10/少年、空に吼える
そうしてやって来た土曜日の昼下がり。
篝は疲労のにじむ体を押して、待ち合わせ場所の喫茶店へと辿り着いた。
時刻は十二時四十五分。
約束の時間は一時からなので、十五分の猶予を持っての到着。
いちおう遅刻にはなっていないけど、と息を切らしながら店内を奥へ進んでいく。
「…………、」
ざっと見回してみたところ、姫奈美はまだ来ていない。
幸か不幸かで言えば、まあ、女の子を待たせなかっただけ僥倖である。
容赦ない外の寒気と比べて、店内は暖房が効いていた。
暖色のライトが余計にそのあたたかみを増している。
コートを脱ぎつつ、どこで待っていようかと逡巡して、篝は入り口からいちばん遠い、最奥にあたる席へと腰掛けた。
『走ってきたからちょっと疲れちゃった……いや、朱丘先生のお陰で身体はもう限界寸前っていうか……ギリギリ一杯みたいな感じなんだけど……』
午前中の自主練習に付き合ってくれた担任教師を思い返して、苦笑と共に力を抜く。
休日でも彼女のスパルタっぷりは健在だった。
何度も転がされて地面を這いずり回ったのが記憶に新しい。
というか、むしろそれぐらいしか記憶にない。
『まだまだ全然足りてない……焦っちゃ駄目なんだろうけど、でも……』
二年近く続けてきてこの結果はどうなんだろう、と。
そんな風に思いかけたところで、カランコロンと入店を告げる鈴の音が耳に入った。
ふと見てみれば、そこに群青色の髪をなびかせた少女の姿がある。
「あ、こっちこっち」
「む? 篝? 早いな」
「そうでもないよ。僕もついさっき来たばかりで――」
ピタリ、と。
続けようとした言葉を途切れさせて、篝はしばし固まった。
それは別に身体機能の影響だとか、何か異常が起きたからとか、そういうのではなく。
空白にも近い思考の停止は、純粋な驚きによるものだ。
「……? どうかした……って、ああ。
「へっ!? え、それは、あの、その……!」
――いや、なんというか。とんでもなく、とんでもなかっただけで。
「……?」
不思議そうに、あるいは心配そうに首を傾げる姫奈美。
その姿は日頃の彼女そのものだが、休日の外出に装いが変わっている。
いつもつけているマフラーとクローバーの髪留めはそのまま、上はケーブル編みのニットセーターで、下は紺色のロングスカートだった。
素肌だと寒いのかストッキングを履いていて、肌の露出を最低限減らしている。
冬場のこの時期、寒さを防ぐために厚着は欠かせない。
それでも彼女なりのスタイルの良さだとか、スラッとした立ち姿が乱れていないのは流石としか言いようがなかった。
「……す、すごい似合ってるなって……うん。とっても、かわいいと思う」
「そ、そうか? そうか!? それなら良いんだが!?」
〝――やったぁぁああーーー!! かがりに褒められたーーー!!〟
なお、彼女の内心はそんな格好とは裏腹に丸裸になっていた。
一分の誤魔化しもしないストレートな感情を胸中で吠え叫ぶ。
正直口に出していないだけまだ冷静だ。
「で、では早速行こうか! 時間は有限だし、きっちり使っていかないとな!」
「そのことなんだけど……もうどこで遊ぶかは決めてるの?」
「もちろんそのあたりもばっちり抜かりない! 場所は――着いてからのお楽しみ、だ」
くすりと楽しげに微笑んで、ほらほらと篝の手を引っ張りながら姫奈美が駆けていく。
明らかに上がったテンションは合わせるのにも一苦労……の筈なのだが、篝にとっては何ら苦でもないらしい。
同じように柔らかな微笑を浮かべながら、彼女の後を追いかける。
久方ぶりになる幼馴染みでのデート。
楽しめるかどうかなんてのは、ふたりの顔を見るだけで明らかだった。
◇◆◇
――ガタガタと、震える体が足場と共に上昇していく。
見上げた空は冬の寒さを秘めた薄青色。
流れる白い雲も併せて、晴天とは言えないが、かといって曇天というほど暗くもない。
昼下がりの外気温は十二月らしくそれなりに低かった。
地上でも防寒着がなければ耐えられないような寒さは、〝上〟へ行けばそれこそ酷くなる。
頬を刺すような冷気、前髪をさらう強風、そして。
「――――――、」
眼下に広がる、ミニチュアじみた地上の光景。
遠く幹線道路を走る自動車も、足元を行き交う人集りも豆粒みたいに現実味がない。
けれども、跳ねる心臓とぐるぐる回る思考が、間違いないリアルなのだと伝えてくる。
地上五十メートルの高み。
普通なら辿り着けない空の座標で、篝は静かに息を呑む。
「――顔、真っ青だな」
「姫奈美ちゃん……」
「そう気張るな。別に、死ぬワケじゃないからな?」
安心しろ、なんて言ってくるどこかワクワクした様子の幼馴染み。
それはそうだ、分かっている。身の安全は細心の注意を払ったうえで確保されている。
彼もそのあたりはきちんと把握しているのだが――
「…………っ!」
「……まったく。無理なら待っていても良かったのに」
「それはそれで、勿体ない、っていうか……いやでも、どうなんだろう……?」
「しっかりしろ篝ー。ぶれちゃ駄目だぞー。自分を強く持て、自分を」
「も、勿体ないです、ハイ」
「ならばよし」
ニッコリと笑う姫奈美に、束の間、震え上がった心が癒やされる。
ああ、この顔を拝めるならどんな恐怖だって耐えていけそう――なんて考えは、ものの数秒で打ち砕かれた。
ガコン、と停止する機械。
この場における最高峰、高さ六十メートルの上空で、篝たちは遙か向こうまで伸びる絶景を一眸する。
綺麗だ。
町中の景色であってもその感想に揺らぎはない。
ただ、こぼれた感想を塗り潰してしまうぐらいの恐怖が、胸を占めていたけれど。
「……くるぞ、篝」
「!」
きゅっと、隣の彼女から手を握られる。
不意の接触。
意識の隙間をつくような暖かさは、真実凍えた頬まで伝わった。
残された微かな間、ほんのりと穏やかな空気が形成される。
時間が止まればいい。思わずそう考えてしまうぐらいの瞬間に。
〝あ〟
ぐらりと傾いていく足場。
急激に這い上がってくる怖気と、ぐるんと回転して真下を向く視界。
心の準備をする暇なんて与えないと言わんばかりの怒濤の変化。
モノが落下する速度はそれ自体の質量、高さによって威力と共に増していく。
ほぼ直角と言って良いほどに傾いた足場には当然その法則が適用される。
ゆっくり、ゆっくりと。断頭台の刃を待つように、風と音が下から上がってきて、
――ふたりを乗せたジェットコースターは、その激しい旅路をスタートさせた。
「きゃぁぁぁああああああああ!!!!」
「いやぁぁぁああああああああ!!??」
凄まじい速度で走るコースターの快音と、重なり合うような絶叫が響き渡る。
園内を駆け巡るレールは行き先を上下左右へと変更、時にぐるりと回転しながら、広い敷地のなかを踏破する。
――つまるところ、姫奈美が行き先として選んだのがここ、町外れの遊園地だった。
客足はそこそこ、経営不振になるほどでもなければ、儲かっています、とおおっぴらに言えるほどでもない集客力。
入園料もお財布に優しく、ちょっとした気分転換や遊び場にはもってこいの場所である。
超有名だとか、巨大だとか、そういう言葉が頭につくモノと比べればどうしても劣ってしまうが、そこは中小企業の意地か底力か。
細かい工夫を凝らされたつくりで、入園者を楽しませるという目的は高い水準で保たれている。
現にこのコースターにしてもそうだ。
速度と緩急、さらには長さで勝負をしかける構造は、絶叫マシンとして申し分ない。
「あは、あははは! 篝! 声! 悲鳴! 女の子かーーー!!」
「違、ぁああああ!! うわむり! これむり! ひゃあああああああーーーー!!!」
「あははははははは! きゃーーーーーーーー!!!!」
遊園地中に張り巡らされた骨組みの上を疾走するコースター。
その速さは尋常ではない。
そもそも、ジェットコースターの最高速度は優に百キロを超える。
速度とスリルは比例し、またスリルと恐怖も比例する。
ならば必然、スリルを求める利用者の多いこの遊具に、速さが足りないということはない。
「ま、まってこれ、まって、まってまっていやあああああーーーー!!???」
「あはは! あははははは! くふははははは! きゃあああーーー!!!!」
手を握って隣同士に座っているふたりだが、その反応はまったく違うものだ。
ニコニコと満面の笑みでかわいらしい悲鳴をあげている姫奈美は、純粋に、心の底からこのアトラクションを楽しんでいる。
天地の逆転も落下じみた走行も、程よいドキドキ感だと呑み込んで心を弾ませる慣れっぷり。
きっとこの遊具の設計者が見れば、その嬉しげな反応に喜ぶだろう。
一方篝は、泣きそうな顔で……もとい実際に涙を流しながら、かわいらしいと言えばかわいらしい絶叫をあげている。
偏にアトラクションの怖さに耐えられないが故だ。
彼にとっては身の安全を保証したスリルであっても、怖さの深度はそう浅くない。
ぐるぐるぎゅんぎゅんと回りうねって進むコースターはもはや拷問器具にも等しい。
ではどうして踏ん張れているのかと言うと、隣で件の少女がずっと手を握ってくれているからだった。
それでもちょっと意識がトビそうになっているあたり、彼も彼だったが。
「ひゃあああああああーーー!!!! ああ、あわ、あわわわぁぁあああ!!??」
「あは! あはは! あはははは!! きゃあああああああーーーーーー!!!!」
各々、それぞれの感情をのせて叫びながら、マシンはレールを駆け抜けていく。
旅路の時間は五分ほど。
そこそこ広い敷地を一周と少しするまで、心安まるような時間はない。
響く声は冬色の空によく通る。
薄い青は空気の色まで薄くするように、その色彩をクリアな状態で保っている。
……その後、しばらくしてコースターが停まり、しっかりと地面に足を着けるまで、篝は生きた心地がしなかった。