深山すばるは、鳴海歩くんの幼馴染   作:タンポポ雲

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今回は鳴海歩視点です。

歩君が年齢の割にやたら大人びた思考をしていますが、原作でも幼稚園児のときに一人でピアノの練習したり、八歳で家事を完璧に熟したりしているので、これでも足りないくらいかもしれない。


第2.5話 自分でいられる場所

 俺にとって、兄貴――鳴海清隆は、憧れであり、理想であり、圧倒的な壁であり、絶望であり。唯一、普通に接してくれた家族だった。

 

 母親は、兄貴ばかりで俺には一切興味を示さず、父親はなにもかも母の言いなりで、俺を遠巻きに冷めた目で見るだけだった。

 そんな両親だから、幼児期の俺の世話は、高校生の兄貴が忙しい中でしていてくれたらしい。

 まあ、やたらしつこく絡んできたり、小学生にもなると家事を全部俺に押しつけてくるような兄貴なので、素直に感謝する気にはあまりなれないけれど。

 

 そんな家庭環境だったから、まともに同じ歳の子供達と交流し出したのは、幼稚園に入ってからだった。

 初めて、兄貴以外の人と交流するのは、とても新鮮だった。だから本当に最初の頃は、遊んだり、怒ったり、はしゃいだりして、楽しかったと思う。

 

 でも、そんな楽しさはすぐになくなってしまった。

 幼稚園児の子達も、先生も、朝と帰りの送り迎えに来る兄貴のことばかりを話すようになったからだ。

 ただ、兄貴のことを少し話すだけなら、俺だって普通に喜んで話しただろう。まだ幼稚園児だった当時の俺は、家族で唯一面倒を見てくれて、なんでもできる兄貴のことを純粋に慕っていたから。

 それでも、数日、数週間、一ヶ月――ひたすら、俺に兄貴のことばかり話してきたり、訊かれたりすれば、さすがに嫌になるのは当たり前だった。当時の俺は、まだ幼稚園児だったからなおさらだ。

 誰も、俺に対してはみんな興味がなく、俺の兄貴に対して興味を示す。

 俺を鳴海清隆の弟としてしか、価値を見いだしていない。俺は、鳴海清隆と接点を持つためのツールに過ぎない。先生はまだしも、まだ小さな子供でさえも。

 

 子供ながら、理解しきることはできなくとも、どこかでそれを感じ取っていた俺は、幼稚園のみんなと距離を取るようになった。

 距離を取るようになった後も、すぐの頃は話しかけてくる子達にまともに対応していたが、みんなしつこく兄貴のことばかり訊いてくるので、そのうち素っ気なく対応するようになった。

 完全に無視したり、強く当たったりすると、結局俺が怒られたり、悪く言われたりする羽目になったので、心を押し殺して、ただ兄貴のことについて話すようにした。

 その頃には、もう自分について興味を持ってもらおうなんてことは、考えなくなっていた。

 ただ、淡々と兄貴のことについて、訊かれたら答えてやる。それで良い。そうすれば、とりあえず平穏は保てる。

 ――それ以上を期待すれば、余計に傷つくだけだ。なにも得られやしない。

 

 

 

「ねえ、鳴海くん」

 

 だから、最初にその女の子に話しかけられたときも、今度は兄貴のどんなことを訊いてくるのかといったことだけを考えていた。

 

「……えっと、深山さんだっけ?」

 

 無邪気な笑顔で、黒髪のポニーテールの女の子。

 この子の名前は、たしか――深山すばる。

 今までほとんど話したことのない子だった。

 幼稚園に入園してすぐの頃は、同じ組の子の名前を覚えようとしていたから、一応だけども名前はみんな覚えている。

 ただ、この子の場合はなんとなくだけれども、しっかりしているというか、子供らしい元気さはあっても、泣いたり、本気で怒ったりとしたことがなかったので、なんとなく気にしてはいた。

 

「うん! わたし、すばる! 深山すばる!」

 

「で、なにか用?」 

 

「鳴海くんっ、あそぼ!」

 

「なんで?」

 

 当然、兄貴について訊かれると思っていた俺は、深山さんの言葉に、ただ反射的に応答していた。 

 

「あそびたいから!」

 

「いいかげんだな、おい」

 

 なぜこの子は、他の子達のように兄貴のことを訊いてこないのか。そんなことを考えていた俺は、つい間の抜けた返答をしていた。

 子供が遊ぶのに理由なんて求めないし、遊びたいという言葉にいい加減だという感想も適当じゃない。

 

「別に、俺に構わなくていいよ」 

 

 つい、冷たい言葉を返してしまう。

 

「どーして?」

 

「みんな、兄貴の話ばかりするから」

 

 たまたま、深山さんが兄貴について知らなかったから、俺に遊ぼうなんて言ってくるのだろう。

 兄貴を知れば、俺に興味なんて示さなくなる。

 

「おにーさん? 鳴海くんおにーさんいるの? わたし、鳴海くんのおにーさんの話しないよ?」

 

「ともかく、放っておいてくれ」

 

 だから期待なんて、するだけ無駄だ。

 

 

 

 今日も、兄貴が幼稚園に迎えにやってきた。

 

「おーい、歩。迎えに来てやったぞ。お兄様に感謝するといい」

 

 迎えに来ただけなのに、偉そうにする兄貴。

 

「なるみのおにいさんだーっ」

 

「あそんでーっ!」

 

 そんな兄貴に、子供達は一斉に集まっていく。幼稚園の先生達も、兄貴に熱い視線を送っていた。

 兄貴は、軽く子供達に構ってあげた後、俺の方にやって来る。

 

「ほら、歩。帰るぞ」

 

「別に一人で帰れる」

 

 つい、素っ気なく返す。こんなことをしても、無駄だってことは分かっているのに。 

 

「鳴海くん!」

 

 そんなとき、深山さんが俺に声をかけてきた。

 

「……なに?」

 

「明日はあそぼうね!」

 

 無邪気な笑顔で、深山さんは手を振ってくる。まるで、本当に明日を楽しみにしているように。

 

 俺は、なにも答えなかった。

 明日、兄貴のことについて、深山さんは色々と訊いてくるのだろう。

 

 ――期待なんて、するだけ無駄だ。

 

 

 

「あゆくんっ、おーはーよーっ!」

 

 けれども、深山さんは兄貴のことはまったく訊いてこなかった。

 それどころか、毎日飽きもせずに俺に遊ぼうとせがんで来る。

 

「……はあ、また来たのか」

 

 兄貴は例外としても、深山さんも園児達の中では人気者だから、俺なんて構っていないで他の子と遊べばいいだろう。

 俺なんかに構っていても、周りの子達に変に思われるだけだ。

 

「えへへ、あゆくん照れ屋さんだーっ!」

 

「ええい、ひっつくな歩きにくい!」

 

 しかも、やたら絡んでくるし、引っ付いてくる。

 距離感の近い子なのかと思ったら、他の子には適切な距離感を保っているので、余計になぜだか分からなかった。

 

「そもそも、そのあゆくんってなんだ」

 

「鳴海歩くんだから、あゆくんっ!」

 

「前みたいに鳴海くんでいいだろ」

 

「えー、あゆくんの方がなかよしみたいだもん!」

 

「別に仲良しじゃない」

 

 仲良くなったと思っても、後が辛いだけだ。

 幼稚園で最初に仲良くなったと思い込んでいた子達のことを、ほんの少しだけ思い出す。

 

「ところで、おまえは兄貴のことは良いのか?」

 

「あゆくんのおにーさん? 私はあゆくんとあそびたいの!」

 

「……変な奴だな」

 

 深山さん以外は、俺のことなんて誰も気にしてはいないというのに。

 

「むー! すばる変じゃないもん!」

 

「あとね、あゆくん、私はすばるだよ! おまえって名前じゃないよ!」

 

「こっちが、名前を間違えて覚えているみたいに言うな」

 

「え? どういうこと?」

 

「……なんでもない」

 

 思ってはいけないんだ。こうやって、誰かと話すのが楽しいだなんて。

 どうせ、すぐに失われてしまうものなのだから。

  

 ――期待なんて、するだけ無駄だ。

 

 

 

 深山さんは、飽きずに毎日俺に構い続けてくる。

 

「あゆくんっ、おえかきしよ!」

 

「しない」

 

「あゆくんっ、ボールであそぼ!」

 

「遊ばない」

 

「あゆくん! かくれんぼしよっ!」

 

「やらない」

 

 俺に構って、深山さんまで幼稚園のみんなと距離を置かれることになったら、後味が悪い。

 だから、あえてそっけない態度を取っていたが、深山さんはめげずに接してくる。

 

「あー、もしかしてあゆくん、私が見つけられないからしたくないんだ!」

 

「そんなことない」

 

「私はあゆくんならすぐ見つけられるよ!」

 

「おい、こっちの話をだな」

 

「じゃあ、今回だけ私がオニやってあげるね! ほら、みんなかくれてー!」

 

「勝手に始めるな!?」

 

 深山さんは周りの子供達も巻き込んで、一緒にかくれんぼを始める。

 かくれんぼ自体は、すぐに深山さんに見つかってしまった。

 あまり長引かせても、深山さんに負担がかかると思って、あえて見つかりやすいところに隠れていたのが大きい。

 

 こうやって、遊ぶのは、幼稚園に入ってすぐに、一度や二度やったきりだった。

 ……ずいぶんと久しぶりだったと思う。

 

「あゆくん、明日ね、おかーさんがホットケーキ作ってくれるんだよ! それでね、あゆくんも誘ってあげなさいだって!」

 

「……別にいい」

 

「えー!? でも、おかあさんがあゆくんの分も材料買ってるからって言ってたよ」

 

「……はあ、分かったよ」

 

 断るつもりだったのに、深山さんが悲しそうな顔をしたから、つい了承してしまった。

 

「やったー! えへへ、あゆくんといっしょ!」

 

「だから引っ付くな」

 

 なんでこんな小さなことで、そこまで喜べるのだろう。

 いや、少し前までは、俺もちょっとしたことで喜んだり、はしゃいでいた気もする。

 

 深山さんに連れられて行った家では、深山さんのお母さんが優しく出迎えてくれた。

 

「おかーさん、私も手伝うよ!」

 

「あらあら、えらいわね。じゃあ、鳴海くんとお話しながら作りましょうか」

 

「うん!」

 

 深山さんが、深山さんのお母さんと楽しそうに話しながら、ホットケーキを作っている。

 俺の家では、母親とも、父親とも楽しく会話することなんてない。

 料理をしている姿を見たこともない。だから、その光景は新鮮なものだった。

 

 ふと、俺にも手伝わせてくださいと言いそうになり、とっさにその言葉を飲み込んだ。

 その幸せそうな光景に、俺が入り込んでいいものなのか――そう思ったから。

 

「あゆくん! できたよ! このホットケーキね、私が作ったんだよ!」

 

「あらあら。すばるってば、ご機嫌さんね。そんなに鳴海くんに食べてもらいたかったのかしら」

 

「うん! だってあゆくんは仲良しさんだもん!」

 

 深山さんが作っているとは言っていたが、半分以上は深山さんのお母さんが工程をこなしていた気がする。

 けれど、あえてそこには触れなかった。

 深山さんはなにが楽しいのか、ホットケーキを前にした俺の様子を笑顔で見ている。

 

「食べないのか? 作った本人が食べないと、食べにくいんだけど」

 

 なんとなく気恥ずかしく感じて、そう言葉をかける。

 

「だって……ちゃんとできたか気になるんだもん」

 

「ふふっ、鳴海くん。せっかくすばるが作ったんだから、食べてあげて」

 

 仕方なく、俺はフォークを伸ばす。

 

「……おいしい」

 

「ほんと!? 良かったーっ!」

 

 たった一言の感想に大はしゃぎする、深山さん。

 

 その後、深山さんと深山さんのお母さんとホットケーキを食べながら、いろいろと話をする。

 とはいっても、二人が話すことに、相槌を打ったり、訊かれたことに答えたりするだけだったが。

 深山さんのお母さんに、いつでもまた来てちょうだいと言われた。

 おそらく、社交辞令的なものだろう。今回を最後にした方がいい。

 何度も来たら、後が辛くなるだろうから。だから、この温かな光景に触れるのは、一度だけで十分だ。

 

 ――期待なんて、しない方がいい。

 

 

 

 ある日。自宅に置いてあったグランド・ピアノがふと気になった。

 何気なく、鍵盤に触れると、音が出る。

 でたらめに触ってみるうちに、ふとこの音で、テレビで聴いた曲を再現できるのか、気になって挑戦してみた。

 試行錯誤するうちに、自分の思い通りに音が出せるようになり、どんどん楽しくなっていく。

 そんなことを繰り返ししているうちに、ただ単に音を再現するのではなく、ちゃんとした演奏方法を知りたくなる。

 ちょうどよく、ピアノの教本がすぐ近くにあったので、これで練習しようと思い立った。

 

 今、思い返してみると、幼稚園児が一人でグランド・ピアノを勝手に触っていても、家にいる両親が何も言わなかったのは、おかしいのだろう。

 けれど、当時の幼稚園児だった俺は、そんなことはつゆ知らず、ピアノに夢中になっていった。

 

 ピアノを弾いている時間は、兄貴とは関係なくいることができた。

 

 

 

 あと数か月で、幼稚園を卒園するという日。

 

「せんせー! 私ピアノ弾けるよ!」

 

 幼稚園の先生の呼びかけに応えて、深山さんがピアノを弾くと言い出した。

 そのことに少し驚いた。深山さんからピアノを習っているとは聞いていたけれど、まだあんまり自信がないと言っていたからだ。

 けれど、深山さんはこっちを見て、今からすごい演奏を聴かせてやるからねと言わんばかりの顔をしている。

 おい、自信ないって言葉はどこ行った。そう思念を込めて見返すと、今度は深山さんは仕方ないなあといった顔をしている。

 なんとなく納得いかない。

 

 深山さんは、ピアノに座り、向き合う。その瞬間、深山さんの様子が明らかに変わった。

 いつも無邪気に笑っている女の子の指から、とてもきれいな音が紡がれる。

 先生が普段使っているピアノと、同じピアノから出ている音というのが信じられない。

 深山さんの演奏する姿は、透き通っていて、それでいてとても鮮烈だった。

 あの演奏している子は、本当に深山さんなんだろうか? そんなことすら思う。

 

 俺より、明らかに上手い。けれども、嫉妬よりも憧れと、俺もあんな風に弾いてみたいという思いが先に来る。

 それに、なんて楽しそうにピアノを弾くんだろう。俺も、彼女みたいに楽しくピアノが弾けるのだろうか。

 

 深山さんの演奏が終わる。

 そういえば、これは合唱だった。俺はちゃんと歌っていただろうか。それすら、記憶がおぼろげだ。

 ふと、深山さんと目が合う。にこりと笑う彼女を見て、なぜだかものすごく気恥ずかしくなり、慌てたように目を逸らした。

 その後、深山さんがいつものように無邪気に駆け寄ってきて、楽しそうにしゃべりだす。

 いつもの深山さんだなと思うと当時に、さっきのピアノを弾いている姿との違いに、調子が狂う。

 でも、どっちの深山さんも、とってもすごいなと、ふとそう思った。

 

 ――この時のすばるのピアノが、俺のピアノの原点だった。

 

 

 

 小学校に入学してからしばらくして、兄貴に頼み込んで、ピアノの教室に通うようにした。

 深山さんの演奏を聴いてから、他の人の演奏を聴くことも、練習のうちだと思い始めたからだ。

 何気なく、小学一年生でも通えるように、自宅から一番近い教室を選んだら、深山さんと同じ教室だった。

 

「やっほー、あゆくん!」

 

 深山さんが笑顔で手を振って、駆け寄ってくる。

 

「……なんでアンタがここにいるんだ」

 

 別に深山さんを追いかけて来たわけではないのだが、もしそう思われたら嫌だなと思い、そっけない態度を取ってしまう。

 それでも、深山さんは気にした風でもなく、私はここではお姉ちゃんだよと楽しそうに話しかけてくる。

 つい、すばると名前で呼んだら、とてもうれしそうにはしゃぐ。

 なんで、この子はこんなに楽しそうなのだろうか。

 

 しばらく、教室で練習していると、すばるが突出して上手なのが分かった。年上の人達を含めてもだ。

 こう言ってはなんだけど、同じ小学生低学年で辛うじてでも、比較になるのは俺くらいだから、すばるは俺に構ってくるのかもしれない。

 俺以外の同学年の子達だと、すばるが教える立場にはなっても、一緒に練習とはなりにくいだろう。

 

「えへへ、あゆくん大好きーっ!」

 

「だから引っ付くな!」

 

 でも、やたら距離感が近いのはなんとかしてほしい。どうしていいのか、分からなくなる。

 

 

 

 小学三年生のある日。

 学校へ行ったら、いきなり俺がもうすぐ転校するとか、そんな話になっていた。

 もちろん、俺はなにも聞いていない。

 先生に問いただすと、バカ兄貴が勝手に転校手続きしたらしい。

 

 すぐに早退して、兄貴を捕まえて問い詰めた。

 ふざけたことに、『洗濯物がたまって困るから』なんて理由で、俺を兄貴が一人暮らししている部屋に連れていくつもりらしい。

 

「ちょっと待て。俺に兄貴の部屋の家事をさせる気か?」

 

「その通りだ。あの鳴海家にいても、息がつまるだけだろう? だったら、いっそ私の部屋に来い」

 

「だからって、いきなり転校手続きすることはないだろ! 何も知らずに、いきなり転校することになってた俺の身にもなれ」

 

「そうは言ってもだな。一日おまえの転校が遅れれば、その分、私の部屋の洗濯物が溜まってしまうんだぞ? 私はこれをどうすればいいのだ?」

 

「知るか。自分の部屋くらい、自分で片付けろ。とにかく、俺は転校なんてごめんだからな」

 

「ほう。歩が今の学校に思い入れがあるとは思わなかったな」

 

 兄貴の、やけに引っかかる言い方が気に障る。

 

「どういうことだ?」

 

 まるで、俺が今の学校になんの思い入れもないだろうとでも言わんばかりだ。

 

「歩。おまえが、今の学校からなにか離れたくない理由があるのか? その理由次第では、おまえの転校について、考えてやらんでもない」

 

「なんで勝手に手続きした上に、兄貴の自分勝手な理由の転校で、兄貴が偉そうなんだ」

 

「歩が今の学校にこだわる理由がないなら、転校したって構わないだろう? 私も部屋を変えて引っ越しなんて、面倒なんだ」

 

 俺が今の学校にこだわる理由……それは、あった。

 それを言うのは、なんとなくためらわれる。けれど、なにも言わなければ。あるいは、適当にごまかした理由だったら、兄貴は俺の転校を断行するだろう。兄貴はそういう奴だ。

 

「……ピアノの、ライバルがいるんだ」

 

「ライバルか。そいつはどんな子だ?」

 

「俺より小さい頃から、ピアノを始めた子だよ。同じピアノ教室に通っていて、俺よりピアノが上手い。そいつと一緒に競い合うことで、俺はもっと上手くなれると思う」

 

 あいつは、きっと「あゆくんの方が上手だよ」とか、いつもの笑顔で言うだろうけど。

 俺は、一度もあいつより上手く弾けたと思ったことはない。

 あいつのピアノは、人を楽しませ、癒やす音だ。

 俺には出せない音で、けれど俺もあいつの様な音を出せるようにしたいと、焦がれる音だった。

 

 兄貴は、俺の言葉を黙って聞いている。

 

「頼む、兄貴。俺は、あいつから逃げたくない」

 

 俺は、初めて心から兄貴に頼み事をした。ピアノ教室に通うお願いをしたときだって、何気ない思いが強かったけれど。

 けれども、今回は本気で転校したくないと願う。

 

「よし。分かった。かわいい弟のたっての願いなら、お兄様が一肌脱いでやろうではないか! 歩、お兄様に泣いて感謝すると良いぞ」

 

「……ああ、そうだな」

 

 ものすごく文句が言いたかったが、ぐっとこらえて言葉を返す。

 

「なに、恋焦がれるお嬢さんと離れたくないという、歩の気持ちは良く分かる。弟の初恋を私が引き裂いたとなったら、さすがにしのびないからな」

 

「ちょっと待て。誰が恋焦がれるだ。あいつはあくまでピアノのライバルであって、そんなんじゃない」

 

「ははは、語るに落ちたな歩。私はお嬢さんといっただけで、誰とは言っていないぞ? いったい誰を想像したのかな?」

 

「兄貴が邪推しているだけだろ」

 

「まあ、歩のせまーい交友関係など、とっくに把握しているがな。すばるお嬢さんだろう?」

 

「だから違う!」

 

 すばるはあくまでライバルで、俺のピアノの目標だ。恋とかそういうのとは違う。だいたい小学三年生で恋とか早すぎる。

 兄貴にそう言ったところで、嬉々としてからかわれるだけだろう。だから、そう心の中で反論した。

 

 

 

 兄貴の言う通り、転校の話はなくなり、兄貴は深山家のすぐ近くのマンションに引っ越した。

 兄貴いわく、引っ越し自体は、すぐ近くだったのでそう苦労もなかったらしい。そのくせ「歩のために骨を折ってやったんだぞう」とかしつこく言ってきたのがイラッとしたが。

 小学校では、お別れ会を中止することになり、非常に気まずい思いをしたけれど、仕方ない。兄貴がぐちぐち言ってくる分も含めて、いら立ちは全部脳内の兄貴にぶつけることで済ませる。

 それでも、俺の転校と聞いて泣いていたすばるが、再び笑顔になってくれたことに安心した。

 仮に以前の兄貴の部屋に引っ越ししていたとしても、校区を微妙にまたぐもので、会えない距離ではない。

 それでも、すばるが俺の転校を悲しいと思ってくれたことが、どこか嬉しかった。

 

 兄貴は本気で俺を家事要員にするつもりだったようで、料理や洗濯、掃除のほとんどを俺に任せてきやがった。

 幸い、深山家のご両親がなぜかフォローしてくださったことで、なんとかなったが、あのバカ兄貴はなにを考えているのだろう。小学三年生の弟に家事の一切を任せるとか、近所での評判とか、事故が起きないかとか考えないのだろうか?

 なにはともあれ、おかげで深山のご両親には頭が上がらない。兄貴ももっと感謝すべきだろう。

 

 兄貴の部屋に引っ越してすぐは、深山のご両親が心配してくれて、頻繁に食事に招いてくれた。

 すばるのお父さんが、学校の様子について尋ねてきて。すばるのお母さんがご飯のお替りはいるかと優しく問いかけてきて。すばるが、学校やピアノについて、俺のことも含めて楽しそうにしゃべる。

 兄貴以外の人と食卓を囲むのは、いろいろと戸惑うこともあったけれど。なんだか嬉しかった。

 

 けれど、俺が兄貴の食事を用意しないと、結局だれも用意しないし、すばるのご両親にいい大人である兄貴がご飯を要求するわけにはいかない。(図々しくも、兄貴は何回か遠回しに要求しやがったが)

 そうなると、いつも深山家に夕食を一緒にするわけにはいかないので、部屋で一人料理を含めた家事をしようとすることが多くなった。

 けれど、俺が帰宅して一人で家事をしようとすると、ほぼ必ずと言っていいほど、すばるか一緒に家事をしようとやってくる。

 

「おい。ご両親が心配するだろ。いいから帰れ」

 

「私もお母さんも、あゆくん一人だと心配だよ。それに、お父さんにもお母さんにも許可取ってるもん。私の家はここを出て一分もかからないくらい近いし、大丈夫だよ」

 

 しばらくはすばるのお母さんが一緒に来ていたが、すばるのお母さんもなかなか忙しい。

 俺の部屋に来たときも、深山家でも、すばるは家事や勉強をとてもきちんとこなす。だから、すばるの両親も「あゆくんもしっかりしているし、家もすぐそこだし、二人一緒なら大丈夫かしら」と言って、すっかり信用してしまったようだ。

 そのうえ、すばるは意外と強情で、帰そうとしても俺と一緒に料理や洗濯をすると言って利かない。

 あまりに強情なので、仕方なく一緒に家事をすることが多くなった。無理やり帰そうとしても、抵抗するので時間がもったいないからだ。

 

「えへへ、あゆくんとお料理ー。ねえねえあゆくん、今日はなにを作る?」

 

 そう言って、すばるは楽しそうに笑う。

 一緒に献立を考えたり、効率的な掃除方法を模索したり。

 家事を済ませた後には、一緒に勉強したり、ピアノについて語り合うこともあった。

 最初の方こそ、すばるを心配して何度か無理やり帰そうとはしたけれど。すばると一緒にいるのは楽しかった。 

 

 ――期待しても、いいのだろうか。

 この子の隣にいるときは、俺は鳴海清隆の弟ではなく。鳴海歩でいても、いいのだろうか。

 

 そう、自分の中に問いかける。

 けれども、心ではこの明るくて優しい女の子を、すっかり信頼しきっている自分がいた。

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