九月十九日、夜の帷が深まり風が窓を打つ。
自室のベッドで眠っていたレーナの腹部が怪しげな光を放つ。
嫌な気配、身体の奥底から走る悪寒に心音が高鳴る。
「うぅ……なに?」
魘されるように起きたレーナは頭痛に苛まれながら寝巻き捲りを上げる。
そこには柔肌だけで何も無い。しかし腹部から嫌な気配を感じたのは確かだ。
視界が霞む程の頭痛。仕事の疲れ、季節の変わり目による体調不良が原因か、それとも別の何かか。
「……痛いわね」
喉が渇く。サイドテーブルに置かれた水瓶の水を飲むためにレーナがベッドから立とうと床に足を付けるが、足腰に力が入らず上手く立ち上がれない。
あろうことかベッドにひっくり返る始末--天井を見上げたレーナは苦笑した。
これはいよいよ本格的に風邪を引いたのかもしれないなっと。
十月には国際会議が始まる。それまでに片付けたい公務は山ほど有る。
たかが風邪で休んでもいられないが、悪化すれば余計に使用人達や家臣にオルゼア王、そして騎士団も心配させてしまう。
明日にでも薬を飲んで休むべきか。そう思案しながら眼を閉じて息を吐くと--先程まで襲っていた頭の痛みが嘘のように引いていた。
「なにかしら? 風邪の予兆……いえ、違うわね。確かにお腹辺りから感じた嫌な感覚は気のせいじゃないわ」
腹部と言えば十一年前に呪いを纏った拳に貫かれた事が有る。
まさか、今になって呪いが発現しようとしているのか? 本来なら魔力で呪いを抑え込み抑制することも可能だが、今はその肝心の魔力が無い。
今まで下丹田の鎮静化した魔力源に不安を抱いた事は無いが、呪いの効果によっては衰弱死も有り得る。
近い内に死ぬかもしれない。そんな不安感に襲われ、額に冷や汗が滲む。
自身が死ねば異界人が、スヴェンまでも消滅してまう。スヴェンも死なせてしまう、それだけは嫌だ。
焦るように心音が高鳴るレーナは眼を瞑り、深く深呼吸を繰り返す。
自分が不安に苛まれれば民に余計な心労を与えかねない。泣き言は許されない、王家の者として気丈な振る舞わなければ。
「……ふぅ、弱気は気の迷いっと言うわね」
レーナは立ち上がりサイドテーブルの水瓶の水をコップを移し替えてから水をゆっくりと飲み始めた。
冷えた水が喉の渇きを潤す。喉の渇きは消えたが、今度は目が冴えて眠れない。
「……久し振りに夜の城内を散歩しようかしら」
ここ数日は公務ばかりであまり執務室から出歩けない日々が続いている。
深夜の城内、見回りの騎士も居るが彼らなら察するだろう。
そうと決まればやる事は一つだ。レーナは寝巻きから城内用の衣服に着替え、燭台に照らされる廊下に出た。
▽ ▽ ▽
静かな廊下を巡回騎士が熱心に歩き、こんな時間でも廊下を歩く数人のメイドとすれ違う。
「姫様? 眠れないのですか?」
「えぇ、少し目が覚めちゃってね」
「そうなのですね。あまり無茶はダメですよ」
「えぇ、適当に引き上げるから大丈夫よ」
軽く言葉を交わしたレーナはメイド達の横を通り抜け、そのまま気の向くままに歩み続ければ、患者服を着こなしたリノンと出会う。
「リノン、貴女もこんな時間に散歩かしら?」
「そんなところよ……姫様も眠れないのね」
「えぇ、夢見が悪くてね」
苦笑を浮かべるように嘘を吐く。それが明確な嘘だとリノンはこちらの眼を見て察したようだが、それでも敢えて指摘せずに窓から夜空を見上げた。
「私は、そうね……嫌な予感というか女の感で眼が覚めたわ」
「女の感……スヴェン絡みね」
そう言えばスヴェンはフィルシスとしばらく二人だけで鍛錬に出掛けるっとミアから聴いていた。
その時は特に何も感じず、むしろ二人は鍛錬に熱心でそれもミアの故郷絡みなのだろうっとそう思っていたが、なぜか無性に気になってしまう。
男女が二人だけでモンスターの生息地域に鍛錬。しかもそこにはフィルシスが発見した癒しの温泉が在るという。
「……杞憂の可能性は?」
スヴェンを良く知るリノンに訊ねれば、彼女は何とも言えない表情で首をゆっくり振る。
「判らないわ。フィルシスってスヴェンの周囲には居ないタイプの女性だもの。それに彼って無意識に強い者に惹かれることも有るから」
「何かのきっかけでスヴェンと……ふ、フィルシスが?」
浮かび上がる可能性にリノンの表情が曇る。スヴェンが誰と付き合おうと彼の自由だが、リノンにとっては心苦しいのだろう。
レーナは自身にちくりっと針のように刺さる胸の痛みに内心で戸惑う。
戸惑う中、リノンのため息にレーナは彼女に眼を向けた。
「悔しいけどフィルシスって私から見ても凄く容姿が調ってるのよ……それにさっぱりとした性格って言うべきか、気取らないじゃない」
「そうねぇ、城下町に出掛けても彼女個人としては自然体で振る舞ってるわね……たまに強そうな人を見掛けると腕試しを挑むけれど」
「スヴェンも彼女のお眼鏡に叶ったっと……嬉しいようなそうでも無いような複雑な気分になるわね」
「えぇ、貴女の場合はお見舞いに来て欲しいのでしょうけど」
まだ彼女には治療が必要だ。体内に残留する邪神眷属の魔力除去と汚染された魔力の浄化が。
仮に治療を放置すれば魔力汚染が進み、やがて汚染された魔力が全身に巡り命を奪う。
治療の為にエルリア城に滞在している彼女を揶揄うつもりは無いが、頬を赤く染めて狼狽えるリノンの様子は見ていて可愛いものだ。
「くっ、昨日来たけど……結局会いに来たのはアシュナって子にだったのよね。そのあとすぐに帰っちゃうし、ほっんとつれないんだから」
「うーん、スヴェンもアシュナの事は心配してたみたいだし。それにあの子は特殊部隊に所属してるとはいえまだ子供だからねぇ」
「……彼は自分の子にも優しくできるのかしら」
リノンの言葉に思わず想像してしまう。スヴェンと誰かしらの子供を。
それはミアだったり自身だったり、リノンやフィルシスの子供だったりと様々だが--共通して言える事はスヴェンが子供に対して愛情を感じさせる眼差しを向けている姿が微塵も想像できない。
しかしスヴェンと誰かしらの子供を想像して、レーナはたちまち頬を赤く染まった。
「こ、子供。す、スヴェンの子供……」
「私の子か、姫様の子。それともミアかフィルシスか……後者は明確じゃないけれど、私はスヴェンのことが好きだから可能性は十分無くも……無いのかしら?」
なぜ疑問系なのか。それはスヴェンの彼女に対する基本スタンスが悪いのかもしれない。
それにスヴェンはあと再来年の五月にはデウス・ウェポンに帰還する。いや、彼自身が今の生活に馴染めず気が変わって独自に帰る方法を探り独力で帰ってしまう可能性も有る。
--それは、嫌だなぁ。
スヴェンが帰還する事には納得している。彼とはそういう契約を結んでいるからだ。
しかしスヴェンに恋するリノンを見ていると本当にそれで良いのかと迷う事も有れば--私はスヴェンに何を求めて?
改めて自身の感情に迷うレーナに、
「姫様も鈍いのね……あぁ、話しは変わるけれど姫様は婚約者は居ないのかしら?」
「居ないわね。縁談の話も丁重に断らせて貰ってるし、それにエルリアと国民を任せられる人じゃないと」
「エルリア王家は血筋や出自に拘りが無いと聞くけれど、スヴェンは如何かしら?」
スヴェンの名を出されたレーナは戸惑いを浮かべた。
「彼は帰還を望んでいるのよ? そんな彼を国という首輪で縛れと言うのかしら」
「姫様はまだ気付いてないようだけど……そうね、きっかけが有れば嫌でも気付く事になるわ」
自身の心に巡る感情に。いずれ向き合う事になる。そう言われてるようで、いやはっきりと断言されているのだ。
しかしリノンの言うきっかけとは何か。それは状況による、所謂吊り橋効果によるものでないのか?
「私の感情に付いては自分で気付くべきね……今度アルディアに相談してみるわ」
「その方が良いわよ。はぁ〜フィルシスの事は悩んでも仕方ないわね……私はそろそろ戻るけど、貴女は如何するのかしら?」
「私も戻るわ」
お互いにお休み。それだけ告げてた二人はその場で別れるのだった。