「――そうか」
くるみさんから、自分の体の話を聞いたあゆくんはぽつりとつぶやいた。
「俺が兄貴のクローンと聞いて、なんとなく普通には生きられない気はしていた。ただでさえ、現在でも未確立の技術なのに、十数年も前のクローン技術になんの綻びもない方がおかしい。さすがに、これは予想のうちの最悪に近いケースだったがな」
冷静に言うあゆくんが、とてももの悲しい。
「で、でもそんなのってないよ! くるみさん、これは絶対なんですか!? 単なる予想の一つとか、あくまで可能性とかじゃないんですか!?」
理性では、くるみさんが嘘を言うわけないと分かっていても、そうですかと受け止められる余裕は、私にはなかった。
「残念だけど、事実だ。歩君はなにもしなければ、二十歳までは生きられない」
「そんな、そんなのって――!」
それ以上言葉が出てこない。そんなこと、信じられない。信じたくない。
「落ち着け。あくまで、
くるみさんは、私を諭すように言う。
「……え?」
「歩君。おまえの境遇は、たしかにこれ以上ないほど不幸だ。けれど、ある意味ではまだ運に見放されていないようだぞ」
「どういうことですか?」
「ああ。歩君にとっての希望を今から説明していく。すばるも落ち着いて聞いてくれ」
くるみさんの声にははっきりとした、しかし落ち着けるような優しさの色があった。
「一つ。歩君に症状が出始める前で良かった。おかげで早期に治療に取りかかれる。なんであれ、治療は早期に行うのがもっとも確実で安心だ。これが歩君に症状が出始めた後から診察を始めていたら、せいぜい数年程度の延命が精一杯だったみたいだ」
くるみさんは一つ指を立てる。
「二つ。これは先日も伝えたけれど、歩君の作成に携わった研究者と研究資料をあっさり抑えることができたこと。一からの手探りの状態と、作成時の資料が揃った状態なら、歩君の診察と治療に雲泥の差が出てくる」
そして、くるみさんはもう一本指を立てた。
「三つ。おじい様が過去に関わっていた事業の関係で、クローンに関するノウハウが残っていたらしい。ブレード・チルドレンとやらと関わりがあるらしいな」
「ブレード・チルドレンだって?」
あゆくんが、ブレード・チルドレンの言葉に反応する。
ブレード・チルドレンというのが、どう関係してくるのだろう?
「歩君、ブレード・チルドレンを知っているのか? あたしも鳴海とおじい様から言葉を聞いただけだが――」
くるみさんはそこまで言うと、かぶりを振る。
「いや、後にしてもらおう。つまり、歩君。おまえを完全に治すことは無理だが、ある程度の延命をすることは可能と言うのが、医者の見解だ」
「じゃ、じゃあ! あゆくんは助かるんですか!?」
「治療は生涯継続する必要はあるが、少なくとも二十歳は越えられるだろうってさ。それ以降は――研究と治療の進み次第だ。なにせ、クローン人間と、クローン技術による遺伝子治療なんて、世界のどこを見ても前例がないからね」
「元々、二十歳前に確実に死ぬっていうのが、二十歳は越えられるって言うんだ。感謝するべきなんでしょうね」
「あゆくん……」
悟ったような、あゆくんのつぶやき。なんて、悲しい言葉なんだろう。
「……部外者のあたしが言うのもなんだが、悟ったように言うな。小日向の医者も研究者も、努力する。三十歳でも四十歳でも、更にその先も歩君が生きられるようにな」
「さっき、前例がないって小日向さんが言っていたじゃないですか」
「そのぶっきらぼうな態度は相変わらずだな、歩君。まあ、たしかにあたしが無責任に断言することはできないけどね。あたし自身は医者でも研究者でもないからな」
「そもそも、俺の治療にはかなりの費用が掛かるんじゃないんですか?」
「まあね。けど、あたしも歩君には借りがあるし、おじい様もブレード・チルドレンに過去に関わっていて、その後始末に協力しているらしい。それで、歩君には間接的に負い目があるんだとさ」
「どういうことですか?」
「あたしも詳細は知らん。おじい様も、これについてはおいそれと話すわけにはいかんらしい。だがまあ、歩君はそれじゃあ納得しないだろう。そこでだ。この話とは別に、現実的なこちら――小日向の利益の話をしてやろうじゃないか」
そう言って、不適な笑みを浮かべるくるみさん。
「まず、一つは実在するクローン人間を研究できるということ。貴重な研究データというわけだな」
そこまで言って、くるみさんは少し気まずそうな顔をする。
「……いや、あたしだってこういう言い方はしたくないんだぞ? でも、歩君も単に借りを返すとか、負い目があるとか言われても納得しそうにないからな」
くるみさんの言葉に、あゆくんもどう反応して良いのかといった様子だ。
「二つ目だ。その前に――さっき歩君はブレード・チルドレンについて反応したな? なぜだ?」
「……兄貴が失踪する間際、電話で残したんですよ。『ブレード・チルドレンの謎を追う』と」
あゆくんの言葉に、くるみさんは深いため息をついて、言った。
「やっぱり、鳴海清隆か。それにしても奥さんと弟を置いて失踪とか、あいつは本当にろくなことをしないな」
私も同感だ。あの人はいつか絶対に、説教した上にあゆくんとまどかさんに誠心誠意謝らせる。
「小日向さんは、ずいぶん兄貴を嫌っているみたいですね」
「あれだけ好き放題やってれば、嫌う方が自然だと思うけどね。あたしには言わせれば、あいつを好む周りの方が間違っている」
「え、えっと……それまどかさんの前では言わないでくださいね?」
私としては、くるみさんに同意だけど、さすがにまどかさんの前では清隆さんについては言えない。
あの人、清隆さんを信じ切っているところがあるから。
「でも、意外ですね。大抵の人は兄貴を一目で気に入ります。ごくわずかに最初は嫌う人はいますが、交流を続けていけば最後には誰もが兄貴を信頼し、好意を寄せるものです。例外はいるみたいですけど」
そう言って、あゆくんは私の方をちらりと見る。
「どうしたの、あゆくん?」
「いや。なんでもないさ」
……いや、たしかに私は清隆さんは大の苦手だけど、そんな例外とか言われても困る。
私にしてみれば、あゆくんの方が比較にならないほど魅力的なだけだ。
正直、清隆さんとあゆくんは同一人物だと言われても理解に苦しむ。
「正直言って、あたしは鳴海清隆が大っ嫌いだ。あいつはこれっぽっちも信用できない」
いきなり断言するくるみさん。
「今なら分かる。あいつはなんでもできて、なんだって思い通りになる。だからこそ、自分は誰からも理解されないとか、悲劇ぶって、本心を覆い隠しながらピエロを演じて、ふざけて。自分自身を周りと同じところまで堕とそうとして。それでも、結局は周りのだれもが、自分の思い通りに動かせて、誰も自分と対等でいてくれないと嘆く。そうして、いつかは勝手に自分に絶望して、周りを巻き込んで盛大に自爆するんだろうさ。いや、もう既に絶望しきっているかもしれないな」
くるみさんの言葉を、あゆくんは黙って聞き続ける。
「自分を理解してくれないなんて悩み、誰もが持っているもんだ。辛いなら辛いと、自分を理解して欲しいなら欲しいと、ピエロなんて演じてないで、はっきりとそう言えばいい。あいつはそんなことも分からないし、言ったところで理解しないんだろうさ。だから、勝手に自爆してくれ。あたしは鳴海清隆の未来なぞ知らんし、知りたくもない」
「兄貴をそこまで酷評する人、初めて見ましたよ。小日向さんはおかしな人ですね」
あゆくんは、苦笑いしながらくるみさんに言葉を返す。
「あたしは正しい。おかしいのは鳴海に好き放題を許してちやほやしている世界の方だ」
とんでもないことを言い切りやがりましたよ、この人。
「つまりだ。あたしには、鳴海清隆はまったく信用できない。一人で自爆するなら勝手にやってくれりゃいいが、無駄に巨大な才能と良く分からんプライドを持つ鳴海のことだ。あいつが勝手をやらかすときに、小日向も無関係でいられる保証はない。いや、むしろおじい様やブレード・チルドレンとやらが関わっているなら、小日向も巻き込まれると思った方が良い」
「――要するに、兄貴からの脅威に対抗するために、小日向さんに力を貸せってことですか?」
「ご名答。話が早くて助かるよ」
「俺が兄貴に対抗できるわけないでしょう。俺じゃあ兄貴にはまったく敵いませんよ」
「なにも歩君一人で対抗しろと言っているわけでも、そもそも対抗することに絶対なるとも言ってないぞ? あのバカがなにかしでかした時に、あたし達に協力しろってだけだ。まあ、それ以外でも歩君の知恵を借りたいときはあるかもしれないけどね」
「小日向さんが俺の知恵を借りるなんてこと、ありますかね?」
「まあ、あたしは優秀だからね。でも、一人でやることには限界がある。そこで、歩君の力も借りたい」
「俺はただの中学生ですよ?」
「どの口がそれを言う。それに、あたしは歩君を結構買っているんだぞ?」
あれ? くるみさん、たしか以前はあゆくんと二度と関わりたくないと言っていたような?
「意外そうだな、すばる?」
「え、ええ……意外とあゆくんに好意的だと思いまして」
「いや、それはすばるのせいなんだけどな」
「え? 私のせいですか? なんで?」
「なんでって、すばるがいつも『あゆくん、あゆくん』と幸せそうに話をするものだがら、すばるをここまで幸せにできる奴なら、そんなに悪い奴じゃないかもってな。少なくとも鳴海清隆よりはずっとマシ――」
「わーわーわー!? なに言っているんですか、くるみさん!?」
私は慌てて、くるみさんの言葉を遮る。
もしかしたら、くるみさんは場の空気を和ませるために、あえてこんな話題を振ってきたのかもしれない。
「すばる、小日向さんになに言っているんだ?」
あゆくんがジト目でこちらを見ている。
「別に変なことは言ってないよ? だから呆れた様な目で見ないでね?」
「そうだな、すばるにとっては変なことじゃないかもな。でも、あたしにとっては思いっきり惚気話だからな?」
くるみさんは少しからかうように、私に笑顔を向ける。
「おい」
「惚気話じゃないです! とりとめのない、あゆくんの話をしているだけですから!」
「それを惚気と言うんだけどな。まあ、すばるの『あゆくん』話は置いといてだ」
「『あゆくん』話って!?」
「どうだ、歩君? お互いに協力するのは悪くないと思うぞ?」
「協力の見返りに、治療が受けられるというわけですか」
「まあそういうことだ。別に断ったからと言って、即座にじゃあ治療しませんなんて言わないから安心しろ。その場合は別の条件を考えるまでだ。ただ、歩君にだって守りたいものはあるはずだろう? これはお互いにメリットがある話だと思うぞ?」
「そうですね。どちらにせよ、他に良い選択肢はなさそうですし。こちらこそよろしくお願いします」
「よし、決まりだな。これだけでも十分なんだが、もう一つだけ話をさせてくれ」
そう言って、くるみさんはあゆくんと私に、交互に視線を向ける。
「三つ目だ。自分で稼げば良い。非常に単純で分かりやすい話だろう?」
「……はい?」
くるみさんの言葉に、思わずあゆくんと目を合わせて疑問符を浮かべる。
「これは、すばる次第でもあるんだが――『妖精の弾き手』と称される、今やピアノに興味がなかった人達にも名前が知れ渡る中学生ピアニスト。そのすばるのスポンサーに、小日向がなるというのはどうだ?」
「……え? 私ですか?」
というか、『妖精の弾き手』ってなんだ。あゆくんの『天使の指先』はまだ分かるけど、私のそれは完全に名前負けしている。
それにピアノに興味がなかった人にまで知れ渡るとか、さすがに過大評価が過ぎると思う。
「すばるには、小日向グループの広告塔になってもらう。その対価として、小日向がスポンサー料を支払う。すばるは、そのお金をピアノの活動費と、歩君の治療費に充てるって算段よ」
くるみさんはそう言うけど、私が広告塔とか無理じゃないかな?
「良いアイデアじゃないか? すばるは歩君の治療費が稼げる、小日向は知名度アップ。お互いに得する話だ」
「えっと、私ってそんなに知名度アップにつながるとは思えないんですけど?」
「……おい、おまえら二人って、さては似たものカップルか? 自己評価が低いという意味で」
「「どういうことですか?」」
あれ? あゆくんと言葉が被った。
なんで被るの? とあゆくんの方を見ると、あゆくんもこちらを見てバッチリ目が合った。
「いや、良く分かった。とにかく、これも悪い話じゃないだろう?」
「小日向の方達がそれで良ければ、私としては願ったり叶ったりです。でも、本当に良いんですか? 私の両親とも相談をしないといけませんけど」
私は未成年だから、当然両親の許可が必要になるし、私だけの考えだといろいろと見落としがあるだろう。
「小日向の方から提案しているんだ。良いも悪いもない。あと、すばるのご両親の了承は当然取り付けるよ。あたしの方から話をしておく」
「ありがとうございます」
「おい、すばる。なにも俺のために――」
「ダメだよ、あゆくん。あゆくんには、少しでも長く健康に生きてもらいたい。それが、私の望みなんだから」
私はあゆくんの言葉を遮って、私の願いを返す。
あゆくんが普通に生きられる可能性があるというのなら、私は協力を惜しむつもりはない。
「むしろ、私が力になれるならやらせて。なにもできない方が、私にとっては辛いよ」
「……でも、それじゃあ俺はすばるになにを返せばいい?」
「私は、あゆくんから一杯貰っているんだけど?」
これは本心から言っていることだ。清隆さんにも言ったけど、あゆくんがいるから、今の私がいる。
あゆくんがいなければ、私は二度目の人生を平凡に、流されるように送っていただろう。
「それじゃあ……子供や孫に囲まれて、あゆくんと一緒に暮らす将来が欲しいかな?」
「気が早すぎるだろ」
あゆくんはぶっきらぼうに返す。でも、その表情は優しかった。
「えへへ、でも本心だよ?」
そう言って、私はあゆくんに笑いかける。
「おまえの負けだな。素直に人生の墓場に入っとけ、歩君。式を挙げるなら、小日向傘下の教会を紹介してやるぞ?」
くるみさん、その言い方はどうかと思う。
「勝手に式場まで決めないでください」
結婚は人生の墓場って、悪い意味で伝わっているけど、元々は『真に愛した人とのみ墓のある教会で結婚するべき』って意味なんだっけ。
たぶん、くるみさんは分かっていて、あえて言ってると思う。
「それにだ。歩君だってすばると同じように稼ぐんだぞ?」
「どういうことですか? もちろん、すばるに負担をかけずに済むなら願ったり叶ったりですけれど。俺はすばると違って表舞台での活動はしてませんよ?」
「だから、これから表舞台に出れば良いんだ。知っているぞ、小学生の頃は『天使の指先』と称えられ、コンクールで賞をすばると一緒に総なめにしていたんだろう?」
「……昔の話です。今はそんな実力はありませんよ」
あゆくんにとっては、『天使の指先』の異名は苦く、聞いてて辛いものだろう。くるみさんがそれを知るはずがないのだから、仕方ないことだけれども。
「なんか訳ありみたいだな。そこはすまなかった。だが、あえて訊かせてもらうぞ? 練習は今も続けているんだろう? すばるからはいつも一緒に練習していると聞いている」
そこまで言うと、くるみさんは私に視線を向ける。
「すばる。歩君への好意とか抜きにして、歩君のピアノはどうなんだ? すばると同じくらいには弾けるんだろう?」
くるみさんの言葉に、真剣に考える。
普段の私なら、『私よりも上手』だと答えていただろう。自分でも自覚しているが、あゆくんのピアノは私からしてみればどこにもない、最高の演奏だからだ。だから、思い入れ抜きで語るのはなかなか難しいけれど――
「……はい。私と同じくらい、弾けると思いますよ」
「すばるの方が上手だろ」
私の言葉に、即座にあゆくんが否定の言葉を被せる。
「いやどっちだ!? ……まあ、すばると同程度に弾けるなら良い。もちろん、既にずば抜けた実績のあるすばるは別として、歩君は最初のうちはたいした支援は出せないけどな。そこは、歩君がある程度結果を出してからだ」
「それは、当然ですね。むしろそれでも条件が良すぎるくらいです」
「その割には、乗り気じゃなさそうだな。歩君? おまえが表舞台でピアノを弾かなくなったことと、なにか関係があるのか?」
「それは……」
「くるみさん、それはあゆくんにも色々と複雑な事情があって――」
「いや、すばる。気を遣ってもらってありがたいけれども、これは必要なことだと思う」
あゆくんは声に辛そうな感情を込めながらも、事情を話すと宣言した。
「あゆくん、大丈夫?」
「ああ。小日向さんはここまで俺達に協力してくれているんだ。ここで話さずに断るのは、良くないことだと思う」
「……分かった。でも。無理はしないでね?」
「分かっている。別に無理はしてないさ」
そう言って、あゆくんは笑いかけてくれた。ずるい。その笑顔を向けられたら、もう何も言えないじゃないか。
私は、そっとあゆくんの手を握る。これであゆくんの力になれるかは分からないけれど、私に今できることはこれくらいしかない。
「……随分と複雑な事情みたいだな?」
「そんなたいしたことじゃないですよ。全ては、俺が弱いせいですから」
あゆくんは、くるみさんに語り始める。清隆さんに押しつぶされそうになり、何度も心を折られかけたことを。あらゆるものを奪われ、周りのほとんどの人達から、清隆さんの弟としか見られてこなかったことを。そのたびに、すばるに支えられ、完全に折れずにいられたことを。
――最後は嬉しいけど、ちょっと照れくさい。
それから、ピアノに関しても同様に、過去に清隆さんに奪われたことを説明する。あゆくんを絶賛していた評論家の人が、清隆さんの演奏を聴いてから手のひらを返されたこと。
現在でもあゆくんが表舞台に復活したとしても、もし清隆さんがピアノを人前で弾けば、下手すればあゆくんが清隆さんの偽物とレッテルを貼られ、評判が瞬く間に地に落ちかねないと。
あゆくんが話し終えたとき。私の胸は悲しくて張り裂けそうで……くるみさんは、ものすごく軽蔑した目を向けていた。おそらく、記憶の中の清隆さんに。
「……あいつは、本当に。いや、もういい。鳴海の奴に思考を裂くのも嫌だ。すまなかったな、歩君。辛いことを語らせてしまって」
「いえ。先ほども言いましたが、必要なことですから」
そう言いながらも、あゆくんは辛そうだ。あゆくんとつないだ手に、少しだけ力を込める。
「けれど歩君。本当にピアノで表舞台には立たないのか?」
「くるみさん。それは清隆さんが――」
「分かっているよ。たしかに鳴海は歩君の評価を一瞬で地に落とすくらいのことはやってのけそうだ。ああ、まったく趣味が悪い鳴海らしい」
そこまで言うと、くるみさんは座っていた椅子から立ち上がり、背筋を伸ばす。
「だが、鳴海清隆は本当になんでもできてしまう存在か? アイツがどれだけのことをしてきたと思っている?」
「どういうことですか、くるみさん?」
私の問いかけに、くるみさんは手振りを交えながら演説するように語る。
「世間一般的に、歩君は鳴海の弟だ。仮に小日向が、過去に兄――鳴海清隆との才能差にくじけかけ、表舞台からいったん降りつつも、側にいる人に支えられ寝食を忘れるほどにピアノを練習し、表舞台に戻ってきた。歩君をそう売り出したとする」
「……いったいなんの話ですか?」
いきなり出てきたカバーストーリーじみたもの――事実だが、それにあゆくんが嫌そうにツッコミを入れる。
「歩君、まあ最後まで聞け。それでだ。一般人にまで名前が売れている、すばると同じくらいの腕前を持つピアニストとして歩君が復活して、実際に素晴らしい演奏を披露していく。そうして歩君が評価を得た後に、鳴海が戻ってきて、本当に歩君の評価を地に落とせるのか?」
「それでも兄貴なら不可能じゃないですよ。兄貴にできないことなんてありませんから」
清隆さんの絶対性を知るあゆくんが反論しようとするが、くるみさんは構わず言葉を続ける。
「それでもだ。ピアノの世界を自分の場所ではないと言い切り、公衆の面前でピアニストの命である指を自ら叩き折ったやつだぞ? しかもその後刑事をしていたと思ったら、新婚の妻の世話を当の弟に任せて失踪だ」
たしかに、その経歴を聞くととてつもなく酷い。
「もし、そんな経歴で何年もまともにピアノを弾いてこなかった奴が、何事もなかったようにぶらっと戻ってきて、もう一度ピアノを演奏したとして誰が『やはり鳴海清隆は素晴らしい! 鳴海歩など兄のできそこないだ!』などと言う? いたらそいつの神経を疑うね、あたしは。たとえ鳴海がどんなに素晴らしい演奏をしたとしてもだ」
「それは……」
「それにだ歩君。残酷なことを言うようだが、おまえには時間がないかもしれないんだぞ?」
辛いことをあえて言うくるみさん。けれども、残酷であっても言うべきことなのだろう。
「もちろん、さっきも言ったが歩君が長く生きられるように努力する。けれども、絶対はない。避けられない寿命が来たとき、おまえはピアノを諦めていて後悔しないか?」
「後悔なんて今まで沢山してきましたよ……けれども、その後悔だけはしたくないですね」
まだ十四歳でありながら、人生の最期について思いを巡らせなければいけない。それは、どんなに悲しいことだろう。
「まったくだ。だったら、相手が鳴海であろうと戦わなければいけない」
あゆくんはくるみさんの言葉に沈黙する。
恐れは当然あるのだろう。あゆくんは、今までの生涯であらゆるものを清隆さんに奪われてきたのだ。
あゆくんは今までも戦わなかったわけではない。清隆さんに懸命に抗ってきたのだ。それでも、清隆さんに絶対的な差を身を持って痛感し、すべてを奪われてきた。
いくら清隆さんの経歴が酷いものだとしても、そんなもの軽く吹き飛ばすことだって可能かもしれない。
「けれども。俺は、俺自身の音をまだ手に入れていない……俺はまだ、兄貴のまがい物の音しか出せていないんだ」
「それは違うよ、あゆくん」
「すばる……?」
「あゆくんの音なら、もうここにあるじゃない」
私は、あゆくんとつないでいた手を両手で包み込む。
「あゆくんが六歳のときから、ずっとピアノを弾いてきた手だよ。清隆さんに押しつぶそうになりながらも、皆に理解されなくても、偽物だって謂われのない非難を受けても、くじけずに前を向いてピアノを弾き続けてきた――あゆくんの手に、あなたの音はある」
あゆくんの手は、ピアノの為に磨き続かれた手だ。毎日、少しでも良い演奏を――高みを目指して不断の努力を続けてきた、ピアニストの手だ。
ピアノを無価値のものと断じ、自分からピアニストの命である指を叩き折り、ピアニストとしての生命を投げ出した清隆さんとは比較することすらおこがましい。
「そして、その手を動かして、音に思いを吹き込む心はあゆくんの胸に――何年も、孤独と不安に晒されながらも、折れずにピアノと向かい続けてきた、この胸に。あゆくんの魂はある」
片方の手だけをあゆくんの手から離し、あゆくんの胸に当てる。
「私は、ずっとあることを願いながらピアノを弾き続けてきたの。孤独で、でも人前じゃ泣けない……そんな人を、笑顔にできますようにって」
「……だから、すばるの奏でる音は優しかったんだな」
「思っているだけじゃ足りないけれど。でも伝わっていてくれたなら、良かった」
もちろん思いだけではダメだ。技術が伴わないならば、意味がない。けれども、技術だけでもまた足りないのも事実だろう。
「だからね。あゆくんは――どんな音を奏でたい?」
あゆくんは少しの間、考えて――告げた。
「どんな挫折にあっても、諦めないことと――こんな俺を支え続けてきてくれた人への感謝の音を」
「それが、あゆくんの音なんだね」
私とあゆくんは、お互いに笑い合う。昨日までも見ていたあゆくんの笑顔だけど……久しぶりに見た気がした。
「俺は、今まで自分を信じてこなかった。いや、今も信じていない。けれど……俺が兄貴に勝てるとも信じないが、勝てないとも信じない。希望も、そして絶望も信じはしない。俺が信じるのは――」
そう言って、あゆくんは私の方を見る。
「――いや、なんでもない」
「え、なにそれ」
「人前で言うことじゃないだろう」
あゆくんは少し顔を赤くしながら、私から顔を逸らして正面を向いてしまう。
「少しは見られる顔になったじゃないか」
くるみさんはあゆくんの方を見て、不敵な笑顔を見せる。
「失礼ですね! あゆくんはいつだってかっこいいですよ!」
「すばるの歩君を見る目には常にフィルターが掛かっているからな。当てにならん」
「なんですかそれ!?」
「それにしても、なんで小日向さんは俺達にここまでしてくれるんですか?」
「それは今までも話してきただろう? あたし達の利となる理由は沢山あったと思うが? ああ、だがそうだな。あと一つ理由をつけるなら――」
くるみさんは、握り拳を作り宣言する。
「鳴海の奴に二度と関わりたくはないと言ったが――それでもあたしの周りで好き勝手するようなら、一発殴らなきゃ気が済まん」
「ああ、それは俺もそう思います」
「同感ですね」
そう言って、三人で思いを共にする。
「――ああ。わしに鳴海清隆を殴る権利はないだろうが、それでも文句は言いたいのう」
「……おじい様!?」
いつの間にか、やたら覇気のあるお爺さんが部屋の入り口の近くにいた。
くるみさんがおじい様と言ったから、この人が小日向グループの総裁、
「おじい様がどうしてここに? まさかすばると歩君になにか変なちょっかいをかけにきたんじゃないだろうな?」
「酷い言い草じゃな。かわいい孫の友人の顔を一目見たいと言う、祖父のいじらしい心を理解せんのか、ん?」
「おじい様にそんな可愛らしい心があるわけないでしょ」
「減らず口を。まあええわい。で、そこの少年が鳴海清隆の弟――歩君か」
「……初めまして」
あゆくんと私は紋十郎さんに挨拶する。私は紋十郎さんに気押されっぱなしだけど、あゆくんは少なくとも表向きは平然としている。
「なるほどのう。歩君、君に一つ受けて欲しい検査があってのう」
「検査? 申し訳ないですけど、それはいったいどういう――」
わざわざ、小日向グループの総裁が訪れて言う検査ということに、若干不安になる。
「ああ、その辺は心配しなくてもいいわい。まあ、ちょっと嬢ちゃんには刺激が強い話かもしれんがのう」
「おい、おじい様。もったいぶらずに言え。いったい歩君になにをさせる気だ?」
「相変わらずワビサビを理解せん孫じゃな。そんなんだから恋人の一人もできんのじゃぞ?」
「良いからさっさと話せ!」
そうして、紋十郎さんは検査の内容を告げた。
「……おじい様、なんでその検査が必要なのか訊いてもいいか?」
しばし間を置いた後、くるみさんが苦い顔をしながら紋十郎さんに質問する。
「そりゃ、歩君とすばる嬢ちゃんには重要なことじゃろ! かかかっ!」
「いや、けれど歩君は鳴海のクローンだろ。検査するまでもなく結果なんて……待てよ、たとえ一卵性双生児だとしても、双子で同じ先天性疾患を必ずしも発症するとは限らない。そう言うことも、あり得るのか?」
「清隆君と歩君は、同一人物ではあっても与えられた能力がまるで違う。わしの見立てもそう的外れではないと思っておる」
「おじい様、どういうことだ?」
くるみさんが疑問を呈するが、紋十郎さんは構わず言葉を続ける。
「別に当てが外れてても、歩君とすばる嬢ちゃんはかわいそうだが、ワシにとっては何のデメリットもないからのう。だが、もしわしの見立て通りだとしたら、恐らく清隆君に大きなショックを与えられるぞ?」
「だからちょっと待ておじい様。なぜ鳴海がそんなことでショックを受ける? 歩君の検査結果が自分と同じでショックを受けるんなら、まだかろうじて分からんでもないが。さっぱり分からんぞ?」
たしかに。私もくるみさんも、そしておそらくあゆくんも紋十郎さんの話についていけていない。
「清隆君は、ブレード・チルドレンの救済など望んでなかった。最初から諦めていたのか、途中で絶望し諦めたのかはしらんがの。わしに諦めていないなどと言いながらのう」
ブレード・チルドレンの救済? 清隆さんが救済を諦めたとはどういうことなのだろう。
「鳴海清隆が望んでいるのは、ゼロ――ブレード・チルドレンも、悪魔の弟も、歩君も、そして自分自身すら含めた抹殺じゃ」
そう言って、紋十郎さんは意地の悪そうな笑顔を浮かべる。
「自身を含めた消滅――ゼロを望んだ清隆君が、歩君につながる可能性があることを知ったとしたら。どういう反応をするかのう?」
ツッコミ所は多々あると思いますが、拙いなりに精一杯説得力があるようにしたつもりです。
次回、最終回です。