あるところに、全くレースに勝てていないウマ娘がいました。

そのウマ娘は勝てなくても、心が通じ合ったトレーナーがいました。

トレーナーも、そのウマ娘も、勝ちたくて、勝ちたくて、未来に願いました。


これはあるウマ娘の話。
楽しいことも、苦しいこともあるはず。しかし、心から信頼するトレーナーと手を取り、一歩ずつ進んでゆけば……

その先にはきっと、素晴らしいエンディングが待っているはずだ

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その名を示す満開の星々よ

 

 瞬く星々の中に、君は似合っているよ。

 そんなちゃちな言葉でその事実を表すことができればどれだけ良かったことか。もう俺にとって彼女は、そこにいるのが当然であるようになってしまった。

 

 この時間まで練習をしている子というのは、少ないといえば少ない。が、やはり「強い」と言われるウマ娘たちは、時折この時間にも姿を見せる。彼女たちは圧倒的センスの上に努力を重ねているのだ。

 では、こう言っては何だが、センスがない一般的な子たちがそんな彼女たちに勝つためにはどうすればいいのだろうか。才能の開花を待つ?運を天に任せる?それも確かに一つの解かもしれない。が、そうは行かないのがウマ娘というものである。

 

 星々が瞬く空から視線を目の前に下ろすと、小柄な体を懸命に動かしながら、限界に近いであろう体力を最後まで使って進んでいる一人の大切な、大切なウマ娘かいる。俺がどうしても担当したくて、スカウトして、ここまで二人三脚でやってきた、大切なパートナーだ。

 

 ぱっと後ろを振り返ってちらっとこっちを向いた彼女は少し微笑んで、ゆっくり歩きながら息を整える。

 

「トレーナーさん。今、何時ですか?」

「ああ、今は8時30分だな。……そろそろ整理運動しよつか」

「わかりました」

 

 大体寮の門限は9時となっている。本来なら余裕をもって帰っておくのが一番いいが、今日はギリギリまでしたかった理由がある。

 

「トレーナーさん。明日、私勝てますか?」

「……勝てるとも。今までの練習を信じよう」

「はい!」

 

 明日は彼女にとって大きなものである、レースだ。

 このトレセン学園に入ってきた子たちは皆、一度は大レースに出たいとか、勝ちたいといった気持ちを持っている。だが、勝つというのは、そのレースの1番になるということである。そうやすやすとできるものではない。

 

 彼女は恵まれていて、それでいて残酷な運命を叩きつけられていた。

 彼女は初めてのメイクデビューで見事一着で、オープンで戦えるようになったが、それから一度も勝っていないのだ。勿論、二着や三着などの好走はある。しかし、それまでだ。

 

「絶対明日勝つぞ」

「もちろん、獲ってきます。一着を」

 

 彼女の目は闘志で燃えていた。何度敗れようとも、俺は彼女の目が曇るのを見たことはない。いくらでも涙で濡れようとも、曇りもぼやけもしなかったこの瞳が、俺は何より好きだった。だからこそ、この瞳に俺は勝利の歓喜に満ち溢れた光を灯して見たくなったのだ。

 

 整理運動も、ストレッチも終わらせた彼女は俺に寄り添うように立つ。

 

「トレーナーさんをずっと信じます」

「ああ」

 

 少し頬に触れながらのその信頼の言葉に、俺の心はいともたやすく解かされる。彼女しか見えなくなる。

 ちらりと夜空を見上げると、先程よりも満点に広がる星星が明日の彼女の行方を示しているようで、心躍る。

 ふと横を向くと、同じように空を見上げている彼女が、その瞳に星を湛え、ぼうっとしている様子である。俺にはその瞳の星が彼女の希望であるような気がして、お願いだからそれが曇ってしまわぬようにと願った。

 

 翌日、いつものようにレース場にきた俺たちは控室で対面していた。

 

「大丈夫だ。昨日までの努力を信じろ」

「ふぅ……ありがとうございます。トレーナーさん」

 

 彼女はいつもかなり緊張に弱い。こうして、レース前になると決まって足が震えだし、落ち着きがなくなる。

 俺はその時、決まって彼女に寄り添う。前は手を握っていた。この前は頭を撫でてやった。今日は抱きついてきた彼女を壊れないようにそっと抱擁してやる。腕の中の彼女の震えが止まって、その瞳を見れば、彼女が覚悟を決めたことがわかった。

 

「……じゃあ、行ってきますね」

「ああ。待ってる」

 

 彼女が控室から出たあと、俺もそっとその場を離れた。

 

 スタンドに行くと、本日は大レースがないからか、普段と比べると観客の少なさが目立った。俺はこれ幸いに先頭付近に陣取って、目の前の芝を見つめる。彼女にとって最高のコンディションだろう。

 しばらく経つと、本バ場入場が始まる。

 皆調子は良さそうで、これと言って絶不調に見えるような子はいなかった。勿論彼女も気合の乗りがよく、今までで一番のコンディションであると想像がつく。バ場状態も、本人も絶好調で、最高の状態だ。

 

 ゲートに全員が収まり、バンッ!っとスタートが切られた瞬間、彼女は飛び出していた。

 先頭を飛ばしている。彼女が得意とするポジションについて、どんどん後続を焦らせていく。

 そこから届くのか?疑心暗鬼になった後続の何人かがすっと前に出て来始める。だが、それも意に介さないように前を走り続ける彼女はかっこいいようで、また一種の哀れさのようなものを滲ませていた。

 

 コーナーを抜けた瞬間、後続が一気に追いついてくる。今になって気づいた彼女はもう1段階スピードを上げるが、落ち着いてレースを進めた差しの子残り200メートルで簡単に前に出る。そこからどんどんと抜かれていく。

 ああ、だめだ。それ以上その顔を見せないでくれ。彼女の顔には諦めと闘志と、自分に対する絶望と、また嫉妬や羨望など、様々な表情が覗かせる。

 

 一着は結局最初に彼女を差し切った子だ。彼女はラストで抜かれつつも5着。掲示板である。

 俺はそれを見てすぐに控室に戻った。きっと彼女はあの顔を俺に見られたくなんてない筈だ。それなら俺には俺の仕事がある。

 がちゃり、と扉が開いて、無言で近づいてきた彼女は俺の胸に頭を預けると、震えだす。啜り泣く声が小さな控室に響いて、俺の涙腺までも熱く熱を持つ。

 

「かてなかったよお……!」

「ああ」

「かちたかったよお……!」

「頑張ったもんな」

「うぅ……あぅっ……!」

 

 苦しむように、ひねり出したようなその嗚咽は、この敗北と言う事実にのみあるものではない。彼女と私は突きつけられたのだ。現実を。

 これまでの敗北は、何かしらの不備が必ずあった。彼女の調整がうまく行ってなかったり、追い込みが足りなかったり、はたまたレースの展開が向かなかったり、バ場状態が得意な状態でなかったり……今回は、そういったものは一切なかった。何なら、すべてが怖いくらいにうまく行ったほどである。

 しかし、彼女は勝利を掴むことはできなかった。

 まるで、勝利の神がお前などは勝てないと直接囁いたような事実に、彼女はどういった瞳をしているのか、俺にはそれを確認する勇気はなかった。

 

 きっとしばらく引きずるだろうという想像とは反対に、彼女は存外早く立ち直った。今日は来ないかな、と思っていた部室に現れ、いつものように闘志の満ちた表情でこちらを見つめていた。その瞳は一見いつもと同じように見え、又違うようでもあった。

 変な違和感を見ないふりしつつ、俺はいつものように勝つためのメニューを渡す。俺にできることは何でもなく、彼女を信じることだけだ。

 

「トレーナーさん。……次は、勝ちますから」

 

 真っ直ぐな瞳が俺を射抜いた。俺はなにか勘違いしていた。それは彼女の姿なのか、はたまたウマ娘という種族かもしれない。しかし、貪欲に勝利を求めるその姿はまるで自らよりも勝利を優先してしまうような危うさを持っていた。

 本来は気にしなければいけない立場である俺は、その姿に魅せられた。その姿をいつまでも見ていたい。そんなことを考えてしまった。

 

 トレーニングが一通り終わって、部室に戻ってきた俺たちは、ソファに座ってだらけていた。昨日がレースだった以上、あまりに強度が高すぎるトレーニングはできないため、ある程度の慣らしのような運動をして戻ってきたに過ぎないからだ。

 彼女はものすごくもっとやりたそうにしていたが、それを止めるのがトレーナーとしての役割である。

 

「ねえ、トレーナーさん」

「ん?何だ?」

「私、どうすればいいんでしょうね」

 

 彼女の瞳には不安と諦め、闘志、そして僅かな期待が揺らめく。

 昨日のレースは彼女にとってどんなものだったのだろうか。それは彼女ではない俺にはわからない。しかしながら、その僅かな期待に答えたくて仕方がなくなった。

 

「これからも、一緒に頑張ろう。……そしたら、きっと」

「……えへへ、ありがとうございます」

 

 彼女は安心したように頬を緩ませて、優しい、落ち着く声で答えて、ゆっくり肩にもたれかかってきた。

 

「トレーナーさんを選んで良かったです」

「そういってもらえて、光栄だな」

 

 すべてを預けられ、重いくらいの信頼の筈が、今の俺にはあまりに気持ちが良かった。

 ゆっくり、ゆっくり流れる時間の中、意識がぼやけてきた頃、規則正しい寝息が聞こえ始め、俺もぱっと意識を手放した。

 

 目覚めた瞬間、嗅ぎなれた珈琲の匂いが鼻を刺激した。いつも彼女が淹れてくれる珈琲。

 体を起こし、目の前に置かれ、湯気が出ているそれを一口飲むと、後ろから声がする。

 

「起きました?」

「ああ。……今何時だ?」

「8時くらいです。もうすぐで門限ですね」

「そうか。すまん、寝てしまって」

「あはは、大丈夫ですよ、私もさっき起きたばっかりですしね」

 

 彼女は、彼女専用とも言っていいマグカップを手に持ち、外を眺めていた。相変わらず外は雲ひとつない晴天で、数多の星々が俺たちを見守るように煌めいている。

 俺も隣に立って、その空を眺める。小さな虫の声もよく聞こえるくらい、静かな、静かな時間だった。

 

「ねえ、トレーナーさん。さっき、ありがとうございました」

「何が?」

「私を受け入れてくれて」

 

 彼女は少し残っていた珈琲を一気に飲み干し、流しにおいて、扉の前に立つ。

 

「好きです。トレーナーさん」

 

 振り向いたとき、背後で大きな風が吹く。思わずそちらに気が取られると、すでに彼女はこの場にいなかった。

 しかし、それは自分にとっては僥倖であったかもしれない。

 俺はその言葉に対する明確な答えを持ち合わせてなどいなかったからだ。

 

 翌日からの彼女はというと、何もかも気にしていない様子で、いつもと同じように俺が考えたメニューをこなし続けた。

 次は勝たせたい。そんな思いが反映され、時には明らかにオーバーワーク気味にしてしまうこともあった。それでも彼女は文句一つ言うことなく、「トレーナーさんが言う事なら、きっと正しいんです」と、こなし続けた。

 

 俺は焦っていた。後数日後はレースだ。なんとしても彼女を勝たせなければ。そうしないと――その先の言葉は出なかった。俺自身もわかっていなかったのかもしれないし、その先が俺にとって目を背けたくなるものだったからかもしれない。

 俺はより厳しいトレーンングを課した。もしかすると、そのへんのウマ娘の二倍、いや三倍くらいの強度になっていたかもしれない。彼女の体調が日に日に崩れていっているのは俺とて、気づいていた。しかし、調整も必要である以上、この時期に追い込まないと、もう追い込む暇がない。そう思っていたからだ。

 

 彼女の元気がなくなってきた。後ほんの数日で追い込みの時期を終えるというのに。入念に、入念にマッサージをして、彼女がこれ以上苦しむことも、体調が崩れることもないようにできるだけのことはした。

 俺がマッサージをしたり、体調の心配をすると、決まって彼女は申し訳無さそうな顔をして、「ごめんなさい、トレーナーさん」と謝った。

 違う。俺が見たいのはそんな申し訳無さそうな顔じゃない。もっと心からの――いや、俺にそれを望む資格はもうないのだろう。

 

 今日は追い込みの最終日だ。坂路を何本も何本も走らせた後、芝の上を2000m何回も全力で走らせる。最後の追い込みに、いつもより調子良さげだった彼女をゲートに送る。ガタンとゲートが開いて、大きなストライドで飛び出す。もう何度も見てきた光景にぼっーっとそれを眺める。

 異変を感じたのはコーナーでのことである。いつも飛び立つような走りをする彼女が、今日はどこかへ飛んでいきそうだと思ったのだ。彼女が遠いところに行ってしまう。そう思ったのだ。

 

 俺は危険なんか顧みず最終直線に差し掛かった。彼女は俺に気づかないみたいで、スピードをあげながら突っ込んでくる。

 突然ぐらりとバランスを崩したかと思うと、減速しながらも、懸命にゴールへ向かう彼女の顔がよく見える位置まで来てきた。俺は彼女の元に走り、その体を支える。足はつかないように、抱っこする。

 

 俺がターフの真ん中で呆然としていると彼女の足がものすごく痙攣している事がわかった。体は真っ赤で、とても排熱が追いついているとは思えない。こんな限界な状況で走るなど、通常なら考えられないことだ。

 その眠ったような顔を見て、ものすごく怖くなる。もしかすると彼女は本当に遠いところへ行ってしまったのではないかと思ってしまう。微かに溢れる呼吸から命が感じられ、暴れる思考をいくらか落ち着ける。

 

 俺は彼女を担いで、そのまま病院へ向かった。学園の保健室では対応できないほどの症状であることくらいはわかったからだ。

 

「骨折です。……重度の」

 

 その医者から言われた言葉を、俺は簡単に飲み込むことができなかった。

 

「……本当ですか?」

「本当です。疲労骨折で、上手く治るかは、正直なんとも……」

「あの子は!……まだ走れますか?」

「それは……本当になんとも……下手をすれば、治るまでにとてつもない時間がかかる可能性もあります」

「そんなに……」

「筋肉へのダメージも相当なものがあり、リハビリがどうなるか……こちらも最善を尽くしますから。ともかく、一刻も早く意識を取り戻すことを願いましょう」

 

 ちらりと隣のベッドに寝かされた彼女は眠っているような健やかな表情だが、今も意識を取り戻さない。

 俺はなんてことをしてしまったのだろう。このまま彼女が二度と走れなくなったら、生きる理由を見失ったら、俺は何ができる?俺の焦りのせいで、彼女はウマ娘として一番大切な時期を失うことになるのか。

 自然と涙が溢れる。医者は席を外し、去っていく。俺はそのベットに顔を埋め、嗚咽を溢す。

 

 どれほど時間が経ったかわからないが、突然頭を撫でられるような感覚で顔を上げた。

 顔を上げたそこには、優しげな顔をした彼女が俺の顔を撫でてくれていた。

 

「トレーナーさん……すいません。練習、やりきれなくて」

「すまないなんて言わないでくれ!俺が悪いんだよ……ごめん、ごめん……!」

「トレーナーさん。私のために、ありがとうございます」

「でも!それで君は……」

「はい。……自分でもなんとなくわかります。多分、走れないし、きっとまた走るためには時間がかかるだろうということも」

 

 彼女は足を擦りながらそう言う。優しげな表情の中にほんの少しだけ陰りが見えたような気がした。

 

「でも、いいんです。トレーナーさんを信じたのは私です。それにトレーナーさんは私のためを思ってあの練習を組んだ。それだけじゃないですか。何もおかしいことなんてなかったんです。運が悪かっただけで」

 

 彼女は諦めたような表情で微笑みながら話す。痛々しいその表情が、俺を刺してやまない。

 

「本当に、ごめん……」

 

 俺は、彼女の顔を真正面から見ることができなくなっていた。目を背けながらそう言うと、カノジオは困ったような声になりだした。

 

「そんなに謝らないでください……!私はトレーナーさんのせいだなんて思ってませんし!……でも、一つわがままを言わせてもらうとしたら、責任取ってずっと一緒にいてください。って言うのはわがままですね」

 

 冗談のように笑って見せる彼女の顔を見る。ここではじめて俺は彼女本来の笑顔を見た気がする。作った笑顔ではない、純粋な笑顔。

 

「トレーナーさん。私はあなたが好きです。信じてます。……だから、そんなに自分を卑下しないでください。大丈夫です。まだシニア級には間に合うかもしれないでしょう?」

 

 先程より、少し吹っ切れたような表情に、思わず見とれてしまう。彼女からの重いほどの信頼が際立つ純粋な瞳にはまだ闘志はなくなっておらず、俺が大好きな目線がこちらを向いている。

 

「ああ。……君が戻ってこれるとき、きっと大きな花を咲かせられるように」

 

 ようやく涙が止まり、前向きな言葉が出てきた。傷心の担当から慰められるなんて、なんて格好悪いトレーナーだろうか。

 それでもいい。俺は、彼女の好きな俺のことを少しでも好きになれるようにするから。

 

「あっ!トレーナーさん!」

 

 病室に入ると、元気な声が響く。机には珈琲が淹れられている。

 

「そろそろだろうなって思ってたので。はい!」

 

 珈琲を手渡され、一口飲む。いつも通りの彼女の珈琲の味がして安心する。

 俺は約一ヶ月たった今も、毎日病院へ通っている。最近俺が一番いることが多い場所はこの病室だ。

 最初は無臭で機械的な感じすらしたこの病室も、今はものも増え、彼女の甘い香りが漂っていた。

 この病室で俺は彼女と何度も何度も話し、すっかり敬語も取れた彼女との絆を深めた。俺は彼女のことなんて全然わかってやれてなかったんだと言うこともわかったが、それよりも彼女のことを知れるのが、楽しみで仕方なかった。

 

「ギブス、取れたのか?」

「うん。思ったよりずっと早いってさ」

「良かったなあ。本当に」

 

 ここまで長かった。彼女は手術を必要としたため、あの後手術が行われた。ギブスがはめられ、しばらくは歩くことも禁止されていて、退屈そうにしていたのを覚えている。そこから、松葉杖で動いていい事になり、時々ギブスを外せるようになり、今日ついにもうつけなくても良くなったのだ。

 

「ね、中庭行かない?もう私も歩けるしさ!」

 

 彼女はここに入院してすぐから中庭に行こうと行って聞かなかった。

 この病院の中庭にはきれいに整備された花畑があったり、木々が植わっていたり、ベンチがあったり、入院生活に疲れた人々のオアシスとしての機能をもっていた。

 この病室からちょうど見えるということも相まって、彼女は早く行きたいとうずうずしている様子だ。

 俺はかけていたコートを彼女に投げ、自分の上着を着た。

「ありがと」

 はにかんだ笑顔が眩しかった。

 

 中庭では、陽の光が適度に差し込み、木に遮られて木陰ができていた。彼女が怪我をしてもう一月経ち、すっかり寒くなっている。

 陽の光が差し込むベンチに腰を据え、そっと空を眺める。夏とも秋とも違う静かな空に少し寂しさを感じ、隣を見る。隣では、彼女がこちらをじっと見つめていた。

 

「どう?久しぶりの外は」

「気持ちいいね」

「そうだろ?」

 

 この短い応酬を楽しんだ俺達は、はあ、と一息つく。息が真っ白に色づいて吐き出され、冬の訪れをはっきりと伝えてくる。

 

「一月もかかっちゃったね」

「……ああ」

「もうすぐ年も開けちゃうし、ね。まあ良かった。私、もしかしたらもう走れないかもって思ってたんですもん」

「どうって?」

「足の具合?早ければ、春までにはレースに出られるように。長ければ、夏だってさ」

「そうかあ……春、いくつか出られたらいいな」

「いや、出るよ。きっと。だってさヴィクトリアマイルとか絶好の距離じゃない?」

 

 彼女はおおよそ1600から2200メートルまでの競争が適性に合っている。だから、自然とマイル、中距離の競争が主になる。これからあるGI級競争の中なら、大阪杯、ヴィクトリアマイル、安田記念、宝塚記念、天皇賞秋、エリザベス女王杯、マイルチャンピオンシップがある。彼女がまだファン数の関係で出走できなかったとしても、まだまだチャンスはある。諦めなければきっと……

 

「じゃあ、これからの競争で大注目のウマ娘さん!ズバリ、大目標は?」

「忘れ物を取りに行きます!」

「つまり……?」

「エリ女で必ず!」

 

 アナウンサーの真似事をしつつ、彼女にそう問いかけてみると、想像通りの答えが帰ってきた。

 過去はティアラ路線の一つとして数えられていたエリザベス女王杯。現在も威光が衰えることはない。彼女の最初の目標、ティアラ路線に出走が叶わなかった彼女にとって、元とはいえ、ティアラ路線に関連があるレースは絶好の目標だろう。

 俺はそれまでに彼女をGI一線級まで強くしなければならない。そう簡単なことはないだろう。しかし、今は自分ひとりだけではない。彼女と二人三脚で、進んでゆく。

 

 稀に人とウマ娘の絆はそのウマ娘をとてつもない強くすると言われることがある。それは全く幻想などではなく、紛れもない真実であることを彼女は証明するかのごとく素晴らしい進化を遂げていく。

 今までは一番調子が良かったと思っていたあの敗戦のときも大きく上回るタイム、仕上がり。そして完全に治った足を携えて、彼女はレースに向かう。

 たまたま取れた出走登録。このチャンスを逃せばもうない。そんなことわかっていても俺たちは全く緊張しない。

 

「さあ、ここから始めよう。君の伝説を」

「信じてるね、トレーナーさん」

 

 控室でそんな会話をした後、彼女はパドックへ向かっていく。俺も観客席に向かう。彼女の去り際の表情は自身に満ち溢れており、心配なんてしたくてもできないほどだった。

 

 観客席は大きな盛り上がりを見せている。それもそうだ。夏レースの中でもトップを争う人気を誇るレースが今から始まるのだ。

 耳を澄ますと、皆人気の子達のことばかりを話して、彼女のことなんか気にもなっていないようだ。それはそうだ。ジュニア級に少し注目を浴び、すぐに消えていった存在、それに抽選滑り込みでの出走になった最低人気なのだから。

 でもそれでいい。最低人気が怪我を乗り越え重賞勝利。なんてドラマだろうか。そのままみんなを虜にしてしまえ。

 

 ファンファーレが鳴り響き、大きな歓声が上がる。ゲートの前には出走するメンバーが深呼吸をしている。彼女はこちらに気づくと、ニヤリと一つ笑った。

 さあ。札幌記念が始まる。

 

 ボン、飛び出した瞬間、簡単に彼女は先頭に立ってしまった。他の逃げの子たちは焦って競りかけようとするけれども、残念ながら捉えることは叶わない。もうずっと前に彼女がいることに気づいたからだ。

 

 軽快にハナを進む彼女はほぼペースを変えることなく最終コーナーに入る。もちろん他の子達も放ってはいない。徐々にペースを上げてきた先行勢、足を貯めに貯めている差し追い込み勢が一気に迫ってくる。

 が、彼女はもう一段階加速した。サイレンススズカのように逃げ差しだなんて言えない。とにかく、追いつかれなければいいのだ。

 どんどんと差が縮まる。追いつかれる!誰もがそう思ったとき、俺の脳内に彼女の景色が流れ込んでくる。

 

 そこは暗い、暗いけれども、星々と月明かりが照らす平原だった。

「トレーナーさん」

「ああ……」

「私、感謝してるんですよ?ここまで私を育て上げてくれて」

「でも俺のせいで迷惑もかけただろ?」

「私はそんなこと思ってませんって」

 

 後ろを向いていた彼女はゆっくりとこちらを振り向いて、手を差し伸べてきた。俺が手を重ねると、そこが大きな光をもって周囲を包みだす。

 意識が少しずつ薄れゆく中、彼女の声が耳に届く。

 

 あなたのこと、もう好きなんかじゃ表せなくなりました。もっと大きな――

 

 気がつくと、さっきまでの観客席にいて、彼女は抜き去られようとしていた。しかし、彼女も俺も焦ってなどいない。ふっ、とニヤリとした彼女はもう一段階加速し、差し馬たちを置き去り差を広げ始め、そこでゴールインした。

 

 大きな、大きな歓声が上がる。最低人気の劇的完勝劇。それに怪我からの復帰戦だと言うではないか。新たなヒロインの登場に、レース場全体が歓喜に包まれる。レース前とは違い、彼女の名前を呼ぶ声も響く。

 

 歓声に背を向け、控室に戻ると、花開いたような表情で彼女は俺に笑みを向けた。

 

「みんな驚いてたね?」

「そりゃあそうだろ。あんなにいいレース見せられたら。……ここまで頑張ってきた甲斐があったな」

「これで目標に一歩前進!だね」

 

 これまでで一番の笑顔が眩しい。まるでスカウトした時みたいな……そんな表情に俺は懐かしさを感じる。

 ああ、そうだ。俺は闘志の満ちた瞳と、この何者も笑顔にしてしまうような雰囲気に惚れてスカウトしたんだ。

 汗の残る表情も、思いっきり喜んでいるその顔も、全てが愛おしく見えて……頭を振ってそれを否定する。なんてことを考えてるんだ。担当に愛おしいなんて……これは明らかに担当のウマ娘には抱いてはいけない感情だ。

 バクバクと脈打つ気持ちを押さえつけつつ、できるだけ笑顔で、

 

「ああ」

 

 と返事をした。

 

 大盛況のウイニングライブも終わり、疲れていた俺たちはぼーっとしつつも取材をこなし、学園に戻ったあとは何もせずに寝てしまった。

 朝起きたときに、そこは部室で、テーブルには珈琲が置かれていた。

 

「おはよ。今日は大変だったね」

「まあ、な」

「……でも、私、やっと目指せるんだ。GIウマ娘」

「後重賞一つ勝ったらGIも出走できるな。……次は府中ウマ娘ステークスだ。そこからエリ女にいこう」

 

 府中ウマ娘ステークスは1800mのGIIで、エリザベス女王杯の優先出走権を持つ競争だ。昔からエリザベス女王杯の前哨戦として知られ、今回は俺たちもそのように使う予定だ。

 とはいえども、もちろん皆必死に走る。使う予定だからといって、手を抜くことは許されない。

 

「次も絶対勝つぞ」

「もちろん。信じてて」

 

 最近彼女は今まで多かった「信じてる」の言葉は減り、「信じてて」ということが増えた。彼女の顔には強い自信と俺を信頼する意思が見て取れ、その瞳には相変わらず希望と闘志が宿っている。

 俺が静かに頷くと、彼女はふっと表情を崩し、笑みを浮かべる。彼女はきっと俺が思うよりずっと強くなっているんだろう。

 

 彼女のトレーニングは熾烈を極めた。俺もトレーニングの勉強をやり直しつつ、彼女に足りない物を徹底的に鍛え上げるつもりの予定を組む。

 いつかのように潰れかねないようなトレーニング量だが、そのようなことはない。彼女もきついときはきついと言うし、トレーニングの効果に疑問を感じればすぐに報告してくれる。

 もちろん俺も彼女の様子はずっと見ているので、少しでもオーバーワークがすぎると思ったときはすぐに辞めさせた。

 こうして彼女はずっと進化しながらレース前に進んでいく。その効果は凄まじく、体もGIを勝ったウマ娘たちと遜色ない程度には仕上がっている。

 負けという可能性を極限まで減らし、間違いなく今回出走するメンバーの中で一番の実力であると誰しも認めるほどのタイムを出し、前日予想ではなんと一番人気となっていた。しかしながら、彼女はそれを一切気負うことなく、

 

「大丈夫だよ」

 

 と笑っていて、本来最後まで気が抜けないはずの俺もつい笑みが溢れてしまうほどだった。

 

 始まった阪神ウマ娘ステークスは想像よりずっとあっさりした勝ち方だった。一気に先頭で始まったレースは、どんどんと差を広げて大差で一着。

 大きな、大きな盛り上がりを見せるレース場に背を向ける。

 あんまり言うことではないが、正直絶対に勝つとしか思っていなかった。あんまり強い子は出ていなかったし、彼女の気合も最高潮だったし、心配することは何もなかったからだ。とはいえ、少しホッとする気持ちはある。

 ついに彼女は夢のGIに挑戦できるのだ。と思うと気持ちが踊る。ティアラが目標だといった彼女は、一時は希望を灯さない瞳になったが、今の姿はどうだろう。さっき見た彼女の瞳は嬉しそうに細められており、その中には希望と闘志に満ち満ちている。

 

「応援してくれて、ありがとうございます!」

 

 彼女の声が聞こえ、ひときわ大きな歓声が上がる。

 ここで俺は頬を伝うものがあることに気がついた。

 

「なんでだ?……まだ、終わってないのに」

 

 まだ彼女の目的は達せられていないというのに、俺は想像以上に嬉しかったらしい。

 

 記者たちを前にして、彼女は堂々と宣言する。

 

「エリザベス女王杯で忘れ物を取りに行きます!」

「おお!」

 

 ウイニングライブも終わり、レース場を出ると、多くの記者に囲まれた中で上がった次走の質問にニヤリとした俺たちは、しめた!と思った。

 記者たちのいい反応に嬉しそうな顔をしつつ、彼女は続ける。

 

「私とトレーナーさんが一緒なら、誰にも負けません!」

 

 そうしてとっとと歩き出す彼女を追いかける。後ろから大きな、素晴らしいです!という声でちょっとビビったのは秘密である。

 

「なあ」

「ん?」

「良かったな」

「えへへ、ありがとっ!」

 

 彼女の笑顔は、見るたびに魅力を増していく。

 

 帰って今日こそはきちんと帰らせて寝かせようとしたが、相変わらず気付いたら朝で、起きたときにはテーブルに珈琲が置かれていた。

 

「ちゃんと部屋で寝たか?」

 

 俺は正直諦めたように言った。

 

「さあ?」

 

 彼女はからかうように言うと、いつの間にか置かれていたトースターから焼けたパンを取り出し、2つの皿に乗せ、持ってくる。

 

「これ、朝ごはん」

「ん。ありがとうな」

 

 二人で一緒の朝ごはんを食べる。これから彼女は学園の食堂も利用するので、本当に軽く、食パン一つずつだ。

 ふと外を見ると、驚くほどの快晴だった。

 

「まだ暑いけどさ、明日はすごく寒くなるんだって」

「ああ」

「そういえば、去年の今頃ってさ……」

「ああ。……もう一年経つのか……」

 

 去年の今頃は確か、レースで勝てなくて焦っていたときだ。あの頃は彼女を理解できていなかった。今となって恥ずかしいばかりだが。

 今もしあの頃に戻れるとしたら、自分をぶん殴ってやりたい気持ちでいっぱいだ。

 

「ね、トレーナーさん。また夜遅くまでトレーニング、しませんか?」

「え?時間の余裕あったほうがいいんじゃないか?」

 

 最近はあの頃やっていた無茶なトレーニングは改善しているので、夜遅く完全に日が落ちた時間までいることは少ない。

 

「ねえ、お願い。トレーニング始める時間遅れてもいいからさ」

「…………なんでか聞いても?」

「それは秘密だよ。でも、それは私達にとって、本当に大切なことだと思うんだ」

 

 「私達」その言葉には俺も含まれていた。俺達にとって大切なこと……

 

「わかった。今日のトレーニングの開始時間を遅らせよう」

 

 俺には理解できなかったが、その真剣な彼女の顔を見れば、とてもじゃないがそれがただのわがままから発せられた言葉ではないことは理解できる。

 何より、不思議とここで言う通りにしなければ後悔する、という不思議な直感を感じたのだ。

 

 学園に登校していった彼女を見送り、これからを考える。

 きっと彼女はエリザベス女王杯で勝つ。でもそれは現段階で勝てるわけじゃない。俺と彼女、しっかり力を合わせて初めて、その冠は彼女に捧げられるのだろう。

 俺はそれを見なければならない。彼女がGIを勝つところを。俺にできることは少ないが、トレーニングの考案や、彼女のが絶好のコンディションで出場できるように調整をすることは絶対に譲れない俺にしかできない仕事だ。

 追い込み過ぎはもちろん駄目だ。しかし、確実に追い込めるメニューは……

 

 予定表や、メモにペンを走らせていると、もう夕方だった。また昼飯を忘れているが、それを咎める彼女は今日はまだ来ていない。

 

「こんにちは」

 

 彼女がドアを開いて入ってくる。窓から夕日が入ってくる。時計の針もだいぶ落ちてきており、それが良い時間を示していることを気づかせる。

 

「トレーナーさん、ご飯食べました?」

「まだ夜ご飯には早いぞ」

「昼の話ですよ」

「……」

「はあ……ちゃんと食べてくださいよ。私は心配です!」

 

 怒ったような表情で注意してくるが、今まで何回言われようとも改善しなかったのだから正直諦めている様子も見える。それでもしっかり注意されるあたり、本当に彼女が俺を案じてくれていることが分かり、申し訳なくも思うのだが。

 

「はい。昼食べなかった分たくさん食べますよ」

「弁当か?本当にありがとう……」

 

 彼女はそこそこ大きなサイズの弁当箱を取り出す。ウマ娘の彼女はまだ良いだろうが、一般的なヒトである俺には多い気もするが、それが彼女の心配からくるものだと思えば嬉しくなった。

 

 二人で弁当を広げ、食べていく。今日は流石に先に少しでも腹ごしらえして置かなければまずいくらいの時間までやる。しっかりエネルギーを補給するかのごとく大量にご飯を食べていく彼女を見ていると、少しほのぼのした気分になる。

 

「……?どうしたんです?トレーナーさん」

「いや……平和だなって」

「そりゃーそうですよ。去年の今頃は栄養補給せずとんでもない時間ぶっ通しでトレーニングしてたんですから」

「勘弁してくれ……」

「まあ、でも、私は貴方にまたあのトレーニングをするよう指示されて、説得も聞かなかったら……やるくらいの気概は持っていますよ」

 

 そのあまりに真剣な表情に、少しドキリとする。彼女のその覚悟は一体どこからくるのだろうか。勝ちたいという気持ち?それとも……

 

「トレーナーさん。私食べ終わりましたよ。早く食べて!」

 

 彼女が目の前にいることに気づく。呼びかけられても気づかなかったようだ。

 俺は早くその手作りの弁当をかきこむと、外に向かった彼女を追いかけた。

 

 外はといえば、もうそれはきれいな夕焼けが見えた。これからトレーニングを始める子たちは少数派であるようで、多くは汗を拭いながら部室棟へ帰っていっている。

 

「今からトレーニングするのって、私達だけなんですかね」

「そうかもな。前もこの時間帯には相当有力な特殊な子たち以外はもういなかったしな」

「二人っきりかもしれませんね」

「うるさい、早く準備運動してこい」

 

 心臓に悪いことを言う彼女を送り出し、トレーニングを確認する。一応学園と寮には門限をすぎると言ってあるのでいいのだが、少し門限の時間をすぎるくらいの時間まで掛かりそうだ。彼女のためにも、早く終わらせてあげようかな。

 

 しばらくトレーニングを続け、最後のメニューはあのときと同じ、走り込みだ。

 天頂には星々が瞬いており、去年のことを思い出す。去年だけではない。

 彼女を見ると、汗を煌めかせて、小さな体を懸命に動かし、一歩一歩進んでいた。そういえば、俺は彼女にいつもこんな星空の下で惚れているんだ。

 

 その日はあまりに疲れた日だった。いろんないいウマ娘はことごとくベテランさんに取られるし、新人というだけで断られることもあった。さっきまでいろんな子達のところや、先輩トレーナーさんの話を聞いたりしていたら、もうすっかり夜である。

 空には煌めく星々が瞬き、虫の音がきれいだ。ゆっくり視線を下げ、グラウンドを見ると、こんな時間に走り込みをしているウマ娘がいた。

 俺は走って階段を駆け下り、その子に近づく。

 

 顔を見て驚いた。俺が今日本命でスカウトしようとしてい小柄な逃げの子だった。選抜レースは最終的に最下位だったが、彼女なら、きっとGIだって夢ではない。

 

「どうしたの?」

「だ、誰ですか?」

 

 突然話しかけたからか、警戒される。彼女とは話しておきたかったが、レースの後すぐに去ってしまった。つまり話したことはないのだ。初めて会った男に夜話しかけられるなんて、ウマ娘といえど普通考えて怖いだろう。

 

「ここのトレーナーだけど」

「そうですか……私は」

「ああ!いい。俺君の事知ってるから」

「選抜レース、もしかして見てくださっていたんですか?」

「もちろん」

 

 俺がそう答えると、途端に彼女は泣きそうな顔になり、謝り始めた。

 

「つまらないレースを見せてしまって申し訳ありません……普段はあんなじゃないんですけど……」

「つまらないなんてとんでもない!俺は君が一番良かったと思ったんだ」

「へ?でも、スカウトは……」

「それは君がすぐ帰っちゃうから、もういるのかと思って

「そんな!いません。ただ、あまりに不甲斐なくって……」

 

 また泣きそうな顔になってうつむく彼女に、守ってあげたいという庇護欲、そして何としてでも勝たせたいという気持ちが沸き上がった。

 

「もし、君がいいなら!是非、俺に担当させてくれないか……?」

 

 思い切って言ってみる。俺はきっと彼女を輝かせることができる。それに、俺はとてつもなく彼女の担当がしたくてたまらなくなっていたからだ。

 俺は断られると思っていた。どう見ても若い自分の風貌は安心感に欠けるし、有能でもない。しかし、ビクビクしながら首を上げると、彼女は存外嬉しそうな顔をして、

 

「はい!是非!」

 

 といってはにかんだ。

 その時の星々と、彼女があまりに似合いすぎて、一瞬呆けてしまう。

 汗はきらきらきらめいていて、その顔からは希望が溢れて見える。瞳には闘志がありありと溢れ出ており、きれいだった。

 俺は彼女に恋をした。

 

 気づいたら、すっかり周りの音が消え、さっきまでの記憶よりほんの少し大人になった彼女が優しげな顔をして立っていた。

 

「終わりましたよ」

「そうか……じゃ、帰ろう」

「待ってください。……少し話しませんか?」

 

 にっこりと微笑んだまま、彼女は俺を引き止めた。向き直って見た瞬間、俺は驚愕した。この目線は……

 

「ここ、初めて会ったとこと一緒ですね」

 

 優しい風が吹いてくる。彼女とその後ろの星々はあのときと同じようにあまりに似合っていた。

 やはり汗がきらきら煌めいて、その顔から希望が溢れて、瞳には闘志が宿っていた。が、変わったことが一つある。

 二人で見つめ合うその目線には互いに愛情が混ざっていた。

 

「ねえ、トレーナーさん。聞いていただけますか?」

「……ああ」

 

 まともなトレーナーなら絶対に聞いてはいけないことだ。今すぐやめさせないといけないことだ。

 それでも、俺はそれを止めることはできなかったし、止めるつもりもなかった。

 

「好きです。トレーナーさん。この世界の誰よりも貴方を愛しています」

 

 その目は真剣そのものだ。

 

「ああ。俺もだよ」

 

 そう答えると彼女は目を細めて、そうですか、と言って背中を向けた。

 

「きれいだね。空」

「ああ」

 

 俺達を見守るように星や月の明かりは降り注ぐ。隣の彼女の顔には光るものがあったが、それを指摘するのはきっと野暮なことなんだろう。

 無言で肩を抱いてやると、ばか、とそっと顔を埋めてくる。彼女と俺の距離は少しずつ、少しずつ近づいて、今では手を伸ばせば届く距離になっていた。

 

「絶対に必要だったんだ」

「ああ」

「この気持ちに整理をつけなきゃ……」

 

 彼女はそっと顔をあげ、俺を見詰める。

 

「断ってくれなきゃ、諦めきれないじゃないじゃん……!」

「それでも、君が好きだったんだ」

「ばかぁ……!」

 

 彼女の目からは涙が次々に溢れ出す。彼女にとってそれが残酷なことでも、俺にとっても必要なことなのだ。

 俺は彼女への思いと向き合わなければいけない日が絶対に来ると思っていた。

 

「なあ」

「……はい?」

「エリザベス女王杯、勝とうな」

「……はい、はい!」

 

 ここで彼女は俺の大好きな闘志と希望の宿った目で、花開くような笑顔を見せてくれた。

 

 エリザベス女王杯はGIだ。数多のウマ娘の中から選ばれた数人だけが出走することのできる名誉あるレースだ。というわけで、GIレースには勝負服と言われる衣装が存在する。だいたい希望はウマ娘に取られ、GIレース前に届く。というわけで彼女にもURAからの荷物が届いた。

 

「ね!開けていい?」

「ああ。いいぞ」

 

 彼女は部室に入ってきた途端、荷物をほっぽり出して段ボールに飛びつく。

 嬉しさを全身で表現し、今すぐにでも早く現物を見たいと言った様子だ。ハサミを渡せば、丁寧にテープで留められた部分を切り、段ボールを開く。

 

「わあ……!」

 

 中には綺羅びやかな装飾が施された彼女だけの勝負服が入っていた。彼女の名前から連想した花のブローチがついた真っ暗なコートの中にカーディガン。その下には空色のジャンパースカートだ。靴はローファーで、髪飾りに星の衣装が付いたヘアピン、左耳にはブーケのような花々の髪飾りをつけている。

 なんだか、中学生のように見える。

 

「今もしかして中学生みたいって思ったでしょ!」

「そんな事ない」

 

 少し拗ねたように頬を膨らませ、抗議の目線を飛ばしてくる。彼女はもう高等部の三年だ。年下に見られるのは勘弁願いたいのだろう。

 しかしながら、その学生に見える格好は、彼女には申し訳ないがとても良く似合っている。

 

「似合ってるよ。かわいい」

「そ、そう?しっかり考えた甲斐があったよ」

 

 しっかり彼女の方を見ながら褒めてやると、さっきとは打って変わって機嫌良さそうな声で胸を張って誇らしそうにする。それを見ていると、何を勘違いしたか、こちらを恨めしそうな目で見て、「す、スズカさんよりはあるもん……!多分……」という言葉を呟いて途端に勢いがなくなるのだから面白い。

 

「まあ、その服を着て、絶対にエリザベス女王杯勝たないとな」

「うん。絶対勝つよ」

 

 彼女は勝ち気な顔をしてそう宣言する。記者も、ライバルも誰もいない中だったが、それは確かに「宣言」であった。

 

 彼女との関係は、一年前とは大きく変わってしまったが、レースに掛ける思いは変わらない……いや、むしろ強くなっている程である。

 目の前で走っている彼女の瞳には勝ちしか映っていないし、きっと俺もそうだと思う。それだけ俺達はやっと掴んだチャンスを物にするために必死になっていた。しかし、エリザベス女王杯がもう目下に迫り、そう追い込んではいけないほどの時期になった今も、秘密で自主練を繰り返している彼女を、なんとかやめさせないといけない状況になった。

 しかし、彼女はもちろん直接言ったところで止まるような子ではない。俺はあまり取りたくなかったが、最終手段を取ることになった。

 

「なあ」

「ん?どうしたの」

「いや、今日から俺の部屋に泊まりな」

「え!?」

 

 トレーニングが終わった後、彼女にそう伝える。

 俺の最終手段は、俺の部屋に泊まらせて、自主練する暇を与えないことだった。もちろん、担当を家に泊まれせるのはもちろん好ましいことではない。が、この計画を理事長に話したときは思ったより簡単に許可が出たのが意外だった。なんでも無断で行っているウマ娘や、壁を破壊していくウマ娘に比べれば、きちんと許可を取りに来た

俺ならなにか起きることはないだろう。という判断らしい。寮長のフジキセキも事情を話せば苦笑いしながらも、「そういうことなら仕方ないね」と言う言葉を貰っている。

 

「まだ現役中だし?レース前だし?何より学園や寮長が許してくれないっていうか……!」

「何慌ててるんだ?……ちなみにその学園や寮長には許可貰ってるぞ」

「ま、まじぃ?」

 

 顔を赤くしながら、ぶつぶつとなにかを呟いた彼女はバッと立ち上がると、

 

「分かりましたよ!こうなりゃヤケです!準備してくるんで待っててください!」

 

と言ってドアを勢いよく開けて去っていく。

 

 彼女が戻ってきたのはそれから一時間くらい経った後だった。彼女はやたらおしゃれをしていて、とてもかわいいと思う。

 

「かわいいよ」

「そ、そうですか。ありがとうございます」

「でも、俺の部屋に来るだけで」

「好きな人の家に行くときくらいその……可愛くしときたいなと……」

「そ、そうか……」

 

 思った以上に可愛い理由に思わず恥ずかしくなってしまう。行った本人は真っ赤になった顔を隠しながら、「はずかしい……」と悶えている。

 

「まあ、とにかくいこう」

 

 その空気を打開すべく、歩き始めると、彼女は少し後ろをゆっくり歩いて付いてきた。

 

 トレーナー寮の部屋について、中に入ったとき、彼女の目がきらきらと輝いた。

 

「これがトレーナー寮かあ……」

「普通の部屋だろ?」

「なんだかマンションみたいですね」

「そりゃ、ほぼマンションみたいなもんだからな」

 

 彼女の荷物を寝室に置き、リビングに向かう。

 

「シャワーでも浴びてこい。俺は飯作っとくから」

「はーい」

 

 そうして、俺は大きな合い挽き肉を取り出した。多くのウマ娘が好きな、人参ハンバーグだ。

 これが曲者で、なかなか難しい。まず、そのサイズに整形することも難しいし、焼くのも難しい。なかなか中まで火が通らないのだ。しかし、俺は少しだけ慣れている。彼女はこのメニューがとてつもなく好きで、何度か作っているうち、勝手に慣れていたのだ。

 ジュージュー音を出しながらフライパン丸々一個分のサイズのハンバーグ、隣や奥でもハンバーグを焼く。それを焼き終わったら、重ねて人参を突き刺す。とんでもない重さの人参ハンバーグの完成だ。

 

「できたー?」

「おう。ご飯よそっとけ」

 

 いつの間にか上がっていて、少しだけ濡れた彼女がテーブルから呼びかけてくる。とっとと準備を済ませ、二人でテーブルに着く。

 

「「いただきます」」

 

 二人で合掌をして食べ始める。

 

「おいしいよ!トレーナーさん!」

 

 その笑顔を見て、きっと幸せとはこんなことのようなものを言うのだろうなと、漠然と思った。

 

 その後は、テレビを見たり、話したり色々した後、彼女をベットに寝せ、俺は床に布団を敷いて寝転がった。

 

「なんで別の布団なの?」

「それは……駄目だろ」

「トレーナーさん変なことしないでしょ?」

「そりゃ、しないが……」

「じゃあいいでしょ?」

「でもなあ」

「お願い」

 

 彼女のその声はあまりに真剣だった。

 

「はあ。わかったよ」

 

 彼女に押された俺は布団を出て、ベッドに寝転がる。少し狭いが、彼女がが小柄なのも相まって、全然寝れる範囲だ。

「あったかい」と呟いた彼女が俺に顔を埋めるようにしてしばらくすると、ずっと気になっていたように声を出した。

 

「なんでトレーナーさんはここに私を泊まらせることにしたの?」

「……今、調整期間だろ。自主練知ってるんだからな」

「……!ばれちゃってたかあ」

 

 彼女は驚いたような表情で微笑みながら覗き込んできた。

 

「私のこと、何だって知られちゃってるもんね」

 

 そういった彼女は俺に抱きつき、不安そうな声で問いかけてきた。

 

「ねえ、一週間後、勝てる?」

 

 それに対する俺の答えは一つだ。

 

「絶対勝てる。信じてる」

 

 それを聞くと彼女は安心したように瞼を閉じた。

 

 控室に綺羅びやかなでかわいい衣装をまとって深呼吸している影を一つ見ると、今まで感じたことのないほどの強い満足感を覚える。

 

「ついに来たな」

 

 今日までせっかく俺の部屋に泊まっていた彼女に、俺は徹底的なマッサージや食事をさせ、この日がこれまでで一番になるようにした。

 実際、彼女は今まで一番だろうと思っていた予想を大きく上回る仕上がりになっている。

 

「ここまでやってきたんだ。……勝てる、よね?」

「もちろんさ。信じてる」

 

 緊張した面持ちは、このレースにどれだけの意味があるのかを物語っている。

 本日の人気は一番人気。観客達は怪我を乗り越え、新たなヒロインの誕生を今か今かと待ち望んでいる。ここまで外の喧騒が聞こえてきており、時折彼女の名前が交じる。

 

「……へへ、今になって緊張してきちゃった」

「しょうがないかもな」

 

 彼女がここまで注目されたのは初めてだ。GIの一番人気というのは重圧となって彼女にのしかかっている。それなら……

 

「あ……え?」

 

 俺は彼女をしっかりと抱きしめた。彼女の小さい体にのしかかる重圧から、少しでも守れるように。

 

「……勝たなくてもいいなんて言えない。でも、信じてるから。しっかり勝ってきてくれ」

 

「あ、……あはは、ありがとう。信じてて?」

 

 そういった彼女はぎゅっと抱き返してきて、しばらくそのままだった。

 

 「じゃあ行ってくるから。信じててね」そう言ってパドックへ向かった彼女を見送ったあと、先頭に向かった。多くのファンがおり、俺に気づいたファンがいなければ、最後方で見ないといけないことになるかもしれなかった。

 ゲート前を見ると、もうみんなが揃って深呼吸している。緊張感が段違いだ。これまでの重賞とは違うという感覚が大きなプレッシャーとなって、こちらまで緊張してくる

 しかし彼女は落ち着き払って、しっかりと自分の調子を崩していない様子だ。

 

 全員がゲートに入り、ピンと張り詰めた空気がガタンという音によって一気に崩れ、大きな、大きな歓声が上がる。彼女は飛ぶようにハナを切って進む。

 

「スタートしました!全員出遅れはありません!ハナを切ったのは……」

 

 誰一人として自分のペースを崩さず、落着いて進んでいく。前半からかっ飛ばすのはいないし、それぞれの絶好のポジションで先頭を狙っている。コーナーに入るまで、誰もが落ち着きを乱さなかった。

 

「全員がしっかりと自分のペースで進んでいっています。先頭はそこそこのリードを保っており、先頭集団がにらみをきかせております。1000m通過タイムはやや早いと言った所!あまり飛ばしていません。これは最終直線での勝負になりそうだ」

 

「おっとここで先頭一気にスピードを上げた!早いスパートに場内は騒然としています!」

 

 彼女は一気にスピードを上げた。しかしながら問題ない。作戦通りだ。

 彼女の顔には笑みが浮かんでおり、楽しくて仕方ないと言った様子で、後ろの子たちはそれに気づくとぎょっとした顔になる。それはそうだ。こんなに早くスパートをかけて持つわけがないのに、加速するなんて悪手のハズ。ではなんで笑っているのかという所。

 

「最終コーナーで続々と後方が近づいています!しかしまだハナは――おっとまたここでスピードを上げた!札幌記念の再現となるでしょうか!」

 

 札幌記念でのあの作戦。あれをもう一度。つまり、最終的に前なら勝ちなのだ。

 彼女はサイレンススズカのようにとてつもないスピードで逃げ差しをするなんてできない。だから……「追いつかれそうになったら加速する」あまりの無茶苦茶な作戦が今、札幌記念での経験を元に実ろうとしている。

 

「最後の直線!後方はどんどんと差を詰めてきます!しかし!ハナは奪わせない!必死に!必死に逃げます!さあゆけゆけ!その名をこの舞台に轟かせろ!しかし!後方!だんだん差が詰まってきて……!」

 

 危ない。そう思った瞬間、景色が変わった。

 暗いけれども星々と月明かりが覗くこの場所で、再び俺は彼女と相対した。

 

「トレーナーさん。……大好きです」

「ああ。……俺もだ」

「ダメです。しっかり言葉にしてください」

「……好きだよ。大好きだ」

「そうですか」

 

 彼女は嬉しそうに顔を綻ばせ、背を向ける。

 

「じゃあ、これ以上言葉はいりませんね」

「信じてるぞ」

「……信じててください」

 

「絶対勝ってきます」

 

 一瞬振り返った彼女の顔は、今までで一番魅力的で、それでいて彼女の芯が、俺への思いを、俺の思いを、そしてファンの思いを一新に背負った頼もしい笑顔だった。

 

 その瞬間、戻ってきた景色に心奪われる。

 

「うああああああああああ!」

 

 雄叫びを上げながら今まで見たことないほどのスピードでかけてゆく彼女は、まるで輝き続ける星のようで――

 

「それでも先頭は変わらない!後方を引き離しながらどんどん加速していきます!これはすごい!その名を真実のものとします!」

 

 ゴールへ飛び込んだ――

 

「ゴールイン!淀の地に満開の星を咲かせました!フルブルームスター!これが初GI制覇です!これはすごい!怪我を乗り越え見事3連勝でGIの冠を勝ち取って見せました!」

 

 目の前がぼやけていく感覚に初めて自分が涙しているのに気づいた。

 彼女を見れば、目尻に大きな涙を溜めながら、観客に手を振り続けていた。そうして、俺に気づき目線が合うと、ゆっくりとこちらに近づいてくる。

 俺もゆっくり彼女に近づき、力強く抱擁した。その瞬間、競馬場を揺らすほどの大きな歓声に包まれる。

 

「ねえ、トレーナーさん、私、名前の通り満開になれた?」

「ああ」

「笑顔を作れた?」

「ああ」

「夢を見せられた?」

「ああ」

 

 そうして彼女はさらに力を込める。

 ひとしきり経って、ゆっくり顔を上げた彼女は、それこそ満開の花々のように、また美しく煌めく星々のようでもある、俺の大好きな、希望と闘志に溢れた顔を向けてくる。

 

「トレーナーさん、……この世の誰よりも、大好き!」


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