一方その頃。
今日一の大事件が起こっている一組から遠く離れた校舎の片隅。
人気も絶えた薄暗い廊下を歩きながら、篝は自教室へと向かっていた。
天蠍学園の本校舎は五階建ての建物で、中庭を囲むようにコの字型の構造をしている。
各階ごとに大まかな分類で教室が集められ、一階は職員室と来客用の部屋、二階は主に一年生の教室、三階は二年生、四階は三年生、そして残る五階が特別教室となっている。
篝がいるのはその三階、ちょうど東側の突き当たりに向かう通路だ。
これより先、一つを除いて空き教室ばかりの廊下を潜るのは彼を含め四十人のみ。
選ばれし者の特権である道の先には、端の方に追いやられたようなクラスが存在する。
……いや、実際、意図的に追いやられたであろう場所が、彼らにとっての教室だった。
この学園におけるクラス分けは一種の目安で、一年時は入試の成績、二年時からは前年度の学期末試験の結果を基に一組から順に割り振られていく。
当然、成績優秀者は前に。逆に悪かった者や、あまりにも素行に問題のある生徒なんかは後ろの方へと回されるのがクラス分けのルールだ。
「……っと」
要するに、ここはそんな選ばれなかった生徒たちの最後の砦。
落ちこぼれの掃き溜めとまで揶揄される、最低レベルの成績不良者たちの集団。
二年五組。正真正銘、文字通り学園内における最下層に身を置く彼らの教室は――、
「おはよう、みんな」
「お! おーっす! おはよー委員長!」
「今日も挨拶お疲れさん! まだ先生は来てないぜー!」
「折原ー! 制服のボタン取れちゃってさあー!」
「あ、うん。貸して貸して。すぐ直しちゃうから」
「まじ!? ありがとー! いやあ、やっぱ持つべきものは手先が器用な友人だよな!」
「あんまり篝くんに頼ってんじゃないわよ、男子ども」
「だって折原上手いしなー、それにほら、うちの女子って基本ガサツだし」
「なんですってぇ!?」
「お! 喧嘩か! やれやれー!」
このように、誰も冷遇を気にすることない賑やかさと親愛に満ちあふれていた。
「ちょっ、落ち着いて。ね? これでまたモノ壊したら怒られちゃうよ。……僕が」
「大丈夫だ折原! 善処する!」
「篝くん。女子にはね、退けないときってのがあんのよ。それが今なの」
「ええ……」
絶対ちがうと思う、とは思っても言えない篝だった。
偏に気の弱さである。
「さあ張った張った! 賭けたい奴は前に出てこいやあ!」
「ジュースにお茶もあるぞー!」
「ひゅーひゅー! どんどんぱふぱふー! 誰かゴング代わりに鍋もってこーい!」
「あったよ! フライパンが!」
「でかした!」
カーン、とお玉を金槌がわりに鳴らされる調理器具による鐘の音。
どうして教室にまでそんな物を持って来ているのか、というのは考えてはいけない。
そも成績の悪い、良く言えばさっぱりした、悪く言えば馬鹿な人間の集まりであるこのクラスは、面白いことがあればそれはもう全力で騒ぎだす。
そこに悪意や害意がないとは言え、学級委員である篝としては目下頭痛のタネであるのは間違いなかった。
「――うるせえこのアホウども!
と、盛り上がりを増していく集団へ冷水をぶっかけるように投げ掛けられる鶴の一声。
しんと静まり返った生徒の視線が、窓際の後ろから二番目の席へと向けられる。
叱責を飛ばしたのはそこに座っていた男子生徒だ。
ウェーブのかかった金髪と、周囲を容赦なく睨みつけるつり目がちな双眸。
紫水晶の瞳がギラギラと鋭く光っている。
伽蓮のように服装を崩しているワケではないが、第二ボタンまで開けられたワイシャツだとか、だらしなく椅子に腰掛ける姿が見るからに宜しくない。
成績云々というよりは、明らかな素行、態度の悪さ。
そんな、一見して恐怖を抱きそうになる男子生徒の一喝へ返されたのは。
「んだよ
「相変わらず折原のことになると変わるよなあ、おまえ。……さてはホモだな!」
「助け船にしてもド下手くそすぎるでしょー、むしろいまの怒声で余計うるさいし」
「その金色ワカメストレートにすっぞエセヤンキー! いちばん頭いいクセしてよお!」
「――――――、」
彼らなりの愛情……もとい完全になめ腐った軽い罵倒と挑発の数々だった。
「じょ、上等だよ……! 死にたい奴からかかってこい! 徹底的に潰してやる!」
「は、
「離せ篝! こいつら全員ふん縛って二度と忘れないように朝まで素因数分解のコトしか考えられないようにしてやる!!」
「テスト範囲的に凄い助かる報復だ!」
ただしその内容を聞いた瞬間、他のクラスメートたちは一様に闘争の意志を消していた。
中には粛々と土下座の準備を敢行している者までいる。
勉強嫌いであるが故に、それがどんな罰より恐ろしく見えたからだ。
「え、なに? 鷹矢間のパーフェクト算数教室またやるの……?」
「あの……それはちょっと……勘弁してほしいなーって……」
「いやだ……! 数Aの教科書と一晩中にらめっこするのはもう嫌だ……!」
「ああだこうだ言ってんじゃねえ! だいたい誰のおかげでおまえらが今までの期末試験を赤点回避できてると思ってんだ! ああ!?」
「え、でも折原……」
ちらり、と向けられた視線にビクリと反応する篝。
恥ずかしいことに約一名、その恩恵にあずかれていない超の付く劣等生がいるのである。
誰かなんてのは言うまでもない。
ダラダラと垂れる脂汗が何より如実に語っていた。
「篝はいいんだよ! コイツは頑張って頑張って俺の出した課題も全部クリアして、必死こいて赤点取ってんだから! 全力でやった上で脳みそ足りてねえんだよ!」
「うぐっ」
「分かるか!? この違いが分かるか!? ヒトの二倍三倍やりゃあギリギリ回避できるおまえらと違って篝は十倍二十倍しないとまともな点数取れないんだぞ!?」
「ううっ」
「鷹矢間、それフォローになってない。委員長泣きそうになってる」
「これぐらいで泣かないもん……」
「よーしよーし、折原くんはえらいねー、大丈夫だからねー」
近くにいた女子に頭を撫でられる涙目の男子生徒がここにいた。
とてつもなく情けない絵面なのは言うまでもないだろう。
……余談ではあるが、その瞬間にどこかで少女が『ちょっと待てそれは幼馴染みである私の役目だろうが!?』なんて毒電波を受信していたのだが、勿論彼らが知る由もない。
「ったく……あ? おい篝、なんで泣いてやがる。――誰だコイツ泣かしたのは!!」
「おまえだよ!」
「自分の言動棚にあげてんじゃねえナチュラルクソ野郎!」
「鬼! 悪魔! 金髪ワカメ! インテリエセヤンキー! ただの頭良いバカ!」
「誰がバカだアァン!?」
「いちばんキレるところはそこなんだな……」
ぎゃーぎゃーと騒ぎ立てるクラスメートへと憤怒の形相で胴間声をあげる男子。
彼――鷹矢間悠鹿は、その見た目に反してトップクラスの成績の良さを誇る。
荒々しい言動と派手な外見は周囲を威圧させるが、本人はどちらかというと暴力よりも静かな日常を好む……のだが、だからといって売られた喧嘩を買わないワケではない。
篝としては血みどろの殴り合いよりも眼鏡をかけて参考書を読んでいるほうが似合うと思うなあ、なんて考えてしまう、なんだかんだで仲の良い友人のひとりだ。
「……あ、そうだ。悠鹿、これ」
「あん? ……て、おお。上着か、サンキュー。そういやテーブルに忘れてたな」
「本当だよ。しかも分かりやすいようにほつれた部分見せてるし。……今度からちゃんと言ってよね?」
「ん、悪い。助かった。いや、真冬のこの時期にワイシャツとセーターは自殺行為だな」
寒くてかなわん、と悠鹿は身震いしつつ篝から受け取った上着を羽織る。
ふたりの友人関係はそれこそ姫奈美と伽蓮のように、寮の部屋が同室だったのを発端としている。
一年時は偶然にも同じ、二年生である現在はこうして仲良く最低クラス。
篝は純粋な学力の低さで、悠鹿は何度か授業をすっぽかして転がり落ちたのであった。
「……っと、そういや篝。おまえ、なんか良い事でもあったのか?」
「? どうしたの、いきなり。僕、どこか変……?」
「ビッミヨーに口元にやけてんぞ。なんだ、女子の着替えでも覗いたか」
「ナニィ!? 折原、それどこだ! 言え!」
「教えろ教えろ! そして俺たちも連れてイクんだッ!!」
「え、いや違うよ? というかなんでそんなに女の子の着替え覗くのに必死なの……?」
そこまでする? と純粋な瞳で訊ねる清く正しい青少年。
穢れなき眼を前に、欲望に塗れた男子どもの群れは一気に崩れ去った。
はあ、とため息をつきながら「委員長は
女子からの視線が冷ややかだったのは言うまでもない。
「……ま、おまえはそういうの興味薄いだろうとは前々から思ってたが。じゃあ一体なにがあったんだ? ちょいと気になるぜ」
「なにって……あー……、まあ、うん」
「……なんだよ。はぐらかすなって」
「えっと……その、大したことないよ? ほんと、大したことないんだけど……」
しゅるり、と彼は自分の胸にかかる黄色い襟飾を手に取って、
「――姫奈美ちゃんに、ネクタイ直してもらっちゃった……っ」
えへへ、と見るからに幸せでいっぱいな表情を見せるのだった。
「……なんだ、また例の発作か」
「ほ、発作?」
「いつものいつもの。篝くん、ほんと十藤さんのこと好きですもんなぁ」
「え、や、そりゃ……」
「幼馴染みだもんねー。あたしらはちょっと、まあ、うん。……だけど」
「なんせ学園一位【青電姫】サマだもんなあ。おっかなくて仕方ねえよ、まったく」
「オレいまだに十藤見ると震えが止まんないんだけど……一回戦ったトラウマで」
「俺も俺も。ま、うちの学園
「……え、なにこれ。この、なんていうか、なに、これ……? 」
どうしてこうなった、なんて思わず思考を放棄してしまいたくなる雰囲気に困惑する。
さも当然みたいに「はいはいそういうことね」と流されているところから彼の日常的な言動はおおよそ察せるだろう。
……つまりはまあ、あっちがあっちならこっちもこっち。
「へいへい。そろそろホームルームだぞ。惚気もそんぐらいにしてとっとと座れよ」
「え、あ、うん…………って惚気じゃないよ?」
「はっはっは。今世紀最大に面白いジョークだなオイ。十五点」
「低い!」
「この前おまえが取った数学の点数だバカヤロウ!」
容赦ない友人の指摘にぐさりと胸を刺されながら、鞄を片手に自分の席へと向かう。
黒板上の時計を見れば、たしかにもうすこしでホームルームだ。
ほどなくして来るであろう担任教師の顔を思い浮べつつ、篝も椅子に腰掛ける。
冬の寒空。
暖房と馬鹿騒ぎで若干暖まってきた室内から外を眺めつつ、ほんのり赤くなった頬を隠すようにマフラーへ顔を埋める。
窓際の寒さはそれでしのげたが、もちろん、顔を覆うには些か面積が足りていなかった。