さくらは居間の時計を見た。すでに午後三時を過ぎている。あと一時間すれば境内の掃除の時間だ。さくらは事務作業に区切りをつけて立ち上がった。空調の効いた居間から襖を開けて廊下に出ると、蒸し暑い空気が彼女にまとわりつく。
買い物から帰ってきて、さくらは水色の袴の装束に着替えていた。台所に行くと割烹着を身に着ける。米を研ぎ、炊飯器を操作して夕拝が終わる時間に米が炊けるようにした。
公造は村で月末行われる秋祭りの打ち合わせに出掛けている。外出しているといっても、神社の鳥居から見える数百メートル先の家だ。数年前までは、さくらがいた居間で打ち合わせは行われていた。ところが、実行委員達の足腰が悪くなり、坂の下にある家に会議場所が自然と変更となった。
秋祭りは米の収穫が終わったころにある村の行事で、村人の数少ない楽しみだった。村の人々が神社に食事や酒を持ち寄り宴会を行う。神社では炊き出しもあり、毎年五十人以上が神社に集まる。
そこでは公造が神前で祝詞を読み上げていたのだが、今年からはさくらがその役目を務める。さくらはそのことを両親に伝えたが、彼らが来てくれるかはまだわからなかった。
さくらは居間に戻り、秋祭りの費用の計算を再開していた。公造はまだ帰ってこない。掃除の時間までには帰ってくると言っていた。けれども、さくらは公造の帰りが遅れても良いように、早めに境内の掃除を始めることにした。机の上を片付けてから草履を履いて家を出る。
さくらは神木が見える位置に来た。
そこで身体を強張らせて軽く悲鳴を上げた。
最初は風景から浮く鮮やかな紅白に驚いた。次の瞬間、それが人間だということがわかった。神木の前に人が倒れている。嫌でも白鈴の犬神の事件がさくらの頭をよぎる。
さくらは周りを素早く確認する。倒れている人間以外はいつもの神社の風景だった。
さくらは恐る恐る神木に近づく。
「大丈夫ですか!?」
声をかけるが反応はない。さくらは歩みの途中も周りを警戒した。しかし、小鳥のさえずりがときどき聞こえるだけで、動くものの姿は見えない。
「大丈夫ですか?」
倒れている人間の前に来ると、さくらはもう一度声をかけた。反応は無かった。
倒れている人間は、髪に赤い大きなリボンをつけた巫女装束の少女だった。横向きになって石畳に倒れている。さくらは少女の顔を覗き込みながら、手を少女の口の前に持っていく。規則正しい息がかかる感触が手の甲にあった。
「良かった生きてる……」
さくらは天を仰ぎ大きく息を吐いた。
「びっくりさせないでよ」
さくらは少女の肩に手をかけ軽く揺らす。
「大丈夫ですか? こんなところで寝ないでください」
けれども、少女は目を開けない。しばらく呼びかけを続けたが、少女は目を覚ます気配がない。
さくらはふと気づき、鳥居まで駆けだした。石段の下の駐車場には、さくらの車しかなかった。見える位置で道路を確認するが、停まっている車は見当たらない。
少女はどこから来たのだろうか。さくらはまたやってきた恐怖に袴を握りしめた。
「さくら! どうしたぁ!?」
さくらは声のした方向を見る。公造の姿があぜ道にあった。慌てた様子で姿を見せたさくらに、公造は足を引きずりながらも速足で彼女の元に向かっていた。
公造の姿を見て、さくらはまた安堵する。
さくらは背後を見る。少女は神木の前で横たわったままだ。幻ではない。
「おじいちゃん! 女の子が倒れているの!」
そう言って、さくらは少女の元に戻った。そこに公造が合流し、目を覚ますまで家で寝かせることに決めた。さくらは公造の手を借りて、少女を背負うと立ち上がる。力仕事にはあまり自信がなく、少女を持ち上げられるかさくらは心配だった。しかし、少女の身体は思ったより軽く、その心配は杞憂に終わった。
少女を客間に運び入れたときには、さくらの額からは汗が流れていた。さくらは日頃の運動不足を悔やんだ。
「あっつい」
さくらは布団を敷きそこに少女を寝かせた。かなり少女の身体を動かした。ところが、少女は穏やかな寝顔を見せたままだ。巫女装束では暑いだろうと思い、さくらは客間に冷房を入れる。涼しい風が部屋に流れ込んだことを確認して、さくらは少女の顔を覗き込む。
そのあと、さくらは自分の汗を拭くためタオルを持って居間に入った。公造はさくらに冷えた麦茶を持ってきてくれた。
「ありがとう、おじいちゃん」
「誰なんじゃ、あの子は?」
「だからわからないの。すごく可愛かった。コスプレとかやってる人かな? 車もなかったし、どこから来たんだろう?」
二人の頭の中には、やはり二十六年前の事件があった。しかし、両者は意識してそのことは口に出さなかった。
「とりあえず、起きたら事情を聴いてみる。警察に連絡するのもそれから判断しよ? あぁ……晩御飯食べていくかな?」
さくらの疑問に公造は笑顔になった。
「そうだな。さくらの料理食べたら喜ぶだろうな。今日は神社のことはいいからあの子の面倒看てやりな」
「いいよいいよ。本当にぐっすり寝てるし、その間に掃除と夕拝終わると思う」
公造は上は半袖のシャツ、下はジャージというラフな姿だった。彼は装束姿に着替えてくると言って自室に戻った。
さくらは少し居間で涼んでから掃除に向かうことにした。その間、少女の身元について考える。自然と手で口元を隠す。さくらが考え事をするときの癖だった。
「あっ、そうか」
さくらは机の上にあったノートパソコンを開く。続いてデスクトップにあったアプリを選択。しばらくすると、画面に境内の映像が現れた。拝殿の屋根の下に取り付けてある監視カメラの映像だった。このアプリを立ち上げたのは動作確認のとき以来だ。
画面に映っているのは現在の境内の風景。さくらはアプリを操作して映像を過去に戻す。ちょうど、さくらが少女をおぶっている姿が映し出された。賽銭箱の近くまで近づかないと、顔が鮮明に映らない。さらに人物もコマ送りのように動いている。けれども値段はお手頃で暗視機能もついていた。さくらはこの防犯カメラに満足していた。
映像の中では、公造が心配そうにさくらのすぐ後ろをついて歩いていた。さくらにとって、その祖父の姿はとても微笑ましかった。
さらに映像を過去に戻すと、横たわる少女の姿が映し出された。さくらはマウスを操作して、画面の中の時間を一分ずつ巻き戻していく。ニ十分ほどさかのぼっても、少女は静止画のように動かなかった。神木の下は木陰になっており、熱中症の心配はなさそうだったが、石畳の上で眠り続ける少女の身体がさくらは心配になってきた。
祖父が秋祭りの打ち合わせに出たのは映像のさらに一時間前、それ以降に少女は境内に来たはずだ。さくらはそう考えながらマウスを一定間隔でクリックする。すると、映像から少女がこつ然と消えた。推測は正しかったようだ。
画面の中に少女は見当たらない。一分間で何があったのだろうかと、さくらは再生ボタンを押した。ところが、一向に少女は姿を現さない。さくらは目を凝らし、鳥居辺りを見つめる。少女が石段を上ってくると思ったからだ。しかし、少女が映像の中で鳥居をくぐることはなかった。
画面の一部が突然発光した。それほど光は強くなかったが、さくらは目を細めて視線を下に向けた。次に視線を画面に戻したとき、また少女が横たわる映像がそこにあった。
「あれ?」
さくらは慌てて映像の時間を巻き戻す。少女がいなくなった境内の映像をさくらはまた見つめる。さくらは謎の現象が起きた数十秒先を待つ。自分の鼓動が早くなるのを彼女は感じた。
また画面が光る。さくらは映像から目を離さなかった。神木の根本辺りが光る。光が弱くなると、そこに少女が倒れていた。光る小さな玉が少女の周りを無数に漂って、すぐに消えた。さくらはまた映像の時間を戻す。発光を映し出した瞬間に停止ボタンを押す。光の中にぼやけた少女が見える。
この映像が正しければ、少女は突然神木の下に現れたことになる。さくらは映し出される現象を認められずにいた。カメラの録画がタイミング良く不具合を起こして、このような映像が録れたのだ。さくらは無理矢理に仮説を立てて、自分自身を落ち着かせる。
さくらが冷静さを保とうと努力していると、襖を勢いよく開ける音が聞こえた。音がしたのは客間の方角だ。さくらは慌てて立ち上がり居間の襖を開けて廊下に出る。
客間のほうをみると、同じく廊下に出た少女がいた。少女はさくらを睨みつけるとすぐに視線を壁に向けた。少女が見つめる先に神木があることをさくらは気づけなかった。さくらが声をかけられずにいると、少女は玄関に向かって走り出した。履いていた草履を無視して、少女は足袋のまま玄関の引戸を開け放ち外に出た。
そこで少女は飛び上がった。巫女装束が風に吹かれてふわりと広がる。
次の瞬間、少女は着地に失敗して盛大にこけた。手をついて頭から地面にぶつかることは回避したようだ。
「大丈夫!?」
呆気にとられながらもさくらは廊下を走って少女のもとに駆け寄る。しかし、少女はさくらの声を無視して立ち上がり、境内の方へ駆け出した。
「ちょっと! 待ちなさい!」
さくらは少女の後を追って玄関で草履を履き家を出た。少女の走っていった方角を見ると、すでに少女は神木の前で立ち止まっていた。さくらは小走りで少女の元まで向かう。その間、少女は神木を見つめたまま動かなかった。さくらが横から少女の顔を覗くと、少女の視線は神木の根本辺りにあった。真剣な顔だ。
「どうしたの?」
さくらは小声で少女に問いかける。返事はない。さくらは少女の次の行動を待った。ところが、その場から動かず目を閉じた。さらに話しかけにくくなってしまった。さくらは苛立ちの表情を隠せなくなってきた。
「敵……敵が来るの? いつ?」
少女が目を開いて放った言葉は突拍子がなかった。けれども、さくらは『敵』という物騒な言葉より、少女が神木に話しかけているようだったことが気になった。
「ねぇ、あなた、この木の言葉が聞こえるの?」
さくらは思わず少女の肩に手を置いてしまう。少女はやっとさくらに顔を向けた。
「言葉にして教えてくれたらいいのだけれど、もうそんな力も残ってないみたい。それでも必死に何か伝えようとしているわ」
少女は空に目をやる。さくらも少女の視線を追って顔を上げる。そこには青空が広がっているだけだった。
「どうやらここは幻想郷の外みたいね。結界が無い。それに、なんだか身体が重いわ。思うように力を使えない」
「幻想……何?」
少女は戸惑うさくらを不思議そうな顔で見る。
「あんた、記憶がないの?」
さくらは『記憶』と言われて、この少女とどこかで面識があったか考えた。しかし、心当たりが全くない。まだ神社に通っていた中高生のころに会ったのかもしれない。さくらそう考えた。
「ごめんなさい。どこかで会った? この村の人?」
さくらの反応に、少女は一瞬眉をひそめた。
「いい。やっぱり何でもないわ。忘れてちょうだい」
少女は淡々と言う。さくらは自分が少女を思い出せないことを彼女が怒っているのだと思った。続けて少女はさくらの服装に目をやった。
「あなたこの神社の人?」
「そうだけど」
「私、外の世界の知識はあまりないの。教えて。『敵』って聞いて思い当たることはない?」
「敵?そんなこと……全然」
さくらは首を横に振る。
「命を狙われたりは?」
「ちょっと待って! 私、命を狙われてるの?」
さくらはたまらず少女に質問を返した。
「だからそれを私が聞いてるの」
少女は少し苛立ちを含んだ顔になる。
「……心当たりは全然ない」
「そう」
少女はあっさりとさくらの言葉を受け入れた。そして、少女は神木の幹に手を添える。
「こっちからも質問させて」
さくらの言葉を聞き、少女は幹から手を離して自身の腰にその手を当てた。
「いいわよ。何?」
威圧的ではないが、少女の物怖じしない態度にさくらは口ごもった。少女はそんなさくらをじっと見つめている。
「名前はなんていうの?」
さくらは少女の視線に耐えかねて、考えていた問いではないことを口にしてしまう。
「博麗霊夢《はくれいれいむ》」
「はくれいれ……?」
「は、く、れ、い、れ、い、む」
さくらは霊夢という変わった名前が、少女の名前だと認識できずに戸惑ってしまう。
「博麗が苗字で、霊夢が名前」
少女の補足で、さくらはやっと霊夢が彼女の名前だと認識した。
「ハクレイさん、あなたどこからこの神社に来たの?」
「霊夢でいいわ。博麗って呼ばれ方は慣れてない。私は幻想郷ってところから来たの。どうやら外に放り出されたみたい。死んだかと思ったけど……」
「げんそうきょう? 放り出されったって……えっと、あっ。そこはここから近いの? 一人で帰れる?」
「帰る……そうね。戻って状況を確認しなきゃ。壊滅してたとしても。私は博麗神社の巫女なんだから」
巫女装束の少女、霊夢からの返答には、さくらが求めていた情報は含まれておらず、代わりにさくらが理解できない情報が増えていった。さくらは頭を抱えながらも霊夢との会話を続ける。
「とりあえず、家に戻らない? ほら、あなた草履も履いてないし。お腹空いてるならこのあと夕ご飯も……」
さくらは途中から霊夢が話を聞いていないことに気づいた。霊夢は木々や草木が茂る方向に視線を移してる。
「聞いてる?」
霊夢の返事はなかった。
霊夢はさくらの会話から有益な情報が無いと判断してから、辺りの探索を開始して『敵』を探していた。鳥居の先からは人の気配があった。霊夢はそれらに害はないと無視をした。山の方面からは多数の小動物。こちらも害はない。
さらに索敵範囲を広げる。すると、境内から神木に向かって奥に反応があった。その存在は霊夢の索敵に気づき、目覚めたように気配を拡大させる。霊夢は気配を抑えずに周りを探っていたので、気づかれるのは当然だった。
妖気だ。その存在は妖怪だった。
さくらがため息をつき対応に困っていると、突然霊夢が凝視していた方向に走り出した。
「ちょっと!」
霊夢は木々の根を器用に避けながら、どんどんと森の奥に入っていく。
「早っ」
さくらは急いで後を追った。緑の中の紅白が小さくなっていく。
「待ちなさい! どこ行くの?」
返答は到底期待できなかったが、霊夢の姿が見える間にさくらは呼びかけた。やがて、霊夢は草木に隠れてさくらから見えなくなってしまった。さくらは迷いながらも、森に入っていった霊夢のあとを辿って行った。
◇
白鈴神社のある村は周りを山で囲まれている。神社の石畳から外れて神木の裏に入ると、すぐに木々の葉で日差しが遮られ、ひんやりとした空間が広がる。
動物も多数生息しており、時折、鳥のさえずりに混じって山の中から鹿の鳴き声が聞こえてくる。鹿、猪による米の被害は村の悩みの種であり、電気柵や罠の設置など対策を行っている。収穫前の時期になると村人は特に神経を使う。
また、動物が多いこの村では、狩猟免許を持っている人間が多くいる。彼らは冬の開猟日になると、さくらの家の裏手にある山道から猟犬を連れて山に登っていく。熊の目撃も少ないこの地域。毎年、猟師は鹿や猪を狩っているが、野犬やそれに食い殺された死体などは発見されなかった。
そんな平和な村に突然現れた白鈴の犬神。人間が野犬に殺された事件。それ以来、狩猟を辞める村人もいたが、山の中は平和そのものだった。
霊夢の索敵に反応があった場所。犬神と殺された少女が争った痕跡があった崖の下の岩場。その岩から湯気のような白い煙が立ち上った。煙が出る量はどんどんと増えていき、それが一か所に集まっていく。やがて煙は実体を持ち呼吸を始める。
二十六年間、姿を見せなかった白鈴の犬神。それが今、地面に埋まった大岩の上に立っていた。鬱蒼とした森の中でその岩場だけ木々が避け、犬神の姿は神々しさまであった。犬神は神社の方角を向き、じっと博麗の巫女の到着を待った。
◇
すでに夕刻、太陽は山に隠れ始め、森は夜にむけて闇をため込み始めている。
霊夢は暗くなっていく森の中を疾走する。すでに彼女の後方に白鈴神社は見えない。やがて、地面が傾斜になっていく。常人なら足を取られそうな足場を、霊夢は時折木の幹を蹴って駆け抜ける。その速度は緩むことはなかった。
霊夢が走った時間は五分程度。霊夢の前方に開けた場所が見えた。その後ろには崖。その場所は地面が二か所、一メートルほど隆起していて近づくと岩場であることがわかる。霊夢は盛り上がった足場の片方に、神木前にいた彼女を呼び寄せた存在を確認した。霊夢はもう一方の岩場に速度を落とさず飛び乗った。霊夢は彼女を待っていた存在と対峙する。
霊夢は息が上がっているが、肩は上下に動かず、呼吸音も小さい。たった今、道のない森を駆け抜けてきたとは思えなかった。
霊夢の目の前にいる存在は人間ではなかった。二メートル近い身体は灰色の毛で覆われ、頭が狼の化け物だった。狼にしては目が大きく、生気のない人間の目のようだった。それは二本の足で立っていた。足は獣のもので、履物は履いてなかった。つま先だけで立っていて地面との接地面積が小さく、膝を常に曲げているように見えた。足は末端にいくほど細くなっていて、その大きな身体を支えられるか心配になる。腕は足と違い人間のものだった。けれども、手も灰色の毛で覆われ、鋭い爪がむき出しになっている。服装は山伏のような黄土色の結袈裟を着ており、足は袖を縛った白い袴を履いている。
その化け物は片腕が無かった。右腕が肘より上の位置で結袈裟ごと切断されていた。その傷口は痛々しく、赤い血がまだ滴り落ちていていた。そのほかにも斬られたと思われる傷が身体にある。違和感があるのは、それだけの傷を負いながら衣服に全く血が付いていないことだった。傷口から白い煙が立ち上っている。滴る血も岩に落ちるやいなや、蒸発するように消えていく。
「痛々しい姿ね」
霊夢は傷ついた獣を憐れむのではなく、目に見える状況を述べただけだった。
「久しいな博麗の巫女」
獣は言葉を発した。開いた口から禍々しい牙が見え隠れする。
「あんたなんか知らないわ。私は確かに博麗の巫女だけど、あんたが会ったのは前の代の巫女じゃない?」
「あぁ……わしを迎えに来てくれたのだろう。この時をどれだけ待ちわびたことか……」
「聞いてる?」
「早く、早く幻想郷に返してくれ」
獣は霊夢の声を無視して話し続ける。
「身体が溶けていくようじゃ。幻想郷の外ではわしのような妖怪は消えゆくのみ。こんな岩に宿り耐えるしか、生き抜く方法はなかった」
「あら? これ磐座《いわくら》なの?そんな風ではないようだけど。踏んじゃってごめん」
霊夢は足元の岩を見る。地面に埋まっており、全体は相当巨大な岩のようだった。大きなものは樹でも岩でも信仰の対象となりやすい。崇められるものには力が宿る。しかし、この岩からはそのような気配を霊夢は感じなかった。空っぽだった。霊夢は岩の気配を探る中で、地面の中で岩が真っ二つに割れていることを知った。すぐ横にあった崖から、霊夢はこの岩が土砂崩れで山の上から落ちて割れたと考えた。土砂崩れと言っても、周りには木が根付いて高くそびえている。巨岩が落ちてきたのは大昔になる。土砂崩れの前に信仰があったとしても、それだけの時が経てば力を失っても仕方がなかった。
「巫女よ。幻想郷に返してくれ」
「聞け!」
獣は霊夢の覇気のある言葉に口を閉じた。
「私も幻想郷から追い出されたの。帰り方がわかったらあんたも連れて帰ってあげるわ」
「……わしは途方もない歳月をここで待った。あと幾年待てば良いと言うのか?」
「私は今日追い出されたとこなの! 何年も待ってたならもうちょっと待ちなさいよ。すぐに返してあげるわ」
霊夢は幻想郷が黒いひびに飲み込まれたことを口に出さなかった。今にも目の前の獣は正気を失いかけている。これ以上彼に不安を与えるべきではないと霊夢は思ったのだ。
「わしは……こんな辺境で塵となるのか……」
「落ち着いて。きっと幻想郷に帰れる。私に時間をちょうだい」
「嫌じゃ、嫌じゃ、嫌じゃ。消えるのは嫌じゃ」
獣はつぶやきながら首を垂れ下げる。
「駄々こねるんじゃないわよ。みっともない」
獣は毛を逆立て結袈裟を握りしめる。獣はもう霊夢の言葉に対して聞く耳を持たなかった。
戦闘になると霊夢は思った。獣から段々と妖気が溢れ出し、外に流れていく。それと同時に獣は殺気を霊夢に向けてきた。いつ獣が霊夢に飛び掛かってきてもおかしくなかった。
霊夢はこれ以上の呼びかけは無駄だと判断した。
霊夢は自分の手の平を見た。陰陽玉を出そうと意識を集中する。しかし、霊夢の武装は具現化しなかった。
目覚めてから家を飛び出したとき、霊夢は空を飛ぼうとした。しかし、彼女が重力から解放されることはなかった。幻想郷で使えていた力が上手く使用できない。全く使える兆しがないというわけではない。霊夢の内で発動の準備ができていても、それが外に干渉しようとすると霊力が急速に霧散していく。霊夢は陰陽玉から夢想天生まで、持てる技を発動しようとする。ところが、どれも同じ末路を辿る。
その中で唯一まともに使いこなせたのは、霊力、気を身体に巡らせて身体能力を上げる戦闘術だった。幻想郷内と全く同じとまではいかない。けれども、白鈴神社から崖下まで凄まじい速度で走ってきた。それが能力の使用可能を実証していた。
陰陽玉が出せれば、空が飛べれば、そうだったなら楽に目の前の脅威を退けることができると霊夢は思った。自分よりはるかに大きい化け物を前にしても、霊夢の中で恐怖よりも面倒くさいという気持ちが勝っている。霊夢は仕方なく臨戦態勢に入った。彼女は膝を軽く曲げ、両足を少し広げる。両腕はだらりと力を抜いた。いつでも左右に飛び退くことのできる状態だ。
「喰ってやる。お前も喰ってやる!」
「『お前も』って、あんた人間を食べたの?」
霊夢は届かないとわかりながら言葉を投げる。
それを合図に獣は霊夢に飛び掛かってきた。一度の跳躍で獣と霊夢の距離は手の届く位置まで縮まる。
残った左手を振り上げて、獣は霊夢を切り裂こうとした。
霊夢はぎりぎりまで獣を引き付ける。
獣の腕が霊夢を捉えようとした瞬間、霊夢は獣の切断された右腕目掛けて前進する。
獣の前から霊夢が消えた。
霊夢は獣の後ろに素早く回り込んだあと大きく跳躍。
獣は霊夢を視界に戻そうと身体を捻って振り返る。
そのとき、獣の側頭部に衝撃が走った。獣は唸り、その場に転がる。
霊夢が獣の頭に後ろ蹴りを放ったのだ。
霊夢は反動でさらに飛び上がった。
宙にふわりと浮く紅白。
霊夢は着地すると、そのまま数回飛び跳ねて逆の岩場に移った。これで獣が戦意を喪失してくれることを彼女は願った。
獣はよろよろと立ち上がると、牙をむき出し霊夢に敵意を表す。霊夢は大きくため息をつきながら獣を睨みつけた。
獣はまた霊夢に飛び掛かった。霊夢は余裕を持ってその攻撃を回避する。
そのあとの獣の攻撃は単調だった。左腕で霊夢を捉えようと正面から突撃してくる。また、間合いに霊夢が入ると、鋭い牙で彼女に噛みつこうとした。霊夢はひらりとそれらの攻撃をかわして、可能ならば掌底や回し蹴りで反撃する。
しばらく獣は止まることなく霊夢を攻め続けた。しかし、霊夢の掌底が彼の右腕の傷口をえぐると、唸りながら顔を歪ませて膝をついた。
霊夢は獣から距離を取り、獣の鮮血がべっとりと付いた自分の左手を見た。生暖かい感触が左手を覆っている。血からは白い煙が立ち上っているが、蒸発しているような熱さは感じなかった。すぐに霊夢の手に纏わりついていた血は全て煙となって消えていった。霊夢は獣の血が消え去った手の匂いを嗅ぐ。血や獣の匂いは全くしなかった。
『消える』。霊夢は獣の言葉を思い出した。幻想郷の外ではもう妖怪は存在すら保てないのか。目の前の獣は岩に宿っていたと言った。その言葉が正しいなら、九十九の神に近い。実体を持ち、かつ物に宿ることのできる妖怪を幻想郷の中で霊夢は聞いたことがなかった。外に出て実体が希薄になったからこそ成せることだろうか。
霊夢と同じく幻想郷の妖怪が外に放り出された場合、目の前の獣と同じなら消滅してしまうこととなる。元来、妖怪は幻想郷の外から集まってきた。それは信仰や畏怖の対象となることがなくなり、力を徐々に失っていたからだ。それから数百年の年月が経ち、姿かたちすら外の世界では維持できなくなってしまったらしい。
獣は立ち上がった。まだ彼は戦闘を続ける意思がある。霊夢は巫女装束を含めて傷一つない。それに比べて獣は戦闘の前から右腕切断の致命傷があり、致命打はないものの霊夢からいくつもの打撃を受けて荒い息をしていた。放っておいてもしばらくすれば事切れるだろう。
楽にしてやったほうがこの獣のためかもしれないと霊夢は考えた。獣に対して身体を横に向け、両手を腰の位置まで上げた。両腕に霊力を溜める。
獣は霊夢の力を感じ取りたじろいだ。
けれども彼は唸り、そして吠えた。自らを奮い立たせるために。
今までで一番素早い動きで獣は動き出す。何度も霊夢に腕のない方向に逃げられて、獣は自然とそれを嫌がった。獣は霊夢の左側へ身体を寄せて、切断された右腕側に回り込まれないようにした。霊夢は獣の学習に口の端を吊り上げた。
攻撃方法は変わらなかった。獣は抱き込むように左腕を霊夢の胸元目掛けて振り抜いた。
霊夢は足を前後に大きく広げ姿勢を低くする。
さらに頭を下げるとその上を獣の腕が通り抜けた。
霊夢は頭の後ろで風切り音が鳴るのを聴いた。
間髪入れずに霊夢は上体を起こし、獣の脇腹に両腕で掌底を叩き込んだ。
骨が砕ける感触が手を通して霊夢に伝わってくる。
獣は直進してきた速度を落とせず、また霊夢の掌底を受けた反動も合わさり右前方に吹き飛んだ。岩場を飛び越え、木の幹に背中から激突して地面に落下する。
霊夢の視界から獣が消える。しかし、まだ獣は戦意を喪失していなかった。霊夢に見えないように岩場の下で姿勢を低くして移動を開始した。けれども、獣が草を踏む足音が霊夢に聴こえてくる。何より気配で霊夢は獣の位置をずっと追えていた。
獣は左腕で岩場を掴むと、岩の上にいる霊夢の位置を気配で探った。霊夢が岩の中央で待ち構えていることを確認すると、獣は腕を軸にして岩場に飛び乗ろうとした。
しかし、飛び上がった獣の頭に霊夢の背面蹴りが直撃する。
鈍い音がして獣はまた地面に転がる。
獣の歯が数本からんと音を立てて岩場に転がり、煙となって消えていった。
霊夢はそのままの勢いで獣を追撃する。
獣は受け身を取りながら、霊夢が気配を操作して彼を欺いたことを理解した。
獣は手をついて立ち上がろうとする。
その腕を霊夢の回し蹴りが捉えた。
獣の腕は肘から逆に曲がった。
悲鳴に似たうめき声を出して獣は霊夢から距離を取ろうとする。
その顔面に霊夢は掌底を繰り出した。
鈍い音がする。
獣は木々の間をかいくぐり霊夢から間合いを取ることには成功したが、最後の掌底で片方の眼球がつぶされた。瞼の奥から吹き出ようとした血は煙となって外に放出される。左腕も肘から下は骨が砕けてだらりとぶら下がっている状態だった。
獣は吠えた。まだ戦意を失っていない。妖気が彼の身体に満ち溢れ、その身体を白煙が覆う。
獣は霊夢に向かって飛び掛かる。
ところが、密集した木々が獣の行く手を阻む。しかし、獣は速度を落とさずに木に激突した。霊夢がそう思った瞬間、獣の身体が煙のように気体となり、木々の間をすり抜けた。再び獣は実体を取り戻し霊夢に詰め寄る。
予想外の獣の軌道に霊夢は後ろに飛び退いた。
獣はただぶら下がっているだけの左腕をヌンチャクのように霊夢に向かって振る。
霊夢は避け切れず、右手でその一撃を防御した。
獣の力はすさまじく、霊夢の身体は吹き飛んだ。
後頭部、左足、背中。木々に身体をぶつけながら、霊夢は傾斜を転がった。
霊夢はふらつきながら起き上がる。
霊夢の視界にさくらがいた。さくらは胸に手を当てて目を見開いている。その視線は霊夢ではなく、その後ろにいる化け物にあった。
獣は霊夢の頭に後ろから噛みつこうとしていた。
それを霊夢はしゃがみ込み回避。
霊夢を飛び越えて獣が着地する。
距離は遠いがさくらと獣は向かい合うかたちとなった。
獣はさくらを見つめたまま動かない。
「お前は……なぜ生きておる……」
それが獣の最後の言葉だった。
霊夢の叫ぶ声が聞こえ、獣は後ろを振り返る。
飛び上がった霊夢の掌底が獣の首に直撃した。獣の首はへし折れ、口から血を吐き出しながら倒れる。
霊夢は着地に失敗して尻もちをついた。
さくらは怯えながらも獣が動かなくなったことを確認して、大きく迂回しながら霊夢に駆け寄った。
「だ、大丈夫?」
さくらは霊夢の肩に手をかける。けれども視線は横たわる化け物から外せない。
「落ち着いて、もう大丈夫だから」
肩に置かれたさくらの手を霊夢はぽんぽんと叩いた。不思議とさくらの恐怖がしぼんでいく。
霊夢は立ち上がろうとしたが、よろめいて転びそうになる。咄嗟にさくらは霊夢を支えた。
「この化け物は何?」
「さあ、幻想郷の住人だったみたいね」
「住人って、人なの?」
「妖怪よ。幻想郷には人間以外の存在のほうが多いわ」
「妖怪って……」
目の前の化け物の死体は先ほどまで動いていた。さくらは霊夢の説明を否定することができなかった。
二人が会話している間も獣の身体からは白い煙が湧きだし、徐々にその量は多くなっていく。やがて、煙に死体は包まれた。
そこからは早かった。水が沸騰するような音が獣の身体から鳴り、小さくなっていく。最後は跡形もなく消えてしまった。
霊夢は獣の消失を確認すると、膝をついて死体があった地面を触る。戻した手には虹色に輝く透明な欠片があった。砕けたガラスの破片に形は似ていた。大きさは霊夢の手て包み込めるほどの大きさ。
「どういうことよ。これ……」
霊夢は欠片を持って立ち上がろうとした。けれども急にうなだれて、欠片を落としてしまった。欠片は傾斜を転がり木の根に引っかかった。支えていたさくらの手に霊夢の体重がのしかかる。霊夢とともに倒れそうになったさくらは、慌てて霊夢を抱きしめた。
「レイムさん! レイムさん!」
さくらは霊夢を揺する。ところが、霊夢は目を閉じ首を揺らすだけで起きる気配はない。
倒れ込む前から霊夢は意識が朦朧としていた。霊夢が獣に吹き飛ばされる姿をさくらは見ている。頭をぶつけて脳震盪を起こしたのかもしれない。
さくらは辺りを見回す。まだ空は明るいが、太陽は山に隠れてしまってさくらがいる森は薄暗い。もたもたしていると闇に包まれて動けなくなる。霊夢を置いていくわけにもいかない。
さくらは霊夢をそっと地面に寝かせて、彼女が落とした欠片を取りに行った。欠片を持つと手のひらが次第に熱くなっていく。さくらは欠片を捨てて行こうか迷ったが、霊夢に後で必要だったと言われても取りに帰ってくることはできない。仕方なく、さくらは欠片を握りしめて霊夢の元に戻った。
苦労して霊夢を背負うと、さくらは立ち上がる。傾斜を転がり落ちそうになるが、何とか踏ん張る。神社はここから見えない。しかし、崖の位置や傾斜の傾きから進むべき方向はわかる。
さくらは転ばないように横歩きで慎重に傾斜を降りて行った。