陽は落ちて、やがて、暗い夜がやってくる。
午後八時過ぎ。
明かりを失った校舎の一角に、ほんのりと光を漏らす部屋があった。
一階東側にある保健室は、忘れ去られたような静寂に支配されている。
他の教室に人気はない。
廊下にも誰かが残っている様子は見られない。
広い建物の狭い空間、そこで穏やかに息をして眠る少年を、姫奈美はただひたすらに見詰めていた。
「………………、」
握る左手は、変わりのない彼の温もりに満たされている。
一度は躊躇いなく切り落とし、そして星刻の力によって復元した身体の一部分。
――彼女に消えても構わないという覚悟があったように、あの時の彼には腕の一本すらどうでもいいと思える覚悟があったのだ。
それを喜ばしくも、寂しくも感じる。
喩え一瞬でしかない輝きだったとしても、彼は間違いなく自分と同等かそれ以上の強さを持っていた。
……いいや、そもそも。
『……おまえはずっと強かったんだもんな、篝』
そんな当たり前のコトを、今回の顛末で改めて思い知らされた。
天賦の才というのなら他にないだろう。
生まれながらにして決まっている運命じみた人の強弱。
鍛え上げられた力だとか、磨き抜かれた技術なんて関係のない絶対値。
きっと未来永劫、天地がひっくり返っても、姫奈美が本当の意味で篝に勝利することはない。
ただ一人の誰かを想い、その為に生き、共に在る。
彼という人間を傍から見れば、そういう形で生まれたとしか考えられないような生き方をしていた。
まるで特効薬だ。
でもなければ、専用の装備か何かであるように。
姫奈美の隣に篝という命が灯った瞬間から、ふたりの行く末は決まっていたも同然なのだろう。
『些か、ロマンチック過ぎるかな。……だが仕方あるまい。おまえと出会った瞬間から、私の総てはそこにあったんだ。ああ、今なら分かる。――おまえが、私の太陽だった』
他のなにかでは満たされない。
きっと別人であったなら、こうにも想いは募らせない。
この情熱も、恋慕の情も、全ては彼であったからこそ。
似たような誰かも、名前とガワを借り受けただけの凡百にも渡さない。
どんなに素敵でも、どんなに強くても、どんなに格好良くても彼女の心には響かない。
響くことなんて絶対にありえない。
なぜなら、
「…………ひなみ、ちゃん……?」
彼女の一番は多元宇宙に於いてただ一人。
気弱で、臆病で、泣き虫で、けれどちょっぴりだけ優しい、笑顔の素敵な、大切な幼馴染みだけなのだから。
「……おはよう、篝」
なら、きっと出会わなくてもずっと影を追い続けた。
運命の相手を〝そう〟だと直感して、いずれどこかへ会いに行くのだ。
であれば、生まれた瞬間から傍に居た自分は、なにより幸せ者であるのだろうと。
「もう夜だがな。……ずっと眠っていたぞ。体の調子はどうだ?」
「あ、うん……一応、平気っぽい。腕もちゃんと、治ってるみたいだし」
ほら、と姫奈美の眼前でぐっぱと左手を握って見せる篝。
「こういうの、便利だよね。星刻。こればっかりは悪くないと思うよ、僕も」
「……そっか。それならまあ、良くはあるのかな」
「……まあ、痛いのも怖いのも、もうこりごりだけど」
二度としたくないや、と軽い調子でもらす篝だが、その言葉には真逆の意味が込められているようだった。
〝次があったとしても、今回みたいに止めてみせる〟
密かな覚悟は短い距離を通じて伝わるように。
何度星霊が彼女を見初めても、それをなんとかしてみせると彼は誓っていた。
偏に、答えを見つけたが故だ。
「まったく、おまえは……」
「……うん。でも、ちょっとだけ楽しかったよ? 多分、相手が姫奈美ちゃんだったからだろうけど……」
「ほほう? なら今から再戦といくか? なあに心配するな。私も既に回復している」
「え。……あの、それは……ちょっと、ご遠慮、お願いします……」
病み上がりなんです……と拒否する篝に、姫奈美は微かに苦笑する。
それを受けてベッドに寝転がったままの篝も柔らかく微笑んだ。
ふたりの間は、距離にして三十センチ。
「――――僕の勝ち、だね」
「…………ああ。そして、私の負けだな」
潔く、なにもかもをするりと呑み込むように、姫奈美はその結果を肯定した。
「完敗だよ。悔しいという気持ちすらどこかへいったぐらいだ。……ああ、本当とんでもないことをしてくれたな、おまえは」
責めるような台詞だが、声音はどこまでも優しかった。
きっと彼女自身も徹頭徹尾分かっていたからだろう。
この結末を招いた少年の心と、そこに込められた感情を。
「痣は消えたよ。ついでに、あれだけあった星刻もだ。……大方見限られたのだろうな。三十幾つとあったものが、たったの一つになってしまった。一画だぞ、一画。……あれ、でも、そうか。一つってことは篝とお揃いか。それはちょっと、良いなあ……」
くすりと微笑む姫奈美。
その瞳には、篝の姿だけが映っている。
「まあ、それはともかく……どうしてくれるんだ、本当に。あれだけ言っておいて、これでは格好がつかんではないか、ばかもの」
ちょっとした悪戯心が生んだ意地悪に、篝は困ったように眉を下げた。
気持ちの大小はあれど、その恨み言を言われるのが分かっていたように。
「……ごめんね。勝手なことをしたっていうのは、分かってるよ」
覚悟を抱いて、消えることを良しとした。
その行く末になんの未練もなく、それこそが最高の幕引きだと駆け抜けた少女のゴールを目前で奪い去った。
単純に考えてみれば彼のしたことはそれだ。
酷いモノを敢行したのだという自覚は、ある。
だとしても、
「……でも、……でも、さあ……っ」
それでもやり遂げたのは、彼にとって心の底から望んだ未来があったからで。
「……やっぱり、さあ……っ、僕は、まだ、姫奈美ちゃんと一緒に居たいよ……」
情けない声を、それと同じぐらい弱い本音を、こぼすように篝は吐露する。
「まだ二人でやりたい事とか、行きたい場所とか、沢山、あるし……っ」
泣きそうな声は実際に震えている。
目には自然と大粒の涙が浮かんでいた。
倫理観ではない。
良し悪しでもない。
男として何度も泣くのは、彼自身が恥ずかしい。
だから弱い自分も、泣き虫な自分も嫌いだった。
「ぜんぜん、思い出とか、足りないぐらいだし……っ」
――でも、彼女は知っている。
流した涙の数だけ、心を痛めた悲しみの数だけ、彼は強くなっていたことを。
だから、弱い彼は、泣き虫な彼は、姫奈美にとって愛しい彼でしかない。
「もう、ずっと、ずっとさぁ……姫奈美ちゃんの隣で、胸張って一生過ごせたらって……」
呟かれる言葉一つ一つが、心に響いて新鮮だった。
鼓膜を震わせる音も、肌で感じる熱も、息遣いさえ見惚れるぐらい。
「そう、思いっぱなしで……っ」
引き攣る喉、涙に歪んでいく景色。
その中で、姫奈美がほんのり笑った気がした。
表情はよく、分からなかったけれど。
「だからっ……お願い、だから……!」
祈りは、想いを打ち明けるように。
「――僕を、ずっと姫奈美ちゃんの傍にいさせてください……っ!」
みっともない、みじめな言葉は、それでも真っ直ぐ放たれていた。
「駄目なところは頑張って治すから……! ちゃんと自分でするから……!」
男として見るなら落第も良いところ。
劣等生もここに極まれり、といった感じ。
「どうか、いかないで……! ひとりに、しないでよぉ……!」
悲痛な叫びはどこか重く、静かに響いていく。
姫奈美は黙ってそれを聞いていた。
身じろぎ一つせず、ただ少年の言葉を聞き届けた。
……たしかに、男らしくはない。
弱々しくて惨めで無様、そういう評価もあるだろう。
けれど、
「…………それは」
けれども、違う見方をするのであれば。
「――――つまりそれは、プロポーズということでいいんだな!?」
「……………………ふぇ?」
折原篝として見るなら、彼女の中で合格のラインなど余裕で突き抜けていた。
「もちろん返事はイエスだ! というか断る筈ないだろ普通!?」
「ひゃっ!?」
ぎゅっと手を握りながら、姫奈美は勢いよく篝に顔を近付ける。
「結婚はいつにする!? 届けも用意しないとなっ! あ、指輪はどちらでもいいぞ! ある方が嬉しいには嬉しいが……」
「へ? あ、えと、その……」
「それと式の場所はどこにしよう! 私としてはやっぱり地元が鉄板だと思うのだが!」
「う、いや、姫奈美ちゃ」
「海外とか沖縄あたりも良いけどなあ……ほら、私たちならやっぱりこう、あそこだし」
「え、あ、それもそう、だけど」
「あとあと、新婚旅行の行き先も決めないとなあ……! 篝はどこがいい!? 私は個人的に北海道とか、行ってみたいな!」
「ちょ、あのね、だから」
「ああもう本当大好きだ篝! ずっとずっと一緒だからな! もう絶対離さないぞ!」
「す、すとっぷ! すとっぷすとっぷーーー!!」
ヒートアップする姫奈美の話をどうにか打ち切る。
いや、まったく今更の話だが。
「け、結婚とかまだ早いし、式場とか新婚旅行とか、すっごく夢が膨らむし正直僕もその話題で一晩中姫奈美ちゃんといっぱい話す事はできるんだけど……!」
「? うん」
「――それだけはしっかりと、僕から、言わせて」
「……ああ、分かったよ」
泣いていても男の子だもんな、と姫奈美は微笑んで居住まいを直す。
一瞬の静けさ。
部屋を照らす明かりは小さな電灯と、窓から差しこむ月明かりだけ。
暗闇があたりを包み込むなかで、ごくりと唾を呑み込む音が響いた。
「――――ずっとずっと昔から。出会ったときから、君のことが好きでした」
そっと、彼の手が差し出される。
「どうか、僕のお嫁さんになってください」
無論、その手を握る感触は間を置かず。
「――――はい」
彼女は強く、でもちょっとだけ泣きそうになりながら、返答の言葉を紡ぐ。
「ずっとずっと昔から。出会ったときから、貴方のことが大好きでした」
いつも真っ直ぐで、鮮烈で、強烈な少女は、その時だけただの女の子みたいに。
「どうか、私を、篝のお嫁さんにしてください――」
見惚れるぐらいとても綺麗な、満面の笑みを浮かべていた。