22-1.走る者
苦しい。息が荒い、肺がはち切れ足の血管が切れそうだ。
一人の信徒がポケットに入れた漆黒の指輪を大事そうに追手から逃げていた。
大木の枝を足場に移動し、すれ違い様に邪神教団の信徒を射抜くシルフィード騎士団の騎士。
そして魔法が隣を走っていた同胞の胸を貫く。
また一人、邪神の下に招かれた。信徒の一人として贄になる同胞が羨ましい。
背後に迫る死神、自分も信徒として邪神の贄になりたい。
しかしそれは今では無い。あの残忍でクソタレなジギルド司祭が命じたのだ。ユグドラ空洞の最下層に封印の鍵を持って来いっと。
ーーやったぞ、クソガキ! 俺達は封印の鍵を奪取したんだ!
信徒は背後から迫る魔法に対し、ユグドラ空洞の入り口に飛び込む。
そして最大の魔力を込めて詠唱を唱える。
「『岩よ、壁となり我を護る鉄壁となれ』」
硬質化した岩の壁が出入り口を塞ぎ飛来した魔法を防ぐ。
まだ外に同志が残っているが彼らも覚悟の上だ。
信徒は走り出す。壁越しから響く惨殺の音を背に。
▽ ▽ ▽
信徒は走りながら今回の一件について思考していた。
誘拐したリーシャの生命を盾にシャルル王子との婚約破棄、そしてレーナと婚約を結ばせミルディル森林国とエルリア魔法大国を争わせる。
そして混乱に乗じて封印の鍵奪取、ヴェルハイム魔聖国の過激派同志を支援することが目的だった。
しかし状況が変わった。北の国境に攻め込んだシルフィード騎士団がラオ副団長率いるエルリア魔法騎士団に阻まれ撤退に追い込まれたーー騎士団同士の武力衝突、教団が思い描いた殺し合いにはならず。かと言って一方的な蹂躙でも無い。そう、あれはまるで訓練を付けるような、そんな戦いだった。
そんな光景を目にしたジギルド司祭はリーシャを連れて潜伏しつつ封印の鍵奪取を目論んだ。
信徒は一度思考を止め、息を切らしながら壁に寄り添う。
「す、少し休まなければ」
ジギルド司祭に封印の鍵を渡せば用済みとして始末されるだろう。
同志も彼が契約した悪魔の力によって同士討ちさせられるのは明白だ。
普通なら狂ったジギルド司祭に従う理由など無いが、邪神復活に一歩近付くなら構わない。
信徒にとって邪神復活の為に手足として働き死ぬことさえ本望だからだ。
その死は決してあんな狂った子供のためにじゃない。邪神の糧として役に立つ為だ。
信徒は呼吸を整えながら眼を瞑った。疲労した身体を癒しまた走り出す。
封印の鍵がジギルド司祭の手に渡った瞬間、邪神眷属が解放され、儀式魔法陣を彼が完成させることで封印の鍵に封じられた邪神の一部を解放できる。
邪神眷属の復活を目にすることは敵わないが、やはり邪神の復活を思えば後悔の念も湧いてこない。
しかし懸念事項が有る。ジギルド司祭は邪神の贄が増えると喜んでいただけだが、彼は司祭だろうとも精神的に未熟な単なる子供だ。
「……計画通りとは行かなかったが、野盗は何処で噂を聞き付けたんだ? それにゴスペルだって何処であの件を知ったんだ? それにリーシャを連れ出した穏健派が妙に大人しい」
現にシルフィード騎士団に混じってゴスペルにも襲われている。
そしてリーシャを連れ出した穏健派の信徒が行動を起こさないのも奇妙だ。
間違いなくこの国には穏健派を指揮する司祭が居る。エルロイ司祭なら最悪だ、誰にも勝ち目が無い敵など誰が好き好んで相手にするか。
ただ司祭が出張って来るならそのまま封印の鍵に触れさせるだけで邪神眷属の器になる。唯一凡庸な信徒が司祭を出し抜けるとしたらその一点のみだろう。
信徒は考え込みながら歩みを再会させ、事前に仕掛けていた魔法陣を起動させる。
複数存在するユグドラ空洞の出入り口、そこから少し離れた壁に仕掛けた教団の者にしか認識できない魔法陣が同時に出現する。
そして魔法陣が空間の穴を開き、信徒は最下層の儀式の間に飛び込んだ。
▽ ▽ ▽
渦巻く死者の魂と人骨で作った祭壇、辺りをいくら見渡せどもジギルド司祭の姿が無い。
基本的にこの場から動くことの少ないジギルド司祭が侵入者を玩具にするために離れたのか。
彼なら退屈凌ぎにそうすることは明白だが、地面に付着した血痕が信徒に焦りを齎す。
「だ、誰の血だ? それに悪魔の気配が無い?」
この場にジギルド司祭と共に居る筈の複眼の悪魔の姿も気配も無い。いや、それどころか複眼の悪魔が放つ魔力がユグドラ空洞から感じられないのだ。
ジギルド司祭の気紛れでユグドラ空洞を離れてるならまだ良い。
寧ろ問題は、万が一にでもジギルド司祭が殺されていたら? アイラ司祭のみならずジギルド司祭までも殺されていたら邪神眷属の器が足りなくなる。
次の司祭選定がいつ始まるのかも判らない状態に信徒は焦りに駆られ、その場を駆け出した。
そして必死に通路を走り、やがて地底湖に出た信徒は盛り上がった土と打ち立てられた十字架に足を止め。
「……ふ、封印結界だと?」
アトラス教会が得意とする封印結界、死者を利用する魔法に対する妨害魔法が誰かの墓に使われている。
そもそもこんな墓は最初に訪れた時には無かった。信徒が墓を掘り起こそうと近付くも、封印結界に身体が弾かれる。
「くっ、なんて結界だ。これではジギルド司祭の安否を確かめられないではないか!」
これでは何のためにジギルド司祭に従って来たのか。全ては邪神復活のため、それが近付いたと思えば遠去かる。
どうにかしなくては。自身の生命を代償にしてでも封印の鍵から邪神眷属だけでも解放しなければ。
信徒は虚の眼で使命に取り憑かれたように儀式の間に歩んだ。
彼の様子を複眼の悪魔が愉悦に満たされた眼差しで覗き見てることにも気付かず。