石鹸枠を復活させろ。
0/プロローグ
それは今から十年前。
まだその身に宿る『星』の意味を知らなかった、純真で無垢だった頃の話。
とある地方都市の片田舎で彼女は生まれた。
まわりは山と森に覆われた町はずれの辺境。
町中の公園へ遊びに行くのはおろか、学校へ通うことすら大変な山中の家。
けれども、不便な代わりに満ち足りた幸せがあった、今でも大好きな故郷だ。
幼い時分、遠くに出かけるのも大変となれば、もっぱら遊び場はその大自然になる。
幸いなことに近くには一軒だけ隣家もあって、そこには同い年の男の子もいた。
彼は気弱で臆病で、ともすれば彼女と正反対の性格だったが、お互い遊び相手がいないというのもあってずっと一緒だった。
どこかへ行くのも、なにをするのもふたり一緒。
気づけば隣にいるのが当たり前になるぐらいで、その日も彼女は彼を引き連れて野山を駆けまわっていた。
家の裏側に広がる山林は、何度も走り倒した彼女にとって庭のようなものだ。
どこになにがあるのか、どこをどう行けば戻れるかなんてお手のもの。
だから当然、彼女にとってその声に気づくのはなんら不思議なことでもなかった。
『
『……? わかんない』
『えー、聞こえるぞ。ほら、なんか、鳴いてる』
『そう?』
首をかしげて耳を澄ます彼をよそに、彼女は声のほうへと歩いていく。
春先から夏にかけての山は、比較的静かなものだ。
真夏のように蝉がうるさいぐらいの鳴き声をあげることも、秋みたいに鈴虫が揃って大合唱をはじめるわけでもない。
彼女たちがしばらく進んでいくと、声の主の姿が見えた。
地面から並び立つように生えた、大人が寄りかかってもビクともしないほど大きな木。
ちょうど目線より一メートル上の枝に、ちいさな声をあげる〝白〟がいる。
『猫さん……?』
『怪我してるみたいだな。……うん、かがり』
『え、なに。どうするの
『ちょっとあの猫、助けてくる』
『えっ!?』
少年が驚くのも束の間、彼女はするすると木の幹に手をかけてよじ登った。
生来の身体能力の高さだろう。そのときの彼女は知る由もなかったが、それは同年代で見ても頭ひとつ抜きん出る才能のひとつだった。
あっという間に枝まで辿り着いた彼女は、そのまま白猫に手を伸ばす。
体がちいさいのは子猫だからだろう。群れからはぐれたのか、置いていかれたのか。
子猫はわずかに怯えながらも、彼女の胸に飛びこんだ。
そのとき、
『あ』
ばきん、と足元からなにやら割れる……もとい折れる音。
しまった、と思うがもう遅い。
なんの準備もできないまま、彼女の体は無防備な状態で空中へ投げ出された。
『ひ、ひなみちゃんっ!?』
ぐしゃり、と自分でもわかる尋常じゃない落下の音。
明滅する視界と、思わず意識が遠退きかける激痛。
ぐぇ、なんて潰れたカエルみたいな声をあげながら、彼女は見事地面へ倒れこんだ。
〝…………すごい、痛い……〟
瞼を持ち上げた視界に映ったのは、一昔前の3Dメガネみたいな青色と赤色。
木々の隙間から覗く空模様の半分を、どこかから現れた別のモノが染め上げている。
『うわあ!? ち、血! ひなみちゃん、血が! 血がでてるー!!』
そんな幼馴染みの声で、やっとそれが自分の頭から流れているのだと気づいた。
大方、落ちたとき盛大にぶつけたせいで出血したのだろう。
すぐ傍に座り込んで「どうしようどうしよう!?」なんて慌てる彼の頭を撫でながら、頭痛を何倍も酷くしたような痛みに目を閉じる。
『わーーー! ひなみちゃん! だめ、寝ちゃったらだめだよ! だめだめ! やだ! ひ、ひなみちゃんが、ひなみちゃんが死んじゃうーーー!!』
『………………、』
『誰かー! 誰か助けてえー! お願いだから! ひ、ひな、ひなみちゃんがっ』
『…………かがり』
『ふ、ふぇ、ふぇえん! うぇええん! やだぁ! やだぁーーー!!』
と、泣きわめく幼馴染みに耐えきれなくなったのか彼女は起き上がって一言。
『ごめん、うるさい』
『いだぁい!?』
ぎゅーっと耳をつねられた少年が涙声で悲鳴をあげる。
今さっきまでの脱力感はどこへやら、彼女は若干むすっとした表情で彼を見ていた。
『頭、いたい、響く、声……分かるか?』
『えっ、あ、ごめ、いやでも血が……っ』
『ばか。ばかかがり。
『
謎の罵倒にショックを受ける少年をよそに、彼女は呆れまじりのため息をついて自分の首元を指差した。
そこには細く、重なるように浮かび上がる稲妻模様の青い刻印。
痣のようにも見える、彼女たちが生まれた時から持つ特殊な紋様だ。
『私たちには『
『……あ、そうだった』
『………………、』
自分も持ってるだろうに大丈夫かこの幼馴染み、と心配になる彼女だった。
数の大小や色、形の違いはあれど、彼にだって『星刻』はきちんとある。
性別はもちろん、性格や趣味嗜好まで違っているふたりだが、そこについてはおそろい。
彼女としては悪い気がしなくもない部分なのだが、目の前の少年はあまりのパニックにそんなことすら忘れてしまっていたらしい。
『とにかく大丈夫だから。ほら、血も拭けばとれるし』
『う、うん……』
『……って、余計涙を流してどうする!?』
『だ、だっでぇ……!』
『あーもう! ほんとかがりは泣き虫なんだから……!』
ぼろぼろと大粒の涙をこぼしながら、「よがっだよぉ」なんて声を震わせて言う少年。
心配してくれるのは素直に嬉しいのだが、ここまでだとなんというか、ちょっと複雑な気持ちにさせられる彼女である。
情けないと叱りたい気持ちと、らしいなと思う幼馴染み故の甘さだった。
『……よしよし。もう泣き止んだか?』
『うん……だいじょ、だいじょうぶ……』
『まったく……っと、そういえば……』
ふと思い出したように、彼女はぐるりと辺りを見渡した。
そもそもの発端、どうしてこのような事態に陥ったのか。
その原因を見つけようとして――ふと、ふたりの間に近寄るふわふわなものを見る。
足を怪我した拙い歩き方で迫るそれは、間違いなく先ほどの白猫だった。
『おお、おまえも無事か……! かがり、救出成功だぞ!』
『……成功じゃないと思う……』
『そうか?』
『そうだよ!』
あんなに血が出てたのに! とぷんすか怒る少年。
泣いて怒ってと今日は忙しいな、と思う彼女だったが、口には出さないでおいた。
おそらくというか、間違いなく藪蛇であるだろうと。
『とにかく戻って手当てしてあげよう。遊ぶのはまたそれからだ。救急箱どこにあったかな……というか人に使うのって猫にも使っていいのかな?』
『わ、わかんない……っていうかまだ遊ぶの? 今日は休んだほうが……』
『ばか、ばかがり。こんなにいい天気なのに遊ばなくてどうするんだ』
『それやめて!』
叫ぶ少年をあとにしながら、彼女はずんずんと来た道を戻っていく。
それにすこし遅れながら、取り残されかけた少年も後を追う。
その後の顛末はふたりのどちらも知るところ。
結局、家にいた両親に伝えて子猫は応急処置の後、彼女の家で飼うことになった。
……ついでに、幼馴染みが木から落ちたことを伝えて、その日の彼女は家での生活を余儀なくされたことも。
なにはともあれ、すべてが懐かしくて、すべてが楽しい日々だった。
いまはもう遠く離れた生まれ故郷。
薄れゆく古い記憶のなかで、なお鮮明な彼との思い出。
なによりも満ち足りていて、なによりも幸せだった彼女の過去。
願わくば、どうか、彼にとってもそれが大切な思い出であってくれますように。
心に残ってくれるような、大事な時間でありますように。
そう、喩え、彼女自身が――