ふたり揃って部屋を出ると、すでに通学路は多くの生徒で溢れかえっていた。
時刻はすでに七時半。
いくら寝ぼすけの人間でも、そろそろ起きなくてはまずい頃だ。
学園内にある寮から校舎までは歩いておよそ十分、走っても半分の五分程度かかる。
授業間の休憩時間によく忘れ物をした生徒が取りに帰っているが、よほどの鈍足でもない限りギリギリで間に合う距離だ。
「ひゃぁー……さすが十二月。朝はとことん寒いねー……」
「たしかに。手袋でもしてくれば良かったかな」
「姫奈美、姫奈美。そのマフラー貸して。半分でいいから」
「却下」
「なんでー!」
はくじょうものー! と叫びながらこすり合わせた手にほうと息をかける伽蓮。
かじかむ指先は本当に凍えそうなほど冷えてしまう。
まだ外に出て数分も経っていないが、朝の冷気はそれだけ強烈だ。
一筋の希望だった同居人は、このとおり首元の暖かさを独占しているので意味がない。
「……まあ、電車乗り継いだり、自転車漕ぐよりかはいいんだろうけどね、まだ」
「だろうな。私の地元は山奥だから、中学なんて登下校に片道三十分以上かかってたぞ」
「うわ、なにそれどこの秘境? もしくは僻地?」
「二軒だけ隣り合った山の麓。電気もネットも通ってる。ただし時々鹿が出る」
「鹿って……え、あの鹿? 奈良公園とかにいる、あの?」
「あの鹿。気性が荒い奴だと突進とかしてくる。めっちゃ痛い」
「食らったことあるんだ……」
ちなみにあわや肋骨が二本ほど折れるところだったのは言うまでもない。
一本だけで済んだのはちょっとした奇跡だ。
「そう考えると、姫奈美にとってこっちは大都会なワケだ。校舎もあんなに大きいし」
「そりゃそうだろう。大体、国内に十二しかない超有名特別指定校のひとつだぞ、うち」
「そういえばそんな肩書きもあったねー」
なんか普通すぎて忘れそう、なんてぼやきながらふたりは遠方の建物に視線を向ける。
総敷地面積六百三十平方キロメートル。
中央にでんと構える校舎と、それを取り囲むよう立ち並ぶ八つの円形闘技場や図書館。
一学年五クラスの、生徒と教師を含めた総勢七百人以上から構成される巨大学業施設。
それが彼女たちの通う学舎。
古くから伝わる、とある〝神秘〟を専門とする学びの園。
国立北関東
通称『天蠍学園』と呼ばれる、普通の高等学校とは一風変わった学園だった。
「うぅ……しかし冷える冷える……こういう日は鍋とか食べたくない?」
「ん、いいな、鍋物。今度具材でも買ってきて作るか」
「おっ、乗り気だ。はいはい賛成賛成ー。あたし水炊きがいい!」
「ポン酢は余ってたかな」
「たぶん。まあ無かったらそっちも買えばいいでしょ」
それもそうだな、と頷きつつまだ見ぬ夕飯に思いを馳せるふたり。
冬場につつく鍋というのは趣がある。なにしろ定番中の定番だ。
「っと――あ、
「……篝っち?」
「ほら、そこ。昇降口のとこに立ってる。……へぇ、そっか。今日は篝っちの当番だ」
言うなり、伽蓮はとててっと軽い足取りで正門をくぐっていく。
見れば彼女の向かう先、ガラス張りである大扉の前に、ひとりの少年が立っていた。
目元まで伸びる赤茶けた頭髪と、眼鏡の奥から覗く青玉の瞳。
全体的にほっそりした体つきと、吹けば飛んでしまいそうな覇気のなさ。
誰かさんと同じマフラーを首に巻いた彼は、彼女にとっても無視できない人物だ。
仕方なく、……そう本当に仕方なく、歩くスピードをあげた伽蓮を追って歩いていく。
「おっはよー篝っちー!」
「あ、おはよう伽蓮さん」
「……おはよう、篝」
「うんっ。姫奈美ちゃんも、おはよう」
にっこりと笑いながら挨拶を返す少年に、彼女もつられるよう微笑んで応えた。
内心はドキドキであるが、気づかれるワケにはいかないとどうにか平静を保つ。
今朝方の懐かしい夢を見てしまったせいだろう。
どうしてこういう日にかぎって、と嬉しいやら悲しいやら複雑な気分の少女。
「いやー、学級委員も大変だねー。朝からこんなことして」
「伽蓮さんだって学級委員でしょ。当番来週だから、忘れないでね」
「えー、めんどくさいなー……篝っち、替わって?」
「だめだよ。僕たち一応クラスの代表なんだから、ちゃんとしないと」
「そう言わずにさー、お願い!」
「だーめ」
伽蓮の要望に首を横に振りつつ、少年は通りがかる生徒それぞれに声をかけていく。
彼――
一クラスから一名ずつ、各々の学級で選出された合計十五人の生徒から成る委員会は、活動の一環としてこのような取り組みを当番で回している。
ひとり一回ずつの、およそ三週間に一度。誰よりも早く登校して、昇降口に立ちながら来る生徒全員に挨拶をしろというのだから、在校生からは苦行と言われても仕方ない。
そのお陰かむしろ名誉あるクラス代表などではなく、貧乏くじのなすりつけあいと化している役職であるのは公然の秘密である。
彼もまた、そんな周りの空気に流された被害者……もとい、他の誰もやる気がなかったので仕方なく立候補した一人だった。
「それに分かってるからね、伽蓮さん」
「ん? なにが?」
「そんなこと言って、一度も委員会の仕事さぼったことなかったでしょ。今まで」
なんだかんだで凄い真面目だもんね、と純粋な瞳を向ける篝。
それに伽蓮はどこかすこし、居心地悪そうに視線をずらしていた。
「い、いやー、まあ? あたしほどマジメなヒトもそういないし? いやほんとマジメ、ちょうマジメだよねー!」
「? うん」
「なあ伽蓮」
「しっ! 姫奈美!」
がばっと後ろを振り向いて口もとに手をあてる自称マジメなヒト。
果たしてこの少女のソレを彼に暴露するべきかどうか、彼女はわずかに悩むのだった。
「……? どうしたの、ふたりとも」
「な、なんでもなーいなんでもなーい! ほんとほんと!」
「篝ー、伽蓮って実はすごいズボ――」
「わあああああ! ちょ、黙って! 黙って姫奈美! あたしにもイメージがあんの!」
「ずぼ……?」
「か、篝っち! はいこれ! アメあげる! なんでもないから気にしないでね!」
「う、うん…………あ、おいしい」
コロコロと貰ったあめ玉を早速口の中で転がしている純朴少年から視線を切り、伽蓮は余計なコトを口走りかけていた同居人をキッと睨みつける。
「おい、餌付けをするな」
「餌付けじゃないですプレゼントですー。……姫奈美」
「なんだ」
「あんたの体重言うよ」
「――わかった。取引成立だ。この事はお互い内密にしよう」
「話が早くて助かる。やっぱり持つべきものは秘密を共有する友人だよねー!」
「そうだな!」
あはは、と笑いながら硬い握手を交わすふたり。
その手とこめかみに青筋が浮かんでいるのは、まあ、きっと、たぶん気のせいだろう。
「仲良いね、ふたりとも」
「そうだよ! あたしらめっちゃ仲良いよ!」
「ああもちろんだ。ところで篝、私の体重何キロぐらいだと思う?」
「!?」
「え、どうしたの急に…………四十七キロぐらい?」
「おお、すごいな、当たりだ。ああ、それと話は変わるがコイツはマジメじゃないからな。私生活とかてんでダメダメだし」
「あ、そうなんだ……」
「あんた姫奈美ィ!!」
「はっはっは」
秒で寝返った裏切り者にキレながら、伽蓮はガクガクと肩を掴んで揺さぶる。
下手人は「悪役ここに討ち取ったり」なんてしたり顔でからからと笑っていた。
「本当に仲良いんだね、姫奈美ちゃんと、伽蓮さん」
「どこが!?」
「そうだぞー、めちゃくちゃ良いぞー」
「あーっ! この顔! この顔殴りたいぃい……っ!」
「はっはっは、どうどう」
余裕綽々といった表情で伽蓮の暴挙を受け止める少女だった。
「……っと、伽蓮。ストップ」
「? なに、どしたの」
「うむ、いやちょっと」
「ちょっと?」
「篝」
「……え、僕?」
こくん、と頷いて答えながら、少女は友人の拘束からするりと抜け出す。
スタスタと一メートルもない距離を詰めれば、あっという間に肌と肌が触れ合う近さだ。
思わず緊張する篝少年だが、彼女はそんなこと気にした様子もない。
そのまま何をするかと思えばそっと手を伸ばして、彼の黄色いネクタイを手に取った。
「ちょっと曲がってる。マフラー巻くからって、油断しただろう」
「あ……ご、ごめん。今朝、急いでたから……」
しゅるしゅると襟飾を直していく彼女の手つきは慣れたものだ。
幼馴染み同士、以前からそういうコトもしていたのだろう、と伽蓮はふたりの様子を傍から見ながら考察なんてしてみる。
しかしながら、よくマフラーで隠されたネクタイのズレが分かったなあ、なんて、
「……ん? そういや篝っちのマフラーって姫奈美のと同じ
ペアルック? と興味本位で訊いてみる伽蓮。
「まあ、そう……だね……?」
「だよねー、めっちゃあったかそうだし! どこで買ったの? 姫奈美に訊いても教えてくれなくてさー」
「あ、これ、中学のとき僕が編んだやつで……」
「え? うそ、篝っちが? 自分で!?」
「う、うん。得意だから、手芸。それで、ちょうど良いから誕生日プレゼントにって」
「へー! ……へぇー!! すごいねーいいねー! ね、姫奈美!」
「うるさいっ。――あと篝」
「ひゃいっ!?」
「…………あんまり、動くな。あと余計なコト言うな、ばかもの」
「す、すいません……」
目がマジだった。思わず視線を受けた彼がびしっと背筋を正してしまうほど。
事の発端である伽蓮はというと、斜め後ろに下がってしたり顔のまま篝を見ている。
なんだか理不尽な気がするのは、もちろん彼の気のせいではない。
「はい、これでよし……っと。うん、完璧だ」
「あ、ありがと……」
「……って、髪の毛もボサボサじゃないか。寝癖が残ってるぞ。まったくおまえは……」
「――へっ!?」
と、彼女が頭に手をやろうともう一歩踏み出したところで、
「え、や、だ、大丈夫! このぐらい、自分でもやれるから、ね?」
「あっ、ちょっ……こら! そんな乱暴に……! ああもう私がするから……!」
「い、いいよ! ぜんぜん! ほんと! 気にしなくていいから!」
「…………、そうか?」
「そ、そうそう。ほんと」
「……ならいいけど」
それじゃあ行くぞ、と彼女はくるりと踵を返して下駄箱へ向かう。
どこか面白くなさそうな口調なのは、誰の耳に聞いても明らかだった。
去りゆく背中を見つつ、伽蓮はちろりと舌を出してみる。
その態度になにを感じたのか、篝はひとつため息をついて、ふたりをそっと見送った。