「失礼します」
昼休みも残り十分と終わりの迫った間際。
篝は二年一組の教室へ足を踏み入れて、ぐるりとあたりを見回した。
優等生の集まったクラスなだけあって、すでに生徒たちは全員が席へ着いている。
空席はない。
目当ての人物は、そう苦労することもなく見つけられた。
「……篝?」
首を傾げてこちらを向く姫奈美は、どこか驚いているようだった。
当然だ。
あんなことがあった手前、篝から連絡なんて取れるはずもなく。
ともすれば消えるまでに割り切れるかどうか、なんて自分の心配ではなく彼の心配をしていたぐらいである。
そんな少女の心境を知ってか知らずか。
篝はスタスタと教室を横断して、姫奈美の席の近くまで足を運ぶ。
「どうしたんだ? いきなり。何か用事でも……」
「うん。お願いがあるんだ」
ピタリ、とほんの一瞬、姫奈美の動きが止まった。
それはちょうど、彼としっかり〝目〟を合わせた瞬間。
声に含まれた芯、目の前に立つ姿勢、なにより瞳の奥で揺れるモノ。
正体不明の直感に弾かれるように、彼女の心が杭を打たれたように震える。
「どんな、お願いだ?」
「僕と決闘してほしい」
間髪入れずに篝は応える。
半ば姫奈美が期待していた言葉を。
二人以外のこの場の誰もが、予想だにしなかったありえない一言を。
「おおおおお!? まじか!? おいまじかこれ!?」
「十藤と折原が決闘だって? 因縁の幼馴染み対決じゃねーか!」
「模擬戦以来のカードだよ! ていうかなんでいま!? すっごい急だね!」
「この前は折原の大敗だったな! 二の舞にはなんなよー!」
「号外だ号外だー! 全クラスに飛ばせー! うちの【青電姫】に五組の折原が決闘申し込んだぞー! ほらさっさと五組のアホ共にも送ってやれー!」
途端騒がしくなる教室に、湧き立つ一組の生徒一同。
同じクラスにいるだけ、姫奈美の決闘事情に関してはとくに盛り上がる彼らである。
が、当の本人はそんなざわめきを気にしないどころか、一切耳に入れてはいない。
代わりと言わんばかりに、ぎらりと口の隙間から覗く犬歯が光る。
――青い雷撃を微かに迸らせながら、少女はその顔に獰猛な笑みを湛えていた。
「ふふっ、あははっ……」
「…………、」
「なんだ、篝、おまえ。く、ふははっ……あははっ! 言ったな? 本気だな!?」
「もちろん。これが、僕の決めたこと。折原篝は正式に、君に決闘を申し込む」
「あはははははっ! ははは! あはははははは――!!」
バチン、バチンと弾ける稲妻。
青い電光は姫奈美の感情を示すように周囲で瞬く。
それもそのはず。
なにせ仕方がない。
こんな風に言われて、こんな風に堂々と勝負を挑まれて、しかもその相手が「彼」だという。
なんて至上、なんて至高、なんて至極。
これ以上はないほどの殺し文句だ。
「――いいぞ、ああ、もとより断る気など毛頭無い。受けて立つ。いいや受けさせてくれ。私の結実を飾るのはお前こそが相応しい!」
「……そっか。ありがとう」
こくり、とひとつ篝は頷いて、
「でも、ごめん」
「……?」
「今回は僕が勝つ。何が何でも、絶対に」
「――――――、」
真っ直ぐ姫奈美の瞳を見据えながら、篝はそう啖呵を切った。
……そう、既に予感は確信へと変わり、理解も把握も済ませている。
時間も選択肢も限られたこの現状、頼みの綱はあるだけマシだと信じ切るのが最善だ。
もはや篝の目に映るのはただ一つの結果のみ。
彼女が終わりを受け入れている以上、仕込んだ〝わざと〟なんて情けない真似はできないが故の、どんでん返し。
その荒野に戦果以外が要らぬというのなら、不要なモノをつくってしまえばいい。
どんなに美味しい飲み物でも、それに一滴毒が混ざれば価値が崩れ去るように。
無敗の勝利を重ねて召し上げられる彼女に、たった一度の傷をつければどうなるか。
彼はその結末を、半ば確信の域にまで昇華している。
「ははははははっ! 良いぞ良いぞ! 最っ高だ! いつ仕合う!? 私はいつでも構わない! なんなら今からでも大丈夫だが!!」
「……すぐじゃないよ。明日の放課後、第六アリーナで」
「ああ、承知した! しかと聞き受けた! 明日の放課後だな! ふふ、ふふふふふっ、久しぶりだこんな気分、こんな楽しみは! 心待ちにしていよう! 篝!!」
「僕もそう。こんな風に思うのは久しぶり。――だからもう、振り向かない」
「ふふっ、良い眼だ! 心が躍る! 思わず抑えきれなくなりそうだ! だが堪えよう、我慢しよう! おまえとの決闘だ! 万全でなくては、私が満足できない……!」
「……そうだね。僕も本気で、全力で君を討ち倒す」
「はははっ! 応とも、来てくれ! 負かせるものなら負かしてみればいい!」
――手は抜かない。
どんな理由があろうとも容赦はしない。
彼女は瞳でそう語っている。
同様に、篝も同じ言葉で返すよう見つめ合った。
交錯する視線の間には、目に見えない明確な火花。
去り行く篝の背中を眺めて、いま一度姫奈美は諧謔の笑みを浮かべる。
最早彼女にとっては、自身の喪失すらどうでもいい些事へと成り果てていた。
◇◆◇
その日の放課後。
篝は授業が終わると、いつも通りにアリーナへと向かった。
相変わらず人気のない道を進んで、誰一人いない広場の舞台に足をかける。
……明日の決闘に選んだ場所。
同じ内装のアリーナはどこにしても同じだが、それでも慣れている空気というのは彼にとって大きな要素だ。
それが本番まで続くかは別として、ここを指定したのは単に通い慣れているというだけでもないだろう。
――音の反響、空気の震え、屋内では無に等しい風の流れ、どこになにがあるか。
見えなくても身体に染み付いた感覚は容易く消えない。
静かに深呼吸を繰り返しながら、ゆっくりと手のひらを前に突き出す。
「紅蓮星霜」
爆ぜる火炎と架空の熱量。
星霊から借り受けた力の一端が、彼の肩にある星刻を通してその場に現出する。
慣れきった動作は、依然として躊躇いもなく済まされた。
炎に突き刺した手指を握りしめ、たしかなカタチを捉えるよう引き抜く。
無骨なまでの鍔と柄、赤い火炎の走る黒い鞘。
星剣としてはある意味異質な、抜き身ではない状態での顕現状態。
けれどもそれは、篝にとって悪いコトばかりでもない。
「――――――、」
深く、低く、沈みこむように息をする。
体内を駆け巡る血流、弛緩と伸縮を繰り返す筋肉に、絶えず脈動する臓器のリズムを感じ取る。
集中は、それで成された。
一瞬の静寂、どこまでも続くような無音の空間。
放っておけばそのまま石にでもなっていそうな様子は、傍から見れば格好もつかない光景なのだろう。
それでも彼は集中を乱さない。
ただひとつ、目の前のコトにだけ全神経を総動員させる。
腰だめに構えた星剣へと手をかければ、自然と頭が冴えた。
閉じていた瞼を開く。
眼前に広がるのはいつも通りに無人の舞台。
そこへ線を引くように、篝は勢いよく鞘から刀身を抜き放って――、
『〝 見 ぃ つ け た 〟』
瞬間、誰のものでもない、誰かの声を聞いた。
ぞっと底冷えするような感覚。
身体の中で渦巻いていた熱が一瞬で冷めていく。
なんだろう、分からない。
ただこの感覚には何度も覚えがあって、何度も体験していた。
声は近い。
おそらく今までよりずっと迫っている。
彼の背後、誰もいないはずの空間から響いてきた音は、ヒトには理解できないモノを含んで囁かれる。
伸びてくる、近付いてくる、迫ってくる。
後ろから。
背中から。
何かが。
何かが。
――――何かが。
「なにしてんだ、篝っ」
「ひゃあッ!!??」
「うぉわッ!!??」
ビクゥ! と跳ね上がる篝の肩と、同じように驚愕の声をあげて手を踊らせる、
「…………悠、鹿?」
「お、おう。……なんか、おまえがどっか行くの見えたから付いてきたんだが……こっちが驚くほどビビらせちまったみたいだな。悪ぃ。許せ」
「あ……いや、ううん、別に。大丈夫。ちょっと……勘違い、したみたい……」
「? そうか」
不思議そうな顔をする友人に、篝はどうにか苦笑で答える。
……そう、本当に、ただの幻覚みたいな勘違い。
耳朶を震わせた音に聞き慣れた色がなかったのは、きっと他に集中しすぎていたせいだ。
そうでなくてはおかしい、と自分自身に言い聞かせる。
明確な根拠は、それでも掴めそうになかったけれど。
「ま、なんでもいいや。それより、まさかとは思ってたが。……おまえ、わざわざこんなところで練習してたのかよ?」
「それは……まあ……」
お恥ずかしながら、と頬をかいて言う篝に、悠鹿は露骨に呆れたような顔をした。
「意気地なしめ。みんなの前が恥ずかしいなら決闘なんて挑んでんじゃねえよ」
「う…………、……ごもっともです……」
「だからそうやってすぐ……っと、嫌味ばっか言っててもいけねえか。堂々と啖呵切ったことは褒めるべきだろうしな。ちゃんとしてんじゃねえか、篝」
「……うん。僕なりに、意地、見せられたかな……?」
「ばーか。まだまだこれからだろ、本番は。簡単に負けんじゃねえぞ」
「負けないよ。今度は絶対、僕が勝つ」
「……そうか」
くすりと微笑んで、悠鹿はそのまま遠くの観客席へ視線を投げる。
気にかかって後を追ってきた彼だったが、その心配はまったくの杞憂だったようだ。
目の前の少年は真っ直ぐに前を向いて、きちんと決意を固めている。
それが勢い任せの行為だとしても、あれほど悩み抜いていた末の結論。
言うまでもなく、後悔なんてしていないだろう。
「問題点は、山積みだろうけどな……」
「?」
「いいや、なんでも」
ちらりと横目で見た〝篝の手〟から目を逸らして、くるりと悠鹿は踵を返す。
心と体の起こす反応は、頭で考えるのとはまた別だ。
一朝一夕でどうにかなるものでもない。
なにより今日まで引き摺っている以上、無くすコトも難しいレベルになる。
ただでさえ厳しいところに、彼はもう一つハンデを背負って戦わなくてはならない。
「ちょっと見ていっていいか? おまえの〝鍛錬〟」
「え」
「ほら、ここまで離れてりゃ十分だろ? 存分に動き回ってくれていいぜ」
「えぇ……いきなりだよ……っていうか、分かってやってない、悠鹿……?」
「そら当たり前だろ。おまえの恥ずかしがるところ見て笑いたい。つか笑える」
「い、いぢわるー!」
こんな酷い同居人だなんて……! と冗談交じりに睨みつける篝。
その視線を爽やかにスルーして、広場と観客席を隔てる壁に背を預けた友人は「ほれほれ」とあからさまな表情をしながら促してくる。
何か言ったところで、そこから退く気はないだろう。
「…………、」
はあ、とひとつ笑いながらため息を吐く。
仕方なさげに剣を構えると、それで向こうもからかうような態度をすっぱりとおさめた。
……本当、そういうところがまた、どうも。
『悠鹿らしくて好き、なんだけどね――』
震える両手で星剣を握りしめる。
カタカタと音を立てて揺れる刀身。
行方の定まらない切っ先を、極限まで低く落とした呼吸と心臓で緩和する。
痙攣じみた手指の震動をぐっと堪えれば、あとはそのまま振るだけでいい。
喩えそれが、焼け石に水程度のモノでも。
「――――――っ」
何も無い虚空に、線を描くよう篝の刃が走っていく。
彼の瞳は真剣一色だ。
その表情に一切の緩みも、いつものような柔らかさも介在してはいない。
そうまでして振り抜かれた剣閃は、けれども、傍から見ればどこまでも格好悪いモノ。
ガタガタで揺れに揺れた横薙ぎ、真っ二つになんてできそうもない振り下ろし、どこを狙っているのかと言いたくなる袈裟斬り。
そこには鋭さもなければ、力強さだってない。
下手糞、不細工、不格好。
非力で拙い、粗悪で劣等な、二年間もこの学園に通っているとは思えないほど弱々しい剣の振り方だ。
姫奈美のような凄烈さも、磨き抜かれた技術の美しさも持ち合わせてはいない未熟な剣筋。
『………………、』
そんなことは、審美眼なんぞ持ち合わせていない悠鹿でも分かる。
彼の星剣の扱いは見るからに心の傷が足を引っ張っていて、下手すれば一年生のほうがまだ綺麗と言えた。
才能はない。
重ねた努力が実を結ぶ様子も皆無。
その場で足踏みを繰り返すばかりの中で、目指しているゴールだけが遠退いていく。
それはどうあっても他人でしかいられない悠鹿をして、痛々しさで眉間に皺を寄せてしまうぐらい非情な現実だった。
暗闇の中で目隠しをして、いつ来るかも分からない終わりに向かって走り続けているようなものだ。
なのに、
「――――っ、――――」
「…………、」
彼はそれに対する苦悩も苦痛も、頭の片隅にすら過らせてはいなかった。
「……な、篝」
「っ――……っと、うん。どう、したの? なにか、駄目なところ、あった?」
「いや、駄目と言えば全部が全部駄目になるが」
「うぐっ」
ストレートな事実にグサッと心を刺される少年。
先ほどまで真面目な顔だったのに、そこで涙目になっているのがなんともおかしい。
「……ちょっとな。つまんねえこと、訊いていいか?」
「? 大丈夫だけど……つまんないこと?」
なにそれ、と篝は星剣を振り回した疲れからか、肩で息をしながら首を傾げる。
何を問われるかまったく想像ができなかったからだ。
そんな彼に、悠鹿は、
「おまえさ、なんでそこまで十藤にこだわるんだ?」
「――――――、」
何でもない口ぶりで、けれど、無視できないようなコトを呟くのだった。
「幼馴染みで付き合いも長い、仲も悪くないってのは分かってるよ。おまえと十藤が楽しそうに話してるのは何度も見てるしな。十藤からしてみりゃあ嫌うほうがおかしいってのも、なんとなく察せるし。でも、おまえはまた違う事情が混じってくるだろ?」
「…………、」
「なんせみんなのトラウマ、おまえにとっても引き摺るぐらいのもんだ。それでどんどん先に行って、誰も追いつけない地位でずっと勝ち続けてやがる。正直、ありゃ誰も勝てるとは思えねえ。少なくともうちの学園にあいつから玉座を奪えるようなヤツはいない」
当然、学園全体で見ても底辺に位置する篝に、勝ち目なんてある筈もない。
「……そうだね。姫奈美ちゃん、本当に強いから」
「ああ強い。恐ろしいぐらい強い。届かない、歯がたたなくて当たり前だ。だからまあ、俺はこう思うワケだ。人間それぞれ十人十色、得意不得意あって然るべき。なら無理して追いかけなくても変わんねえもんは変わんねえ。すっぱり諦めるのも手だってな。どうせ無駄だって分かってんなら、その時間を他に使う方が有意義ってのもある。余裕のある、楽な生き方ってのをしても良いんじゃないのかってよ」
「………………、」
悠鹿の言っていることは正しい。
真実それは、篝にとって自己の核心に触れるような、鋭いナイフの切っ先じみた言葉だった。
胸に突き刺さるモノはたしかにある。
何度も何度も心の隙間から顔を覗かせた、情けない弱音に酷く似ている告発。
罪状は不明。
けれど、
「……そうかもしれない。うん、そうだね。楽な生き方、簡単な方法があるなら、それも良いと思うよ。難しいのは、どうしても嫌になっちゃうし。……そうやって気を遣ってくれる悠鹿の優しいところ、僕、凄い好きだよ」
「は? ……はぁッ!? いや、違うが!?」
「ふふ、誤魔化さなくてもいいって」
「いや違うからな!? 本当だからな!? だあああもうテメエはー!」
けれどやはり、少年は前を見据えて言葉を続けた。
「でもね、悠鹿。実際、姫奈美ちゃんに比べれば、僕の苦労なんてそう大したことでもないんだよ。きっと昔から、姫奈美ちゃんのほうがいっぱい苦労してる。なにより僕がそれを知ってるんだ。苦しくて、辛くて、もう泣きたいぐらい……って」
……そう、彼はたった一度だけ、姫奈美の涙を見たことがある。
どんな怪我をしても泣かなかった彼女が、堪えきれずに頬を濡らした瞬間。
周囲との軋轢から生じた悪循環。
喩えどれほど凄まじい才能を持っていても、喩えどれほど他人とは隔絶されていても、十藤姫奈美はあくまで人間だ。
ひとりの少女に変わりない。
それを深く心に刻み付けた時から、彼の目標は一切ブレなかった。
「それを知ってるから。その時があって、今みたいになってるのを知ってるから。だから諦められないよ。僕よりずっと苦労した幼馴染みが、僕よりずっと頑張ってた。なのに僕が頑張らないなんて、それこそおかしい。……うん。おかしいね、本当」
クスクスと笑う篝に、なにがおかしいのかと悠鹿が苦笑まじりで視線を向けている。
言ったとおりにつまらないこと。
嘘でもなんでもなく、彼の質問はそのようになった。
「格好良いんだよ、姫奈美ちゃん。だから追いかけたい。でも時々心配になるんだ。だから傍に居たい。でもって、やる前から無理とか無駄とか言ってられないでしょ。やってみなくちゃ分からない。ううん、やるっきゃない、やってやる。なにより僕がそうしたい」
「ああ、なるほどな。ちょっと分かった。――おまえら、やっぱ幼馴染みだわ」
呆れるような悠鹿と、屈託のない笑みを浮かべる篝。
明確な答えはその胸に、そこまで決めているのならなにを言っても同じだろう。
鮮烈な姿に憧れて、弱々しい姿に胸を打たれて、抱えた想いは純粋にして強固だ。
それに彼が気づくのは遠くない先。
これから起こる一波乱が、今か今かと待っていた。