先に位置する魔女の森の上空にあった。端にある博麗神社から距離が大きく離れていた。徒歩であれば移動に丸一日かかる距離である。
その長さを散歩程度の時間で飛んできた霊夢。彼女に強風が吹きつける。彼女の髪と巫女装束が風で暴れている。吐く息は白く、勢いよく流れて消えていく。霊夢がいる上空は酸素がかなり薄い。ところが霊夢は腕組みをして何食わぬ顔だ。
地上から見えた黒の点は、空高くにできた大きな黒い『ひび』だった。ガラスにできるようなひびが球体状に張り巡らされている。
次の瞬間、凝視する霊夢の前で、突如として割れ目は空を侵食し始めた。音もなく広がるひびから霊夢は咄嗟に距離をとる。球体の拡大はすぐに止まったが、すでにそれは霊夢の身体を覆い隠せるほどに大きかった。
霊夢は警戒を強めながら、しばらくひびを観察した。見れば見るほど不気味な現象である。黒いひびはどの角度からも光の影響を受けず、漆黒として目がとらえる。強風の中で微動だにしない。外部の影響を完全に拒んでいる。
さらに霊夢を不快にさせたことがある。それはひびに微塵も気配がないことだ。たとえ無機物であっても、そこに存在するということは、五感で感じる以外に気配を外部に向けて発生させている。生気、霊気、妖気。幻想郷ではそういったものが色濃く出る。霊夢はそれらを気配として感じることを得意としていた。
しかし、その霊夢でもこのひびからは何も感じることができなかった。どれだけ時間をかけても視覚以外から情報を取得できない。存在していることすら怪しい。幻想。そんな言葉が霊夢の頭をよぎった。里の人間の報告があるまで、黒い点に気づかなかったのも、気配をまったく読み取れなかったためだろう。
それ以降、ひびの膨張は発生しなかった。どのような影響が生じるかわからないため、不用意に正体不明のひびへ刺激を与えることはできない。
霊夢の考えは、これ以上この場にとどまっても不毛という結論に至った。一度地上に戻り、ひびの出現の原因を探ることにした。
博麗神社に戻る前、霊夢は人間の里に寄った。
人間の里とは、幻想郷で人間が集まり作った文字通りの人里である。未舗装の道に沿って木造かわらぶきの建物が並ぶ。大通りには商店や食事処があり、人間以外も利用している。電気は通っておらず、水道もない。ほとんどの人間が着物を着用している。その風景は大政奉還前の日本の街並そのものだった。
まだ神社に来た男達は里に戻っていないだろう。霊夢は道で雑談をしていた人間を見つけると、そこまで降りていった。ちょうど話題は黒い点のことだった。朝方より大きくはっきりと見えるという内容だ。
「近くまで飛んでみてきたけど、確かに変なのが浮いてるわね。今はまだ原因はわからないけど」
霊夢は現状を報告したあと、里の要人達への言伝を頼んだ。博麗霊夢が黒い点について調査を開始したこと、上空の点に何か心当たりがあれば知らせが欲しいこと。
ひび、裂け目など結界の破壊を連想させる単語は使わなかった。原因がはっきりしない中で、ただ人々の不安を煽るだけだ。再び空に浮かび上がった霊夢はため息とともに悪態をついた。
「誰よ、こんなわけのわからない厄介ごとを起こしたやつは」
このときはまだ、いつもと同じように自分が元凶を見つけ出し、怪現象を解決できると霊夢は思っていた。
◇
霊夢は博麗神社への帰路の途中にいた。空を飛びながら黒いひびについて考える。正体はまったく見当がつかない。それ以前に、意図的な現象なのかすらもわからない。
何でもいい。調査の取っ掛かりが欲しい。
幻想郷には地下があり、そこにもまた地上と同じほどの面積がある。また、上を見上げれば、月にも住人がいる。博麗霊夢が知らない人物、場所もまだ幻想郷に存在するかもしれない。
幻想郷を手当たり次第に捜索しても、黒いひびの元凶に行きつくには何日かかることか。ましてや、無駄足になる可能性が高い。地道という言葉が嫌いな霊夢は、考えただけで眉をひそめた。
目立ちたがりの仕業なら、いずれ名乗り出てくるだろう。里の人間にも情報を渡すように言っておいた。買い物に来た妖怪達が、何か知っているかもしれない。噂好きの天狗が情報収集を開始することにも期待している。
まずは神社に帰って、遅めの昼食を食べることを霊夢は優先した。空を飛ぶことに体力は使わないが、集中力が必要になる。長時間の飛行で、霊夢はとてもお腹が空いていた。
そんな状態の霊夢が空中で突然停止する。腕組をして後ろを振り返り、飛んできた空を見る。高速で後を追ってくる人物の気配に気がついたからだ。
やがて、その人物が視界に入り、そのまま距離を詰めて霊夢の前で止まる。十秒とかからなかった。
箒にまたがった金髪の少女。ウェーブのかかった長い髪は黒いリボンを使って後ろでまとめられている。髪をほどくと背中まで届きそうだ。勝気な性格が顔に出ている。黒色のシャツに黒色のロングスカート、腰から下には、なぜかフリルの付いた白いエプロンをしていた。
霧雨魔理沙《きりさめまりさ》。魔法を使うことのできる人間。霊夢と親しい少女だった。
「よう! 霊夢もあれを知ってるか?」
魔理沙は黒い点を指さした。
「見てきたわよ。森の上にある黒い球体でしょ? もしかして魔理沙。あんたが何か悪さしたんじゃないでしょうね?」
「してないしてない。私の研究にあんな物体作り出す副作用はねーよ」
箒にまたがったまま、魔理沙はくるりと横に一回転した。
「何か知ってることある?」
「さぁ、こっちが聞きたいぜ。森の上にあの玉がずっと居座るってなったら、おちおち夜も寝れやしない」
「自分で見つけたの? 誰かから聞いた?」
「自分で見つけた。って言いたいとこだけど、里に買い出しに行ったときに噂話を盗み聞きして気づいた。そのあと近くまで見てきたけどよぉ。マジで何だあれ?」
魔理沙も気配などを感じなかったのかと霊夢は分析する。
「で、何しに来たの?」
「で、じゃねぇよ。霊夢向けの怪事件だろ。手伝うぜ」
笑みを浮かべて魔理沙は言った。
これまでの異変の解決にも魔理沙は関わってきた。しかし、協力というよりも利害の一致という方が正しい。最初は異変ごとに別行動で動き、ときにはぶつかることもあった。
今では少し協力する姿勢を見せているが、興味本位で動いている印象が強い。それでもいないよりはずっとマシだ。
「私の方はまだ何もわからないわ。とりあえず昼食を食べてから、神社の掃除をして、新しい情報を待つつもり」
「何も連絡がなかったら?」
「どうもしないわ」
「おいおいマジかよ」
魔理沙は呆れた顔を斜めに傾けた。
「マジよ。まだ結界には何も影響が出てないし、することがないわね」
「いやあるだろ。聞き込みとかさ」
「どこに? 当てはあるの?」
「ねぇけどよ」
魔理沙はせわしなくあたりを見渡した。
「幻想郷のどっかに、あれに関わってるやつがいるはずだぜ。しらみつぶしに探して行けばどっかでぶつかるだろ」
「何よそれ。ほとんど無駄足じゃない。わたしは遠慮しとくわ」
「それは違う。まわったところが関係ないってことがわかる。現に霊夢、お前が今回の件の元凶じゃないってことが会ってわかった。ほら無駄足じゃない」
魔理沙は霊夢を指さして得意げだ。逆に霊夢はそんな魔理沙を見て顔を曇らせた。
「くだらない屁理屈はよして。行くなら一人で行って。私はあんたみたいに早く飛べないの。それじゃあ私は帰るわ」
「あーわかったわかった」
飛び去ろうとする霊夢の前に魔理沙は身体を滑り込ませた。
「まだ何かあるの?」
「聞き込みは私の方でやる。だから霊夢、紫《ゆかり》のほうはお前に任せる。私じゃどこにいるかわからないからな」
「任せるって言われても……私もどこにいるかなんてわからないわよ。まぁ、結界に影響があるなら、いつもみたいにあっちから出てくるでしょ」
「どのみち紫が現れるのはお前のとこだろ? 任せたぜ」
魔理沙は返事を聞く前に霊夢のまわりを二周して、そのまま勢いよく遠ざかっていった。魔理沙が飛んでいった北の方角は妖怪の山がある。そこには魔理沙と仲の良い河童がいたはずだ。
霊夢は嵐のように去っていった友人をため息と微笑みで見送った。そのあと、思考を紫と呼ばれる存在に戻す。
八雲紫《やくもゆかり》。姿は若い女性の姿だが、正体は千年以上生きる大妖怪である。幻想郷を創った賢者とよばれる集団の一人でもあり、幻想郷を包む結界は紫の能力を使用している。
境界を操る程度の能力。それを使って空間に裂け目を作って移動するため神出鬼没である。気が付いたら傍にいる。
逆にこちらから会いに行くことが不可能だ。幻想郷内にある屋敷に住んでいるというが、誰もその屋敷を見たことがない。あちらから姿を現すまで待つしかない。
出現するときは、幻想郷、結界に危機があるときが多い。霊夢のもとに訪れ、助言をくれたり、力を貸してくれる。同じ結界を守護する立場として、巫女である霊夢と協力して変異を解決したことが何度もあった。
黒いひびがもっと大きな騒ぎになれば姿を見せるはずだ。まったく確証はないが、八雲紫が今回の現象にかかわっていると霊夢は考えていた。勘だ。だが霊夢の勘はとても良くあたる。
どのように紫を問い詰めようかと考えながら霊夢は博麗神社に戻っていった。
◇
それから一週間。霊夢は八雲紫を見つけられなかった。
その間に黒いひびは、不定期に拡大を続けた。大きくなるスピードはどんどんと加速していき、七日間でひびは巨大な球体へと成長した。魔女の森の東の上空を覆い隠し、人間の里の空にまで侵食を始めている。
近くで見ると、毛細血管のように張り巡らされたひびの集合体だとわかる。しかし、遠くから眺めると、とてつもなく大きい球体だ。まだまだ距離はあるが、その直径が倍になれば、魔女の森に底が到達するだろう。
唯一の救いは、日中でも太陽の光が地上まで届いていることだった。空にある巨大な球体さえ気にしなければ、生活に支障はない。どうやら黒いひびは光を遮らないらしい。角度によっては、漆黒の物体を見ているのに、太陽の光で眩しいという不思議な現象に陥る。
霊夢は発生から数日で重い腰を上げ、紫を探した。ところが、幻想郷のどこにも紫の姿や目撃情報はなかった。次に彼女の式神である八雲藍《やくもらん》を探したが、こちらもこつ然と姿を消していた。巫女の能力で結界を操作して、紫を誘いだそうとした。けれども、いくら待っても紫は現れず、今に至る。
魔理沙も黒いひびの調査を続けていた。空に浮かぶただならぬ怪異を目のあたりにして、ほとんどの妖怪達は協力的だった。けれども有力な情報は一つも得ることはできなかった。
このまま巨大化すれば、いずれ幻想郷が呑み込まれる。幻想郷全体が不安に包まれていった。
さすがの霊夢にも焦りの色が見えた。ここまでの騒ぎになってもひびの発生が原因不明のままだったからだ。
その上さらに霊夢へ追い打ちがかかる。八雲紫がこの現象の元凶である、という声が幻想郷の人間や妖怪からあがったのだ。紫の行方がわからない今、霊夢は反論することができなかった。
霊夢にとって、紫は数少ない心を許せる友人だ。紫の存在は大きい。博麗の巫女としてやってこれたのは、紫がいたからだと霊夢は考える。面と向かっては言えないが、姉のような存在と思っている。
大妖怪の紫からすれば、霊夢やその他の人間は瞬く間に消えていくちっぽけな存在かもしれない。しかし、紫は幻想郷を愛している。歴代の巫女とともに幻想郷を守護してきた。表に出ることを嫌う彼女はすぐに隠れ、去っていってしまうが、霊夢は紫の幻想郷に注いできた愛情を知っている。
そんな彼女が、見守ってきた幻想郷の人々に非難されている。黒いひびからくる不安で、一時的な感情ということはわかっている。しかし、霊夢は見て見ぬふりができなかった。
紫の身に何かあったのかもしれない。紫を探すことに執着する霊夢は行き詰まっていた。黒いひびの調査もろくに手がつかない。
魔理沙はときどき霊夢の元を訪れ調査状況を共有した。そのとき、次第に表情のかげりが強くなる霊夢を目にしていた。
ひびが発生して七日目。魔理沙は朝になると、自宅兼店舗である霧雨魔法店を出た。空を見上げれば一面漆黒だ。数日経てばこの異常な黒にも慣れてくる。
魔理沙は箒にまたがり博麗神社に向かった。高速で飛ぶことを得意とする魔理沙は、霊夢が飛ぶ半分の時間で神社に着く。
境内の石畳に降り立とうと高度を下げていると、社殿の隣にある平屋の住居に目がいった。縁側で身体を投げ出し突っ伏す霊夢がそこにいたからだ。木製の縁側に綺麗な紅白が目立っている。
魔理沙は霊夢に向かって進路を変えた。
「おーい、生きてるか?」
「死んでないわよ。それぐらいわかるでしょ?」
霊夢は頭を回し、片目で魔理沙を睨みつけた。
魔理沙は笑った。霊夢なら魔理沙の到着に気づいていたはずだ。それなのにだらしない恰好のまま魔理沙を待っていた。そんな姿を霊夢が見せたことを魔理沙はうれしく思った。弱っていることを魔理沙に隠す気はないらしい。
魔理沙は地面に足を付け、縁側に腰をおろした。霊夢も起き上がり胡坐をかく。
「それにしてもあれ、でっかくなったな」
「ほんとにね」
縁側から里の方角を見る。木々が邪魔をして底のほうは確認できないが、立派に成長した黒い球体が空に鎮座している。
「紫は見つかったか?」
「だからこっちから探しても無駄だって。あのスキマ妖怪は」
霊夢は少し怒気を含んだ返事をする。
「けど聞き込みしてるじゃねーか」
「誰から聞いたの?」
「紅魔館《こうまかん》で」
「レミリアめ」
霊夢は軽くため息を吐く。そのあとに沈黙。魔理沙は横目で霊夢を盗み見た。霊夢は空に浮かぶ球体を眺めている。
「そろそろやるか」
「やるって、何するのよ」
「あの玉っころをぶっ壊す。もう見飽きただろ?」
「どうやって?」
霊夢は微笑みながら質問を返した。真面目には聞いていない。
魔理沙がスカートの中に手を入れると、留め具が外れる音がした。再び現れた手には八角形の箱のような物体を持っていた。
ミニ八卦炉《はっけろ》、魔理沙が持つ強力な魔法道具。現世には存在しないはずの緋々色金という物質でできており、中央には陰陽太極図があしらわれている。片手で掴める大きさだが、その中には一帯を一瞬で焼き払えるほどの力を有している。
「最大火力をぶち当てる」
魔理沙はミニ八卦炉を霊夢に向けた。
「ちょっと! 物騒なものここで取り出さないでよ」
「くよくよしても仕方ないだろ。とりあえず当たって砕けようぜ」
「くよくよしてないし、勝手に砕けないでよ」
魔理沙が自分を元気づけようとしていることに気づき、霊夢は笑みをこぼした。
「お前も私と同じで考え込む性格の人間じゃないだろ? 怪異があれば一番に飛び出して。向かってくるやつ手あたり次第蹴散らして。最後は異変なんてよばれる怪事件をちゃんと解決してきたじゃねぇか」
「あんたみたいにただの無鉄砲と一緒にしないで。私は自分の直感を信じて動いているの。ちゃんと計画通りよ」
「勘で動くのは計画なのか?」
「そうよ。私の勘は絶対なの」
霊夢の声に活気が戻ってくる。
「まぁ、その勘が働かなくても別に問題なんてないけど」
霊夢は立ち上がると、大きく伸びをした。数日分の声が漏れる。息を十分に吐きったあと、腰に手をおいた。
「あー! ここ最近、変に考えごとをしたから頭が疲れた。今はとっても暴れたい気分! あの黒い球から何が飛び出ても全部私が返り討ちにしてあげる!」
「私の分も残しとけよ」
「嫌よ。早い者勝ちなんだから」
◇
霊夢と魔理沙はそのあと話し合い、黒い球への攻撃は明日に行うこととなった。
まず先に、幻想郷の妖怪達に攻め込むことを報告する必要があると判断したからだ。七日間も経っていると、黒い球の動向を気にしている妖怪も数多い。
協力する者は人間の里に集まること。静観する者は、連絡したので何が起きても文句は言わないこと。そもそも文句があるやつは顔を出せ。内容はこの三点に決めた。
そのあと、二人は連絡に向かう先を分担したが、明らかに魔理沙の方が巡る箇所が多い。魔理沙が文句を言うと霊夢は「あんたのほうが早いんだから」の一点張りだった。最後は魔理沙の方が折れ、担当の振り分けは決まった。
最初に魔理沙は魔女の森に、霊夢は人間の里に向かった。
霊夢は真面目に幻想郷を飛び回ろうとは思っていない。適当に鴉天狗などをつかまえて連絡役を任せて、自分は魔理沙が戻ってくるまで団子でも食べてくつろぐ算段だった。知らせが幻想郷全体に行き渡らなくても多少は大丈夫だろうと霊夢は思っていた。
人間の里と言っても、少数だが妖怪も住んでいる。
初めに霊夢は上白沢慧音《かみしらさわけいね》が教師を務める寺子屋に寄ることにした。
慧音は人間と、白沢という妖怪のハーフである。半分は妖怪であるが、満月の夜以外は人間の女性の姿をしている。自分は人を守る立場であると考え、ときには里のためにその身を挺することもあった。
黒いひびが里に近いこともあり、霊夢や魔理沙に何度も状況を聞きに来た。里が球体に飲み込まれることを恐れている様子だった。
彼女なら里の人間を守るような行動をとってくれるだろう。唯一の心配は黒いひびに刺激を与えることを反対された場合だ。そのときは説得。それでもダメなら力でねじ伏せ、言うことを聞かせるしかないと霊夢は考えた。
里が見えてくると、寺子屋までまだ距離はあるが霊夢は高度を下げ降り立った。
霊夢の恰好は目立つ紅白だ。何か知らせがあれば、里の住人が見つけて寄ってくるだろう。霊夢は少し里を歩くことにした。
歩く霊夢に里の人間が挨拶をしてくる。巨大な黒い球体を空にしても里には活気があった。
魔理沙はもう魔女の森に到着しているだろう。最初に向かうところはあの人形使いの家か。霊夢がそんなことを考えながら森のほうを見る。
そのあと、自然とその目は成長した黒いひびに移った。
最後は突然やってきた。
霊夢は悪寒とともに黒いひびから初めて気配を感じた。邪気だ。いつもの異変と同じ、強大な意思が辺りを渦巻いている。球体の中心にその元凶を感じた。なぜこれほどまでの気配を今ままで感じなかったのか。あのひびは結界の役割をして、感覚を遮断していたのだろうか。そうだとすれば、なぜその役割をたった今放棄したのか。
答えはすぐに事象となり現れた。黒い球の下に位置する魔女の森、そこに突如として暗い影が差した。次の瞬間、球体が勢いよく拡大を始めた。一拍置き、里に爆音が響き渡る。
霊夢は空に飛び上がる。
「建物の中に!」
霊夢は里の人間達に向かって叫んだが、届いたかわからない。
漆黒の底はすぐに魔女の森に到達した。そこから土煙が上がる。
「魔理沙……!」
霊夢は真っ白に染まってしまいそうな頭を素早く横に振った。黒いひびの勢いは止まらず、轟音とともに里に迫ってきている。
霊夢は上空に片手を掲げた。そこからビー玉のような物体が現れ、回転しながら急速に大きさを増す。玉は霊夢の顔と同じぐらいの大きさになると、ぴたりと止まった。それは陰陽太極図が描かれた球体だった。
陰陽玉と呼ばれる霊夢専用の武器。霊夢が力をこめることで強力な破壊力を得る。
通常は自分の周りで陰陽玉を浮遊させて戦うが、相手の正体がわからないため近づくことができない。
黒いひびの中央、気配を感じる場所に狙いを定め霊夢は陰陽玉を放った。
陰陽玉は迫ってくる巨大な壁にぶつかった。その瞬間、周囲のひびが吹き飛ぶ。霊夢の攻撃は速度を落とさず直進する。
気配の中心、七日前に霊夢がすぐそばまで近づいた位置。陰陽玉はひびを押しのけながら姿の見えない敵をとらえる。
脆い。いける!
霊夢は着弾を確信した。しかし、その手ごたえは陰陽玉と一緒に消え去った。防がれたり、破壊されたわけでもなく、突如として陰陽玉が消滅したのだ。初めからそこになかったかのように。
分析をしている暇はない。
依然として、ひびは侵食の速度を緩めていない。すでに里を飲み込み始めている。霊夢のいる場所に達するまでもう数秒とない。
霊夢は自分の周囲に外部からの物理的進行を遮断する結界を生成する。幻想郷に張り巡らされたそれと同質の結界だ。陰陽玉で対処できたひび。結界を張ることで時間を稼ぐことができると霊夢は判断した。
ところが、その考えを打ち砕くようにひびは動きに変化を見せた。
迫りくる壁から、さらに三本の線が霊夢めがけて飛び出してくる。霊夢が展開した結界に荒々しくぶつかると、衝突した先から霧散する。
しかし、その勢いは収まるどころか増していく。
霊夢の結界に歪みが生じる。想像を超える衝撃に、急場凌ぎの結界が破壊されようとしていた。単純だが一番効率的な突破方法だ。
霊夢は間髪入れずに次の手を発動する。
目を閉じる。すると、霊夢の身体は次第にぼやけていった。
結界が壊れ、轟音とともに黒いひびが霊夢を飲み込む。しかし、ひびが彼女に触れることは叶わなかった。
夢想天生《むそうてんせい》。霊夢が使用する最強の防御術。自身に干渉するありとあらゆるものを切り離して成立する秘技。彼女は今、限りなくこの世に存在していない状態になっている。どのような存在も彼女に影響を与えることができない。
けれども、霊夢が漆黒に取り込まれた事実は変わらない。
侵食の外に脱出することは、霊夢の飛ぶ速度からは不可能に近い。もう一度攻撃を加えるにしても、消失した陰陽玉の謎を解かない限り、元凶に損傷を与えることはできないだろう。火力の問題ではないと霊夢は直感で理解する。
それでも抗うしかない。霊夢は覚悟を決めた。
ふたたび陰陽玉を出現させようと手をかざす。しかし、霊夢の攻撃手段が具現化することはなかった。さきほど陰陽玉が消えた感覚と同じだ。上空の元凶付近で起きた『何か』が、霊夢を取り巻いた。同時に霊夢は辺りの気配が読めなくなる。
次だ!
霊夢は極限の中で思考をめぐらすが、この状況を打破する糸口が見当たらない。
さらに霊夢の意識が徐々に薄れていく。夢想天生は外部からのどんな攻撃も拒絶することができる。しかし、存在そのものを無にするということは、発動中に霊夢という存在を蝕んでいくことになる。
発動時間の限界は二分もない。それ以上は自身が消失するリスクを伴う。
夢想天生を解くしかなかった。
ぼやけていた霊夢の身体がもとへと戻っていく。反撃の手段は霊夢に残されていない。
辺り一面は闇に覆われ、何も見ることができない。苦しくはない。息はできる。空気がその場にあるということか。けれども何も聞こえない。自分の呼吸音さえも。触覚に意識を集中すると、暑さも寒さも感じないことに気づく。首を振ったが、本当に振っているのかも霊夢自身ではわからない。
自分はここに存在しているのだろうか。夢想天生の解除が間に合わなかったのか。霊夢に恐怖という感情が襲い来る。
死んじゃう……。私は……。
死が霊夢の頭によぎった瞬間、周りを取り巻いていた『何か』が薄れていく。ふたたび上空にあった邪気を霊夢は感じる。
移動していた。霊夢の目の前だ。
霊夢は動けなかった。それは相手の術中に陥ったからか、内から来る恐怖心からか。霊夢にはわからなかった。
暗闇の中で霊夢の視覚は機能していない。それでも確実に目の前にこの事象の元凶がいる。
「あなたは……誰……?」
霊夢のその声が相手に届いたかわからない。
闇の主の手が霊夢の頬に触れた。
それが、霊夢が覚えている最後の記憶だった。