13/揺れる篝火
週明けの月曜日。つつがなく進んだ授業は、すでに四限目を迎えていた。
時計の針も緩慢に進む十二時前。
二年五組の科目は、担任教師である紅葉の現代文だ。
彼女は黒板と向かいあって白墨を走らせ、教科書に沿った丁寧な解説をしていく。
他のクラス、それこそ一つ上の四組ですら理解に苦労しないほど噛み砕いた説明だが、それでもなお赤点候補が残ってしまうのが彼らである。
その理由の最たるものとして、板書はおろか、堂々と机に突っ伏しているような生徒がいるというのも頭が痛い。
例えば、篝の目の前で熟睡する誰かさんとか。
「………………、」
はあ、とため息をこぼしながら窓の外を眺める。
こぼれた吐息は眠っている友人を非難してのもの……ではなく、もっと別の問題からだった。
いつもは優しく宥めつつも注意を飛ばすクラスのまとめ役だが、今日に限ってはそれもできそうにない。
遠く、ガラス越しに見える風景は寒々しさを感じさせる屋外の様子。
別館の図書館と、敷地内に造林された微かな森を越えて、幾つかアリーナが見えている。
中の様子は窺えない。
緑の星刻でもあれば違うのだろうが、あいにく彼の星刻は赤色だ。
……一組の四時限目は、たしか、二組と合同での模擬戦だった。
試合には当然アリーナが使われる。
おそらくはどこかに、彼女の姿もあるのだろう、と。
『………………、はあ』
思い出して、いま一度大きく息を吐いた。
睡魔と食欲に襲われる魔の四時限目。
どんな科目にせよ成績のよろしくない篝にとって、手を抜いていい授業というのはひとつも存在しない。
全部が全部、本気で取り組まなくては理解できない難問だ。
こんな風に余所見をしている暇はない、と頭では理解しているのだが――、
「折原くん!」
「ふぇっ!? あ、はい!!」
ふと。
力強く名前を呼ばれて、篝は跳ねるように立ち上がった。
ぴしゃりと言い放つように声をあげた紅葉へ、慌てながらも大きな声で返答する。
先ほどまで背を向けていた彼女の姿は、いまや教壇から生徒たちを一眸する立ち位置に変わっている。
しっかりと見られていたのだろう。
分かりやすく「わたし怒ってます」といった表情をつくる紅葉は、腰に手を当てて茜色の髪をゆらゆらと揺らしていた。
「ずっと集中して、とまでは言いませんけど、せめて話ぐらいは耳を傾けてください。今度の期末、赤点取っちゃったらお正月に帰れなくなっちゃいますよ」
「は、はい、すいません……」
「……いまは授業中ですからね。そうあからさまにスルーされちゃうと困りますし、先生だって悲しいんです。……悩み事があるなら、あとで相談にも乗りますから」
「あ、いえ……ありがとう、ございます……」
「……はい。まあ、起きているだけ、折原くんはまだ偉いのかもしれませんけど……」
どこか複雑そうに目を伏せながら、紅葉がすぅっと息を吸う。
可視化された色を含む音の波形と、喉へと集まる赤い燐光。
叱られたばかりで思考も一時的に戻っていた篝は「あっ」と気づいて、ゆっくりと腰を下ろしながら両耳を指で塞いだ。
「――おはようございますみなさーーーーーん!!!!!!」
「「「ぎゃああああああああああああッ!!!????」」」
ビリビリと窓ガラスが割れんばかりに響き渡る極大の声量。
赤の力を使った爆音にも等しい目覚めの挨拶は、真実眠っていた生徒たち全員の意識を取り戻した。
「お、おは、おはよ……ござ……うっ」
「がぁ、あぁっ……! き、効いたぜ久々の紅葉ちゃんのおはようコール……!」
「こ、鼓膜がっ、鼓膜がーっ!」
「キンキンしゅるう……頭いたいぃ……うぇえ……」
「相変わらず容赦がないなあ……朱丘センセ……」
「……おはよう、悠鹿」
「……おす、篝」
「はい、みなさん起きましたね! ではやっていきますよー!」
死屍累々一歩手前に陥るクラスを眺めて、「よーし!」と微笑みながら授業を再開する朱丘教諭。
その心境を表すように、気持ち黒板を叩く白墨の音が強くなっている。
なにはともあれ自業自得。
授業中に眠るなんて不誠実な行為をする生徒に情け容赦は無用だ。
「――――、」
衝撃波の悶絶から戻りつつある生徒に紛れて、篝もひとつ息を吐きながらペンを握った。
開いたノートは真っ白のまま。
教科書のページも授業の開始から変わっていない。
自分の不甲斐なさにいま一度肩を落として、黒板の内容を手早く書き写していく。
……頭では理解している。
けれど、それに心が追いつくかはまた別の問題。
結局その日、篝は授業が終わるまで、どうにも集中することができなかった。
理由は一体なんなのか。
そんなのは、まあ、考えるまでもなく決まっていることで。
――間違いなく、土曜日の遊園地で姫奈美から聞いた、例のコトが原因なのだった。
◇◆◇
ちょうど時計の針が頂点を回ったところで、本日午前中の授業は終了となった。
誰もが待ちに待った昼休み。
ぞろぞろと教室を出ていく学食派の生徒たちと、残って自分の机に昼食を広げる弁当派の生徒たち。
彼らの割合は八対二と言ったところで、大半が学食、または購買で食事をすませている。
ましてや朝早くから自炊して、手作りの弁当なんて持って来ている生徒はとても少ない。
そんな絶滅危惧種に名を連ねている男子がふたりもいるあたり、このクラスの謎の希少性はちょっと偶然ではすまされないレベルだった。
無論、篝と悠鹿のことである。
もともと裁縫上手で手先も器用、姫奈美の欠点を補うようにどちらかと言えば家庭的な篝は当然として、荒々しい言動の目立つ悠鹿は意外の声も多い。
が、そんなのは所詮見た目だけの話。
わりと家事に関してはちゃっかりしている彼は、炊事洗濯掃除の一切に手を抜かない。
下手すれば篝でさえ手を出せないぐらいなものだ。
「あぁ……まだ耳のなかキンキンしてやがる……朱丘センセ、まじで容赦ねえって……」
「寝ちゃうからだよ……昨日、あんまり寝られなかったの?」
「いや、寝た。ぐっすり寝たわ。でもそれはそれ、これはこれだ。なんだろうな、授業中の睡魔って……チョークの音と朱丘センセの声が合わさって子守歌になってんのかな」
「そうはならないでしょ……」
呆れまじりの苦笑で応えつつ、ぐるりと体を反転させた悠鹿と一緒に机を囲む。
席が前後になっている関係上、彼らの昼食風景はそのまま前の席の悠鹿が後ろを向くだけになる。
わざわざ机を動かしてくっつけるというのは面倒だからやらない、とのこと。
すこし行儀が悪いのは否めないが、学生の、それも教室でとる食事である。
篝もそこまで気にはせず、早々に自分の弁当へ箸をつけていた。
「それより、寝られなかったのはおまえのほうじゃねぇの。隈、できてんぞ」
「え……うそ、ほんと?」
「ほんとほんと。眼鏡で隠れてるから目立ちはしねえがな。……おとといの晩から寝不足なのは知ってんぞ。なにがあったかは、まあ、聞かないでおいてやるけど」
「……ごめん、ありがと」
「ん」
目元に指を這わせながら、ぶっきらぼうに返す友人に感謝する。
こういうときの気遣いというか、人を見る目はとんでもなく鋭い悠鹿だ。
篝自身が言いたくない、言いづらい事はあえて触れないでおいているのだろう。
それを聞くのは本人が言いたくなったとき、と決めている彼の方針だ。
「てか、聞かなくてもなんとなく分かるしな。土曜はお姫さまとデートしてたワケだし」
「う…………」
「でもって、おかしくなったのは帰ってきてからだ。露骨にも程があるな。告ってフラれた、なんてベタな真似はおまえらの間で起きねえし、とするなら面倒事に決まってる」
「………………、」
「その上でおまえが俺に話したくないんなら、俺の力が必要ないか、俺が協力してもどうにもならないことだろ? そうじゃないなら相談とか言って話してるよ、おまえは」
「……すごいね。悠鹿は。なんでもお見通しみたい」
「経験則と直感だな。ま、そういうワケだから気にすんな。好きにやれよ」
俺は関係なさそうだし、と言いながら弁当を食べていく悠鹿。
突き放しているようだが、その実、彼なりに心配しているのはちゃんと感じ取れた。
なによりここまで話してくれているのがその証拠だ。
遠回しな友人のフォローに、篝はいま一度苦笑を浮かべる。
「……やっぱりさ、他人同士って、そういう感じなのかな……?」
「あん?」
「あんまり突っ込まないほうがいいって言うか……本人の問題には、口出しちゃいけないみたいな……」
「そりゃあ……あー……どうだろうな。時と場合と、相手によるとしか言えねえが……」
この場合相手が分かっているだけマシか、と悠鹿は箸を置いて頭をかく。
「人間関係に公式や正解なんてねえからな。水物で割れ物、誤解に理解に衝突折衝、何から何まで考える事だらけの難解なパズルだぜ。しかもピース数は無限、自分の持ってる分だけで完成するとは限らない、クソにも程がある仕様ときた」
「……パズル……、……パズル?」
わりと大きめのジグソーパズルを連想して、ふんふむとうなずく篝。
その想像が本当に合っているかどうかは、まあ、この際置いておくとして。
「おまけに一度壊れりゃそれまでだ。同じ画は絶対につくれない。そんなんだからみんな必死こいて隣のヤツをカンニングしたり、同じ形ではめたりして、できるだけ失敗しないようにうまくやっていくワケだが……」
「うん」
「たまに、どんな形でもガッチリ噛み合うような
「どんな、形でも……?」
「何しようが何言おうが、とはまた違うんだがな、つまり、テメエの持ってるもんのどれを使っても、その全部がテメエならなんでも合っちまうってことだ。それが本気で考えたことなら、本気で想ったことなら、どんなことでも壊れない。でもってそういう場合、大体壊れるような要素ってのは相手にも自分にも用意できないモンなんだよ。考え方とか、在り方とか、あるいはそいつの性質、性別、体格、技術的にな」
例えばそれは、彼にとっての彼女のように。
あるいは、彼女にとっての彼のように。
「バラバラに吐き出されたネジとドライバー探して、偶然ピッタリ合うふたつを見つけるみてえな感じだな。そいつ以外とは絶対合わねえし、合ってしまう事もない。似ている何かでも代えは効かない。そいつじゃなきゃダメだ。そこにいるそいつじゃなきゃ、頭や体が納得しても魂が絶対にうなずかない。そういう相手ってのは、いるもんだ」
「……なんか、よく分かんなくなってきちゃった。悠鹿の話、時々難しい……」
「ああ、すまねえ。じゃあ簡単に言ってやろう」
「うん、ごめん、お願い」
こほん、と悠鹿はひとつ咳払いをして、篝を見ながらニヤリと頬をつり上げた。
「思うようにしたらいいってこった。悩んで迷って手探りで考えて、そんでもって決めたらそのまま突き進めばいい。あとは悩むな、迷うな、考えるな。こうと決めたら最後まで走り抜けろ……ってあたりか? 俺に言えるのは。まあ、何とは言わねえがよ」
「……えっと。結局、どうなの……? 遠慮、したほうがいいのかな。それとも……」
「んなの知るかよ俺に聞くなばーか」
「んなっ――!?」
なんでそうなるの!? と立ち上がりかける篝。
今の今まで語っておいてなにを、という意見は、ストンと額に当てられた指が止めた。
ぐぐっ、とおでこにめり込むほどの力で押し返しながら、悠鹿は意地の悪い笑みを浮かべる。
「いたい、悠鹿いたい。ごめん、ごめんって。はい。冷静じゃなかったです……」
「そうやってすーぐ謝る。男なら意地を通せ意地を。見せてみろよオイ」
「いや、こんな場面で意地張っても……」
「いいか、篝。俺たちは個だ。誰にも成れねえし誰でもねえ。自分は自分で完成してる。それが醜かろうが不完全だろうが、地に足二本くっつけて立った時点でもう一人になってんだよ。他人の気持ちも考えも、完全に理解なんてできないだろ。じゃあ最後に決めるのは自分自身、誰でもないおまえ自身だ。そもそも生きてる以上は誰かに迷惑かけんだよ。要はそれを少なくするか、もしくは気にしないかの二つに一つだ。だったらちょっと誰かに意見するぐらいどうってこともねえ。そうは思わねえか?
「……そう思えたら楽じゃないよ、
「そりゃそうだな。俺もそう思う。あっはっは! ――おい待て落ち着け。そのフォークを大人しく捨てるんだ。構えをとけ」
「うー……! うぅー……!」
「あーあーすまん! 悪かった! すまねえ! 許せ! 謝る! 悪ぃ!」
「謝って済んだら警察は要らないんだよ……!」
「いや警察はいるだろ。冷静に考えて。事務関連の事後処理的に」
「はーるーかー!」
「あっはっは! すまねえ許せ! 後生だ篝! ちとおちょくりすぎたなこりゃあ!」
冷や汗を垂らしつつフォークを箸で受け止める同居人。なんだかんだ言いつつも、お互いに仲の良いふたりだった。