ドラゴン・バラッド-龍血の龍討者-   作:雪国裕

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終わりを告げる物語

 ふたりは分岐した細い道を歩く。

「もし、俺が先にやられたとしたら。ルナは逃げてくれ」

 道中ふと、ヴァンが呟くように言った。

「え?」

 ルナは耳を疑う。黒鉄討伐、このことに関して彼は自分よりも前向きで、勝気であったからだ。彼女は、ヴァンの横顔を伺った。彼は視線を前に向けたまま、続けた。

「君はまだ長生きできる。また俺のような奴を見つけ、やつを討つ機会はあるはずだ」

 それは彼女にとって、一番言われたくない言葉だった。

「嫌よそんな」

 だからこそ怒った。

「だよな」

 彼はやはり瞳を合わせぬまま、笑っていた。

 

『恐ろしい程に静かな、美しい黒水晶が煌く洞窟の中で、

 剣の傷を受けた一匹の巨龍は、静かに首をもたげた』

 

『やがてゆっくりと立ち上がる龍。

 その様子はまるで彼らを出迎えるように穏やかであった』

 

『その視線の先には、憎しみの炎を燃やす青い戦士と、そして龍を殺す白き人の姿がある。

 伝承から切り離され、動き出した物語の一節のように』

 

『龍と彼らは――今対峙した』

 

 巨大な黒い影、宿敵の黒鉄龍が彼らの前にあった。翼のないドラゴン。その体躯は、高さで7、8メートル。全長で16メートルほどにもなった。漆黒を凝縮したような禍々しい姿の龍は、鋭い金色の瞳を光らせてこちらを見据えていた。低い唸り声が、彼らを威圧する。

 しかし、ふたりは臆することはない。

「行くぞ」

「ええ」

 

 もはや、ためらいはなかった。

 

 二人は走りだし、即座に黒鉄龍へと接近した。交互に場所を入れ替えながら、黒鉄の脚へ斬撃を加えた。いずれも傷は浅く、致命傷にはなりえない。

 しかしこうやって生命力を奪っていくほか、倒す方法はない。

 逞しく、鋭い爪のついた脚で、黒鉄は二人を踏みつけようとしてくる。脚が振り下ろされるその度に、地響きと振動が生まれた。

 だが彼らは止まらない。

 ブルークラウンは、彼がひと振りするたびに青く煌めいた。今まで見たことのないほどに激しい炎を上げて、斬撃は黒鉄の脚に叩き込まれていく。しかしそれでも、本物のドラゴンの前には十分な威力とは言い難い。

 ルナの紅月も、時折火花を散らして弾かれてしまっているものの、確実に肉をそいでいる。ダメージはあるはずだ。しかし黒鉄は苦痛の声ひとつ上げず、彼らを迎撃していた。

 岩陰に身を潜め、ヴァンは自分の呼吸がひどく乱れていることに気がついた。どれくらいの時が流れたのか、見当もつかない。それほどに集中していた。

 申し訳程度に装備していた小楯は、いつの間にか弾き飛ばされていた。攻撃すべてをかわせているわけでもない。ルナから教わった、受け流し方によってある程度、ダメージを減らしながらガードしているが、龍の体躯がぶち当たるのである。無事ではない。

 洞窟内は大部屋がいくつか分岐して存在しており、現在黒鉄はその中でも一番大きな部分に居る。現在はこちらを見失い、索敵している状態だ。

 ルナとヴァンは、このエリアを走り回り、隙を見て攻撃を仕掛けるといったスタイルで戦闘を行っていた。ある程度回復したら、再び接敵するという手筈だ。そしてまた、その時が来た。向こう側のルナと頷き合うと、彼は岩陰から飛び出した。黒鉄は首をこちらへ向け、即座に旋回する。早い。

 しかし。ヴァンは龍の血に塗れながらも、ヘルムの隙間から黒鉄の右足を見た。

 この龍の動きには規則性があった。

 本来、世界をすべ自由自在に動けるはずのドラゴンであるが、この龍の右肩にはそれを妨げている要因がある。

 それは、誰のものかも知らぬ大剣だった。それが突き刺さったまま、関節の動きを阻害しているのか、黒鉄は右前足を常に引きずっていた。

 ギルドや個人にも”手負いのドラゴン”として認識されているとおり、黒鉄は五体不満足の状態にある。

 それが狙い目だった。

(――ルナ?)

 ヴァンは彼女のほうを向いた。

 一時、黒鉄の注意はルナの方へ向けられているようで、それを伝えるため向こうが合図していた。

 ヴァンは頷き、彼女を視界に収めたまま――龍血の力を解放した。鎧の内側から、一瞬青白い光が漏れ出す。

 そしてブルークラウンを構え、一本の足へ向かって連撃を繰り出した。

 一撃、また一撃。

 さらに数え切れぬほど、連撃を加えていく。

 耳をつんざくような甲高い龍の咆哮が、洞窟内に反響した。

 一瞬のうちに脚を切り刻まれ、黒鉄はここに来てようやく苦痛の声を上げる。彼の連撃は硬いウロコをはじきとばすと、そのあとに肉片と鮮血が舞った。

 舞った鮮血の合間から、ヴァンは黒鉄のむき出しの傷口を捉える。

 いける。

 彼はもう一度構えを取り、力を込めた――刹那。

 龍は、咆吼した。

 先程とは違う、太い雄々しい声で。

 漆黒の中に浮かぶ黄色い瞳が、彼を睨みつけていた。そして身体を動かし彼の攻撃を回避すると、空振りした彼を前足で殴りつけた。

 巨大な鉄塊の如き龍の脚が、眼前に迫る。

「っ!」

 鋭い爪の、そこについた傷まで鮮明に見えた。ヴァンは寸前のところで後ろへ回転し、攻撃を回避する。爪はブルースケイルの表面を削り取り、火花が上がった。

「ヴァン!」

 ルナが叫ぶ。

 黒い影が、既に彼の前に迫っていた。

 間髪入れずに放たれた、噛み付き攻撃。

 ――間に合わない。

 幸い噛みつかれはしなかったものの、鼻先が背中に直撃する。衝撃と、鈍い痛みが駆け抜けていく。

 ヴァンは吹き飛ばされ、無様に転がった。

 そして、動かない。

「あ…ああ…」

 ルナはその光景に思わず、こう思ってしまった。

「自分たちがなんてちっぽけな存在なのだろう」と。そしてその思いは、弱音となって今にも口から吐き出されそうになる。

 これではダメだ。彼女は黒鉄を睨みつけた。彼の目の前に立ち、必死で黒鉄の注意を引いた。

 きっと生きている。立ち上がると思いながら。

 引き続き、黒鉄の足元をかいくぐりつつ攻撃を加えていった。前足を抜け、腱へ一撃、回転して後ろ足へ一撃。華麗な連撃を加える。

 浅いが、黒鉄はわずかだがぐらついた。ダメージが蓄積しているのは、間違いなかった。体勢を崩した黒鉄は、横に倒れそうになる。

 ルナは、黒鉄の尻尾に注意しつつ急いでヴァンのもとへ駆け寄る。

「俺なら…大丈夫だ」

 彼はそう言い、剣を支えにして起き上がった。ルナは安堵した。よろけてはいるが、彼はまだ戦えるという意思を見せている。ルナは彼に肩を貸しつつ、岩陰へ一旦身を潜めた。黒鉄の追撃はまだ来ない。今のうちに次の手を考えなくてはいけなかった。

「足元がかなりきているみたい」

 ルナが状況を告げると、彼はヘルムの面貌を上げて口を開いた。

「どちらかがチャンスを見つけて、頭部へ攻撃する。龍は概ね角が弱点だ。あれを折ることが出来れば、平衡感覚を大幅に狂わせることができる…」

「そうね」

 どのみち、長くは戦えない。黒鉄は傷ついているといえど、龍である。人間よりもはるかに生命力が上なのだ。持久戦となれば勝機などない。

「背中には注意しろ…俺はともかく君は。場所を間違えれば終わりだ」

 ルナは深く頷いた。

 黒鉄の背中に密生したウロコは、まるで針のごとく鋭く尖がり、逆立っていた。

 それは黒鉄龍が別名アーテルソーズ――漆黒の剣山とも呼ばれる所以だった。

「いくぞ。もうあまり時間はない」

「うん」

 二人は再び駆け出した。動きの素早いルナが、まず接敵する。体勢を立て直した黒鉄は、彼女へ尻尾を、垂直に叩きつけた。横に飛び、それを避けると、今度はその後ろからヴァンが現れ、凄まじい速さで尻尾を駆け上がった。

 彼は龍血の力を解放していた。

 剣山が現れる背中手前まで走り抜け、そこから跳躍する。背中を通り越え、頭部の真上に到達する。ヴァンは、ブルークラウンを黒鉄の角へ叩き込んだ。衝撃が手を伝わる。矢張り斬ることは出来ない。それでも、僅かだが炎が弾けた。

 ヴァンは着地し、すぐに後ろを振り返った。

 黒鉄は苦痛なのか、声を上げている。角への攻撃は――有効だ。

 しかし、ヴァンは喜んではいられなかった。

 黒鉄は今の一撃で、激しく憤った。常に唸り声を上げ、傷口から鮮血を吹き出しながらも、熾烈な連撃を繰り返す。地面は抉れ、岩は破壊され、洞窟は全体が揺れ動いた気さえもした。

 ヴァンは、回避することで手一杯だった。

 龍血の力をフルに活用し、跳躍して攻撃を避ける。本来は攻撃のために使用したいところだが、今はそれどころではない。彼は必死だった。

 だがしかし、彼は壁際へと追い詰められてしまう。万事休すか――ヴァンはブルークラウンを構えた。攻撃の瞬間に回避し、懐に潜り込めば…あるいは。

 その時だった。

 彼の視界に飛び込んできた、信じ難い光景。先程の自分と同じように、尻尾を伝って跳躍したルナが、黒鉄の頭に――しがみついた。一歩間違えば、背中の剣山で串刺しだ。頭にしても、鋭いトゲが生えている。触れれば無事では済まない。彼女はやはり、出血していた。白い服を、自身の血が赤く染め上げる。

 それを気にもとめずに、彼女は紅月を抜刀した。そして黒鉄の額目掛けて、それを突き立てる。刀身はウロコを貫き、額に突き刺さる。

 同時に黒鉄は我武者羅に首を振り回し、ルナは呆気なく振りほどかれてしまった。なんとか体勢を立て直し着地する彼女は、体を転がし勢いを殺して、そして直ぐに起き上がった。

 紅月は、黒鉄の額部分へ突き刺さったままだった。

「ルナ!」

 ヴァンがルナを制する。が、彼女はこちらを向いて少し笑った。それが、ヴァンにとってひどく儚げに見えた。

 黒鉄の視線は、未だにヴァンを見据えている。どのみち、自分が動かなければいけない。

 得物を失ったルナは、ある方法を試みる。

 あの時のように。

 彼と早朝の決闘をしたときように、ひたすらに集中した。

 本能的に求めろ。

 龍を殺す力を。

 気が付けば、彼女の手元に光剣が出来上がっていた。それを携え、彼女は走った。そして全力で跳躍し、黒鉄の首筋へ斬りつける。

 しかし黒鉄は、寸前でそれを自らの二本の角で防いだ。光の剣は火花を上げて四散、呆気なく消滅した。

 そのさまを、空中で彼女は見据えていた。

「だめ…か」

 力なく、こぼれ落ちた言葉。

 着地してから、ルナは後ずさりした。白き人の力が通用しない。彼女の内に、絶望の影が歩み寄った。それが油断につながった。黒鉄と――距離を離してしまった。

 ヴァンは駆け出した。このままでは、彼女は。

 間一髪ルナを跳ね飛ばす。

 しかし彼女が「それ」に気がついたときにはもう遅かった。

 彼の姿が、遠くなる。ヴァンは突進してきた龍に轢かれた。角を用いた突進攻撃だった。彼は水平に移動して、遠く離れた水晶に激突し、ようやく止まった。

 それきり――ピクリとも動かなかった。

 ルナの瞳から、じわりと熱い何かが溢れ出した。

 あの時と同じだ。

 大切な人を失った時と同じだ。

 ――もし、俺が先にやられたとしたら。ルナは逃げてくれ。

 君はまだ長生きできる。また俺のような奴を見つけ、やつを討つ機会はあるはずだ――

 先ほどのヴァンの言葉が、彼女の中で復唱される。

「嫌、だよ…」

 彼女は涙を拭った。

 後悔するくらいならここで全てを、自分の命を燃やしてやる。

 右手に小さな、碧い剣を創りだす。それは次第に形を変え、色を変え。いつの間にか青から、紅に色付いていた。

 巨大な剣となったそれを。残った力の全てを――投げつけた。

 龍の力を司ると言われている角へ。

 そこに突き刺さったままの、紅月の元へ。

 刹那、雷が煌く。

 鋭い光の槍は、黒鉄の頭部へと深く突き刺さった。その瞬間、稲妻は砕け散り、光は四散した。膨大なエネルギーの全てが、黒鉄へと瞬時に流れ込む。

 先刻はこの龍をひるませるにも至らなかった攻撃は、今度は致命傷となった。

 紅き光の槍は、黒鉄龍の角を折り飛ばした。

 同時に龍は激しく仰け反り、その勢いで紅月は解放される。そして遠く離れた地面へと突き刺さった。

 刹那、洞窟内に龍の甲高い絶叫が木霊した。痛みに暴れ狂う黒鉄の尻尾が、彼女の周りの岩壁に打ち付けられる。

 短い悲鳴とともに、彼女は瓦礫と共に吹き飛ばされた。それから、まるで投げられた人形のように地面を転がった。

 美しい水晶が視界の淵に映る。ここはそう、ヴァンの直ぐそばだった。

「ルナ…」

 横たわりながら、ヴァンはかすれた声で言った。

「大丈夫…だったのね」

「…ああ、まあな」

 ふたりは手を握った。

「旅が終わっても、私たちの関係は変わらない…よね?」

「もちろんだ」

 ヴァンは断言する。

「早く、気持ちを聞きたいよ…ヴァン」

「俺も…だよ」

 終わらせなかればいけない。自分のためにも。彼女のためにも。

「さあ剣をとって」

 彼女は言う。おそらく最後の好機。

 ヴァンは自らを奮い立たせた。

「ああ!」

 覚悟を決め、兜の面頬を閉じた。黒鉄龍は未だ、彼女の放った雷撃のダメージでまともには動けずにいる。

 鈍った動きの今なら、より近く――懐に潜り込めるかもしれない。

 落ちた剣を拾い上げて、構える。

 その歩みは、はじめは覚束無い弱々しいものだった。しかし次第に、力強く大地を踏みしめる。

 ヴァンは駆け出した。力を振り絞り、風の如き速さで接敵する。向けられた爪と、牙を避け、しなる尾の一撃をかわしながら。

 逆立つ青髪と、引き絞られる竜眼。

 足腰に力を込めると、踏みしめた大地は割れた。

「ウォォオオオ!!」

 全力の跳躍。

 最後の力を振り絞り、ヴァンは黒鉄の肩へ飛び乗った。そこから更に跳び――その真上へ飛んだ。

 反転する視界の隅で、剣山のような背中の右肩部分に刺さった――大剣に狙いを定めた。

 黒鉄は遅れて首をもたげ、彼に噛み付こうとする。だが彼は既に、大剣の柄をしっかりと掴んでいた。腕を引き寄せ、それを回避する。

 空中で身を翻し、背中に着地する。剣山の合間を縫って、構えた青い剣を突き立てる。体重を乗せた切っ先は、ひび割れた鱗の隙間からズルリと潜り込んで、肉を裂きながら奥へと突き刺さる。

 同時、青い炎が燃え上がり、その一帯すべてを燃やし尽くした。ヴァンは炎に灼かれながらも、決して手を離さない。

 凄まじい咆哮が洞穴内に木霊する。黒鉄の悲鳴だった。龍を殺す痛みに悶え、痛みの原因を振りほどこうとして全身を揺らす。

 脳が揺られ、目が回りそうな程色を変える視界のなか、それでも力を抜くことはない。

 剣を、抜かせはしない。

 ここで力を緩めれば、明日は来ない。

 必ず、生き残る。

 しかし無常にも、青き炎は弱まっていく。

 ――このままでは、止めを刺すことができない。

 ヴァンは目を細めながら、脳裏に絶望の結末がよぎっていくことを感じた。

 だめなのか。

 やはり一個人でドラゴンに挑むなど、無謀だったのか。

 ――そんな時。ふと視界の端にルナが見えた。紅蓮の瞳が、希望を宿して震えている。

 それに応えたいと思った。

 そう。僕は忘れていた。これはもう、一人で成し遂げることではない。

 この物語の結末を決めるのは、僕だけではない。

「俺はもう、一人じゃない!!」

 ヴァンは叫んだ。ルナは目を見開く。彼は腰からもうひと振りを抜き払うと、それを足元に突き立てる。

 一つで駄目なら、二つの力で。

 炎は再び激しさを取り戻し、燃え上がる。

 二本のブルークラウンが美しく煌き、チリチリと鮮やかな火花が散る。

 そして。

 黒鉄の生命と、まるで反比例するように大きくなっていく、蒼き炎。

 それは、

 

 青く、蒼く、碧く。

 濃く、美しく。

 激しく、

 

 煌く。

 

 瞬間、巨大化した青の炎は弾け、白い光とともに黒鉄の全身を包んだ。それはもはや爆発だった。黒鉄の胸部――心臓を駆け抜けた光は、暫く細かくはじけ続け、あたりを照らしていた。

 背中から飛び降りて着地すると同時、ヴァンの背後でもう一度爆炎が弾け、閃光が洞窟内を照らした。

 焦げた匂い放ちながら黒鉄龍は、遂に――倒れた。

 

「…倒したの?」

 よろめきながら歩み寄ったルナは、ヴァンへ訊いた。

 剣を鞘に仕舞う。

「そのようだ」

 ヴァンは呼吸を整えてから振り返って、返答した。

 彼が近寄ると、黒鉄は力なく動いた。そして舌を出しながら子竜のような声を上げる。もはや風前の灯となった、かつての力強い生命の塊。それ見据え、二人は思った。

 おそらく同じことを。

 ルナは短く声を上げ、手で口を覆い、身を背けた。覗いた瞳に―――多分涙が浮かんでいたと思う。

 焦げた匂いの中、黒鉄は全身からおびただしい量の血を噴き出していた。

 内部から破壊されたような――これが龍殺しの、呪いの力だ。一度はそれを味わったことのあるヴァンは、わかった。

 この龍は痛みに耐え切れず、泣いているのだと。

「終わらせよう」

 ルナは言った。そして、左手で紅月を握った。手は、震えていた。その手に、もうひとつの手が重ねられる。ヴァンは首を横に振り、そうしてから深く頷いた。

 黒鉄の痛々しい姿を目にして、彼もまた同じ気持ちだった。ルナはそう捉えた。

 二人は紅月を、黒鉄の喉元へ向けた。

 

『もはや殺意も、敵意もなかったろう。

 いや対峙した時から、そんな感情は無かったのだ。

 彼は龍として生きただけだった。

 そして彼もまた、人として生まれただけだった。

 同じ血が混じり合う仲で、彼は恨み復讐を果たした。

 それは――ただ深い悲しみと哀れみの物語だった。

 

 私はこの時を、ドラゴンバラッドの終わりを。忘れはしない』

 

 鮮血が舞う。

 

「ねえ」

 剣を鞘に収めてから、ルナは声をかける。

「身体、痛まない?」

「全身痛い」

「やっぱりね…私も。帰ったらすぐに手当だね」

「ああ。でも致命傷はない」

 あれだけの戦闘だというのに、致命的なダメージはない。鎧を外した下がどうなっているか怖いが…とにかく不思議だった。

「そっちは?」

 ヴァンは彼女の姿を見る。

「小さい切り傷と、打撲程度よ」

 そういった彼女であるが、明らかにウソだった。出血は少なくないし、打撲というほど軽いものでもなさそうだ。

「あれがなかったら負けていたかもしれないな」

 ヴァンは、黒鉄の亡骸を見据えてそう言った。正確には、その右肩に突き刺さった大剣を見て。

「ええ。本当に」

 ルナも、しみじみとした様子で言う。

 黒鉄の動きを制限していた剣。

 名も知らぬ誰かの大剣。

「誰のものなんでしょうね」

「さあな…」

 彼らがその名を知る日は、来るのだろうか。少なくとも分かることは。

「だが、助けられたよ」

 ただそれだけはわかる。自分たちの勝利は、あの剣によってもたらされたといっても違いないだろう。

 ともかく。

「終わったのね」

 すっかり静かになった洞窟内で、ルナはポツリと呟いた。彼女の言葉に、ヴァンは俯いた。そして程なくして、彼の口から嗚咽が漏れ始める。

「ああ。終わったんだ…」

 ヴァンは涙を流していた。

 彼はこの時のために生きてきた。そしてそれが今、果たされた。

 その場に崩れ落ちるヴァンを、そっとルナは抱きしめた。抑えていた感情が、この時を持って溢れ出していく。声を出して、彼は泣いた。あの日から今日まで押さえ込んでいた涙を、彼は流し続けた。

「もう、あなたが抱えることは何もない。思いっきり泣いていいんだよ」

 ギルドの迎えが来るまで、あと三時間ある。

「傍にいてあげるから」

「ああ……」

 歪んだ視界の淵に映る彼女の瞳に、慈愛の意志を感じる。なんて柔らかで、暖かいのだろう。

 その瞬間、記憶が遡る。

 まるで、あの頃に戻ったように。

 暖かな白い光と、鳥のさえずり。心地よい風、めくられる本のページ。

 自分を呼ぶ声。

 不思議だ。彼は思い出す。

 忘れていた母の温もりを。

 

 それから間もなくして、逆光はふたりの姿を黒く隠し、壁に濃い影を作り出す。少年の安らかな寝顔を、少女は慈しみの瞳で見据え続けていた。

 やがて二つの影は、一つに重なる。

 

 こうして一つの龍の物語は、静かにその幕を下ろす。

 いつの間にか消えていた彼らの姿を、追う者はなかった。

 




次回、最終回です。
今までお付き合いしてくださった方は、本当にお疲れ様でした…
そしてありがとう。
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