「こ、こわかった……」
「……お疲れさま」
がっくりと項垂れる姫奈美の頭を撫でながら、篝は緩く微笑んだ。
場所は変わって比較的遊具の集まった中央側。
ぐるぐる回るコーヒーカップに乗り込んで、ふたりはどちらかというと大人しめのアトラクションで身体を休めている。
「なんか、こう、どっと疲れた……叫びすぎて喉、カラカラだし……」
「そうだと思って、はい。さっき買っておいたよ」
「うん?」
わずかに顔をあげて見れば、対面に座った篝がペットボトルを差し出してきた。
ラベルには見慣れた市販の緑茶のデザイン。
感謝しつつ受け取ると、彼も自分の分である紅茶を取り出して栓を開けていた。
なんとも、こういうところはちゃっかりしている。
「ありがとう……いくらだった?」
「いいよ、このぐらい。僕が好きでやったことだし」
「そうか? じゃあ、ありがたく」
「うん。お願いします」
「……ふふっ」
「あはは……」
なんだかすこしズレている会話をくり広げつつ、ふたりは飲み物に口をつける。
彼なりに寒さを気遣ってか、購入したのはホットだった。
外の冷えた空気にさらされている以上、温かいのはどちらにとってもありがたい。
お互いに一呼吸ついたところで、ようやく向かいあって話す。
「……いや、うん。こうしてみると不思議だ。よくここまでの付き合いになったな、私たち……どこも違うところだらけなのに」
「……たしかに。それもそうだね。僕は絶叫系苦手だけど、姫奈美ちゃんは好きだし」
「私は怖いの苦手なのに、篝はもう平気だもんなー? ……なんか、ずるいぞ」
「って言われても……うん。苦手なままで良いと思うよ? 僕は」
「そうかぁ……?」
そうそう、と割かし全力でうなずく篝である。
姫奈美に自分と同じ〝あんな〟地獄を体験してもらおうとは思わない。
というかしてほしくない。
「ああ、あと、飲み物もそうだな。私は緑茶派だけど、篝は紅茶派だ」
「うん。……ちなみに言うと、伽蓮さんも紅茶派だよ?」
「む、どうして知ってるんだ? 聞いたのか?」
「いや、僕が勧めておいたから」
「……どうりで。最近よく朝食に紅茶を淹れてるわけだ……」
ひとつ謎が解けた、とばかりに息を吐く姫奈美。
野菜ジュースだったりタピオカだったりカフェオレだったりと疎らな様子だった伽蓮の飲み物事情だが、ここ数ヶ月間はずっと紅茶で固定されている。
布教活動は順調なようだ。
「……でもまあ、だからこそなのかもな。私たち」
「?」
「足りない部分とか、欠けてるところがあって……それをお互いうまく埋められるから、良いのかもしれない。ほら、二人だと負ける気がしないだろう?」
「……そう? 姫奈美ちゃん一人でも、負けそうな気はしないけど……」
「そんなことはない。私だけだったら、きっとここまで来られなかった」
きゅっと首元のマフラーを握りしめながら、ぽつりとこぼすように呟く。
支えているだけではない。
彼は彼女に、彼女は彼に、頼っているか必要にしている部分が少なからずある。
それは気のせいでもなんでもない。
幼馴染みとしての価値観だ。
「篝が居たから良くて、篝だから良かったんだな。他の誰かじゃあ代わりは務まらない。……いっぱい救われてるんだ、私は。これでもか弱い乙女だからな?」
「……か弱い乙女は学校の窓ガラスを割ったりしないよ……?」
「う、聞いたのか」
「偶々。……気をつけてね、姫奈美ちゃんもそうだけど、周りも危ないし」
「分かってる……いや、あれはなぁ……うん。どうにも、こう、昂ぶってしまって……」
「知ってます。……戦うの大好きだもんね、姫奈美ちゃん」
「もちろん! ……篝は、あー……あんまり好きじゃない、か?」
「……痛いのも怖いのも苦手だからね」
「そうだよなあ……」
ちょっと残念がる様子に苦笑しながら、篝は残りの紅茶をひと息で飲み干す。
彼女の期待に応えたいのは山々だが、そこの主義主張は彼も同じ。
怖いものは、怖い。
おまけに幼馴染みとしてそれはどうか、というトラウマまで負ってしまっているのだから、簡単に頷けるはずもなかった。
……ほんと。自分の情けなさに、ひととき空を仰ぐ。
「でも、そういうとこ含めて篝だもんな。うん。〝私〟の篝だ」
「……姫奈美ちゃんの?」
「ダメか?」
「…………ご自由にお願いします」
「じゃあ遠慮無く」
くすりと微笑む姫奈美と向き合いながら、赤くなった頬を隠すようにそっぽを向く。
果たしてその言葉にはどういう意図が込められているのか。
混乱する彼にはさっぱり理解できないが、すくなくとも。
『……こういうのが、ダメ、なんだろうな……僕って……』
悪い気はしないのが、いまの篝の素直な心境だった。
◇◆◇
充実した時間は過ぎていくのも早い。それが誰かと一緒なら尚更だ。
時刻は午後八時過ぎ。
閉園も間近に迫った園内に、昼間ほどの人気はなくなっている。
すれ違う人は大半が出口へ向かっていた。
時たま開催されるパレードも、本日は鳴りを潜めてお休み中。
日の落ちた遊園地にはアトラクションの明かりだけが灯っている。
そんな中を遡行して、篝たちが向かったのは敷地内のど真ん中。
この遊園地の代名詞にもなっている巨大観覧車は、いまだ電飾を伴ってゆるやかに動いている。
姫奈美の「最後にあれ、乗ろう」という誘いにうなずく形で足を運べば、ちょうど乗り場からゴンドラが出るところだった。
近くにいた係員の案内に従って乗り込めば、ほどなくして小さな箱が静かに揺れる。
……ふたり向き合う形での、穏やかな空の道中だ。
「タイミングが良かったな、降りる頃には時間もちょうど良さそうだ」
「そうだね……ちょっとだけ、走らなきゃいけないかもしれないけど」
「星刻の力で引っ張っていってやろうか?」
「市街での無断使用は厳禁でしょ。校則違反どころじゃないよ、もう」
「分かってる。冗談だ冗談」
からからと笑う姫奈美に、篝は曖昧に微笑んで返す。
なんだかんだで彼女も学園が誇る優等生には違いない。
ちょっと気分があがって窓ガラスを粉砕するコトはあれど、決められたルールを破ることは滅多にない。
すくなくとも、戦いが関わらない限りは、たぶん。
「……ここだと街が一眸できるな。見てみろ、篝。夜景が綺麗だぞ」
「ほんとだ。すごい……こういうのって、あんまり気づかないよね」
日常の落とし穴みたい、と窓の外を眺めながらこぼす篝。と、
「……私は?」
「? 姫奈美ちゃんはいつも綺麗だよ?」
「え、あッ――いや、今のは、その、ああッ……何言ってるんだ私は……!?」
「??」
思わず、といった様子でこぼれた一言にド直球、しかも望んでいた一言を返されて混乱する姫奈美だった。
要求に対して百パーセント叶える形で放たれた反撃は重い。
「と、というか、そう素直に答えるなよ、ばか……もう……恥ずかしい……」
「ご、ごめん……?」
「……そういうとこも含めて、愛しているよ」
「え」
「お返しだ」
んべーっ、と舌を出して言う姫奈美に、かぁっと耳までまっ赤になる純朴少年。
不意打ちじみた言葉への反応は彼の敗北を示している。
見事な作戦成功を飾って、いま一度姫奈美は窓の外へ視線を向けた。
依然変わらず、遠くには街の夜景。
「……む、雪だ」
ふと、そこに一片、白い結晶が混ざりはじめた。
日中は晴れていたが、夜になってから本格的に雲が出始めたのだろう。
暗い景色のなかにぽつぽつと、白い粉雪が落ちていく。
「わあ……なんだろう、なんか、こう……いいね。すごくいいかも。うん」
「初雪だったな、たしか。このタイミングは正直、作為的だが――」
……そう。
本当にこんなタイミングで。
しかも彼と二人っきりのときにやってくるのだから、作為的と言う他ない。
思わず微笑んでしまうほどの状況だ。
姫奈美にとって、今日がなにより特別であったからだろう。
「……ん、悪くない。おまえとこうして見られる雪も、また幸せだ」
「……そっか」
「ああ、そうとも。知らなかったのか? 私は篝と一緒なら、なんでも幸せなんだ」
「それは……知らなかったなぁ……ほんと?」
「ほんとだ。こんな嘘をついてどうする」
大体、おまえはどれだけ私が想っているかを理解していない、なんて。
つい口からこぼれそうになった言葉を、姫奈美は喉元でこらえた。
理由は明白。
それをここで言ってしまうのは、自分にとっても、彼にとっても良い方向には働かないだろうと。
代わりに座っている場所をズラして、ポンポンと横の空いたスペースを叩く。
「……篝。こっち、来ないか。隣」
「いいの? 狭くない?」
「そういうこと気にしてるんじゃない。……近くがいいんだよ、ばか」
「……じゃあ、遠慮なく」
珍しい姫奈美のいじらしさに苦笑しつつ、狭いゴンドラのなかを歩いて、すとんと彼女の傍に腰を下ろす。
ちょうどふたり分、高校生でも密着すれば座れるぐらいの幅である。
「お、思ったより近いな……」
「そう? いつもこのぐらいだよ、僕たちの距離」
「そ、そうか? ……そうだな。そう言えば、そんなものか」
「うん」
嬉しげに笑う篝に、どこかぽーっと見とれそうになるのを堪えて、姫奈美はスカートの端を握りしめた。
結局、なんだかんだ言ってこういうのは惚れた方が負けなのだ。
それで言えば確実に自分の負け。
完敗だ。
もうどうしようもないほどに、胸の内には抱えているモノがある。だけど、
「…………、」
だけど、それを言葉にすることも、伝えることも、きっと――
「篝」
「ん、なに?」
「ありがとう。今日はすっごく楽しかった。長いようで短い時間だったけど、私はとても大満足だ! もう、心残りなんてないぐらい!」
「なにそれ、ふふっ……じゃあ、また一緒に来ようよ。いつか」
「――――……ああ、そうだなっ。またいつか、来られるといいな!」
「うん」
笑顔をつくる姫奈美に、篝は心の底から期待した声で返答する。
それぐらいの分かりやすい感情の機微、幼馴染みとして育ってきた彼女にすれば、手に取るように分かる。
思わず衝動的に抱きしめたくなって、姫奈美はぐっと我慢した。
いつもならこうも感情に引っ張られることはない。
……ない筈だ、たぶん。
だから、冷静でいなくてはならない。
「……時間が止まれば、良いのにな」
「え?」
「……ううん。なんでもない。ただの戯れ言、独り言だ。気にしないでくれ」
「? そう……?」
なら良いんだけど、と遠慮がちにうなずく篝。
不意に漏れた言葉は、運が良いコトに届いていなかったらしい。
それでいい、と姫奈美もわずかに笑顔をこぼした。
いまの気弱な発言を抱えるのは、正真正銘最初で最後、自分一人だけで良いだろう。
「――――――、」
「………………、」
会話が途切れるのと、ゴンドラが頂点へ差し掛かるのはほぼ同時だった。
いまだ光の絶えない地上と、一面の闇を背景にした夜空に挟まれて静かに揺られる。
空からは音もなく落ちてくる雪の結晶。
ひらひらと舞う白い欠片は、街を彩るように優しく降り注いでいる。
さながら映画のワンシーンにも思える幻想的な光景。
だからか。
『あ…………』
気づけばふたりは手を取り合って、きゅっと固く結んでいた。
「…………、」
手のひらを通して伝わる熱、人肌の暖かさ。
それらに緩く微笑みながら、篝は夜景から姫奈美のほうへ視線を向けた。
彼女はまだ遠く、街の景色を眺めている。
その横顔はどこか満ち足りている。
心残りがない、という感想は本当だったらしい。
疑っていたワケではないのだけれど、それは篝にとって若干、喉に引っ掛かるようなものだった。
なんというか直感的に、どうも頷きがたい意味合いが含まれている気がして。
〝――――――え?〟
不意に。
視界の端に映ったモノに、妙なざわめきを覚えた。
理由だとか、理屈だとか、そういう頭で考えるものとは全く違ったところで、なにかを確実に察している。
感覚は星刻の力を使う時のソレに似ていた。
教えられるまでもなく、生まれ持った当たり前として扱える技術の一つ。
だとするなら、どういうコトになるのだろう。
――すこしズレた姫奈美のマフラー。
その影に隠れるように、首の裏側に浮かぶ何かが見える。
形は見慣れている。
彼女の稲妻模様の星刻とそう遠くない位置に、同じ色を持って輝いている。
まるで、
――まるで、『星』のように――
「篝?」
「っ」
呼びかける声に、ビクリと肩が跳ねた。
思考が千々に乱れている。
声を出す余裕があまりなくて、絞り出した言葉は「え」とか「あぁ」とかその程度にしかならない。
ああ、なんだろうこれは。
どういうことだろう。
分からない。
その意味がまったく分からない。
知る由もない。
なのに――
「……まさか、おまえ……〝見た〟……のか?」
「ぇ……あ、いや……そ、の……」
なのに、それがなんであるのか気づきかけている自分が居る。
『星刻』なんてモノを、持っているがために。
「――――参ったな……最後まで、隠し通すつもりだったのだが」
「っ……」
ふぅ、と諦めるような吐息。
焦る篝を落ち着かせるように、脱力した姫奈美はゆっくりと彼のほうを向く。
繋いだ手は離さない。
全身から力を抜いても、そこだけはずっと。
「この際だ。正直に話すとしようか。どうせ、後になれば分かることだし」
眉尻を下げていう姫奈美は、真夜中の雪も相まってどこか儚げだ。
手折れそうなぐらいの細さと、吹けば飛びそうな脆さを感じさせる。
一言でいえば、らしくもない様子。
けれど――篝にとっては二度目になる、いつも強くて鮮やかな少女の、心の奥底に秘められた弱さの発露だった。
「……実はな、篝。私は――」
語りだしは静寂を切り裂くように。
夢のような景色は、されど覆しようもない現実だ。
うたかたのような風景のなかで、彼女は消え入るように微笑む。
それから小さく、この夢を終わらせるように、姫奈美は言葉を続けた。