『かがりっ、かーがーりっ』
『――え?』
ふと、誰かの呼びかける声で目を覚ました。
頬を撫でる気持ちの良いそよ風。
いつかに見ていた澄んだ青空。
一面の草原のなかで、彼はぼんやりと寝転がっている。
『やっと起きたか、寝ぼすけめ』
眼前でにこりと笑う群青の髪をした少女。
赤い瞳がどこか眩しい。
それが誰なのかをしっかりと思い出して、彼もくすりと微笑みで返した。
『……寝ぼすけなのは姫奈美ちゃんでしょ。朝、弱いんだから』
『う……それは、それだ。いまは朝じゃないからなっ』
『ふふ、そっか』
『む……なんだその顔は。仕方ないだろう、睡眠は人間の三大欲求だぞ』
口を尖らせてぶつぶつと不満をこぼす姫奈美に、「ごめん」と謝りつつ体を起こす。
広い、広い、どこまでも続くような緑の平原。
遠く離れた周りは木々で囲まれていて、ここが山のどこかなのだと察することができた。
どうりでなんだか、妙に見覚えがある。
『……懐かしいなあ。こんな場所も、あったっけ』
『ふふ、何を言ってるんだ。私たち、毎日のようにここまで来て、また家に帰ってたよ』
『……そっか。そうだった。こんなに綺麗で広いから、遊び場に持って来いだって、ここを目的地に決めてたんだっけ』
『ああ。ずっとずっと、ここでいっぱい、篝と遊んだんだ』
故郷の裏山、小さい頃に駆け回った自然の景色だ。
だからとても心地よくて、とても体に馴染むようだった。
昔は地平線の向こうまで続いていると信じて疑わなかった光景も、今となっては違った風に見えてくる。
郷愁の念は、きちんと胸の中に。
『……楽しかったね、あの頃は』
『そうだな、楽しかった。今よりずっと、とっても楽しかった!』
『ふふっ……そっか。そうなんだ』
意外かも、と篝は誰に言うでもなく呟く。
歳を重ねた今、幼い頃の記憶はおぼろげで、不鮮明にしか思い返せない。
何があったか、どんな毎日を過ごしたかなんて、記憶に残るぐらい強烈なものを除けば忘れているのが殆どだ。
あの時間を楽しく過ごした気持ちは、あの頃の自分たちだけが持てる特権だろう。
『篝は違うのか?』
『ううん、違わない。楽しかったよ。とっても楽しかった。――ああ、うん。本当に』
古い
新鮮だった景色は擦れていって、それよりも鮮やかな光景にかき消されていく。
それは万物における当たり前のルールだ。
いつかは廃れ、何かが生まれ、そしてまた流れてしまう。
だから、そんな中でも残っている
何も知らなかった、無垢だった子供の頃。
彼女と笑い合って過ごした日々は、もう残り香でしかなくなってしまったけれど。
――それでも、楽しい
『楽しかったんだ、僕は。姫奈美ちゃんと、一緒に居るのが』
『……そっか』
『うん。だって、そうでもなきゃ、理由が――』
とくん、と。小さな心臓の鼓動が、どこか高く響いていく。
『篝?』
『――ああ、ごめんね。ちょっと……唐突に、思い出しちゃって』
草原の上はふわふわとしていてまるで実感がない。
このままどこかへ飛んでいってしまいそうな体は、けれどしっかりその場で停止している。
そこだけが彼の居場所だとでも言わんばかり。
……まったくもって、ほんと、格好悪い。
『……夢を、見てたんだ』
『夢?』
『うん。とても痛くて、辛くて、怖い。今にも逃げ出したくなっちゃうような夢』
内容は曖昧で、映像は乱れている。
ただそこにあるべき感情だけは、明確に感じ取る事ができた。
おそらくは■■だからだろう。
ならば間違いはひとつもない。
『なるほど、悪夢か?』
『いや、そうでもなかった。悪い夢じゃないよ。ただ、良い夢でもないのは、正直』
『ふーん……それで、篝はその夢から無事逃げ出してきたワケだな?』
頑張ったじゃないか、なんて微笑みかける姫奈美。
ゆっくりと伸ばされる手は、きっと彼を褒めてくれる。
よくやったと。努力したんだなと、優しく慰めてくれるだろう。
『ううん。それは、違うよ』
けれど。
篝はその手を掴んで、少女の気持ちを明確に拒んだ。
『……どうしてだ?』
『逃げちゃ駄目なんだ。良くないことでも、目を逸らすのはいけないから』
『でも、痛かったんだろう。辛かったんだろう。怖くて、逃げ出したいほど』
『……うん。でもね、やっと分かった。そんなのは、ただの僕の事情。理由じゃないよ』
『…………、』
さあ、と風がふたりの間を吹き抜けていく。
幸せだった時間。幻じみた彼女との、何に邪魔されることも、誰に憚られることもなく、一緒に居られた幸福な過去。
けれども、そんな甘い夢に縋っていられるほど、■■は甘くない。
『さっきは逃げちゃ駄目、って言ったけど……ごめん、あれ、嘘。僕はさ、逃げたくないんだ。痛くて、辛くて、怖くて。もう逃げたい逃げたいって思っても、逃げたくない』
『なんだそれ……矛盾してないか?』
『そうかな? ……そうかも。でも、そう思っちゃったから。だって逃げたら、今まで僕がしてきたコトの意味がなくなっちゃう。ずっとずっとやってきた地道な積み重ねも、誰かが懸けてくれた期待も、全部裏切ることになっちゃう。……そんなの嫌だよ。痛いのも怖いのも嫌だけど、それはもっともっと嫌だ。だから、逃げることだけはしたくない』
『……じゃあ、ひとつだけ。質問』
じっと、姫奈美は篝の瞳を覗き込んで。
『そこまでして、篝はなにが欲しかったんだ?』
『それは――――』
それは、何かなんて、言うまでもない。
『……ふふっ』
『?』
『ああ、なんだか。……そうだね。なんていうか、すっごい、馬鹿げてるけど――』
徐々に千切れていく原風景。
泡と消えていく幻想は、名頃惜しさすら感じさせず光に呑まれていく。
心には下らない、けれど確かな答えの在処。
だからそれは、とても。
◇◆◇
全身に走る激痛が、瞬間、霞んでいた意識を強制的に引き戻した。
〝ッ―――…………〟
体は痙攣するも、手足はピクリとも動かない。
口の中には血と土の味が広がっている。
姫奈美の雷撃によって舞台の床板が剥がされ、下の土砂が露出した結果だろう。
つまりは倒れこんでいるらしい、と気づいたのは少ししてからだった。
〝……あはは……そっか……〟
生きているのすらやっとの重症は呼吸一つとっても苦しみが伴う。
平時なら泣きだしそうなぐらいの痛みも、今はこれが現実だと認識させる一因だ。
……そう、苦しくて、辛くて、怖い。
逃げ出したくなる現実の光景。
〝なんか……すごい、良い夢、みちゃったなあ……〟
記憶が途切れる寸前、彼女が放った極大の雷撃。
それが脳髄まで痺れさせたことで、何の因果か根底にある幻想が表出した。
自覚すらしていなかった深層心理を、虚ろな意識が読み取ってしまった。
だからこその、あんな。
〝……姫奈美ちゃんと……ふたりっきりで。穏やかに、静かに、過ごしていく……〟
あんな、涙が出るぐらい悔しくなってしまう、
〝どこまでも幸せな、夢〟
これ以上ないほど満たされた、彼にとっての理想郷。
〝……でもさ、あれは、夢だ。現実じゃない〟
本当に馬鹿げている。
まさかこんな、どうにもならない土壇場の、窮地に陥った場面で。
〝ここにはない、ただの、夢なんだよ――〟
ずっとずっと気付かなかった、自分の気持ちを自覚させられるなんて。
〝馬鹿だ……本当、馬鹿だ。僕は。こんな、簡単なことすら……〟
何のために頑張っていたか。
どうしてここまで引き下がりたくないと思ったのか。
諦めない理由、逃げたくないと思った原因。
そんなのは突き詰めればシンプルで。
〝――僕はただ、姫奈美ちゃんと一緒に生きていたかったんだ――〟
彼女の隣に立ちたいと思ったのも、彼女の傍に居たいと願ったのも、全ては彼の淡い慕情。
言葉にするのも無粋な、たったひとりの少女を想った切なる気持ち。
それは鮮烈な覚悟を掲げた姫奈美と比べてあまりにも女々しく、そしてあまりにも弱々しい、喪失を否定する未熟なまでの輝きだった。
「……もう終わりか? 倒れたまま動かねえけど」
「腕、千切れてるしな……ありゃ立てねえだろ。まあ、粘った方じゃね」
「五組の先輩なんでしょ? 学園トップを相手にこれだけできたら十分凄いでしょ」
「まあ……良くやったよな。最後まで勝てそうにはなかったけど」
「てか、俺らでもあそこまで食らいつけねえって。はは、【青電姫】の先輩こえー……」
否が応でも耳に入ってくる言葉は、このまま彼の敗北を見届けようとしていた。
終わりだ、立てない、十分凄い、良くやった、自分たちでも無理。
素直な賞賛、または哀れみや同情。
善意も悪意も関係なく、今の篝はそういう状況だ。
なにせ本当に立ち上がれない。
先ほどから痛む身体はビクともしてくれない。
それもその筈、受けたのは姫奈美の全力全開の一撃だ。
そんなものを真正面から喰らってタダで済むワケがない。
おまけに片腕がなくなっている。
これで、どう戦えというのだろう。
「……終わりか、篝」
離れた場所から姫奈美の声が聞こえる。
先ほどまでとは打って変わって、仄かに喜色を消した声音。
この瞬間にでも決着がついていそうな静寂に、その音はいやに響いた。
夢とは違う。
本物の彼女の声は耳によく馴染んで、低く冷たいけれど、とても暖かい。
大好きだ。
消えて欲しくない。
お願いだから居なくならないで。
どうか、傍に。
君の隣で微笑んだり、涙を流すような日常が大事だった。
ありきたりでも、そんな日々がなにより自分にとっての幸せだった。
なのにそれは、もう二度と、ありえなくなる。
〝――――――――〟
もっと早くに気付いていれば。
もっと沢山彼女と過ごしていれば。
そんな〝もしも〟の話をしたところで意味なんてない。
きっとどれだけ長い時間があったとしても、たかだか十数年程度で満足できるワケがないだろう。
〝――――、………………〟
過ぎたことはどうにもならない。
過去はどうやっても変えられない。
今を生きている以上は、現実と向き合わなくてならない。
例えそれが、どんなに痛いことだとしても。
〝………………、〟
最早後戻りは不可能だ。
残された時間は少なすぎる。
彼女は消えて、見ることも会うこともできないどこかへと居なくなるのだから。
だというのに。
〝…………っ〟
そんな遅すぎる場面で、気付いてしまった。
自覚してしまった。
分かってしまった。
彼女のことが好きだ。
とてもとても大好きだ。
傍に居たい、一緒に過ごしたい。
離れたくない離したくない!
……なんて無様なんだろう。
醜いにも程がある。
――だけど。
〝……っ、…………!〟
ああ、ほんと、馬鹿げている。
このタイミングで、そんな事を知ってしまったら。
――絶対に、諦めるわけにはいかなくなってしまうだろう。
〝……立て……〟
壊れ果てた身体に命令を送る。
指先が微かに反応した。
右手にはたしかな星剣の感触。
〝……動け……〟
喘ぐように胸を打つ心臓の鼓動。
酸素を取りこもうと伸縮を繰り返す肺の動き。
人間のカラダはよくできている。
どれほど絶望的な状況でも、どれほど後がなくなっても、命は最後まで生きようと足掻いてくれる。
〝……まだだ……まだ……っ〟
言わずもがな。
彼はここに来て一度も、その志を折っていたりはしなかった。
〝負けたくない……まだ負けてない……!〟
足の爪先に力が入る。
右手で星剣を砕けんばかりに握り締める。
左手は無い。
出血は星刻がどうにかおさえてくれていた。
バランスを崩した肉体は、容易に立ち上がることもできなくなっている。
けれど、その方が軽くて良いと彼は無理やり笑った。
〝……こんなところで、諦めたくない……っ!〟
その意志は前に向いている。
後ろは振り返らない。
そんな強い生き方は、弱い篝には出来る筈もない夢のような在り方だ。
この先ずっと、後ろ髪を引かれることなく、ただ前だけを見て歩いていく。
長い人生でそれを貫き通すのは、きっと難しいから。
――でも、今だけは。
この瞬間だけなら、難しくともなんともない。
〝彼女に勝つんだ……! 勝ってその手を掴むんだ……っ〟
片腕を支えにして上半身を持ち上げる。
揺れるように動く背中と、明確なまでの体勢の変化。
静まり返っていた場内が、ふとざわめき始めた。
「おい、あれ……」
「嘘だろ、まだやんのか……?」
「む、無理だって。勝てるワケねえよ。あんな、状態で……」
「わ、わたしもう見てらんない……」
「いい加減それぐらいにしとけよ……見苦しいぜ、先輩……」
前進を引き止めるような声に、停止を促す言葉に、頭を振って歯を食いしばった。
〝見苦しくたっていい! 格好悪くても、醜くても構わない!〟
体は鉛のように重たい。
鉄枷でもつけられているのかという動きづらさとぎこちなさ。
それでも我武者羅に力を込めていく。
膝を曲げて、足を動かして。
地面から少しずつ、少しずつ、欠けた身体を離していく。
〝それが僕なんだ! 僕自身の、心の底からの本音なんだよ……!〟
「――ハ、そうかよ、オイ。悪ぃ、訂正だ。紅葉センセ、子波。俺の間違いだわこりゃ」
聞き慣れた友人の声が耳朶を震わせる。
その詳しい意味は分からない。
ただ、彼の笑い声に同調するように、篝も自然と笑みを浮かべてしまっただけ。
〝だったら誰に否定されても関係ない! もとより僕の勝手なワガママなら!〟
「篝……」
正面から響く鈴を鳴らしたような音。
それがいっそう、限界間際の肉体に活を入れる。
姫奈美のものだ。
間違いない。
聞き間違える筈がない。
だって、彼は。
〝ああそうだよ! 好きなんだ彼女のことが! ずっと一緒に居たいんだよ!〟
揺るぎない、本当の心の在処を知っているのだから。
〝なら立て! 立って動け!〟
痛みに歪んでいく景色、震える脳髄、ぶつりぶつりと何かが途切れていくオト。
倒れそうな身体を必死に支え、持ち直しながら、篝は真っ直ぐ正面を見据える。
〝力を振り絞れ! 今ここで意地を見せなきゃどこで見せるっていうんだ!〟
霞か靄がかかったようにぼやけた視界。その中で、一際輝く群青に目を凝らす。
〝止まってちゃなにもできない! 振り返ってちゃ前に進めない!〟
「そうだ、そうだよ。そうだよなあ、篝。ここまで踏ん張ったんだもんなあ?」
そうだ。その通りだ。
ここまで踏み止まった。
逃げられないと踏み止まり続けた。
でもそれは結局、そこに在るだけの簡単なコト。
〝そんなの御免だ! もっと彼女との差が開く!〟
「このまま置いていかれるだけなんてありえねえよなあ!?」
〝それを認められるはずがない! 認めていいわけがない!〟
「たかだか手も足も出なかったぐらいがどうした!!」
〝第一この程度で折れるなら彼女に挑んでなんていない!〟
言葉は反響する。
内と外。
表と裏。
聞こえるはずのない声は、不思議なぐらいに噛み合って背中を蹴り上げているようだった。
……本当に、あの同居人には頭があがらない。
〝だから! 立つんだ! 無理でも、無謀でも――!〟
「まだまだこれから本番だろうが! 見せてやれ篝! テメエの意地を!」
〝言われなくても! 僕だって男の子だ!〟
静寂を振り払い、ざわめきすら断ち切って。
悠鹿の声は淋しくアリーナに響き渡る。
他人はそれをどう見ただろう。
それまで小さな感想をこぼしていた彼らはどう見ているのだろう。
篝には分からない。
けれど、
「頑張れー! 篝っちー!!」
大きく響く声は、もう一つ、たしかにあがっていた。
いや、それだけではない。
「正念場ですよ折原くん! もうひと踏ん張りです!」
続く声の二つともに聞き覚えはあった。
一つは彼女の同居人にして、同じ委員会に入っている少女の声。
もう一つは彼の担任にして、二年間お世話になった恩師の声。
「気合い見せろ折原ぁ!!」
「俺たちの代表、落ちこぼれの五組のド根性見せてやれー!」
「委員長ー! ふぁい、とぉーーー!!」
「ここまでやっといて何もしないままなんてそうは問屋が卸さねえぞ!」
「おっしゃアンタら声上げろー! 鷹矢間のキモいツンデレに負けてんなー!!」
「誰がキモいだゴラァ!! てかツンデレじゃねえわアホかボケェ!!」
限界を迎えていた身体に力が入る。
内側からは引き裂くような痛みと、機械のパーツを無理やり動かすような断裂の悲鳴。
星刻で保っているだけの体は今にも崩れ落ちそうなほど脆い。
それでも篝は、膝を立てて渾身の力で地を踏みしめた。
「あーもうなんだよちくしょう! あのバカどもに負けてられるかよ! 一組も声出せ! 立て折原ー! 十藤さんがまだ期待してんぞー!」
「どうしたどうした二年五組ぃ! そんな程度かおまえらは!?」
「うちのお姫様なめてんじゃねえぞ! まだやれるんだからな! 全然だよ! ぶっ倒れてる場合じゃないからなぁ!!」
「おっはよーーーう!! 折原くーーーん!!」
「ぶはっ、朝の挨拶運動かよ……っ、オイ折原! こうも長引かせてくれたんだ! ここからなにもせずに負けるなんて許さねえからなぁ! 俺らのアタマぶっ叩いてやれ!」
湧き上がる声は会場を包み込んでいく。
舞台にいるふたりの耳にまで確かに届く声援の数々。
彼を知っている誰か、彼女を知っている誰か、またはそのどちらをも知っている誰か。
降り注ぐ音は重なり合ってアリーナをも揺らさんと響き渡る。
「――――ぁ、あッ」
奥歯を砕かんばかりに歯を食い縛る。
痛み、苦しみ、無理だと叫ぶ己の弱さ。
その全てに鞭を打って、傷だらけの身体を引き摺り上げていく。
左手がない。
だからどうした、右手があるなら星剣はまだ振れる。
怪我が酷い。
だからどうした、生きているのなら体はまだ動ける。
痛みが辛い。
だからどうした、その程度も我慢しなくて何が彼女の幼馴染みだ。
〝好き勝手……ううん、僕も。ほんと、みんなみんな大好きだ。だったら――〟
後はすべて、突き進むだけ。
「……ったく、時間かけすぎだわ。遅えんだよ、バーカ」
舞台の上に〝立つ〟のはたったふたり。
依然として待ち構える姫奈美の眼前に、不安定な影がゆらゆらと揺らめく。
二本の足で地面を踏みしめて、曲げた腰を懸命に伸ばして、片腕一本になった右手で星剣を握り締めるひとりの少年。
眼鏡の奥、レンズ越しの瞳は彼女だけを映すようにギラギラと。
――折原篝は、ここに堂々と立ち上がった。
「……ああ、そうか。そうだったな……」
くすりと。
わずかに微笑む姫奈美は、どこか嬉しそうに目を伏せる。
「おまえはそういう奴だったな。……昔からそうだ。篝、おまえは必ず、私の期待に……いや、期待以上に応えてくれていた」
滲み出るのは抑えきれない嬉しさと、これ以上はないという彼への賞賛だ。
その目を見ているだけで思わず抱き締めたくなる。
今すぐにでも触れ合いたい。
ああ、でも、今は訣別の刻。
傷付け斬り合う死闘の時間であるから。
「ありがとう、篝。私の大好きな幼馴染み。そして――」
もとよりそんな覚悟を見せた少年への返礼は、明確に決まっていた。
「――そこまで見せられては、私も黙っていられない」
風が凪ぐ。空気が震える。それは見えざるものを呼び覚ます、一際高い星の輝き。
「〝
宣言は高らかに。彼女は独り、詠うように言葉を紡いだ。
「〝駆け抜けろ、彼方は万象を示す世の理〟」
バチバチと唸る電荷、周囲の景色すら呑み込んでいく星刻の光。
迸る力の奔流は留まるところをしらない。
上昇する架空の熱量は、既に人の域を逸脱しかけている。
「〝轟き叫べ勝利の歓声、光は切り裂く稲妻の如く〟」
溢れ出した光は止まらない。
空間に走る青色の亀裂。
断裂ともいうべき現象を前に、誰もが言葉の一つも発することができない。
無音の会場は、けれどもいやに賑やかだった。
まるでこの『次元』が耐えられないとでも言うように、空間が負荷に千切れていく。
「〝唸り、砕き、踏破しろ。闘争こそが至高の極致〟」
紅の光を反射する両の瞳。
その声は間違いなく姫奈美のものであるはずなのに、まるで別人のような音を含んでいる。
通常の声帯では発音できない響きだ。
あまりの埒外に言いようも無い恐怖が背筋を駆け抜けていく。
同時に、それがなんなのかを篝は悟った。
「〝愛しき者よ、最大の感謝を。これより幕は閉じられる〟」
ずるずる、ずるずると。
這いずるように忍び寄る見えない影。
誰もいない、何もいない。
けれどその力の正体こそがソコにある。
次元を越えた星の裏側。
高みに潜むモノは。
「〝血湧き肉躍る生死の境目で、残滓の生を謳歌しよう〟」
五つに連なる絶対なる座。
星霊が究極と仰ぐ一撃を前に、無数の瞳が伸びていた。
「〝総てこの命は尊いが故に〟」
次元が歪む。
空間が軋む。
この世にあるまじき規格外を引き出す少女を前に、世界そのものが悲鳴をあげていた。
「〝疾走を謳え、猛き王者の超新星〟」
青電が舞う。
静寂に支配されたアリーナのなか。
姫奈美は真っ直ぐ、彼を見据え――
「〝
――瞬間、爆撃じみた雷光が全方位へ向けて放たれた。
皮膚を貫く電荷の衝撃、一瞬の意識の喪失をぐっと堪え、篝はなんとか立ち続ける。
「――――ッ」
攻撃ではない。今のはただの宣言だ。
敵意も何もありはしなかった。
あれは自身の内側に、そして外側の星へと語りかけられた決意の表明に過ぎない。
吹き荒れたのは単なる開放の余波。
高次元たる星霊が見惚れ、認め、至高と仰ぎ絶賛する技術の結晶。
渇仰劔舞。
星刻使いが辿り着く必殺にして最強の限界領域。
学園の生徒では真実姫奈美以外の誰もが指先すらかけられていない奥義を前にして、篝は。
〝――――――、〟
恐れ、怯える……コトは一切なく。
ただ、目の前の感覚に妙な既視感を覚えていた。
――ドクン、と心臓が跳ねる。
共鳴するように、倣うように、何かを呼び覚ます星の鼓動。
紛うことなき天賦の才と、弛まぬ努力が実を結んだ姫奈美の実力は圧倒的だ。
満ち足りた強さは痣を発現したことによって、最早誰も手を付けられなくなっている。
何もかもが足りていない篝とは大違い。
だから、いま彼女が行ったコトにしたって一ミリも理解はできない。
できる筈がない。
――その、はずだった。
〝なん……だろう……この……〟
ドクン、と。肩の星刻がやけに脈動する。
予感は確信へ。
そうだという胸中の肯定が、星剣をより激しく握り締めていた。
――彼は知っている。
この得体の知れない気配を。
言いようもない恐怖を。
たしかにどこかで感じたことがある。
それが一体いつのモノだったのか。
脳裏に浮かんだ疑問は綺麗さっぱりと、あからさまなまでの解答を示した。
「………………――――」
知っている、識っている、シっている。
ぞくぞくと背筋を這い上がる奇妙な感覚。
胸の奥から湧き上がる原初の感情。
そうだ、彼はこの
ひとつ、深く沈みこむように息を吸う。
酸素は肺を伝い、血液を流れ、全身へと行き渡っていた。
余分なモノは何一つない。
――そして篝は、握っていた星剣を鞘におさめた。
「は!? おい、なにしてんだ折原のやつ!」
「剣を仕舞いやがった……まさか、諦めちまったのか……?」
「え、ええ!? 折角立ち上がったのに!」
「オイオイふざけんじゃねぞ! つまんねえことしてんじゃねえ!!」
遠く離れた観衆の声も既に彼の耳には入っていない。
そんな外部の情報をすべてシャットアウトして、ただひたすらに内側へと意識を向ける。
ヒントは、それこそそこら中に。
「――――――」
繋がるべき座、示された道標。
それは最近になって何度か起きていたコト。
彼が星剣を抜き放つその一瞬、すなわちトラウマが関与しない初撃の一太刀を振るう時に――
『〝 フフ 〟』
正体不明の、見えない誰かの声を聞く。
『〝ああ、やっと。やっと気付いてくれたのね。私の子、かわいい火〟』
全身を包み込むように向けられる無数の瞳は、今より高い次元から覗く彼女の触覚だ。
褒め称え、その輝きを認めるが故に、彼女たちは〝技〟を視ようと現世へ介入する。
『〝本当にそっくり。何もかもがそのものだわ。ええ、だから推しているの、貴方を〟』
私みたいと、顔も知らない星霊が投げかける。
篝は応えない。
余計な情報は全くとして彼の頭に受け付けられない。
だが、それも
『〝さあ、それじゃあ高らかに詠いましょう! 言葉は既にある筈よ、貴方の中に!〟』
不思議な感覚が思考を支配する。
分からないのに分かっている。
意味は理解できないのに、それが成す意味を理解している。
脳裡にはぐるぐると渦巻く単語の羅列。
『〝声を合わせて! 私と貴方は、既に繋がっているのだから!〟』
都合二度目の震撼は、青色の光を弾くように閃いた。
「〝
「!!」
声は驚くほどあたりへ響く。
轟音を放って撒き散らされる雷電、空間に起きる物理法則を無視した断裂、そのどれにも邪魔されずに鼓膜を震わせていく。
遠く、刃を構えた姫奈美の顔が驚愕に染まっていた。
「〝解き放て、彼方は空を焦がす陽の理〟」
二重に連なる声と言葉。背後にそびえる未知の脅威が、強大な指で背中を押す。
「〝炉心を回せ胸の鼓動、熱は尽きぬ焔の如く〟」
その摂理は無理やりでもなければ、破綻してなどいない。
雷の星が無限の勝利を求めたように、火の星はまた別のモノを尊び選定していた。
「〝集め、収め、一つに束ねろ。この身は紅蓮の雪月花〟」
曰く《熱を抱く者よ、斯くて己の心に実直であり、想え》……その意味は、深く考えるまでもなく示されている。
すなわち火の星が願った人の輝き。
「〝鮮やかな君を想う。愛しい群青、どうか共に生きて欲しい〟」
純粋に何かを思い、何かを欲し、何かを望む。
強く激しい人の感情こそが、星の燃料。
「〝その
だから篝は真に詠う。
何より強い気持ち、そんなのは言うまでもない。
「〝総てを懸けて此処に誓う〟」
ただ彼女だけを想う、己の心情なれば――
「――〝収斂を示せ、熱き激情の超新星〟!」
『〝見事だわ! 仕上げといきましょう! 私はそれを至高と賛美するの!〟』
「〝渇仰劔舞〟――――――ッ!!!!」
遥か高みの限界領域へと。
今ここに、二つ目の足跡が辿り着いた。