0.
目を閉じると思い出すことがある。
ずっとずっと忘れることの出来ない、脳裏に、瞼の裏に焼き付いて消えることなく刻まれた遠い遠い記憶。
とても凄惨な光景と、それらを生み出した全ての匂いと、それらによって生み出された匂い、熱、冷たさ、音、感覚、感情――その全てを決して忘れることなく記憶している。
だから。
「すまない……」
掠れた声でそう言いながら俺の頭を撫でてくれた大きくて暖かな手と、齎された〈奇跡〉は、きっと面と向かってでは最後となる贈り物だったんだろう。
そしてその贈り物は、きっと俺を育む掛け替えのないものになった。
そこにあった出会いも、学びも、温もりも喜びも、悲しさも切なさも苦しさも全部。
だから。
「真っ直ぐに在りなさい」
至極綺麗な微笑みを浮かべて俺の頭を撫でた手と贈られた言葉は、その〈奇跡〉の出会い共々深く俺だけの心に刻まなきゃいけない。
俺は救われたのだから。
俺は救われ、助けられ、守られ――そして、あの人に頼まれたのだから。
ならばもう齎された以上を望まない。その先で得たもの以上を願わない。
だって、俺は返さなきゃいけないんだ。
俺のせいで失われたものを。俺が得られてはいけなかったものを。俺が得た以上のものを。
だから――俺はお前と共にどこまでだって行くよ。
どれだけ困難な道だとしても、どれだけ辛く険しい道だったとしても。
その傍に誰もいなくなったとしたって、その傍に誰かがいたって――その命が損なわれるのならば、その命を差し出さなければならないならば、俺がその代わりに成ってみせるから。
俺はあの日、死んでいたんだ。
此処にある心臓は――お前とあの人を繋ぐ、いつか返すべきものなのだから。
1.
七耀暦1204年、8月31日。
エレボニア帝国最東端、ガレリア要塞・軍事演習場。
爆撃の音がする。硝煙の匂いがする。焼け焦げた匂いがする。
皆と一緒に内部に駆け込めば、その先には酷い血臭の充満し、軍服を着込んだ多くの死体が転がっていた。
言葉を失ったのはきっと全員。
それこそ先導してくれた軍人たる彼や、教官たる彼女でさえも。
酷い有様だった。惨い有様だった。
ただそれでも誰ひとりとして立ち止まろうとはしなかったのは、その光景も外の光景も全く予測出来ない不測の事態だった訳ではなかったからだ。
戦車の暴走を含めた囮による隙を突いてまで、二門の〈列車砲〉の確保をしたってことは、クロスベルで行われる通商会議――すなわち狙いは間違いなく鉄血宰相の首。
暴挙と言われても仕方ない行為ではあるが、彼らにとってはこうまでして成したい事なのだろう。
「……それでも、とても見過ごせるものではないが」
ぽつりと呟いた声に答えるものはない。
代わりに双眸を伏せていた少年がその目を開くと共に俺を見た。
「ルイン」
確かめるように、いつものように、彼は俺を呼ぶ。
縋るでもない、頼るでもない、ただただ当たり前に在るからこその無条件の信頼を向けられていると知っているからこそ。
俺は俺と同じ色の髪をした、同じ目をした――同じ顔をした彼を見て答えるのだ。
「ああ、リィン」
すると、彼は――リィンは決まってほんの少しだけ表情を嬉しそうに緩める。
俺達はいつだって互いの味方なのに、いつだって肯定してくれる片割れの存在に助けられて生きているのだ。
そうしてからリィンは軍人たる彼に協力を申し出た。
「俺たちも協力させてください。〈列車砲〉が起動する前に、なんとしても彼らを止めなければ」
異を唱える声は皆からは上がらない。むしろそれが良いという声だけが響く。
だから、という訳ではないだろうけれど、リィンの申し出を聞いた教官も、軍人たる彼も判断は早かった。
「止めても聞く様子、はないわね。ならリィン以下A班はあたしについてきなさい! B班は少佐の指揮下に!」
「二手に分かれ、右翼と左翼の列車砲を押さえる。だがこれは訓練ではない――実践だ! くれぐれも気を引き締めるように!」
「了解しました!」
応じる様に声を発して、リィンは皆に向き直る。
「トールズ士官学院、特科クラス〈Ⅶ組〉一同――これより列車砲の起動を食い止めるべく、これよりミッションを開始する。日頃の訓練の成果を見せる時だ、全力で教官と少佐のサポートをするぞ!」
その言葉に、各々が声を発して応じる。
A班とB班の振り分けは既に済んでいる。となればあとは動くだけだ。
「行くぞ、ルイン!」
「任せろ、リィン!」
いつもの通り、いつものように。
緊張の入り混じった真剣な面持ちで、けれども安堵したような表情で武器を手に駆け出すリィンを追って俺も駆け出して――――ぶつり、そこで全てが途切れた。
* * * *
ふわり、ふわり。銀色が揺れる。
こつ、こつ。靴底が地面を叩く。
「……世界は大いなる力の影響によって切り替わった」
言いながら足を止めた女性は、青空を仰ぐ。
「これが幸運なのか不幸なのかはわからないけれど……それでも、これで生じたゆらぎや歪みは、きっと何らかの変化を与えるのでしょうね……だからこそ、こんな事は多く起きてはならないのだけれど。それでも多分、そのおかげであの子が今度は滑り込むことが出来たのよね」
女性はそよぐ風に靡く髪を押さえながら、その透き通った青の眼を細めた。
「あの世界のあの先には、彼の嘆きの叫びがあった。それはきっとあなたも望まない結果だったのよね……何かが欠けていたのか、どこまでも彼が転がり落ちていくだけの世界だった。とてもじゃないけれど、彼の心に救いがあったとは思えなかったわ。でもあなたはその世界を覚えてはいない……けれども、今度はあの子も一緒だから。きっときっと、何かが……彼の、リィンくんの辿り着く未来だって変わるのだと思うの」
誰にともなく、彼女は語る。紡ぐ。
ひらりひらりと空を舞う桃色と共に風に攫われるそれは。
「だから、どうか今度は私の大切な幼馴染みを、親友を――ユズリハのことをよろしくね? ルイン。それに――クロウも」
ひとりの女性の幸福を願い、ひとりの少年と、ひとりの青年と――それからいつかひとりの少年に届く、明日への祈りだった。