清隆さんが失踪した。
あゆくんに電話で、「ブレード・チルドレンの謎を追う。まどかにも伝えてくれ」と言い残して。
そのせいで、清隆さんの妻であるまどかさんは強くふさぎ込んでしまった。一人では食事もお風呂もままならないほどに。
清隆さんと結婚してまもなくの失踪。そして清隆さんを深く愛していたまどかさんだ。そうなるのも、仕方ないのかもしれない。
深山家に住んでいたあゆくんだったけど、清隆さんの失踪とまどかさんの荒れた様子を見て、まどかさんの面倒を見るために、少し前まで住んでいた部屋に戻ることを決めた。
あゆくんが深山家に住んでいたのはほんのわずかな期間だったのは残念だけど、そんなことを言っている場合ではなかった。今のまどかさんは一人で生活できる状態ではない。
しかし、まどかさんのお世話をすると言っても、まどかさんが女性である以上、男の子のあゆくんには大変なことだってある。私と私のお母さんも協力した。
自暴自棄になった人のお世話をするのは、一人では非常に大変だ。あゆくんにとっても大きな負担になるだろう。
お父さんとお母さんはヘルパーさんを頼むように言ってくれたが、あゆくんは自分が主に面倒を見るので、そこまで負担はかけられないとやんわりと断ってきた。
金銭的な負担を考えたらしいけど……清隆さんの資産はかつてのピアニストとしての活躍により、膨大と言えるくらいにあるはずだけど、兄の資産であるが故に、弟であっても自分がおいそれと使うわけにはいかないし、使えないということもあるかもしれない。
「すばるも、そこまでねーさんの世話に来なくて良いんだぞ? ピアノだってずいぶん、演奏依頼があるんだろう?」
あゆくんは、まどかさんの面倒を見始めてから「ねーさん」と呼ぶようになった。
こんな大変なときだけど、だからこそあゆくんとまどかさんは、互いに家族の一員としていられるようになったのかもしれない。
「大丈夫だよ。全部断っているわけじゃないし、あゆくんだって大変なんだから」
「俺は、身内の兄貴が勝手やらかしたのを後始末しているだけだからな。不本意だが。ウチの両親には期待できないし」
あゆくんを深山家に住ませるときも、清隆さんが失踪したときも、私の両親があゆくんの両親に話をしに行ったけど、まったくの無関心だったらしい。
今でも、お父さんとお母さんのどちらかが話に行っているが、暖簾に腕押しだとか。
「今までピアノに触れてこなかった人達まで、すばるの名前が話題になり始めているくらいなんだろ? 今が大事な時期じゃないか」
それはさすがに過大評価だと思う。たしかに、ピアノの演奏機会が増えて大変だけど、だからといって自分の周りの人は疎かにできない。
「うん、その辺りは疎かにしてないつもりだよ。あゆくんは……またコンクールに出ないの? いや、早くてもまどかさんのことが落ち着いてからになるかもしれないけど」
またあゆくんと一緒に表舞台で演奏したいな。
「たしかに、すばると一緒に演奏はしたいけどな。けど今戻っても、まだ兄貴の二番煎じと言われるだけだろう」
「そんなことはないと思うけど……それに、今は清隆さんがピアノの世界からいなくなって、ずいぶん経ってるんだよ?」
「どうせ兄貴は、どこかでうっとうしいくらいにピンピンしているだろうからな。ひょっこり戻ってきて、気が向いたからとか言いながら、ピアノを弾くことだってあり得る」
それははた迷惑すぎる。でも、そんな清隆さんの姿が容易に想像できてしまった。
「あ、あはは……でも、清隆さんは本当に大丈夫かな?」
「ねーさんの前じゃ言えないが、兄貴の心配なんてするだけ無駄さ。事件に巻き込まれたなら、失踪間際にわざわざ俺に電話してくるのはおかしい。普通、警察に連絡するだろう。結婚相手で現職刑事のねーさんだっているんだしな」
「それは、たしかにそうだけど」
「そもそも本気でブレード・チルドレンとやらを追うのなら、警察の立場を捨ててまで失踪をして、自分が捜索される立場になるのもおかしい。自由の身になって追いやすい立場を得たかったって考え方もあるかもしれないが、それなら警察をやめれば良いだけの話だし、兄貴ならある程度自由に警察を動かすことぐらいできるはずだ。それなら、むしろ警察に居続けた方が都合が良いんだよ」
「で、でも清隆さんが自分から失踪したとしたら、まどかさんとどうして結婚をしたのかな? 清隆さんが失踪して、まどかさんはあんなに苦しんでいるのに」
「それは……分からない。兄貴のことだから、なにかしらの考えはあるんだろうが、どうせろくなことじゃないだろうさ。たとえ最終的には正しいとしてもだ」
清隆さんが自分から失踪したとしたら、なぜまどかさんに一言も話さずに失踪したのだろう? ブレードチルドレンの謎? それだけじゃ、まどかさんにとってはなんの慰めにもならない。人づてならなおさらだ。
あゆくんの実家での、清隆さんとの会話を思い出す。
まどかさんと結婚しておいて、そのまどかさんにさえ自分のことなど理解されるはずがないと思い、清隆さんは誰にも相談せずに、行動した結果が失踪だというのだろうか。
まどかさんの気を惹くためにくるみさんを巻き込み、あゆくんを使って。そしてまどかさんと結婚して、なにも言わずに失踪?
失踪間際にあゆくんに電話したと言うことは、あゆくんにこれからなにかをさせようとするためだろうか?
……もしかして、あゆくんをまどかさんで縛り付けたかった? 清隆さんが失踪すれば、まどかさんは一人で生活できない。そしてあゆくんは、そんなまどかさんの側にいようとするだろう。
でも、仮にそうだとしても、いったい何のために? ダメだ、考えるための材料がなさすぎる。
けれど、これじゃあ。あゆくんと、なによりもまどかさんがあんまりじゃないか。
あらかじめ失踪するつもりなら、なぜ自分が失踪したことで、まどかさんがあそこまでダメになってしまうほどに好意を自分に向けさせた?
あゆくんを、まどかさんをなんだと思っているんだ。
……落ち着け自分。清隆さんが自分から失踪したと決まったわけじゃないんだから。
やっぱり事件に巻き込まれた可能性だってあるんだ。
「すばるが気にすることじゃないさ。あのバカ兄貴のことなんかで気を回す必要なんてない」
そう言って、頭をなでてくれる。
その感触がとても心地よくて――心が安らぐ。
「今は、まだピアノで表舞台に戻らないけれど――必ず、俺は俺の音楽を手に入れる。兄貴が戻ってきてピアノを演奏したとしても、兄貴の二番煎じなんて誰にも言わせないようにしてやるさ」
そう言って、あゆくんは優しい笑顔を見せてくれる。
「うん、そのときは一緒に演奏しようね!」
「ああ、待っていてくれ」
あゆくんは、もう一度私の頭をなでると、まどかさんの食事の準備に取りかかる。
私は、まどかさんの様子を見に行こう。多少良くはなってきているけれど、まだまだ誰かのフォローが必要だ。
まどかさんの調子がある程度戻りつつある時、その知らせはある日突然やってきた。
「……お父さん、今なんて?」
歩君、すばる。落ち着いて、聞いて欲しい。お父さんとお母さんがそう前置きして告げた言葉。
あゆくんが、清隆さんのクローンだと。
あまりに、突拍子がない。
冗談だと思いたいようなその言葉……けれど、お父さんとお母さんはそんな質の悪い冗談を言うような人ではないと、この十四年間でよく分かっている。
なによりあゆくんを気遣う表情が、お父さんの告げた言葉が真実であると物語っていた。
息子である、清隆さんの失踪したこと。そして同じ息子であるあゆくんが、清隆さんの妻であり荒れてしまったまどかさんの面倒をつきっきりで見ていること。
そのような状況を伝えられていても、あゆくんのご両親は変わらず無関心だった。
それでも私の両親はあゆくんのご両親に、あゆくんとまどかさんに少しでも理解を示して欲しいと、粘り強く説得を続けていた。
だが、それでもどうでも良さそうなあゆくんのご両親の様子に、つい力を込めて『歩君の苦労を少しでも分かろうとして欲しい。貴女の息子なのだろう』と言ったところ、あゆくんのお母さんが、歩は私達の息子などではないとか、清隆さんのクローンであり、今となっては無用な存在だとか、そのようなことを言ったらしい。
どうやら口を滑らしたことに気づいたあゆくんのお母さんは、まずいと思ったのか、しばらくはお父さんが問い詰めてもなにも語らなかったけど、やがて観念したように、事実を話したそうだ。
かつてピアノの道を志しながら、指の故障により断念したあゆくんのお母さんは、世界的に有名となり、伝説とまで謳われたピアニストになった清隆さんの才を惜しんだ。
清隆さんになにかあったとき、どんな治療が合っているかを実験するテストボディとして。そして、清隆さんが体の一部を失うようなことがもしあった場合には、体の代用品とするため、100パーセント適合する予備の体として、創られた清隆さんのクローン人間。
――それが『鳴海歩』だと。
そのようなふざけた話があるかと、お父さんとお母さんは否定したかったらしいが、その話をするときのあゆくんのお母さんの様子があまりに鬼気迫るものだったので、不安を払うためとあゆくんと清隆さんのDNA鑑定を行ったそうだ。
(あゆくんとまどかさんが住む部屋で、あゆくんと清隆さんの毛根のある毛などはあっさり手に入ったらしい。その点は清隆さんの失踪直後で助かったとのこと)
その結果、清隆さんとあゆくんは、一卵性双生児であると結果が出た。
十五、六歳も離れた一卵性双生児など、存在しない。
つまり、結果は一つ。あゆくんは、清隆さんのクローン人間ということだ。
「――あゆくんのお父さんも! お母さんも! お兄さんも! あゆくんをなんだと思っているのよ!」
人の命を、あゆくんをなんだと思っている! あゆくんは都合の良い道具だとでも思っているのか。
断じて違う! あゆくんは、両親やお兄さんとのことで苦しんで、ピアノが大好きで、料理にこだわりがあって、自分の料理を食べた人の美味しいという言葉に喜ぶ、一人の人間だ!
私が怒って、なにがどうなるわけじゃない。怒りをぶつけたい人はここにはいない。
この場にいるのは、私のお母さんと、お父さんと、あゆくんだけだ。
そして、一番泣き叫びたいのはあゆくんだろう。
理性ではそう理解していても、感情が止まらなかった。
「すばるがそこまで怒ることはないだろ」
「でも、あゆくん!」
「嘆いたところで、事実は変わりはしないさ」
異様なほどに冷静なあゆくんの言葉に、私も少しだけ頭が冷えた。怒りはそのままだけど、さっきも言ったとおり私が怒っていても仕方ない。
一番怒りたいのは、あゆくんなのだろうから。
「でも、これで納得したよ。母親は、兄貴しか見ていなかった。父親も、哀れそうな目で俺を見るだけだった。そもそも生まれたときから、俺は兄貴の代用品としてしか価値を見いだされなかったってことだ。兄貴が自分で指を折って、ピアノの道を強制的に閉ざした時点で、俺も用済みってわけだ」
以前、清隆さんは親への反抗だと言っていたが、あれはある意味で本心だったのだろうか。
清隆さんは、あゆくんの生まれの真実を知っていたのかもしれない。
「兄貴は、おそらく知っていたんだろうな。自分の予備として作られたクローン人間を、どんな思いで見ていたんだろうか……なんだかんだ、小学生低学年までは兄貴が面倒見てくれてたからな。八歳以降は強制的に家事を押しつけてやがったが」
いつもふざけたようでいて、無茶振りしてきて、あゆくんが誰からも鳴海清隆の弟としか見てもらえない原因を作った清隆さんでも、あゆくんにとってはただ一人のまともな家族だったのだろうか。
あゆくんの授業参観に来たのも、あゆくんが風邪を引いたときに看病とかをしていたのもお兄さんだったのだ。
それでも家事丸投げや、結婚して即座に失踪はあまりにも酷いけど。
「ともあれ、教えてくれてありがとうございます。辛い事実でも、知らないままでいるよりはマシですから」
そうして、あゆくんは私の両親に丁寧に頭を下げる。
一見、落ち着いているように見える。けれど、あゆくんはどんなに辛くても周りに気を遣って、涙を見せられない。そんな男の子だ。
――それでも、私に対してだけは無理しないで欲しい。じゃないと、あゆくんは一人で泣くしかないじゃないか。
「あゆくん。辛いときは、頼っても良いんだよ?」
そっと、あゆくんを抱きしめる。
「あゆくんの生まれがどうであろうと、あゆくんは私の大切で、かけがえのない人だから。前にも言ったけど、私には頼って欲しいな。あゆくんは、周りに気遣ってばかりだから、せめて私には無理せずに頼って、ね?」
「……別に、無理なんてしてないさ」
「本当に?」
「ああ。本当だ……俺のために怒って、悲しんでくれる奴がいるからな。それだけで、救われる気になる」
「そっか……でも、いつでも言ってね? 私の胸でよければ貸すからね」
「別にそれは良い」
「もう、そこは否定しなくてもいいのに」
あゆくんと話しながら、抱きしめたその手であゆくんの頭をそっとなでる。
「あゆくん、大好き」
「……恥ずかしいことをさらっと言うな」
「さらっとじゃないよ。恥ずかしいけど、言いたかったの」
「そいつは悪かったな……あと、ありがとう」
「うん――どういたしまして」
ふと、お父さんとお母さんの方を見ると、二人とも優しい表情で私達を見ていた。
「歩君。少なくとも、私達は君を家族のように思っているよ」
「そうよ、もう貴方は息子と同じようなものよ」
「……ありがとうございます」
あゆくんが、お父さんとお母さんに頭を下げる
「前も言ったけれど、すばるの婿に来て欲しいくらいなんだがね」
「……話が飛躍しすぎじゃないですか」
「ほう、ウチの娘とはあくまで恋人というだけで、結婚する気はないと?」
「そうは言ってません」
「あら。なら良いじゃない。歩君ならすばるを任せられるし、私達も安心だわ」
お父さんだけでなく、お母さんまでノリノリだ。
「俺はまだ中学二年生ですよ」
「私はあゆくんとずっと一緒にいるつもりだよ?」
「良いのか? 俺は――」
「あゆくんはあゆくんだよ」
清隆さんのクローンだと言いたいのだろうか。それ以上は言わせない。
「私が大好きなのは、あゆくんだから。あゆくんはここにしかいないよ。他のどこにもいないの」
「物好きな奴だな。まったく」
「物好きだって良いよ。私はあゆくんと一緒にいたいの」
「……すばる、これからも隣にいてくれるか?」
「もちろんだよっ、あゆくん」
あゆくんが私を嫌いにならない限り、私はあゆくんから離れる気はないから。
恐らくだが世界初のクローン人間ということで、あゆくんを詳しく見てもらった方が良いのではないかと、私の両親が提言した。
けれどクローン人間なんてことをおいそれと話し、それを秘密裏に対処できる人なんて、そうそういるわけがない。
けれども。私にはそんなすごくて、頼れそうな人に一人だけ心当たりがあった。
「……結局、あたしは歩君に関わることになるのか」
すごーく嫌そうな顔をしながらも、引き受けてくださったのは、世界に名だたる小日向グループの後継者。小日向くるみさんだ。
「すみません、無理なお願いをしてしまって」
「まったくだ――と言いたいところだが、歩君には借りがある。借りっぱなしというのは、あたしの性に合わないからね。借りを返す機会をもらったと思うことにしたよ」
くるみさんの言う借りと言うのは、清隆さんとの推理勝負で、あゆくんの知恵を借りたことだろう。
「それに、この件については歩君に
あゆくんの生まれた秘密を知ったくるみさんは、それはもう激怒していた。くるみさんらしい。
「あゆくんのご両親は分かりますが、清隆さんもですか?」
「歩君が自分のクローン人間だってことは、鳴海は知っていたはずだ。あたしとの別れ際、鳴海の奴は歩君のことを『私に似て生まれつき特別である者』と言っていた。歩君が平和な人生を送れるはずがないともな」
清隆さんはくるみさんにそんなことを言っていたのか。数年前のことを明瞭に覚えているくるみさんもすごいけれど。
「そして、奴ならいくらでも秘密裏に歩君を診てもらうことはできたはずだろ。つまり、あいつは歩君の誕生にこそ関わっていないが、知ってて放置どころか、利用しようとしているんだろうさ」
「きっぱり言いますね。そうかもしれないですけど」
「まあ、なんにせよ任せろ。おじい様も、良く分からんが罪滅ぼしとかなんとか言って協力的だ。おかげで、気兼ねなく小日向の力を使うことができる」
くるみさんはそう言って、頼もしい笑顔を向けてくれる。
「それに、既に歩君の母親が使った施設から、当時の研究者と研究資料は確保済みだ」
小日向グループ怖い。仕事が早すぎる。
「くるみさん、よろしくお願いします」
なにがあるか分からない。なにせクローン人間なんて、表向きには未だに一人も存在しないのだ。
どうか。あゆくんがこれから先、健康で幸せに過ごせますように。私にはそう祈ることしかできなかった。
しばらくの日が過ぎて。くるみさんから、あゆくんに告げられた言葉は、あまりに悲しい事実だった。
現在でさえ、確立されていないクローン技術。ましてや、十五年前ではなおさらだ。
不完全なクローン技術による遺伝子の異常により、鳴海歩は十代後半から、遅くとも二十歳になる前に死に至るだろうと。
――世界は、どこまであゆくんに対して残酷なんだろう。
「絶望するにはまだ早いだろう、すばる。あたしは世界に名だたる小日向グループの後継者だぞ?」
けれど。残酷な知らせを持ってきたくるみさんの表情には、絶望の色はなかった。
原作でも鳴海の両親が放置されていたことから、寿命の件はともかく、歩が清隆のクローンであることは早期にバレても清隆は構わないと判断していたと考えています。
残り二話。ここから独自設定、ご都合主義が加速していきます。